2017年05月13日

スピリチュアリズムと霊媒主義

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SNUから送られてきた会員用資料。内容はあまり無い


引っ越し以来大きな変化が起こった。


私のブログやあるいは他の人のブログにも

あるかも知れないけどミディアムシップを受けて、

何がしかの不思議な感銘を受け、それからクラスや

ワークショップへ行き、自分もミディアムやヒーラー

になろうと勉強をする方が増えている。


私自身もあちこち行ってそうした勉強をしたのはすでに

書いた。今思うとそうした活動を行う事で悲しみから

逃れようというその一念があったと思う。


けれども母の死後、導きによって田舎へ引っ越して

8か月がたち、そうした活動が一切できなくなり、

悲しみとじかに向き合っていく中で

自分の中で大きな転換があった。


それは色んな活動をしていた頃よりずっと悲しみが減った

という事実だ。いえ、ほとんど回復したと言える。

それはスピリチュアリズムのおかげではなかった。

残念ながら。


私が若い頃からずっと勉強してきた「禅」や「非二元」

といった物をふたたび勉強していく中で得たものだった。

やはり「あるがまま」という考えに救われたのだと思う。


どんな活動で自分を忙しくしても、悲しみと真剣勝負で向き合い

とことん悲しまなければ悲しみは消えない、ということだった。


そこであらためて私があれほどはまっていた「スピリチュアリズム」

について考えて見た。あくまでも私の場合なので、他の人には

まったくあてはまらないことかも知れない。


確かに不思議なことは起こるし、それで「魂はある」

と思って救われる事も多々あったかも知れない。けれども

そうした現象は今の私たちが生きているこの世界と同様

あくまでも「幻想=現象」の世界なのだ。


瞑想を続ければ誰でも幻覚を見るし、音が聞こえたりもする。

スピリチュアリズムの瞑想を続けて行くといろんな物が見える。

「指導霊?」に会ったり、アドバイスをもらったり。。。

禅ではそうしたものは「魔境」といって一切しりぞける。

そこにはいつも「自分」がいるからだ。

だからいくら霊的能力が増しても幸せにはなれない。


「自分が」見た。「自分が」霊視をした。「自分が」浄化された。

そして(私の場合だけど)どんどんエゴがふくらんでいく。

スピリチュアリズムの勉強をつづけて、自分のエゴが巨大に

なっていくことに気付いてびっくりしたのだった。


「自分を」「浄化してエゴをなくそう」というのも大きなエゴなのだ。

何故なら「きれいな自分になりたい」というエゴだからだ。


「エゴ=自分」は「今」が嫌いだ。常に過去や未来を見ている。

そして今の状態では無い、他の状態へと動きたがる。


人は物事をそのままにしておくことができない。

私は大きくなったエゴでふたたび苦しんだのだった。


でもミディアムシップやヒーリングが好きで好きで

それだけで勉強するなら良いと思う。


趣味で手品や占いを勉強するのと全く同じだから。

私は引っ越し後もしばらく一つのクラスだけ行って

遊んでいた。「遊び」とやっと割り切ることができた。


あてっこゲームが単純に楽しかったからかも知れない。

今はもうやめている。お金が続かないから(笑)


けれども私は今ある「危惧」を感じている。

それは勉強やワークショップに行くことで

「悲しみから救われよう」としたり、苦しさから

逃れようと、自分の人生を賭けてしまったりすること。


すべてがビジネスなのだ。そこに気付いてからでも

全く遅くない。それに今の「スピリチュアリズム」

と呼ばれているものは本物のスピリチュアリズムとは

全く別物かも知れないからだ。この場合に限り

「無知」は敵だと言っておこう。


今いわゆるスピリチュアリズムと呼ばれているもの

その歴史はたかだか170年だ。

その発足もそれは「ハイズヴィル事件」というどこか

いかがわしさに満ちたもので、疑問点が沢山ある。


広めていった科学者達も自分の愛人を霊に見せかけ

インチキ写真をとったりメチャクチャだ。

私が信頼しているのはパイパー婦人だけかな。

それも真偽のほどは今となってはわからない。

それほど曖昧模糊とした「学問」ではある。


それは真のスピリチュアリズムとは全く「別物」と

私は思っており、今みんながそう呼んでいるのは

「霊媒主義」と呼んだ方がふさわしいように思う。


真のスピリチュアリズムについては今必死に研究中で

まだ詳しいことは書けないけれども、それは17世紀の

西洋哲学にまでさかのぼる。生きてるうちに理解できるか

それすらもわからない。それほどのものなのだ。

でも私は魂=聖なるモナドというものを全く否定はしない。


今さかんにワークショップなどが行われていたり

TVで〇〇〇の泉とかに出ていた有名霊媒が

(そのおかげで御殿を建てたらしいが)、その沢山の

著書に書いているようなスピリチュアリズムの

元を作ったのはイギリスの霊媒学校だ。


学校は色々あるが現在有名なのはAFC(SNU)

という学校で、昔の大金持ちが出資して作られた。

そこから世界へ「霊媒=ミディアム」達を大量に

生産・送り出している。

設立当時はかなり良心的だったらしい。


そこに私はついおととしの秋のコースへ一人で行こうと

迷っていたが、色々都合があわず行かず終いだった。


そして色々調べていくうちそこがすべてを組織化して

次第にスピリチュアリズムを大きなビジネス体系へと

持って行ったという事実が次第にわかってきて

その事が妙に心にひっかかるようになった。


日本人はあまり知らないけれど、英国では新聞などで

かなり批判されている学校だ。もちろん褒めている記事も

たくさんあるし、賛否両論だ。面白いのは英国の有名誌

サンデータイムズの記者が生徒としてそこへもぐりこんで

皮肉な記事を書いていることだ。英語がわかる人は

面白いので読んでみて。そこへ行くのがミディアム

としてステイタスのようになっていて、勉強している人は

みんなAFCへ行くのが夢になっている風潮がある。

現にかつての私がそうだった。(恥ずかしながら元会員)


でもここへきて何度も書いているが一番気になる事。

「そもそも精神的な世界ってお金で買うものだろうか。」

この一行が言いたいがためにこんなに書かなきゃならない(汗)


子供でもわかるそんな簡単なことにも気づけない状態に

人は陥ってしまうものだ。せめて高額のワークショップへは

お金の無い人は行かないでほしい。


私はよせばいいのに、Vというぼったくり会社で

エゴの塊のような(今思うと)D.L.というミディアムの

上級ミディアムシップコースで大金すっちまっただ。

(何故か突然信州弁)馬鹿ですよね〜。

お金が有り余っている人ならな〜んにも言わない。

どうぞ楽しんで下さい。


そういうぼったくりは禅もキリスト教系もカルトでもある。

何十万もとって座禅させるかと思うと無料の所もある。


けれども私がこう書いても金も無いのにワークショップへ

行く人は行くだろう。何故なら(ここがポイントです)

私たちには「自由意思」は無いからなのだ。


それは昔のギリシャの哲人やインドの賢人が

とっくに言っていることなのだが、驚くことに

最近科学でもそれが証明されそうなのだ。


すべての人は源によって動かされている聖なるロボット。。。

こう書くと曲解する人も出てくるだろうが真実かもしれない。

仏教や禅やアドバイタを突き詰めていくとそうなる。


だからミディアムになる人はなるだろうし、導きが無ければ

ならない人はならないだろうと思う。


けれども真に能力のある人は一握りに決まっている。

それが「私もなれる」と思わせるのがビジネスなのだ。


まじめな先生もたくさんいるし、人格者もいるでしょう。

けれどもスピリチュアルの勉強で金銭的なトラブルに

陥っている人が後を絶たない。


先日はTVのニュースでも話題になった。

結論はこうです:

もしあなたが「死別の苦しみをなんとかしたい」と思うなら

大切なお金を使って100回ワークショップへ行くよりも

一晩中ベッドで七転八倒して泣き叫んだ方が効果があります。


そして悲しみと共にそこにとどまってほしい。

そこから逃げないで下さい。

そうすれば悲しみから逃げていく。


私のいう事が残酷に聞こえるかも知れない。

けれども私は心底心配している。何故なら世間には

深い悲しみにいる人を食い物にする人は

いくらでもいるからだ。


もしスピリチュアルの勉強が生きる励みになるなら

予算が十分にあるなら、人助けの為にうんと勉強して下さい。


でも私みたいにビンボーならお金を使わなくても十分できる。

瞑想会、読書、無料勉強会など色々できると思う。


今の心境を正直に言うと、あれだけのお金を動物団体や

貧しい子供達に寄付していたら。。。という大きな悔い

それが私をいじめている(笑)


もっと色々と書きたいことはあるけれど、あまり書くと

差し障りがありますのでこのくらいにしておこうかな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もお読みいただきありがとうございます。
「流されないで」「見極めて」。。。

それしか言えない。



posted by おとめ at 19:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム

2016年09月02日

霊能力と導き

*以下の記事はまだスピリチュアリズムからあるがままに
至るまでの過渡期にありましたので混乱が見られます。
どうぞご承知おきください。


「すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる
道具にすぎない。」
(ラマナ・マハルシ)

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私は主人が亡くなってからほぼ2年のあいだ
複数の勉強会、学校、読書会などにに参加して
ミディアムシップとヒーリングを学んできました。
外人講師のワークショップも何度か経験しました。

金銭的にも時間的にも大変なのですが、私はもう年ですし
頭や体がしっかりしているうちに、とのあせりもありました。

その学びはどれも私が幼い頃から体験してきた不思議現象を
筋道たてて次々と解明してくれました。

ただ真実を知りたい、それだけで私はずっとこの二年
独学から始め、霊界探しの修行に励んでいました。

確かにオーラが一層見えるようになり、エネルギーを感じ、
リーディングも曲りなりにできて、練習相手の人の
おじいちゃんやお婆さんやお父さんといった方たちの姿が
ぼーっと頭に浮かぶようになり、ささやかな「エビデンス」や
メッセージをもらい伝えました。

誰かと電話で話したりメールを読んでいてその人の
亡くなった大事な方が見えて、特徴を伝えると
当たっていた、という事も何度か経験しました。

これは友人や家族より、見ず知らずに近い他人様の
ほうが良く当たりました。

相手はそれを聞いて「すごい」と言います。
でも、そうした言葉を聞くたびに私の中の「自分」が
肥大していくのを感じました。

けれども一方で「ネオ・アドバイタ」に染まっていた
私のマインドは、エビデンスは私が本当に霊とつながったか
どうかの証明にはならず、テレパシーかも知れないし、
どっちみち「霊界」など幻想だ、としきりに言っていました。

テレパシーやサイキック能力はすでに科学的に証明
されています。

この世にはなんでも起こりえます。
奇跡も、ヒーリングも霊界とのコンタクトも。。。

でもだからそれが何なのでしょう。

トニーパーソンズは「過去は何もなく、誰もいない」と
言います。そして「過去世」について皮肉っています。

「過去世」とはすべて心が作り出した幻想であり、たいていは
偉大なヒーラーとか、女王とかいう過去生です。トイレ掃除人
という人はめったにいません。」と(笑)

過去世について人は好き勝手なことを言えます。
ナルシストほど大きな事を言います。美辞麗句で飾ります。

「自分・・・それはあるものの中で最大で最強の中毒です」
とパーソンズはきっぱり言います。
そして私は読むたびに確かにそうだ、とうなずくのでした。

私はスピリチュアリズムと非二元のはざまで苦しんでいました。

非二元で「真実」をつきつけられ、「あの世」も
「この世」も本当は存在せず、すべては「幻想」であり
「無」であるとする考えに苦しんでいました。

はたまた中庸のダスカロスに慰められ。。。人間は
死んでも霊界などで存続することも信じたくて。。。
私は思いっきり混乱の渦にいました。

仕事も忙しく人との約束も忘れてしまうこともありました。

寡婦年金も無い身で老体にムチ打って働きながら
まるで苦学生のような日常をおくっていました。

私はクタクタになりながら、果たしてこのままお金も時間も
使って「自分」を肥大させ、スピリチュアルのクラスに
通っていいのだろうかと悩んでいました。

何もかもが意味の無い事のように思えたのです。

けれどもそんな苦しみからついに解放される時がやってきたのです。

それはご多分にもれず、「ある書物」を読んだからでした。
そして私の心は自由になりました。
それは本当に大発見でした!そしてそれも「導き」でした。

ラメッシ・バルセカールの「意識は語る」という本です。

この偉大な本を翻訳した高木悠鼓さんという素敵な方に最近
お目にかかりお話を伺う機会も得ました。

高木さんは長年非二元を研究していらしゃいます。
そしてトニー・パーソンズの本も訳されています。

ラメッシのこの本はまさに私を変えました。
トニーパーソンズの毒を中和してくれました。

ラメッシ・バルセカールはこんな意味のことを書いています:

「もし何らかの神秘的パワーで何かの修行をするように
あなたを導いているとすれば、それを避けたり放棄したり
しないようにと私は提案します。

それを受け入れて試してみて下さい。もしあとでそれを
やめるならそれも許して下さい。罪悪感をいだかないで
下さい。それはあなたが何のコントロールもできない出来事です」

ラメッシはすべての事は起こるべくして起こるのであり
私達はそれに対して全く無力である、と悟ることが真の幸せを
もたらす、と説いています。

そしてすべてのことは源の恩寵によるものであり、
善も悪もすべて源の行うことである。「個人」というものは
無く、すべてがただ源の現象として起きているだけなのだ。。。

そこにはイメージとしての「神」も「悪魔」もいません。
二つになる事はありません。だから「非二元」というのですが。
ただ大いなる「存在」「源」一つがあるだけです。

私達は源という一枚のカーペットに浮き上がり織り込まれた
模様のようなものなのです。私達は個別の存在では無く
あくまでも一枚のカーペットという一つの存在です。

カーペットが動くたびに模様も動きます。

そして私はその言葉によってすべてを「源」にゆだねようと
思いました。

三回忌の前に起こった体外離脱など一連の神秘体験のすべてを
ラメッシの言う「源」の「導き」と解釈しています。

だから私がクラスでサイコメトリーやリーディングをしても
それは「私」がしているのでは無いのです。

「源」のしていることであり、そこに「自分」はいません。

当たるが当たるまいが私は何のコントロールもできません。
「自分」がした事ではないのですから。

不思議な事ですが、「霊界」に疑問があっても、私は
「神」や「源」について疑ったことはありませんでした。

それは私にとってクイズのような当たり、外れよりも
ずっと重要なのです。

そんなある日あるワークでサイコメトリーをやりました。

先生は小さな石を私たちにひとつづつ渡しました。
それを手のひらでころがしながら、エネルギーと情報を
読み取るものです。

それを受け取った時すぐに「風」を感じ「旗」のようなものが
なびいているのが見えました。
それからちょっと寒く感じました。山が見えました。
でも寒いのになぜか同時に暑さを感じ、「噴火口」が
見えました。「火山?」と思いました。

先生は100%正解の人が一人この中にいる、と言いました。
それが私だという事がわかっても一瞬全く信じられませんでした。
頭に雷が落ちたようでした。

もうほとんど霊界の存在を確信できなくなっていて
勉強をやめようかと思っていた私の心が、その時に
また混乱しました。

そして次の瞬間どうしてこうなるのだろう?
という気持ちだけが起こりました。

それは当たった嬉しさよりも強いものでした。

その後のあるワークで後ろに誰が立ったかをその人の
エネルギーを感じて当てるものがありました。

私はじっと集中しました。後ろに立っている人の姿が
今までになくはっきりと見えました。「見えた」というか
「わかった」という感じです。

その人は特徴的な銀色のスニーカーを履いていました。
それが鮮明に見えました。

先生が「誰が立っている?」と聞いた時、その人の名前を
覚えていない私は「あの人、あの人なんだけどな〜」と
思うばかりでした。さらに「間違えたらどうしよう」
というエゴが出ました。

それで「銀色のスニーカー」と言うべき所をあいまいに
「カジュアルな服装の人」と言ってしまい、先生に
「名前は覚えなさい」と怒られてしまいました。(笑)

でも確かに当たっていました。
どうしてなんだろう?とまたもや思いました。

ワークの度に起こる、あることがあります。

クラスで見えるとか見えないとかいう騒ぎは、人のエゴを
刺激します。それは競争心や嫉妬心をあおります。

アドバイタの聖者ラマナ・マハルシは超能力者(霊能力者)
であろうとすることは人をより不幸にすると、強く戒めています。

それはワークを「自分」がやっていると思うからです。
人は常にそれをあちら側が与えてくれていると思わず、
「自分」の功績にしたがるのです。

もしワークで自分に何かの真実が見えたとしても
それは自分の「能力」でもなんでもなく、
源が遊びとして見せているに過ぎません。

ある種の計り知れない「エネルギー」を感じる
受容体としての感性に過ぎません。

そしてその能力は訓練すれば誰にでも身につくことです。

ですから良く見える人をやたらに崇めたり褒めたり
といったことは最終的にカルトにもつながる危険な行為
だと私は思います。

そしていつか自分ももっと見えるようになろうとひたすら
努力をしたり、瞑想したりします。
私もあちこちのワークショップへ足しげく通ったりしました。

これは「悟り」を得ようとして必死に修行に励む坊さん
とおなじ心理です。
悟れない坊さんほど悟りをほしがり「苦行」するそうです。

ワークショップに来る人の中には霊能力を得てあとで稼ぐのが
目的の人も沢山います。これは最悪のケースです。

もちろんみんながみんなそうではありません。
中には自分が不思議な体験をしたので真実を知りたいという
思いで来ている人にも会いました。

死別を経験して辛い体験をした人や、生きるか死ぬかの
苦しみにあって勉強を始めた人もいます。

けれども霊能力を得てもそれは「幸せ」とは直結しません。
アドバイタのすぐれた師であるパパジはこんな風な事を
言っています:

「ヒマラヤの最高の霊能者に会った。かれは宙に浮くことができた。
体外離脱して色んな所へ行けたし、人の心も読めた。
かれはその能力を得るために一生を捧げたのだ。
でも私が会った時彼は依然として不幸のままだった。
彼の心は落ち着きが無かった。。。」

まさにこの世は何でも起こりうるんです。
けれどもそればあなたが現実であり幻想であるのと同様
幻想なのでしょう。

私は常に「これは真実なのか?」と問うどうしようもない
クセを持っています。

ミディアムシップも体外離脱もそうでした。

体外離脱で夫に三回も会っても私の涙は止まりませんでした。
どこかであれは幻想じゃないか?
ただの夢じゃないか?と思っていました。

けれどもミディアムシップに関していえば、私が知り合った
ミディアムさん達は本当に人間として素晴らしい人達ばかりでした。

私を後追い自殺から救ってくれました。

私はただ私が感じたまま、経験したままを書いています。

そして死別の苦しみから本当に解放してくれることは
何なのかを命をかけて探しているだけです。

それは人によって違う経験になると思います。

私はただ理屈じゃなく、何かがそうするように動いて
いるからこの勉強をしています。

学びをやめようとする度に説明のつかない経験をするから。

はっきり言うと「何かが」「学びをやめさせてくれない」
のです。それだけは感じています。

なので今私が下した結論はラメッシが示してくれたように
すべてを神の御心にゆだねることでした。

非二元を知ってしまった私にとって霊界の存在が「真実」
であるかどうか私にはまだわかりません。

けれども今の私にはそれは大したことではありません。
重要なのはすべて私の周りで起こっている現象が
私を「真実」を知る勉強へと導いている、という事実
です。私はその声に今はただ従っています。

もし私に何らかの能力が与えられるとするなら、導きによって
人の為に役立つことをするだろうからです。

初めは夫と会い、夫を感じられたら。。。というエゴ的な
動機もちょっぴりあって勉強を始めました。

そしてその動機は責められるべきものではないと思います。
人間として普通の感情だと思います。

けれどもそれ以上にミディアムさんから助けられた
私の経験を他の人にも伝えられたらと思いました。

別にプロのミディアムになるわけではなく
ボランティアの形で、身近な人をヒーリングしたり
悲しみに暮れる人を慰めたりできればいいな。。。と
思って学んできました。

でもそれはすべて「導き」次第です。

もし何かの事情でやめたくなったら、さっさと
やめると思います。ラメッシはそうなっても「罪悪感」
を抱かないように、と言っています。
その決断をするのも「自分」ではなく「源」です。

すべての事は源によって起こるべくして起こります。
こんなに無責任で楽な考えはありません(笑)

すべてを源にゆだね「自分」を捨てる時、「今」を精一杯
楽しめるのだな、とわかりました。

体外離脱をして主人に会っても悲しみが消えなかったのは
そこに「自分」がくっきりといたからでした。
そのことについては更に最終章で書かせていただきます。

私達は「聖なる操り人形」。。。トニーパーソンズが私に
飲ませたあの毒薬を、この驚くべき真実をラメッシは叡智で
中和し実にわかりやすく解き明かしてくれたのです。

これはかつての若かった私にとって、難解で理詰めで、
わかりにくい教えてあった「禅」を遥かにしのぐものでした。

そして更にその後私は自分の迷いを覆してくれる決定的な
教えに出会ったのでした。
posted by おとめ at 11:39 | スピリチュアリズム

2015年09月23日

チャンス

*以下は過渡期に書いたものなので


スピリチュアリズムに傾倒する自分と


あるがままに生きようとする自分との


ギャップが見られることをお断りしておきます。



過去は追ってはいけません、未来は待ってはなりません。

ただ現在の一瞬だけを強く生きなければいけません。(仏陀)


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死別はひとつの偉大なチャンスです。

私がここで言う「死別」とはあくまでも

心から愛する人を失った人達の経験で

たとえば、夫や妻を亡くしてもそれがある種の

「解放」であった人たちは含まれません。



私の言う「死別」を経験した人たちは最愛の

夫や妻や子供を喪いその人の死と共に自分の

これまでの「すべて」を失った人たちを意味します。


私たちはその最愛の存在の死に直面して

すべてのものの意味の無さを知ったのです。


病院のベッドで愛するものの手を握り締めながら

私たちは悟りました。

このベッドも、酸素マスクもこの点滴も抗がん剤も

食事療法もすべて何の意味も無いと。


たとえば、夫が会社の重役であった人なら、その地位も、

欲しかったブランドバッグも、行きたかった旅行計画も、

苦労してローンで買った家も車もすべて何もかもが

むなしい、意味がないと感じたことでしょう。


更には今呼吸している自分の肉体さえ、すべてすべて

何の意味も無い、と思える瞬間があった筈です。

少なくとも私にはありました。


その時にたった一つだけ意味があったもの、

それはある純粋な願望でした。

文字で書くのはとてもむずかしい、ある種の

「切望」でした。


今すぐコートのようにこの体を脱ぎ捨てて

夫のあとを追いかけなくては、という思いでした。


その時私の意識にはこの外界は目に入りませんでした。

自分がどこにいるのか、何が起こったのかさえ

正確にはわかりませんでした。


私はただ夫が「行ってしまったこと」そして私は

「追いかけなくては」という強い絶望的な衝動を

感じたのでした。


私は夫の変わり果てた顔や体を見て、もうそこには

夫はいないことがわかりました。


しかし文明社会ではしきたりや人付き合いがあり

死亡証明や葬儀やらでふたたび現実に引き戻されます。

その結果あれほど「意味がない」と感じていたもの

たとえば家や故人の持ち物や地位などそういった

外面的なことにやはり価値はあったのだ、と

思うようになっていきます。そしてまたもや苦しみが

始まるのです。典型的な例が相続争いなどの問題です。


これは一時的に力を失っていた自我が再起動したためです。

けれども今私にはわかります。

あの臨終の瞬間、すべてのものに意味が無いと感じた

その感覚こそが「悟り」であったのだと。


その貴重な瞬間はそれに続く出来事によって

否応なくかき消されてしまいましたが、

少なくとも私を含め最愛の人を亡くした何人かの人は

そんな瞬間を経験したことでしょう。


そこにエゴが入る余地は全くありませんでした。

何故ならエゴは純粋な瞬間にはいられないからです。


その「瞬間」には新しい出発を果たした愛しい人の体と

それにすがって泣く自分、そして奇妙なことに

それをどこかからじっと見ているもう一人の自分がいました。

そこには愛する人の臨終ー死(看取り)という一つの

瞬間しかなかったのです。過去も未来も無いただ

「その時」だけがありました。


この悟りの瞬間はほんのわずかの出来事でそれ以来

半年経ち一年経ち、色々な勉強を重ねることで

ふたたびあの感覚がもどるまで、私は猛烈に苦しみ

地獄を味わいました。


そして今まだまだその苦しみの真っ只中にいる人に

私は励ましのつもりで言わなくてはなりません。


「あなたは絶対正しいのです。

死別を経験したことであなたの頭には神様の

この上なく美しい冠が載せられたのです。

愛する人の死の瞬間、すべてのものが無意味に思え

ただ愛だけがあったあの瞬間のあなたが本当の

あなたなのです。」と。


その「愛」よりもほとんどの人はその瞬間「痛み」や

「悲しみ」の方が大きいのは事実です。

けれどもその瞬間すべてを放り投げてその人を

愛しぬいたことも事実なのです。


それは亡き人とケンカをしたり、子供の教育問題で

意見をぶつけあったあなたではありません。

夫に女性が近づくのを見て嫉妬したあなたでもなく、

言う事を聞かないとその子を責めたあなたでもありません。

これらはすべてエゴにまみれたあなたでした。


本当のあなたはその臨終の瞬間にいました。

ただただ愛のみに満ちていた存在、愛する人が

どんなに欠点のある性格であろうと、問題があろうと

愛している、生きていてくれればそれでいい、と

純粋に願ったあなたがそこにはいました。


ただ一瞬でも私たちはそれを味わったのです。

それが「本当のあなた」であり、自我の無い存在です。

イエスを喪ったマリア様と同じ経験をしたのです。

その時の私たちは神と共にいました。


悲しいことに多くの人間は本当の自分に会えず

エゴの声に従って生きています。その結果として

何故いつまでも自分が不幸なのか気づきません。

それが世間一般の人々です。


死別経験がなくても自分がいかに多くの幸せを

かかえているのかを気づいている人もいます。

そういう人達は自分の分というものを知っていて

いつも心穏やかでいられます。


ですがほとんどの人達はいつもいつも外界のみの

些末な事に踊らされ恐怖の世界から抜け出せません。


その結果不平や不満を持ち「今の状態」から他の

もっと「良い状態」へと抜けることばかり考えます。


そして金や物などを少しでも他人より多く持つことで

その「良い状態」へ行けると信じています。

もちろん生きていく上で必要な物やある程度のお金は

必要ですが、私が言うのはそれとは別の話です。


別の言い方をすればほとんどの人は「物質」という

幻想にとらわれているのです。

物や金がすべてなら何故ハリウッドの大スターが

自殺などするのでしょうか。


私達の愛する人はもう物質世界とは無縁です。


なので死別を一度経験すると普通の人達との

微妙な温度差に気がつきます。

まわりの人達の心無い言動に傷つくだけでなく

私達はある「重大な事を知ってしまった」ことで

普通の人が話題にする事にもはや関心がもてない、

そんな時をたびたび経験します。


今までの友人もその気配を感じて去っていきます。


けれどもひょっとしたら私達死別経験者はある意味

普通の人達より幸せに近いのかも知れません。


ここで誤解しないでいただきたいのは今私達は「幸せ」

なのではなくあくまでも「幸せに近い」ということです。

悲しみで一杯の今、まだ幸せであるはずがありません。


ただ、ある道を見つければそこに幸せがあるのであり、

神様は否応なくその道を一瞬だけ見せてくれたのです。


その道とは、愛する人を失ったり、難病になったり

臨死体験をしたり、これ以上ない挫折や財産の喪失

ということを経験すると一瞬でもエゴの無い「本当の

自分」に会えるということなのです。


「本当の自分」とは何でしょうか。


偉い人はそれを「真我」とか「ハイヤーセルフ」とか

「神」とか「大いなる存在」とか呼びます。

スピリチュアリズムでは元々の土台であるキリスト教

によって「守護霊」とか「スピリットガイド」とも呼び

さらに上の存在である「神」(大心霊)と区別します。


私は「永遠の存在」と呼んでいます。


永遠の存在はあなたの内側に常にあります。

神とも呼んだり、もう一人の自分とも呼べるような

この辺がとても不思議です。

何故なら本当の自分も永遠の存在の一部

だからです。あなた=神であるとも言えます。


まだ修行中の私にはそれしかわかりません。


そしてその永遠の自分と日常的につながることで

本当の意味での幸せを見つけることができます。

でもこれがなかなか難しいんです。


私のこれからの人生の目的は、今のエゴな私を

いつも愛し、優しく諭してくれる「永遠の存在」と

もっともっと仲良くなることです。その結果として

自分の周りの人達と仲良くすることになります。


そして愛に満ちた小道を夫の魂と共に歩み、

心穏やかに幸せに暮らすことです。

そしてこれから一生が修行の場になっていきます。


修行が苦行だなんて誰が言ったのでしょう。

それはそれは楽しく喜びに満ちた世界なのに。


仕事をしている時も、友人と食事をしていても

夫はそばにいる気がします。


でも私には霊が見えるとか見えないとかはそれは

本当はどうでもいいのです。人は能力のある人を

ほめたり、羨んだり、妬んだりします。


当初は自分の願望だけの「夫に会いたいから」

という目的のみでした。それもエゴからということに

なるのでしょうが、よく考えれば結果として

それがきっかけになって良かったと思います。


今では私にとって死別は「悲劇」ではありません。

それは亡くなった人にとって「故郷へ帰ること」

であり、残された者にとっては「目覚めのチャンス」

なのです。それはめったに無いチャンスなのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m
長々と書きましたが、なんども加筆、修正しました。

posted by おとめ at 12:06 | Comment(4) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム

2015年09月20日

幸せのしゃぼん玉

私たちのテーマは「どのようにして自分の中に入るか?」
ということです。(ハラランボス・ランバート)

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人間が幸せになるのは実にカンタンなことだ。

けれども多くの人間がそのことに気づいていない。

それで心の病気や離婚、戦争、はたまた殺人など

ありとあらゆる不幸が起こる。


そのことに私がやっと気づいた時

夫はすでにこの世にいなかった。


何が一番人を不幸にするのだろうか?

それはズバリ「現実をうけいれないこと」だ。

現実は「どうしようもないこと」に満ちている。

それに対抗すると強いストレスが生じ

結果として不幸になる。


雨が降り続く、隣にいやな人が住んでいる

自分は醜い、太っている、病気があるなどなど

から始まって、私の夫は優しくない、子供が

言う事をきかない、上司が意地悪だ、

あ〜もっとお金があったら!

他にももっともっと。。。際限がない。


そしてあらゆる「どうしようもないこと」の

最たるものが「死別」だ。


現実に抵抗して勝った人はいない。

雨をストップできるだろうか?

「どうしようもないこと」と戦うのは

ストレスをちょうだい、と言っているようなもの。


私は「夫との死別」という私にとっては究極の

「どうしようもないこと」を受け入れざるを得ないとき

その現実の中で、後を追うこと以外に私に一体

何ができるのかを、考えて考えて考え抜いた。

そしてわかったことは。。。


現実の中で唯一コントロールできるものが

あるということだった。

それは「自分」だった。


つまり現実とはコントロールできる「自分」と

「どうしようもないこと」の二つでできている。


そして更に「どうしようもないこと」にも二種類あり、

一つは戦争や天変地異、病気、そして死などだ。

これを神の領域という人もいる。

そしてもう一つは自分以外のすべての人間だ。


この二つの「どうしようもないこと」に抵抗することで

あらゆる不幸が生まれる。


たとえば、人間、つまり自分や他人や身内など

すべての人間はしゃぼん玉のような個別の

バリアーの中にいて、それはエゴイズムでできている。


このしゃぼん玉はけっこう丈夫で

あなたが自分のバリアーを抜け出して

人のしゃぼん玉に触れると強いストレスが生じる。


人は自分のしゃぼん玉にとどまらなければならない、

そしてそのしゃぼん玉をできるだけクリアに保つこと、

それだけが本当に人を幸せにすると気づいた。


これは決して自分の殻に閉じこもることを意味しない。

むしろその正反対だ。人は人のバリアーを尊重して

始めて歩み寄り愛し合うことができる。


たとえば昔私は母に冷たい義妹を批判していた。

「彼女はもっと母のめんどうをみるべきだ」と。

しかしこう考えることで一番傷ついたのは誰か?

それは私自身だったのだ。私は義妹のしゃぼん玉に

入り込もうとしていたのだった。


人に対して、たとえどんな人であろうと、

我が子や親であろうと、意地悪な姑であろうと

「〇〇は〜すべきだ」という考えは強いエゴであり

ほかでもない自分自身を苦しめることになる。

その人についての欠点や恨みつらみを思うとき

自分で自分に拷問をしているのだ。


ちょっとためしてみればすぐわかる。

今まで自分がストレスや不幸を感じたとき

身の回りの誰かを批判の目で見ていなかったか、

そしてその人を一度でも自分の好みどうりに

変えられたためしがあったかどうか。


人が変えられるのは「自分」だけだ。

これは良く言われていることだが本当の意味を

知っていて実行している人はとても少ない。

世の中を見ているとつくづくそう思う。


「現実」は変わらないし、変えようとしないこと。

不幸やストレスを感じたときは自分によ〜く

たずねてみよう。私はひょっとして誰かの

しゃぼん玉をつついていないだろうか、と。


もしたとえ戦争のような現実でも

変えようとするならば、人はまず一人一人が

「自分」を変えていかねばならないだろう。


相手のバリヤーに入ろうとするから戦争が起こるし

離婚も起きるし、家庭不和も起きる。


現実を受け入れるのに最もたけていた偉大な人間が

イエスだった。彼は道端で犬の屍骸を見て

みんなが気味悪がる中でその現実をありのままに

じっと見つめてこう言った。

「なんてきれいな歯をしているのだ!」と。

彼は「美」さえもそこに見つけたのだった。


だからいつもしゃぼん玉の中にいたい。

自分のしゃぼん玉をせっせと磨きたい。

そこから眺めると、この世はとても美しく、

どんなに小さなものでも輝きを放っている。


散らかった部屋もとてもきれいに見える。

そのことがはっきりわかってきたと同時に

私はアキアネの絵に導かれ、そして目覚めた。


私は今まで何が自分を本当に苦しめていたか

生きにくくしていたかに気づいた。

これからは何も求めず、ただあるがままに生き

幸せになれるだろうと思った。しゃぼん玉の中で。


ただ一つ、愛する人がもうこの世にいない、

ということを受け入れさえすれば、という

厳しい最後の難関をのぞいては。。。


何故夫がいる間に気づけなかったのだろう、

という思いがふたたび私を苦しめた。

気づいていたらたとえ苦しい闘病中にも

本当に幸せな夫婦、世界一幸せなカップル

であったろうに、と思ったこともあった。


しかし、そのうちに私は段々わかってきた。

こうしてむなしい仮定や後悔こそが

「現実をありのままに見ていない」ことなのだと。


そしてようやく天は私に「本当のこと」を見せてくれた。


もし魂というものが永遠にあるならば

話は更に素晴らしくなっていく。

その決定的な証拠を見せてくれたのだった。


夫は今までどうり、私のそばにいて

今まで二人が完全には果たせなかった

幸せへの道を共に構築していくことができる。


天の光に守られ、私の頼りないしゃぼん玉を

夫はいつも風になって導いてくれる。

そしていつか私がこの世を去るときに

しゃぼん玉ははじけて、私は神様の手へと

帰っていくのだ。そこには夫が待っている。

この上ない懐かしいほほえみをたたえて。。。


そして私は今それが確かな「現実」である

ということを知っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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posted by おとめ at 10:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム

2015年08月29日

恐怖とエゴイズム

ネガティブであろうとポジティブであろうと「自分」に集中するとき
私達はいつでも苦しみます。(ジーナ・レイク)

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主人の死をきっかけにして私は「ある勉強」を

始めたわけだが、それによってすでに書いたような

不可思議な体験をするようになった。

ただしそれは嬉しい「おまけ」であって「目的」ではない。


勉強の真の目的とは「死別の悲しみからの完全脱却」だ。


それはつまり私にとっては世間でよく言われるように

「時間が解決する」とか「三年がめどで涙は減っていく」

とかいう次元のことでは全然ない。


それは。。。夫の魂がまだどこかに「実在している」

という証拠を確実につかむことでもあった。

それ以外のいかなる方法も私をこの地獄から

救い出してくれる道は無かった。


人によっては「おとめさんどうしちゃったのかしら?」

「悲しみで気がヘンになっちゃったのね。可哀想に」と

目一杯引かれても無理からぬことを思い切って書いている。


人は死後の事についていわれのない恐怖心を持っている。

魂、霊、あの世などという言葉に対して生理的な不快感を

あらわにする人もいる。何だかうさんくさいと思うのだろう。


よくあるTV番組で心霊スポットなどとして怖いもの見たさや

オモシロ半分でとりあげられるような作られた世界に

多くの人が影響されていることもあるかも知れない。


なんと世の中は無駄な迷信や思い込みに満ちていることか。


「本当のこと」を勉強するのは何の恐れも不安も無い、

愛に満ちた世界の探求である事に気づく人は少ない。


その世界こそがたとえば死別の苦しみを癒す本当の

特効薬であり、誰にとっても幸せへの近道だと知らずに。

もうとっくに知っている人もいるかもしれないが私の場合は

この年になってようやくその道を知ったのだった。


念のために言うと薄気味の悪い幽霊だとか怨霊などという

おどろおどろしい世界は人間の恐怖心が生み出すもので

霊魂そのものは全く怖いものではない。本当に怖いのは

生きている人間なのだ。


先日も痛ましい殺人事件があったが、無知によって

こういう事をする人間のほうがよっぽど怖い。


心から幸せな人間は犯罪をおかさない。

自分の価値観のみで人を批判非難したりしない。

悪質な陰口を広めたり、人をいじめて

時には死なせる「リンチ」をすることも無い。

無知から来る恐怖心によってエゴイズムがあおられ

こんな間違いをおかすのだ、と私は推測する。

そしてそういう人間は例外なく「不幸」だ。


そしてまた「徐霊」と称して人から金を巻き上げたりする者や

まだどこか記憶に新しいオームのような「カルト」や

狂信的で人を束縛するあらゆる宗教がある。

本当に怖いのはこういうもので、こうしたものは

「本当の世界」とは何の関係も無い。


人がする勉強には色々ある。車の運転や語学の習得

経済学などの金の儲け方や料理裁縫にいたるまで

さまざまだが、私が思った限りでは一番大切なのは

「死んだ後」と「生まれる前」についての勉強だと思う。

それ無くして今の「人生」はありえないからだ。


しかし人は物質や肉体にとらわれ過ぎて久しく

本当に自分にとって大切なものは勉強しないものだ。


金持ちだろうと貧乏人だろうとどんな境遇でも

人生は辛い、というのは多くの人間の実感するところだ。

その辛さはどこから来るのだろうか。

それはずばり「恐怖」からだ。


愛されない恐怖、一人になる恐怖、金が無くなる恐怖、

病気への恐怖など私達は色々な恐怖と日々戦っている。

そして恐怖の最たるものが死への恐怖だ。

そして恐怖から「エゴイズム」が生まれる。


エゴイズムとはたとえば所有欲、虚栄心、支配欲、嫉妬心

金銭欲、成功欲、自己憐憫、依頼心、などきりが無い。

エゴイズムこそが人生におけるありとあらゆる苦しみの

真犯人なのだ。だが時にはそこから来る痛みが

原動力にもなるので話はややこしくなる。

そしてまた、無理やりエゴイズムを消そう

としてもそれは「抑圧」というさらなる猛毒へと変化してしまう。


戒律の厳しい宗教で善なる人間になろうと心に反して

ムリな修行をすれば猛毒が体に一杯たまるだろう。


だからこそ「恐怖心」の克服が大事なのだ。


最近神社めぐりがはやっているが、神様の前で、

日頃の感謝もせず、自分や家族の健康幸せだけを

お願いするのも恐怖から来るエゴイズムで、

神様はエゴの無い人にこそ幸せをくれる、という

基本中の基本を忘れている人もいるかも知れない。


オレオレ詐欺の被害者も世間体を気にする

「虚栄心」というエゴの犠牲者の場合が多い。


心臓病で長期入院していた私の祖母はいつも

見舞いに来た人達皆に同じ事を言っていた。

「私はもうすぐ死んじゃうから〜。」と。

涙ながらに言うので皆が心配するが、会うたびに

祖母はとても元気で、結局長生きした。

これを「死ぬ死ぬ詐欺」という(笑)

それはともかく。。。


酷な事を書けば死別の苦しみや悲しみさえ

本当はエゴイズムであると言える。


それは一人になりたくない、という人間本来の

根源的な恐怖からくるものだ。

スピリチュアルの世界では「分離」といい、

平和だった世界、神と一体だった世界から

一人でこの世に存在するようになることを言う。


本来亡くなった人は苦痛から解放されたのだから

喜ぶべきものなのだが、私達は涙を流して悲しむ。

それはまさに「自分が」寂しく辛いからであり、

決して亡くなった人への愛からでは無い。

愛からだと思い込んでいるだけだ。

が、しかし非常に人間的であるとは思う。


私もエゴイズムの塊だから、未だに大きな悲しみ

はあるし、一人になれば辛いし涙も流す。

しかし勉強を続けて一周忌が過ぎ

エゴイズムについてある程度わかってくると

私の中で大きな変化が起こった。


それは実に驚くべき変化だったのだ。


変化は二つあった。

一つ目は死別の苦しみがぐっとやわらいだ事だ。


原因がわかって苦しむのとわからないでとは

雲泥の差がある。わかって苦しんだほうが

ずっとラクなのだ。それはたとえば急に腹痛で

七転八倒し不安に襲われるが、病院へ行って

「なに、ただの食べすぎですよ。すぐ治ります」

と言われれば安心から痛みも軽くなるのと同じだ。


だから、今私の中では大きな悲しみはあるが

それがエゴイズムからくるものだと知ってからは

その大元の「恐怖」の退治に努めることで

心はいつも平穏で、落ち着いているようになった。


不安感も減り、不平不満が無くなった。

人の目や意見も気にならなくなった。

(だからこんな記事が書けるのだが)

というよりどんな人の意見や考えも理解し

受け入れられる状態へと

自分が変わったのかも知れない。


そしてその結果、自分の周りには

「嫌いな人」というのが全くいなくなってしまった。

元々人の好き嫌いはしない方なのだが

かつては苦手な人が一人や二人はいた。

今は良い人ばかりに囲まれている気がする。

そして常に心は感謝の思いで一杯だ。


夫が亡くなる事がなかったら私はこの

素晴らしい心の状態を体験することは

到底かなわなかっただろう。その意味でも

夫の死は無駄ではなかった。


ミディアムシップでさえ、今はほとんど

必要としなくなった。腕の良い方にご縁が

またあったら受けてみたい気はまだするが。


一時は藁をもすがる思いでうけたセッション。。。

後追いさえ考えた私が今こんな状態にいる事が

自分自身も信じられない。


エゴイズムの処理をしていく上で起きた

もう一つの変化とは冒頭に書いた「おまけ」

の現象だった。ワークショップでの良い結果

もそうだが、瞑想中になんともいえない「愛」

のエネルギーを感じるようになった。

常に寄り添ってくれる存在(それが何かはまだ

わからない)や夫の存在をすぐそばに感じるのだ。


死別の苦しみからの完全脱却はまだムリとしても

次々と私に起こったこの良い兆しには

確実に「エゴイズム」がからんでいる、

いやそれ以上に人間のすべての苦しみは

「恐怖」からくるエゴイズムが原因である、

と言う事を身をもって実感したのだった。


さて、それではどうして人間はこの恐怖心があって

そこから苦しみの元であるエゴイズムが生まれるのか?

その原因は簡単なことなのだが、古今東西の

賢者の書物にはちゃんと書いてある。

(一部の立派な宗教家の教えにもあるが、宗教

そのものでは人の苦しみは消えない、と私は思う。)


だからこそ私は本をむさぼり読んだ。そして

宗教を信じるのではなくイエス(ジョシュア・イマヌエル)

その人を信じること、仏教ではなく仏陀その人を信じること

これが私のコツだ。


私の遠い祖先は「カンベノモノ」という神道系一族だったと

中学の時尊敬する教師からおそわった。

父方の祖母は真言宗の寺の娘だった。

だが私は何の宗教にも属さないし、属すつもりは

毛一筋ほども無い。


いくつかの団体には属しているが、ひとたびその団体が

私から自由を奪うことがあればただちに脱会するだろう。

宗教より、恐怖やエゴイズムを克服した人々が私の師だ。


思えば恐怖と言うものは人間が生れ落ちたときから

すでに持っているものだ。今までいた世界から「分離」

してしまったという恐怖だ。だから赤ん坊は大声で泣く。

抱いて欲しい、おっぱいが欲しい、お尻をきれいにして欲しい、

赤ん坊のエゴイズムはそれだけの可愛いものだ。


だがエゴイズムの薄い皮は成長につれて硬い殻となり

人のまわりにガードを作る。その殻が厚ければ

厚くなるほど、その子の人生は辛いものになるだろう。


だから幼いうちにエゴイズムについて学ぶことは

算数や英語などよりもずっと大事だと私は思う。


恐怖とエゴイズム。。。それはニワトリと卵のように

切っても切れない関係にあるが、その根底を

とことん見つめることが、死別の苦しみはもとより

人間のすべての苦しみの大元に風穴を開け

光をあててくれることだとわかってきたのだった。


それでは。。。と鋭い人は最後に疑問に思うだろう。

何故生まれてくる赤ん坊のエゴイズムは薄いのか、と。

それは、すべての人間は生まれる前にはエゴイズムは

持っていないからなのだ。

そして、生まれる前の状態が私たちの本当の姿なのだ。

それについてはまたこの次に。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m












posted by おとめ at 19:26 | Comment(6) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム

2015年08月23日

何かが起きている(2)

あなたが大海の一滴の水であると感じる事で十分です。

(ダスカロス)

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愛する夫の死で身を引きちぎられるような

この世の地獄を体験したが、それは

死別経験以前には決して知りえなかった

ある真実への幕開けであったかも知れない。。。


外国人サイキックミディアムの集中クラスは

いよいよ大詰めを迎えた。それまでは

生きている人間から情報を得る

ただのサイキックゲームに過ぎなかった。


しかし今度は霊界とつながる本格的な

ミディアムシップへの挑戦なのだ。


上級コースでは生徒の数もだいぶ減り、講師は

「今ここにいるのは全員サイキックです。」

と断言した。「てか、私がそうなら

生きてる人間みんなそうだよな〜」と

頭の中でつぶやいた私。


その後も講師は色々な質問をしてはその都度

私達に挙手をさせ、私達の守護霊を透視したり

各生徒の持つ能力を分析、判断していた。


それによると、私には3つの能力があり、それは

クレアボヤンス(肉眼で見えないものが見える)

クレアオーディエンス(音や声が聞こえる)

クレアセンティエンス(気持ちや痛みを感じる)

というものだった。本ではこの能力について

読んではいたが、まさか!自分がそんな。。。

霊能者にはお金を払ってお会いするものでは(笑)

とショックを受けた。なんだか薄気味悪いとも思った。


疑いの心がムクムクと湧き上がってきた。。。


だがあとで思い出した。ある外人ミディアムさんに

生死の境をさまよったり(臨死体験)死別や遭難など

辛い体験をすると霊能力が目覚める事がある、と

言われたことだ。私はそのうち二つを経験している。。。


その直後私はまざまざと不思議な出来事を

否応無しに見せ付けられることになったのだ。


この講師の導く瞑想はとんでもなくパワフルで

時折強い眠気さえ感じるほどだったのはすでに書いた。


まず写真を使ったセッションが行われた。

二人一組でお互いに亡くなった人の写真を

交換してリーディングする。いずれの場合も

組んだ方の守護霊または亡くなった方の

スピリット(霊)とつながり「情報を下さい」

とお願いしてからやる、というものだった。


そんな事ができるのか?と自信が無かったが

とにかく敬虔な気持ちで見えない存在に

心からお願いしながらやった。


私の場合目を閉じると上方に光が見えるので

そちらの方を意識してお願いした。


ある人が私に年配夫婦の写真を渡した。

女性の方は写真の持ち主のお母様か伯母様?

どちらかとても迷った、まるで二人いるみたい

だった。続いて「ガン?」と聞こえ

「海外旅行?」「明るくて社交的?」などが

浮かんだ。男性の方はどうも私には印象が悪くて、

「暗い性格?」と思い、ひょっとしたら実の父親でなく

再婚相手?と思ったが失礼なので黙っていた。

そして突然死だったのかな〜と思った。


相手の答えは。。。


写真はお母様だったが、お姉さま(つまり伯母様)

ととても仲良しでいつも一緒だったそうだ。

どうりで迷った筈だった。

そして夫婦共々ガンでなくなっていた。

(ここは外れた)


そして。。。お父様というのは。。。

「ひどいDVおやじだったんです」とその

写真の持ち主の彼女は吐き捨てるように言ったのだ。

始めに写真を見たときの何とも言えない暗い印象

他人のような感じ、は当たっていた。

そのトラウマで弟さんは引きこもりだそうだ。


ここでびっくりする間もなくワークは続く。


別の人にある男性の写真を渡された時は

お兄さん?という感じと色々な情景と共に

「心臓、心臓」と声とも言葉ともつかないような

ものが心に浮かんだ。心臓発作で若く亡くなった

と直感し、それは正解だった。お酒が大好きでしたか?

と私の質問への答えは居酒屋を経営していた、

よく飲んでいた、というものだった。

そしてお兄さんでは無く弟さんだった。


別の人からは、お婆ちゃんが可愛い孫を

抱いている写真を渡された。

すぐに浮かんだのは「お団子屋さん」

「風呂敷」「心臓」の三つだけ。


すごく少ないと思ったが。。。


相手の女性はお婆ちゃん子だった、と言った。

写真の孫は本人だった。遊びに行くといつも

お婆ちゃんはすぐそばのお団子屋さんでお団子を

買ってきてくれたそうだ。


「風呂敷」はいつもお婆ちゃんの腰紐で

首にくくりつけて「パーマン」だか「バットマン」

だかの遊びをしていたのだそう。


お婆ちゃんは心臓が弱かったそうだ。

そして。。。その時ある声のようなものが

また聞こえた。「可愛かった、とにかく

可愛かった。目の中に入れても痛くないとは

このことだ」と。。。。


その時なんともいいようのない暖かいものが

私の胸の中一杯に広がっていくのを感じた。

「怖い」という感じはどこかへ消えていた。

全部当たったのもなんだかクイズ遊びのようで嬉しかった。


万事この調子で何人もの人と写真での

リーディングがあり、そして。。。

いよいよ本格的な訓練が始まった。


他の先生のクラスではミディアムシップは

本当に難しいと思っていたが、

この講師の訓練では次々とイメージや言葉

時には声のようなものが聞こえるのには驚いた。


何かその場だけに特定されたあるエネルギーを

伝授されていたのかも知れない。


さまざまな人と組んで練習したが、毎回

沢山の情報が浮かび、それを片っ端から

ノートに書いていく。当たったり

当たらなかったり色々だったが、

すべて外れというのはゼロだった。


そして100%当たったケースが

数件あった。そのうち印象的だったのは:


ある女性と向かい合った。

集中すると年配の女性と子供が見えた。

そして「体力アップ」「そろばん」などの

言葉が浮かんだ。目を閉じてしばらく待っていると

急にあるものが見え出した。


昭和の懐かしいガラガラ戸の玄関の前に

白髪のおじいさんがニコニコ立っていた。

1cmにも満たない短髪が良く見えた。

ステテコと昔のジジシャツを着ている。

陽光の中でそばに三輪車が見えた。


それだけだった。


相手の女性は「間違いなくおじいちゃんです。」

「みんなには怖い人だったけど私には

とても優しかった。外見も間違いないです。

三輪車もありました。亡くなった子が一人いるので

出てきたのはその子」と感動されてしまった。


???


私の理性は超パニックになっていった。

「こんなことが起こって良いのだろうか?」

でも不思議に気持ちは穏やかで 何とも言えず

ほのぼのとした良い心持だった。


そう。。。私はあちらからの深い深い

「愛」を感じていたのだった。


理性と愛のはざまでなんとも妙ちきりんな

経験したことの無い感覚だった。


別のお相手は中年の女性だった。

この時は沢山の情報がどっと流れてきた。

上品なちょっと白髪交じりの紳士がぽっと

浮かんだ。ついで「庭」「ホース」「セミ」

「血圧」「スケッチブック」「昆虫採集のアミ」

「釣り」などをキャッチした。


答えはとても面白かった。


その女性のご主人かと思ったが

お父様だった。


そのとおりとてもお洒落な人で、

庭いじりが大好きだったとの事。

「セミ」は玄関に抜け殻が飾ってあり、

旅先である人にいただいたものだそうだ。

めずらしい種類らしい。「血圧」計を常用していた。

日本画が趣味で「スケッチブック」を手放さなかった。

「昆虫採集のアミ」で蚊とかハエを取っていた。

その時もネクタイをしているような人だったそうだ(笑)

「釣り」はこの方とご主人の趣味だった。


もうこの時にはだいぶ慣れてきて

情報をもらえたのが嬉しく、

何より私のような者に教えてくださった

霊界のご親切に感動してしまった。


そして本当にあちらの世界があることを

身をもって実感したのだった。


そしてもちろん私の主人も出てきてくれて

たくさんの人からそれぞれ少しづつ

主人であると言うエビデンス(証拠)をもらった。


それはたとえば「赤い薔薇の花」(いつも私に

主人がくれた花であり、納骨の時も赤い薔薇で

お墓を一杯にした)であったり「白い壁が続く町」

(故郷アレキパの町)であったりした。

「ワイン」「メキシコ風豆料理」(好物だった)

「シルバーのアクセサリー」(主人の国の特産品で

私は沢山持っている)「書類」(翻訳書類と思われる)


そして「すごい愛情」「いつも一緒にいるよ」

「前世でも一緒だったんだよ」と涙ぐみながら

言ってくれた人も居た。この人は北海道から

はるばる参加した人で強い能力を感じた。


最近瞑想をしているとアドバイスのような

女性の優しい声が聞こえたり、主人の声と

笑顔が見えたりすることがあったが

主人であるというエビデンス(証拠)を

他人から言ってもらうのは本当に嬉しかった。


お金を払わないで沢山セッション受けたようで

だいぶオトク感があった(笑)授業料は

とてつもない金額だったが。


講師からは学ぶものが山のようにあったが

こうクギを刺されたことがある:


「あなた達に能力があるんじゃない。

彼らにやらせてもらっているのだ。

あなた達は通訳であり、スピリットに

尽くしていることを忘れないように。


そして自分がこの能力でどれほど優れているとか

逆に自分なんかダメだ、と思うのも全部エゴ。

あなたのエゴイズム次第で彼らは

あなたの能力をいつでも奪うことが出来る」と。


「豚もおだてりゃ木に登る」タイプの私は

すぐにでも能力を奪われそうだ。


しかしこの能力を授かった以上は人の為に

なんとか役立てなくては、という自覚が

始めて芽生えだした。


それまではただ主人につながりさえすればいい、

というどちらかというと自分勝手な願いしか

もっていなかったから。


私がレッスンを受けている間中感じたのは

ただただ大きな「愛」だった。


私達は元々神様の光の世界で

みんな仲良く一緒だった。そして

さらに勉強を重ねるために共に計画して

この世に生まれてくる。しかし前世の

記憶はすべて消され(まれに幼子が

覚えていることがあるが)成長するにつれ

「こんな筈じゃなかった」という経験を

否応無くさせられながら苦しみ、勉強する。


そして勉強が終るとまた神様の光の下へ戻る。


私達は元々一つであったのだ。

愛に満ち、光り輝く存在だった。


一時的であったかも知れないが、この

「能力」を授かった貴重なクラス時間。。。


一緒にワークをしてくださった皆さん、

本当にありがとう!いつも共にランチを食べて

色んなことを語り合ってとても有意義でした。


かつての永遠の時間で幸せだった魂の「故郷」を

かいま見たようなレッスンの日々だった。。。


。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m
























posted by おとめ at 19:31 | Comment(4) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム

2015年08月19日

何かが起きている

修行者は自分の行動が、否、自分の全存在が世界のために

捧げられていることを学ぶであろう。(ルドルフ・シュタイナー)

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*いつも私を元気付けてくれたブロ友の皆さん、そして

共に学び前世からのご縁のあるかっくん、うさぎさん、かのんさん

尊敬するヒーラーのKさんとAさんとYさんにこの記事を

捧げます。




精神世界での勉強を自分なりに続けているうちに


かれこれ一年以上が過ぎ、私の中で劇的な変化が起こった。



まず、動揺することが無くなった。


怒る事が無くなった。


涙が減った。などなど。。。



もちろん夫を亡くした悲しみが消えたわけでは無い。



ただ、かつての生き地獄のような日々から抜け出し


畏敬の念にうたれる出来事に直面し


心の中は感謝で溢れんばかりだ。



これまで色々な学びの場を導きによって得た。



私の学びの中心はシュタイナーの「六つの行」を実行


そして愛読書「いかにして高次の世界を認識するか」


に書かれていた「恐怖、迷信、独断、虚栄心、功名心、


人を批判すること、饒舌、人種差別」などを排除する教え


を出来る限り続けた。



その上で色々な先生のセミナーやクラス


はたまた読書会などに通うことにした。


ただ、一人の師にのめりこむことは「宗教」に


近いものになってしまうと思うので


私の場合、その辺は心している。



あとは日々の「瞑想」「内省」「読書」だ。


朝の「感謝の祈り」も続けている。



けれども、シュタイナーの教えに従って


まともな仕事はちゃんとやり


生活と勉強とをきちんと分けた。



だが瞑想を続けているととても鋭敏になって


幼い頃のように人の考えが透けて見えるようになり


時々大変苦しかったことも事実だ。


その場合はダスカロスの「エゴイズムの克服」


によってかなり救われた。


これは誰にとっても、霊的世界に関係なく


生きる上でとても有益な行だとおすすめする。



そうこうしているうちに徐々に変化が起きた。


これは驚くべき変化、というか


信じられない事ばかりなので、


自分が信じられない事をブログに書いても


信じてもらえないだろうと。。。


(なんだかこんがらがってきた)


それに体験したことがあまりに強烈なので


それを「自慢」とか「特別意識」とかに


誤解されるのではという心配があったのだ。


そう思って今まで書かずにいた。。。



けれども現在私がしているこの経験は


私達みんなが持っている能力であって


精神の浄化と集中によって得られるものだ。


それを書くという事は沢山の人に希望を与える


ということに気づいた。



事の始まりは数ヶ月前に、ある勉強会で、


サイコメトリーをやった時の事のことだ。


私が手にしたのは一粒のキャンディ。。。


セロファンに包まれた美味しそうなものだった



手の中で転がしてるうちに瞬きするような速さで


「通勤電車」「疲れ」「楽しいおしゃべり」


「ペット。。。猫?」などが浮かんだ。


それはイメージとも言葉ともつかない


不思議な感覚で伝わったものだった。



あとでそれが誰のものかも当てるのだが


さすがにそこまではできなかった。



最後に皆で自分の持ち物を回収し


当たっていたかどうかをシェアする。



キャンディの持ち主はのけぞって驚いていた。


それより驚いたのは私だった。



別のある優しい先生のクラスに出席していた時


突然目の前の生徒さんの頭から肩にかけて


スカイブルーの光が10cmくらいに


放出されているのを見た。なんだか怖かった。


それまではせいぜい体のまわりに


薄皮のようなものしか見えなかったから。


あれほど綺麗なブルーの光は始めて見た。


幼い頃グリーンモンスターを見た以来の


驚きと感激だった。



同じクラスでやはりサイコメトリーで


小石を渡された。


これはどこで拾ってきたか?そして


どんな感覚を感じるか?というものだった。



私には海と川が同時に見えた。


どっちかなのに何故両方?と思ったが


次の瞬間神社が見え、松林のようなものも見えた。


水の冷たさを感じ川底が透けて見えた。



答えは海のそばにある川の小石で


近くに神社もあるとのことだった。


(また当たってしまった。ぞおお〜〜〜)


というのが正直な思いだった。



ある公開デモンストレーションで


カードの図柄を当てる練習をやった。


ミディアムさんがカードを引き


その図柄と色を皆にテレパシーで送る。


それを読み取るというものだった。



私はすぐに星が見えた、というより


「ホシ、ホシ?」と聞こえた。


色は黄色のような薄い色だった。


(またまた当たってしまった。ぞおお〜〜〜)


けれどもここら辺までは「まぐれ」だとか


「偶然」だとかで片付けられる事だった。



けれども次の瞬間私は自分の目を疑った。


やっている間中、先生の頭の上から


薄黄色の玉がゆらゆらと出てあたりを


さまよい始めたのだ。


先生の周りにはぼんやりとこれも薄黄色の


網の目のようなものが広がっていた。


その間異常なまでの眠気に襲われた。



一緒にいた同じように霊的な力がある友人達も


形は違うが見ていたものを教えてくれた。



あとでバーバラ・ブレナンの本で調べたら


これは精神界のオーラのことらしい。


今回はあのブルーの光は全く見えなかった。


CIMG4574.JPG

一番内側が私が最初に見たブルーのオーラ



その後、ある外国人サイキックミディアムの


集中クラスに半月ほど通った経験は


一生忘れられないものになった。



「集中」だからエネルギーもド〜っと


入ってくるし、負担も大きい。


通算四十時間以上のクラスだった。



短い時間で急激にチャクラを開くことは


良くないことだとは知っていた。



しかし私はどうしても参加してみたかった。



その講師はものすごいエネルギーで


私達をぐいぐい引っぱっていった。



色んなワークをやり、ペンジュラムの使い方や


浄化の仕方、悪い霊からプロテクトする方法


サイキック的な訓練などを行った。


サイキックと言うのはこの世にあるエネルギーから


情報を読み取るもので、霊界とはつながっていない。



あるワークでは相手から小さなものを受け取って


それが誰からのプレゼントでどんな人が


くれたかを当てるものだった。



ある人は私に小さなキーホルダーを渡した。


私はそれを手の平に包み集中した。


すると次々に言葉や情景が浮かんできた。


それを必死でメモする。


「プール」「野球」「明るくてはにかみ屋」


「息子さん?」「お祭り」「スイカ」「カレー」


「勉強が大変」などなど。



先生が間違っても気にしないでとにかく


頭に浮かんだことを「編集しないで」


そのまま伝えなさい、と言ったので


そのとおり相手に伝えた。



答えは、末の息子さんからのプレゼントだった。


プールも野球も好き、スイカキチガイではにかみ屋


勉強大嫌い、カレーは食べたばかり、との事。



私の頭の中で何かがはじけ、渦巻いていた。


そのまま熱に浮かされるように次々と


色んな人と組んでワークした。



ある中年男性は紙に誰かの名前を書いて


見えないように折って私にくれた。


それを手の中に包み込みまたもや集中。



するとまた次々とイメージや言葉が浮かぶ。


一番始めに「台所」つづいて「ゴーヤチャンプルー」


「自転車」「明るくてちょっとお茶目」


「女性?」「ビール」「水着」「ソロバン」


「髪の毛染めてる?」「ベランダに植物」だった。



そして答えは。。。髪の毛以外全部正解だった。


料理教室に通うのが趣味でほぼ一日中


台所にいらっしゃるとの事。



他にも沢山の人とワークしたが私の場合特徴的なのは


すべて前もって何の情報も得てない人達を読んだ方が


圧倒的に当たるという事だった。



しかしこういうワークはすべて直感や


テレパシーなどのサイキックに入る分野で


霊界とはつながっていない。


サイキック能力があってもスピリット(霊)と


つながる能力の無い人はいる。


そういう人はミディアムとか霊媒ではなく


超能力者とかサイキックとか呼ばれる。


だがすべての霊媒はサイキックなのだそうだ。



私が本当にやりたかったのは霊界との通信だった。


そう、もちろん、夫とつながることだった。


そして。。。ついにある日待ちに待った先生の言葉が。


「そろそろミディアムシップのレッスンをやっていきましょう」


そして私はまた驚くべき状況を体験することになった。。。


(つづく)

。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m





posted by おとめ at 19:19 | Comment(12) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム

2015年08月03日

本当のこと

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この上ない愛情で結ばれていた

最愛の人を失ってまず人が考えること

それは間違いなく「後追い」だ。


私も十分それを考えた。


この、二度と再び愛する人に会えない

というえぐられるような苦しみは

もはや自殺でのみしか解決できない

という結論へと人をいざなっていく。


これは経験した人でないと決して実感はできない。


これまでも人生でさまざまな試練があり

耐え難い修羅場もあった。


けれども夫の死ほど自分が打ちのめされ

ズタズタに切り裂かれた経験はなかった。


そして夫の下へ今すぐ行きたい!

もうどうなってもかまわない

と何度思ったことだろう。


しかしそれは大変な間違いであることに気づいた。

何故かと言えば、実に幸運な導きによって

「本当のこと」がわかってきたからだった。


まだまだすべてがわかったわけではない。

それでもなお、早まって

自殺などしなくてよかった〜と今では思う。


その「本当のこと」は知らない人が多いし

教科書にも、いろんなマニュアル本にも

路地裏の落書きにも書いてない。


しかし「本当のこと」を知りたくなった時

「教えて〜〜」と叫べば神様が教えてくれる。

人には皆その能力がそなわっているのだ。


亡くなった人が教えてくれる人もいるし

他の存在が教えてくれる事もある。


でも、そんな「本当のこと」など知りたくない

そんなことある筈がない、という人が大半だ。


「人生は一度だけ!」だから。。。

私は好きな事をして、できるだけ嫌な事は避け

金を稼いで、好きな物を買い、食べ、楽しく生きたい!

ポジティブシンキングさ〜。

というのが大多数の人の生き方だろう。


しかしそうは問屋は卸してくれない時が

誰にでもいずれは来る。


そこで大方の人は多かれ少なかれ

人生や世の中に不満というものを持ち

時には耐え難い苦しみにあえぐことになる。


神を恨み、自分の周りの理解してくれない人を恨み

幸せに見える人を恨むだろう。


その時その恨みこそが自分を破壊する

という事実に全く気づかずに。。。


人はいずれ「本当のこと」を知りたい時が

必ず、必ずやってくる。


知りたくない時は「本当のこと」は見えない。

全く見えずに人は苦しみつづける。


今の「人生」という狭いリングの中で。

自分が頼んだわけでもないのに(と思い込んで)

人はいつの間にかこのリングに上げられ

戦いを余儀なくさせられる。


そして。。。運命という名のチャンピオンに

フックだろうがアッパーカットだろうが

ボディブローだろうが容赦なく入れられる。

「死」だけが唯一の楽園と思えるまでに。。。


しかし!


たとえ「本当のこと」を知らずに自殺をしても

苦しみは消え去ってはくれない。


むしろ苦しみは増大し、巨大な殻となって

自分のした失策の大きさに自分が気づかない限り

半永久的に人を閉じ込めてしまう。


「本当の世界」においてはそれが自殺の現実だ。

自殺者を救うただ一つの手は、ひたすら

その魂の安らぎを祈ってあげる事だ。

お墓に参って型どおりの事をやっても

救いにはならない。ただひたすら魂の世界を信じ、

光の方へ導いてあげなくてはいけない。


亡くなった原因が何にせよ、生きている家族が

全くの唯物論者で魂の存在を認めなければ

あの世の愛する人への真の供養はできない、

とシュタイナーは言っている。


だからといって宗教にのめりこめ、

というのでは決してない。


夫はよく♪人生は苦しみの学校♪という

古いボレロを歌っていた。


人は苦しむために生まれてきたのだろうか。

そうとも言えるが、そうでないとも言える。


確かに人生は天が与えた「勉強」であり

毎日が多かれ少なかれ苦しみの現場だ。

「本当のこと」を知るまでは。


「本当のこと」を知ってしまえば

苦しみの中にも喜びを見つけられる。


「苦しみ」こそ喜びなのだとわかる。

けれども自分から探し求めなければ

「本当のこと」には気がつかない。


自分を落ち着かせ、すべての偏見を捨て

目に見えないものでも

どんな世界も物もあるがままに

ひたすら受け入れること。。。


すると見えてくる「本当の世界」


それはまるで

真夏の容赦ない太陽に焼かれながら

オロオロと砂漠を歩くときのようなものだ。


早く楽にオアシスへ!と急ぎ足でいけば

かえって疲れて蜃気楼を見ることになる。

しかし心の目を開いた時に見えてくるものがある。


オアシスへの果てしない道はじっと見てみると

可愛らしい野の花で一杯だ。

それが見える人には、灼熱の太陽は気にならない。


どんなにそれが過酷なものであったとしても。


ほら、あそこには大きなサボテンが

水をたっぷり含んだ姿で待っている。

こちらには僅かな水で小さな芽吹きがある。

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のぞめば、自分がのぞみさえすれば

いつでも天は木陰も用意してくれる。

木漏れ日からもれる光はシャワーとなって

あなたの心と体を清めてくれる。


そしてあなたはもうすっかり安心して

オアシスに迎えられるまでの長い道を

ゆっくりと楽しみながら歩けるのだ。


「本当のこと」を胸にだきつつ。。。


。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m










posted by おとめ at 10:31 | Comment(10) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム