2012年08月28日

おばあちゃんの台所と赤い薔薇

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私の台所♪

一畳も無い小さなスペースだけど

ここで鼻歌歌いながら料理するのが好き。

おっと!掃除が行き届いてないな〜。ヤカン磨かないと(^^;)

調理器具とお鍋は釣り下がっているものでほぼすべて。

あとはすり鉢とミキサー、小ぶりの冷蔵庫くらいかな〜

オーブンは最初から作り付けなので

ありがたく使わせてもらっている。

おかげで夫が喜ぶイタリア風のパンもピザも焼ける。
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ペルーのミニチュアの台所用品♪右のシャモジやヘラ入れはかまぼこ板で作ったもの。

実は。。。オーブンはあるけど

電子レンジや電気釜はもっていない。

別にこだわっているんじゃなく

買う必要を感じなかったので未だに無いだけ。

冷ごはんは蒸せば炊きたてのようになるし

蒸さなくても焼きおむすびにしたり ご飯ピザにも。

独身時代からご飯はお鍋で炊いていた。

厚手のお鍋で炊くと 炊き上がりはお米が立っていて

好みのふっくらでしかもサラっとしたご飯になってくれる。

もちろんお米は炊く一時間前には磨いで水加減しておく。

最近は小さな土鍋で炊いている。(左下の黒いのがそう)

本当は祖母がやっていたお釜で炊きたいのだけれど。。。

ホットプレートも中華蒸し器もすき焼き鍋も天ぷら鍋も

あったらいいな〜と思うけど ものぐさなので

あるもので代用している。やっぱり私の中では

祖母のほとんどな〜んにも無かった台所が理想らしい。

この祖母というのは母方の祖母で

下町で一人暮らしをしていた。

もう一人の父方の祖母は裕福で 遊びに行けば

おこづかいもたっぷりくれたが。。。

。。。今思うともっと行っておこづかいもらえばよかった(汗)。。。

何故か私は母方の祖母が好きで入り浸っていた。

昭和30年代のある日 

私はその祖母の家で内職の手伝いをしていた。

ブリキでできた小さな自動車。。。その底にある

金具の爪をペンチで曲げて固定するお仕事だった。

今では骨董屋さんなんかに行くと目玉が飛び出そうなお値段の

あの昭和レトロなブリキのおもちゃ。。。

とっとけば今頃ひと財産。。。てな野暮な話はともかく(笑)

それを手伝うのが面白くてはまっていた。

一杯作ればそれだけ祖母がラクになるし なんだか

いっぱし大人になったような気分でいたのかも。

私もかれこれあの頃の祖母に近い年になり

こんなことを懐かしく思い出す。

祖母は祖父亡き後 なけなしの貯金をはたいて

小さな小さな一軒家を買った。

ガラガラ戸の玄関を入るとすぐ板の間があって

そこには古い足踏みミシンが置かれていた。

あとは小さな3畳間と8畳(6畳だったかな?)があり

押入れが一間と申し訳程度の濡れ縁がついていた。

仏壇の上にはおじいちゃんとお姑さん つまり

丸髷を結った私のひいお婆ちゃん(美人)の写真。

毎日欠かさずお水とお線香 ご飯をあげる。

高いところには柱時計があって 時々祖母は

「よっこらしょ」っと踏み台に乗ってネジを巻いていたっけ。

そのあとにうるさく鳴いている猫のコウヘイに

朝ごはんをやる。(人間より先?)

家具といえば箪笥が二さおに鏡台、食器棚くらい。

押入れには布団や行李。

まるで落語に出てくる江戸長屋みたい。

東京大空襲ですべてを失なった人だから

少ない持ち物をとても大切にしていた。

何年かしてテレビも加わったが 他には

何も無いので狭さも感じなかった。

この頃は断捨離だとかシンプルライフだとか流行っていて

なんでもかんでも捨てちゃうそうで。。。

 あ〜もったいない!

あの頃の暮らしにはそもそも捨てるものなんか無かった。

始めから買い(え)ませんから(笑)

おばあちゃんは毎日夜中の12時頃になると

縫い物をしながらなかばうつらうつらして

よく浪曲を聴いていたっけ。

おばあちゃんがかけていたアメ色の丸メガネや

年季の入ったお針箱を私は一生忘れない。

そして一番奥が台所(だいどこ)

壁には長箒とはたきが下がり 大きなカレンダーが。

床は板が取り外せるようになっていて床下には

ひとかかえもありそうなぬか漬けの樽があった。

祖母はこのぬか漬けを宝物のように大切にしていた。

毎日腕を深くつっこんで祖母がかきまぜると

なんともいえない香ばしい匂いがしたものだ。

流しは石でできていて そこで洗濯もしていた。

使い込んだ洗濯板と大きな石鹸を覚えている。

流しの上の小さな棚にある鍋釜やすり鉢だけがすべての調理道具だった。

冷蔵庫なんて無く、かわりにあったのが網戸の蝿帳。

残り物や腐りにくい佃煮などはここに入れておく。

冷蔵庫に賞味期限切れ食品が一杯!なんてことも無し。

都市ガスはひかれていたので鋳物のガスコンロが一つ。

それまでマッチで火をつけるのが怖かった私は

祖母に教えられてこのコンロに火をつけられるようになり

料理の手伝いをするのも大好きだった。

その間祖母はかつぶしを削っている。

枯れ節でだしをとった味噌汁の美味しさが忘れられず

私も今同じようにかつぶしを削る毎日。
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↑これ30年使っている削り器。となりはレトロなお米入れ。

時には私は朝寝坊して、祖母がかつぶしを削る音で目が覚めた。 

すると祖母は「はいおメザ」と言って

金平糖やらボーロのようなものを口に入れてくれた。

それから布団をたたんで、箒やハタキで簡単に掃除をする。

しばらくして、ぷ〜んと味噌汁の匂いがただようと

丸いちゃぶ台を出して お釜で炊いたご飯を

おひつに移して さあ朝ご飯。

おかずはメザシだったり納豆だったり鮭だったりしたが

いつも必ずあったのが

例のぬか床から出したてのぬか漬け(おこうこ)!

それに海苔や梅干 大根おろしや青菜のおひたし。

考えると 今私が好きな食べ物は

あの頃おばあちゃんと一緒に食べたものばかり。
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↑同じように私の宝物も糠づけ。これも欠かさず食べている。

そして。。。

おばあちゃんにはもう一つの宝物があった。

それは。。。日当たりの悪い庭にただ一本だけの

薔薇の木だった。

「コウシンバラ」という小輪の野薔薇だが

それはごく最近になってわかったこと。

薔薇といえば交配種の大輪薔薇しか知らなかった私は

「コレは薔薇だよ!」とおばあちゃんが自慢げに言った時

「え?ウッソ〜」とか思った。

ひょろりと頼りなさげに80cmほどの高さに育っていて

繊細な葉が茂っているだけで 花も何もついていない。

小鳥が種を運んできて自然に生えたのか

おばあちゃんが挿し木をしたのか思い出せないが。。。

薔薇なら牧美也子の少女漫画に出てくるような

大輪の薔薇を植えれば良いのに

と私はいささか不満だった。

でもあんな薔薇は立派な門構えのお宅にしか無いことは

私にも子供心にわかっていたので

祖母がちょっぴり可哀想な気もした。

毎日でかける度におばあちゃんは

いたわるように薔薇に話しかけ 

幸せそうに目を細めていた。

せっせと米のとぎ汁やら玉子の殻やらをあげて

蕾がふくらんできた時には

「ホラ!もうじきだよ」

と本当に嬉しそうだったので、私も早く咲かないかな〜

と待ち望むようになっていた。

そして久しぶりに遊びに行ったある日

おばあちゃんを驚かそうと庭の方から回った私は

木戸をあけたとたん、思わず立ちすくんだ。

祖母がこまめに雑草を抜いて 

手入れが行き届いているけれど

ヤツデやツワブキ ユキノシタやリュウノヒゲみたいな

日陰向きの草花が多い 薄暗い庭の真ん中で それは

奇跡のように咲いていた。

たった一輪の

赤ちゃんの手より小さい

真っ赤な 真っ赤な 薔薇だった。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
今日もお読みいただきありがとうございます。
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2011年05月05日

子供の日


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学研「昭和の子供たち」より


昭和30年代のある日

私は学校へ行く道すがら 

折りしも大流行中だった

坂本九の「上を向いて歩こう」を

小声で口ずさみながらも

心の中は不安で一杯だった。

とても寒い朝で 布の運動靴がザクザクと

霜柱を踏んでいたのを覚えているから

多分間冬だったと思う。

その頃キューバ危機というのがあって

通っていた小学校の教室でも

キューバをめぐってソ連とアメリカが

大喧嘩をして 核ミサイルが飛んできて

世界中が放射能に包まれて

みんな死んじゃうのだというウワサでもちきりだった。

木登りしたり 塀から飛び降りたり

そんなお転婆だったワリには

神経質で臆病なところもあった私は

怖くて怖くて仕方なかった。

友達の大部分や親などが

案外平気な顔をしているのを見ると

ますます不安になり、誰にも相談もせず

一人で悶々と苦しんでいた。

誰かに話せば笑われてしまいそうでもあり

わっと泣き出しそうで それも怖かった。

でも本当は力強い大人に早く気づいてもらい

しっかりと抱きしめられて

何も心配ないからね、と励まされ

思い切り泣きたかったのだ、と今は思う。

けれども親はいつも忙しく

そんなことは夢にも期待できなかった。

ストレスで頻繁に中耳炎になった。

「上を向いて歩こう」の希望に満ちた歌詞も

何だか物悲しく聞こえたのを覚えている。

翌年の62年にキューバ危機はピークを向かえ

その後いつの間にか収束した。

私は中学生になり 家も引越ししたので

辛い思いもそのうちにすっかり忘れてしまった。

けれども今にして思い出す

幼心のあの恐怖感。

半世紀たった今でも未だに心がうずく。

まして今回の大震災とそれに続く原発問題では

沢山の幼い心がどんな痛手をこうむったかと

心配で仕方がない。

どんなに心が不安で満たされていても

子供たちは遊ぶし 友達とふざけもする。

でも笑顔の底にはどれほどの苦しみがあるかは

親でもわからないことがあると思う。

かてて加えて遅々とすすまない復興の気配。

給食がパンと牛乳だけだったというニュースも

耳に新しい。

周りの大人たちはどんな小さな事でも

子供達のSOSのサインを見逃さないでほしい。

そしてひんぱんに抱きしめて

普段は無邪気な笑顔に隠れて見えない

心の底にある不安を少しでも溶かしてやってほしい。

子供の日を迎えて

ふとそんな風に思った。

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戦後の復興まもない頃の貧しい給食
をおいしそうに食べる女の子

どんな時代でも子供の無邪気さは変わらない。。。
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2010年02月13日

まぼろしのロバのお菓子屋さんと激安おやつ

昭和20年代のある秋の日

大きな椎の木の下で、私は他の子達と

おやつ争いの死闘を繰り広げていた。

木の根元には枯葉が一杯たまっていて、

かきわけ、かきわけ椎の実を拾っては

せっせと口に入れた。

今時のお母さん達が見たら卒倒するような光景。

泥や落ち葉を払って平気で食べていた。

どんぐりと違い椎の実はえぐみも無く

炒ったような独特の香ばしさがあって

なかなか美味しいものだった。

形はどんぐりよりほっそりとしていて

すぐに見分けがついた。

地方によってはこの実をつぶして

パンやお団子にすることを最近になって知り、

なるほどな、と思う。

暖かい季節には「ぐみ」もよく食べた。

おしろい花や金魚草の蜜を吸ったり、

とにかくいつもお腹がすいていたので

友達と情報交換しながら食べられそうなものは

何でも食べた。

昭和20〜30年代というと駄菓子屋のイメージが

あるようだけど、もちろん時々は買い食いを

していたが、実際は親はその頃子供がよくかかった

「疫痢」を心配してあまり良い顔をしなかったものだった。

おこづかいがある時や親に頼まれた時などは

「壷焼いも」を買いに行った。

今のような「石焼いも」を売り歩くおじさんは

小学生だった頃は見た記憶が無い。

焼きいも屋のお店に行くと私の背丈よりも

大きな壷があって中には熱い石がたくさん

つまっていた。綿入りのねんねこを着たおばさんが

大きな炭ばさみのようなもので石をかき分けると、

その下からぷ〜んと良い匂いとともに

ゴロンとおいしそうなお芋がでてきた。

新聞紙に包まれたお芋を大事にかかえて帰ったものだ。

今のようなクリームたっぷりのケーキなどは

夢の夢、三回生まれ変っても一生食べられないものだろうと

思っていた。

ある時、その頃書店を営んでいたうちの店の前を

ロバの馬車に色んなケーキやパンを積んで売っているのを

目にした。

それは忘れられない光景だった。

童話の国が本当にやってきた!

生クリームが一杯つまって真っ赤なチェリーが

のったパン、チョコレートをはさんだケーキ、

おいしそうなドーナツなどが一杯で

ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家よりも

私にとってはインパクトがあった。

まさに目が・・になってしまった私。。。その馬車は

どこからともなく現れてどこかへ去って行き

その後一度も見た事は無い。

もちろん「買って!」とねだっても

親はとりあってはくれなかった。

以来私のまぶたにはそのロバのお菓子屋さんが

焼きついて離れず、寝てもさめても思い出しながら

成長した。今でもロバを見ると

ケーキを連想してしまうほど。(^^;)

あれは幻だったのだろうかと長年悩んだ。

しかし神様はいるもので、あれから数年後

両親はお菓子屋を経営することになった。

中学生になった私は店を手伝いながら

ラジオから流れるアメリカンポップスを聞き、

パンやお菓子に囲まれた

極楽の日々を送るようになったのだ!

その後高度経済成長時代に入り、

アルバイトやお給料で好きなケーキも

買えるようになった。

そしてともすればコレステロールが

命取りになる年代になり、

あの頃のハングリーだった幸せな頃を振り返っている。。。。

そしてつい最近になってあのロバのパン屋が

幻ではなく現実にあったことを知って

ほっとしたのだった。ネットはすばらしい。

ロバのパン屋
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2009年02月10日

親子猫

以下は別ブログ「乙女小箱」から移動したものです。↓

ご無沙汰しております。

(^▽^;)

なかなか更新できず申し訳ありません。

(^▽^;)

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グッド(上向き矢印)親子猫の刺し子です。

(^▽^;)

あたたかい春の陽射しの中

ヨチヨチ歩きの子猫を

母猫が心配そうに見ている図です。


。。。。。

ポーチでも作ろうかな〜ってほどの

小さな時間ができたので

例によって鼻歌まじりに始めました〜

。。。。。

♪金の無い奴はオレんとこへ来い〜!

オレも無いけど心配すんな

見ろよ青い空 白い雲

そのうちなんとか

なるだ〜〜ろ〜〜〜〜お〜〜〜♪

。。。。。

どうしても昭和レトロな選曲に

なってしまいます

(^▽^;)


相変わらずアバウトに気ままに

アップリケなどもしてみました。

(^▽^;)


。。。。。

昭和30年代の有る日

私は学校から帰ると

すぐにカバンを放り出し

押入れの中に頭をつっこみました。

。。。。。。。

正気です(笑)

愛猫が出産をしたのです。

出産当日は不安そうに鳴く母猫に

一晩中寄り添っていました。

やがて。。。

次々と小さな命が生まれ

すごい感動を味わいました。

その後1、2ヶ月というもの

4、5匹のおちび達が

一生懸命お乳を飲む様を

毎日あきずに眺めていました。

昔は今のようにインターネットも

里親さがしネットもなかったので

子猫の引き取り手をさがすのは大変でした。

それでもなんとか里親が見つかったように

記憶しています。

そのうちの一匹は

祖母の元へ行き、王子様のように

大切に育てられました♪

そんな遠い遠い昔のことを思い出しながら

針をすすめていました。。。

♪春よ〜〜〜遠き春よ〜〜〜

猫がいっぱい天国じゃ〜〜〜

小さな命芽生え

必死に生きていた〜〜〜

あの日に帰りたい〜〜〜♪

(・vv・) ハニャ???

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グッド(上向き矢印)完成です♪

ヾ(=゚・゚=)ノニャン♪

大正時代の古い藍木綿に刺し子しました。

赤いところは昔の子供着物の布です。
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グッド(上向き矢印)裏側です。思いきり明るい色調にしました♪

~(=^‥^)_旦~~ お茶でもどぞニャ

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2008年10月08日

おばあちゃんの猫

以下は別ブログ「乙女小箱」から移動した記事です。

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グッド(上向き矢印)くーちゃんのお父さん猫です。みんなのアイドルだったのに
現在行方不明。

1歩外へ出ると、ふわ〜〜っと金木犀の香り。。。

私にはあのキンモクセイの香りほど

好きなものはありません。

春の沈丁花に匹敵するすばらしさ。

花の匂いにはすぐ反応してしまいます〜

嗅覚といえば、エサにありつく時の動物って

嗅覚だけでなく、耳もすごいです。

そんなエピソード。。。

明治34年生まれの母方の祖母は下町に一人暮しを

していたことがありました。

昭和30年代から40年代にかけて

おばあちゃん子だった私は電車に乗って、

学校の休みなどよく祖母の家へ遊びに行きました。

はっきりとした時期はよく覚えていませんが、

10才の頃〜中学生くらいまででしょうか。

祖母は「コウヘイ」というオス猫を飼っていました。

祖母は戦前に小学生くらいで亡くなった

息子の名をつけたのです。

運がよければ私はコウヘイと遊ぶことができました。

運がよければ。。。というのはその頃の猫は放し飼い。

不妊手術なんて誰も考えもしない時代。。。

コウヘイはいつもメス猫のナンパにでかけてしまい

ほとんど家にいなかったからです。

夕方になると面白いイベントが見られたんですよ〜。

私はわくわくしながら祖母のやる事を見ていたものです。

まずコウヘイの食器である子供用の茶碗

かわいい鉄腕アトムか何かの柄〜〜〜

にごはんを入れ、

そこへ新鮮なあじを焼いて小骨をきれいにとって

ほぐしたものをのせ、祖母はそれは丁寧にゆっくりと

時間をかけて茶碗の中身をお箸で混ぜるのでした。

暖かいごはんとあじがよく絡まりあって

とてもおいしそうで、こっちが食べたいくらいでした。

それからそのお箸で祖母は茶碗のふちを

チャンチャンチャンと叩くんです。

するとどこからともなくコウヘイが外の板塀を乗り越え

すっ飛んできてガツガツと食べはじめるのでした。

どんなに遠くにいてもコウヘイが来るまで

祖母は叩き続けました。

猫って以外と遠くまで行くものなんですよ。

「チャンチャン!、チャンチャンチャン!。。。

チャンチャンチャン。。。」」

そばで待ちきれない私は。。。

ヾ(-_- )ゞエラヤッチャヽ(~-~ )ノエラヤッチャ /(._.>ヨイヨイ((~-~)ノヨイヨイ

そばで阿波踊りのマネなんかをしてボケていました。

あの頃から。。。だいぶ。。。

ハズれてましたね〜(*:*)

((^┰^))ゞ テヘヘ

知らない人が見たら、なんの騒ぎだと思ったことか。

「茶碗を必死にたたくおばあちゃんと

踊り狂う女の子」

。。。。。。。。。。。。。。。。

それにしても猫のエサは昭和30年代には

冷や飯に花かつおを振りかけたものと

相場が決まってました。それでも、

決して余裕のある暮らしをしていたわけではない祖母なのに、

猫にはいつも新鮮で良いものを与えていました。

コウヘイは堂々たる体躯で、えらの張った良い面構えの猫。

ちょっと写真のくーちゃんの父親に似ていました。

毛色は違ったかもしれませんが。

近所のインク工場のドブに落ちて真っ青になって

帰ったこともありました。

とてもめずらしい種類の猫が数週間

下町に出没したのでした。

≦(∩ェ∩)≧...ニャン

祖母の家に行くとまず、その頃の小学生がみんな

履いていた埃っぽい「運動靴」をぬいで、

足を拭いてもらい(スニーカーなんか無い時代です)

祖母の白木の桐ゲタをはかせてもらいました。

少し私には大きかったけれどとても楽で気持ち良く

そのゲタをカラコロ鳴らしながら

一緒に銭湯に行ったり、仏壇のおじいちゃんにあげる

お花を買いに行ったりして帰ってくると、

コウヘイが板塀の上で待っていて

じっとこっちを見つめていたりもしました。

そのコウヘイが車に轢かれて死んでからほどなく、

祖母は十二指腸潰瘍で入院、その後私達と同居するために

住み慣れた小さな一軒家を離れることとなりました。。。

。。。。。

甘酸っぱいキンモクセイの香りを胸一杯吸い込んで

なんだか

昭和30年代を思い出しました。。。

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グッド(上向き矢印)昭和20〜30年代のものと思われる
子供着物の布です。ちょっとおケバなこけしの顔がなんとも。。。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

いただいたコメントのコピーです↓


こんにちは(*^。^*)/
目をつむるとあの頃の様子が思い出されますね!
私の母も猫が好きで、特にクウちゃんのお父さんみたいな茶とらが好きで”チャコ”という子がいました。
この子に着物のあまり布で”あぶちゃん”作って結ぶ紐には綿を入れてました!
でもやはりご飯のときに帰ってきて、私がいると捕まるのを恐れて逃げてました^^;

お祖母様は亡くした子の名前を付けて、もっもっと愛情を注ぎたかったお子さんの代わりに可愛いがったのでしょうね。
”アジの混ぜご飯のお茶碗をたたいてるおばあちゃんと踊ってる女の子”の図は笑えるけどウルウルしてしまいましたーー。

Posted by グレ at 2008年10月10日 14:10

くーちゃん、お父さんの毛並みとは
違う感じ。お母さん似??
お父さん、どこかで元気に暮らしてて欲しいです。

きんもくせい、私もとても大好きで、
子供のころにも家に木がありました。
去年、鉢植えですが、思い切ってきんもくせいを購入。それまでは何とか、
選定してるとこで、挿し木をするための
枝をもらって何年も何年も試したんですが、
うちでは失敗でした。残念。
去年かな?おととしかな?には、ギンモクセイという、四季咲きの
白い花も購入したんですよ。
きんもくせいほどのかおりはないものの、
とてもよく似た、清楚な花が咲き、
香りもけっこう似ているのです。
同じ種目らしく...。
とても幸せな気持ちになりますね。あの香り。アロマショップに行って、高級なオイルのなかできんもくせいを嗅がせてもらったけれど、ぜんぜん違う匂い。「これ、ぜんぜん違いますね...」といったら、「生のお花にはやっぱりかないません。」といわれました。バラはけっこう再現できるのに、
きんもくせいはとても難しいらしいです。

お父様のこと、色々と書いていただいて
ありがとうございました。
うちも...家を売ったお金もどこかに
行ってしまい、書いてないけれど破産宣告もして、女性関係も色々と...でして...
これから、相続放棄(借金を引き継がないため)をせねばならないかも、です。とてもお支払いできなくて...。個人なら一生懸命に返さねばなのですがカード会社とか、そういうところのが多く、始末におえない感じです。でも、父は、そういう生活をしてた割にはですが、最後を娘や、妻がそばにいてくれたのは救いかもしれません。
しかし、正直、とても最後の1ヶ月は特に
苦しそうで、非常につらそうでしたので、
(水も飲むのがつらいくらいで)苦しい、苦しいという父に何もしてあげられなかった気持ちが残っています。おとめさんも、色々と思いが残っていらっしゃるようですけれど、私のように色々としても、まだ何もしてないような気持ちになってしまうものなのかも...自分の周りの人や生き物が、旅立つときは、どうしても、何をしてもしなくてもつらいものなのですね。今は、逃避かもしれませんが、あまり考えないようにしています。考えると、何もできなくなりそうで。
Posted by めんまねえちゃん at 2008年10月10日 16:05

グレ様こんばんは〜。

なんと猫好きはお母様譲りですか〜。やっぱりね〜。私と同じ小さい頃から猫がいたのですね〜。

着物のあまり布であぶちゃんですか。それは大事にされていたのですね〜。
招き猫みたいで可愛いかったでしょうね♪

コウヘイが死んでからも、同居したとき私が飼っていたヒマラヤンまでコウヘイと呼んでいた祖母でした。(コウヘイジュニア?)本当に子供のかわりでしたね。子供が大好きだった祖母。一人息子の死は耐え難いものだったのでしょう。でも強い人でした。
私も今思い出しても涙がでそうです(;;)
Posted by おとめ at 2008年10月10日 21:35

めんまねえちゃん様こんばんは〜。

そうなんです。くーちゃんは母親似なんですよ。

母親は同じく手術をしたオス猫(多分兄弟?)と近所の駐車場で皆に可愛がられてすごく仲良く暮らしています。

本当はこの母親を飼ってやりたかったんですが、なにしろワイルドでとても家の中にいる猫ではありませんでした。

毎日二回エサやりと、時々病院へ連れて行ってやっています。お蔭様で今は元気にしています。できる限りやれるだけのことはしてやりたいと主人といつも思っています。


やっぱりね〜、キンモクセイのあの香りはどんな調合師でも作れないだろうとは思っていました。自然な香りっていいですね。

私は猫の匂いも大好きなんですよ。日向のようなビスケットのような甘〜い匂い。くんくんするとリラックスしますね〜。息はなんだか鰹節クサイですが(><)

人間として生まれて1番悲しいのは愛するものといつか別れなければならないことがわかっていることですね。こればかりは辛いです。

私も去年19年飼っていた猫が亡くなって、今はくーちゃんがいますが、やはり悲しさは消えません。こう書いている間も涙が出るくらいです。

まして人間の肉親なら尚更です。

私の親のように行方不明で会った時は遺体、何もしてあげられなかったことも辛いですが、目の前で苦しむ親を見るのも地獄ですよね〜。よくわかります。これも運命なのでしょうか。

なんだかなぐさめるつもりで逆に辛いことを思い出させてしまったようで、本当に申し訳ありません。

大好きなめんまねえちゃんが早く元気になりますように!めんまちゃんが益々可愛くなってねえちゃんのこれからの人生をもっともっとばら色にしてくれますように!

posted by おとめ at 22:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 猫と石蹴りとリリアンと

2008年05月03日

蕗と美少女

みずみずしい蕗を見ると思い出すのは。。。

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となりの美少女、美奈子ちゃん(仮名)のことだ。

昭和30年代のある日。。。

美奈子ちゃんと私は

真っ黒でピカピカの

巨大な黒豚に追いまわされて

江戸川のほとりを

死ぬほど逃げ回っていた。

。。。。。


美奈子ちゃんの家は雑貨屋だった。昔の言葉でいうと

万屋(よろずや)で、日常使うものを色々売っている

細々と商売している店。

いつもお母さんだけが店番をしていて、

お父さんの姿を見たことはなかった。

うちはそのとなりで

しがない文房具屋をやっていた。

父親がその頃事業に失敗し

仕方なく家族を食べさせるため

細々と始めた商売だった。

父の実家はかなり裕福な商家だったが、

六男坊だった父親は両親からの援助はほとんど

受けられずいつも苦労していた。

昭和40年代に入り

日本が高度成長期を迎えて

一家の生活がやっと安定するまでには

まだまだの頃。

我が家も隣もけっこうな貧乏暮らしだったけど、

あの頃の庶民は皆こんなだったな〜。

。。。。。

「ねえ、川へ行くけど一緒に行く?」と

美奈子ちゃんが誘いにきた。

私は川向こうの小学校で

美奈子ちゃんとは違う学校だったが

帰ってくると毎日2人で遊んだものだ。

一緒に江戸川のほとりへよく行った。

あの頃はまだまだ自然が残っていて

釣り糸をたれれば

フナやどじょうなどがけっこう釣れたらしい。

春にはつくしや野いちごなどが

そこらへんに一面顔を出していた。

けれども。。。

鉄道の高架下には「バタ屋部落」と呼んでいる

今でいうホームレスの人々の集落もあった。

戦争で焼け出されたのか、

畳二帖くらいのスペースに

掘っ建て小屋をたて、入り口には

むしろが下げてあった。それが、ずっと

10数軒もつらなっていたのを覚えている。

美奈子ちゃんと私は

その人達が飼っていた途方もなく大きな黒豚に

追いまわされていたのだった。

逃げ惑いながらもふと豚の顔を見ると

するどいキバまで生えているようだった。

ああ〜〜〜恐かった〜〜〜

私達は野苺をさがしにきたのだが

どこでどう豚の機嫌をそこねたのか

あんなに怖い思いをしたことはない。

とっさに私達はそばのうっそうと繁った

蕗の葉陰にひっそりと隠れていた。

美奈子ちゃんはその場所を良く知っているみたいだった。

やっと大人しくなった豚がバタ屋部落にもどり

ほっとして、しばらくすると

美奈子ちゃんは蕗を摘み始めた。

私も蕗をつむのが楽しくて一杯つんだ。

美奈子ちゃんが「これ、おいしいんだよ」と言ったので、

一層励んでつんだ。

その蕗を一杯もって

美奈子ちゃんの家に行くと、お母さんがとても

喜んだのを覚えている。

お母さんはどこか寂しげなお顔の

とても物静かな方だった。

美奈子ちゃんと私は2人で爪の先を黒くしながら

蕗の筋をとった。

座敷にはまだ小ぶりの火鉢があった。

美奈子ちゃんはおもむろに火鉢に小鍋をかけ

5cmほどに切った蕗を入れ、

水、醤油、砂糖を入れた。

ぐつぐつと煮え始め、鍋から良い匂いが

あたり一面にただよってきた。

煮える間、二人はおはじきをして遊んでいたが、

時折、美奈子ちゃんは妙に大人びた手つきで

鍋の中をかきまぜた。

夕方でおなかが空いてきた。

美奈子ちゃんが蕗の味見をしたとき

私にも味見させてくれた。

じっとりと醤油の沁みた

その味と香りは忘れられない!

その蕗の佃煮だけが

美奈子ちゃんちの夕食のおかずだった。

あとは白いご飯だけ。

それだけ。

今こんな食事がどこにあるだろうか。

でもあの頃はそれが現実だった。

うちへ帰ると。。。

おかずは冷奴ときゅうりのぬか漬け。

どっこいどっこいだ(^^;)

美奈子ちゃんはよく銭湯で倒れた。

貧血だ。

憂いをおびた大きな目を濃いまつげが取り囲んだ

やや色黒ではあるものの絶世の美少女だった。

ギリシャ人を思わせた。

手足は長くてほっそりし、その頃はやっていた

「乙女刈り」というヘアスタイルが

とてもよく似合っていた。

うなじのところを

短く刈り上げたおかっぱで、たおやかな

首筋が一層ひきたったのだ。

私も真似をしたけど、

丸顔の私はまるでワカメちゃんだった。

(>▽<;; ははは。

一緒に銭湯の湯船につかりながら

私は小学校のもう高学年なのに

洗濯板のような自分の胸を恥じ、

美奈子ちゃんのどこか大人びた

美少女ぶりに憧れていた。

それからしばらくして、私達一家は

引越しをし、美奈子ちゃんとは疎遠になってしまった。

でも蕗を見るたびに、味わう度に、そのおいしさを

教えてくれた美奈子ちゃんを思い出す。

空腹にまずい物なし。。。てか〜〜〜

。。。。。


♪「夏がくれば思い出す」のメロデイーで♪

蕗を煮ると思い出す

となりの美少女、美奈子ちゃん

野原でいつも遊んだね

野いちご、つくし 摘んだよね

蕗がいっぱいホラ 生えている

あっちもこっちも 川のほとり

今夜のおかずは決まりだね〜(笑)

はるかな昭和 遠い空♪

。。。。。

つまらない思い出ばなし

読んでいただきありがとうございます

m(_)m


Cam_3175.jpg
あの頃の作り方で作った蕗の佃煮(きゃらぶき)
あまりのおいしさにご飯を三杯おかわりしてしまいました。

ダイエット台無し!

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posted by おとめ at 23:37 | Comment(2) | TrackBack(0) | 猫と石蹴りとリリアンと