2016年09月02日

苦しみは今終わる

*以下の記事はまだ過渡期に書いたものですので
混乱はあるものの真実は書けていると思いますので、
あえてそのまま公開させていただきました。

長文で申し訳ありません。



皆さまから沢山のメールをいただきました。

心からお礼申し上げます。
今地方への引っ越し準備で大わらわ、あたふた、大パニック。。。
何でもいいですが、とにかくそんな状態でして。
落ち着きましたら必ずご返事させていただきますので
申し訳ありませんがもうしばらくお待ちください。
(9/14記)

。。。。。。。。。。。。。


「私は眠り、私は座り、私は歩く
そして私は幸せだ」
(アシュターヴァクラ・ギーター/トマス・バイロン英訳より)

「日日是好日」
(碧巌録 第六則)


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(写真は主人の故郷にて。猫のニーナ)


あの体験は私に次の真実を教えてくれました:

現実を拒否することで苦しみは生まれるという事。

この苦しみをなんとかしようともがくほど
泥沼にはまるということ。

すべての苦しみは「自分」が作ったことだったんです。

今ここにあるものを拒否し逃れようとすることは
かえって苦しみを大きくしてしまいます。

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よく私は夫の辛い闘病生活を思い出してはあれほど
苦しい目に遭った夫が可哀想で泣いていました。

けれども良く考えて見ると「今」夫の顔を思い浮かべて
見ればそれは全く苦しんでいません。

苦しんでいる顔が浮かんだのならそれは事実ではなく
私のマインドが作り上げた過去の思い出に過ぎません。

今、この瞬間に愛する人がどこかにいると仮定して
その顔を思い浮かべて見るんです。
これはとても強力な効果があります。

その人の顔は泣いているでしょうか。
いいえ、心の底から楽しそうで、幸せそうです。

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私は悲しみがこみあげてひとしきり泣いたあと
これをやっています。するとなんだかラクになれます。

亡き人の「現在」を真に見つめてみれば、悲しみは
ありません。もしあるとすれば、その人の不在を嘆く
「我」があるだけです。

夫は「今」苦しんでいません。毎朝の辛い吐き気も
腹水もありません。入院していません。
これでもかと抗がん剤を打たれることもありません。
どうして私が悲しまなければならないでしょう。

私達人間にははかりしれない「力」が
夫を病気の苦しみから救ってくれたのです。

夫を「自分はこれからどうなるんだろう?」という
恐ろしい不安から解放してくれたんです。

何故悲しいんでしょう。
それは「自分」が悲しんでいるだけです。
「私が、私が。。。」という「自分」です。
「私がかわいそう」「私が大事」という気持ちです。

つきつめると悲しむのは夫への愛ではないことになります。
愛しているなら夫が楽になったことを喜ぶ筈なんです。

魂を信じるなら、亡くなった人の新しい門出を
喜ぶべきなんです。

悲しいのは私で夫ではないんです。

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そうは言ってもそれは頭ではわかるけど、実際は。。。
と誰もが言うでしょう。それはよくわかります。

私も今でも泣けてしかたありません。悲しみは依然として
そこにあります。

けれども我が出てきて思い出してしまった自分も私は好きです。
思い出しては泣き、悲嘆にくれている自分を愛します。

今、この悲しみの現実が私の人生なのです。
その「今」を味わい、生きなければどうして生まれてきた
甲斐があるでしょうか。

とにかく夫はもうすべてのしがらみから自由の身なのです。
でも夫も私への愛と感謝で一杯なのを私は知っています。

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あの図書館からの帰り道、私には「今」しか
ありませんでした。過去も未来もなく自分もありませんでした。

悲しみからの解放は「今」「この瞬間」にしかありません。
過去や未来についての不安や悲しみはいつも私達を苦しめます。
楽しい思い出さえも。。。

源(神)は私達にさまざまな事を経験させているのです。
苦しい病さえも貴重な体験なのです。

すべて起こる事は源の目線で言うと善も悪もなく
良い事も悪いことも含まれます。

悪魔なんていません。天使なんていません。
ただ一つの存在だけがあります。

愛する人の死でさえもそこにはポジティブな
要素があるのがわかります。
たとえば病の苦しみからの解放や、残された
家族の魂の成長などです。

それはまた死別者でなくても言えることです。
自分と会わない伴侶との結婚、ウマの合わない友人、
辛い仕事、悪天候。。。

すべてすべて起こる事を事実として受け止め
そこに価値判断を下さなければずっと楽になれます。

たとえば霊能力や悟りを得ようと必死に努力するのは
「今」にいないで、未来(と思いこんでいるもの)に
いることを意味します。

未来は常に幻想です。過去もしかり。

ひたすら今の自分や状況に不満だから、
「何かになる」事でそれを変えようとすることは、
せっかくのそのままの状態の素晴らしさから視線を
そらす事にならないでしょうか。

だからヒマラヤの霊能者のように、霊能力を極めても
いつまでも幸せはつかめません。

一瞥体験の時、道端のゴミでさえ芸術作品でした。

すべてはそのままで素晴らしいのだ、と私は思います。
何かになる必要も無く、変わる必要もないのだと。

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苦しみを終わらせるのは「未来」では絶対ありません。

体外離脱をしてもミディアムシップを受けても、
夫のいない「今」という現実を受け入れなかった為に
苦しんでいたんです。

「時間薬」はあるでしょうが、それまで待てますか?

私は待てませんでした。
苦しみを終わらせるのは「今」でした。

今こそが苦しみを終わらせてくれます。

今この瞬間に苦しみなどどこにも無いことに私は気づきました。

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もし苦しみがあるとすればそれは私が作った幻想なのです。
それは過去と未来と「自分が大事」という材料でできています。

ここで誤解しないでいただきたいのは「悲しみ」と
「苦しみ」は違うという事です。

純粋な悲しみはむしろ人を進化させます。

多くの死別体験者が純粋な「悲しみ」では無くよけいな事で
悲しみを「変質」させ、「苦しみ」を倍増させているのを
目にしてきました。

絶望や不安感、他者へのねたみ、金銭問題、対人関係の悪化など、
これらはすべて「恐れ」から来ます。そしてその栄養となるのが
エゴイズムです。

これらすべてが「愛」によって昇華され、「今」を受け入れる時
何かが絶対的に変わります。

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死別したからこそ、他人と仲良くし、人をいたわり
人に親切にすることで死別者自身が癒されていくと思います。

私に言わせるとただそれだけが唯一の癒しなのです。

ただ無理してはいけないし、心からそうしたいと思った時
それがその時だと思います。

それは死別者同士だけが仲良くなることとは違います。
何故なら私達はすべて源とひとつだからです。
それがワンネスとか二つにあらず(非二元)という事だと
思います。

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今ある現実、そのままの自分、そのままの家族や友人を
あるがままに「完璧なもの」として受け入れる時、癒し度は
一気に高まります。

特別な事ではなく、それはまず自分の親や周りの友人など
身近な人への愛や感謝の気持ちから始まるでしょう。

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そして何よりまず自分を癒さなくてはなりません。
そこから変えていくときっと光の出口が見つかると私は
強く信じています。

自分の好きな事を思い切りやって楽しみます。
旅行、友人と会う事、勉強、ペット、美味しいもの。。。
いっぱいあると思います。

ただ何かの行動によって自分が変わろうとしないで下さい。
あなたはそのままでいいんです。

期待と変わろうとする衝動はいつも人間を不幸にします。

「このワークショップへ行けば変われるだろう」
「今の状態から抜け出なくては」
「浄化してエゴをとらなくては」などなど。。。

どこへあなたが行こうと、何をしようと、それはすべて
神の「恩寵」によるものであなたの意志ではないのです。

すべてが見えて来た時それが真実であることがわかります。

そしてまた、究極の手段として私は想念から一切の過去と未来を
たとえ一瞬でも手放し、そこに何があるか見てみました。

そこには自分の悲しみを見つめているある冷静な「意識」だけ
がありました。それは「自分」ではありません。

それはあの坂道で私に命の躍動を見せてくれた
あの「何か」と同じ物です。

それは永遠にあり、生まれることも死ぬこともありません。

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その「意識」は亡くなった人は天の絶妙なタイミングと
慈悲によって肉体を脱いだのだ、という事実を
段々にわからせてくれました。

私と亡き人が人生で過ごした幸せな時間も辛い時間も
すべて「源」からの贈り物でした。
それは一瞬一瞬違う色に光り輝く宝石でした。

一瞬先に何が起こるか正確にわかる人はいません。
それほど人生は驚きに満ちています。
特別な事を何もしなくても。。。

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これはあくまでも私のやり方で人にどうこう言うつもりは
全くありません。

ただ自分の苦しみがどうして減ったのかつくづく考えて見ますと
今この瞬間に与えられたことをとことん「受け入れ」、「集中」
することが一番の近道だったとつくづくわかりました。

目の前の自分に用意されたいつもの現在の仕事を淡々と
心をこめてすることでした。

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それを素晴らしいプレゼントとして楽しみ、日々味わい、
行う事でも苦しみから抜け出せることがわかったのです。

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それは生そのものを思い切り味わう事でもあります。
何故なら私達はすべてを味わうために生まれたからです。
悲しみさえも。。。

生の躍動は至る所にあります。すぐ近くにあるんです。
朝日の輝き、一杯のお茶、猫のひげ、工事の騒音、長雨、
夕方顔を流れる涙、いじわるな同僚など。。。すべてすべて
恩寵による生そのものです。

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あの坂道での一瞥以来、私はすべてのものを見る自分の目が
驚くほど変化していることに気づきました。

そして自分のこれまでとさほど変わらない日常の中で
一瞬一瞬を味わい、喜び、あるいは悲しみながら生きる。。。
それが嬉しくて幸せです。

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そのまま、ありのままを否定することでどれだけ多くの人達が
無駄な苦しみをしているかを私は見てきました。

そしてそれは多くの場合「批判」から始まります。
「これはまずい」「あの人はこうあるべきだ」などなど。。。
それはとりもなおさず現実を、今を否定することです。

自分も含めたすべての人やモノをジャッジせず、ありのままに
見る時、人はこの上なく自由になります。

そこに恐怖はなく、ただ受け入れることしか無くなります。

悲しみに対処するには一つの方法しかありません。
どこへ行っても、今と違う何かをしても消えません。

悲しみを消すには悲しみの中に入るしかないと思います。

もし悲しみが襲ってきたら自分の悲しみをじっくり
見つめます。悲しみが何でできているか良く分析するんです。

そこには必ず「自分」がいます。
すべてが「私は」「私が」で始まります。
それに次々と気づいていきます。

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「自分」と言えば、かつて私はエゴを消そうと必死に
なったことがありました。でもエゴは消えません。

またエゴを攻撃する必要は無いと思います。

というよりエゴを消そうとする努力そのものが
強いエゴを呼んでしまうこともあります。

「私は浄化されてるけどあなたは違う」という
恐ろしい考えになりかねないからです。

自分が「良い人」と思われたい、という願望や
「エゴの無い自分」という幻想を捨てることで
かえってエゴを超越できるのだと思います。

自分のエゴを知る事によって他人のエゴを知り
自分自身や人の「本当の姿」をエゴから切り離して
考えることができるようになりました。

もし悲しみの発作に襲われたらとことんそれに
集中します。泣きたければとことん泣きます。すると
悲しみを味わい尽くしていくうちに悲しみは消えます。

そして気が済んだら現在、この瞬間に戻ります。

それは尻尾を踏まれた猫が「ギャ〜」とわめき、
次の瞬間何事もなかったようにじゃれて遊ぶのと
全く同じです。

そしてすべてを大いなる力にゆだねます。
そこに「自分」はいません。
すべて「起こる事」を楽しむ「意識」だけがあります。

猫は常に今しかありません。
何故なら今はいつもそのままで完璧だと知っているからです。

すべてをあるがままにゆだねてのんびり生きています。

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「今、この瞬間」に苦しみや悲しみはどこにもありません。

それは私がかつて見つけたのに失くしてしまい、またやっと
見つけた事でした。そしてそれは前より更に輝いていました。

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そうは言っても人間は常にこの瞬間にいるわけでもなく、
悲しみの発作が起こることがあります。
意思とは関係なく突然起こります。

これからも私は悲しみ、泣くこともあるでしょう。
けれどもそれは「解放された」涙です。

悲しみはあります。当分続くでしょう。あるいは一生かも
知れません。悲しみを消そうとは私は思いません。

けれども「苦しみ」は今終わります。

そこにはえぐられる痛みも、人への恨みも何もありません。

すべての行いが「自分」というものからなされない時
そこには純粋な悲しみだけがのこります。

すべてが一つであの世もこの世も無いのだとわかります。

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それがアドバイタでいえば「源」にゆだねる、という事ですし
禅で言う「柳は緑、花は紅」なのでしょう。
キリスト教で言われる「御心のままに生きる」という事でもあります。


それはあなたも限りなく進化させていくでしょう。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

長い間「猫と石蹴りとリリアンと」をお読みいただき
ありがとうございました。
この記事をもちましてこのブログを終わらせていただきます。

本当は三回忌をめどに終わらせるつもりでしたが。。。
読んで下さる方のおかげでここまで続いて参りました。心から
感謝に耐えません。

調子にのって最後の記事は4まで書いてしまいました。

たくさん載せました写真はお墓を作る時に行った
主人の故郷のものです。「癒しの旅」という記事に
使うつもりでいましたが、ついに記事にはなりませんでした。

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「この世は愛と喜びに満ちている」ということを実感した旅
でした。どうか写真だけでもお楽しみ下さい。

私はただ自分が夫の死別と言う出来事によって経験した事を
書きました。すべて事実です。

江戸川べりで転げまわって遊んでいた少女のまま年を取った
自分が、ペットロスという状態になった時に始めた
お気楽ブログでした。

それが。。。自分の命より大切と思っていた夫というもの
を亡くしてブログもすっかり様変わりしてしまいました。

ブログの後半ではいかに死別後の自分が変化をし、苦しみ、
勉強し、癒しに至ったのかがすべて書かれています。

ブログの前半で知り合った方はさぞとまどわれたことと思います。
けれども尚私は自分の経験をウソ偽りなく書きたかったのです。

個人的なものですので、皆様には何の参考にもならないかも知れません。

ひっそりと書いていきたいと思ったのでブログ村の「死別ブログ」
も途中で抜けました。それでも沢山の方が毎日「ブックマーク」から
来て下さっているのを見て驚愕しました。

コメントを下さった勇気ある方々(笑)本当にありがとうございました。

私はただ「真実」とは何であるかをひたすら知りたいと思いました。

でも今ついに見つけたと思っています。でもまだ「確信」ではありません。
これからも恐らく私は変化していくと思います。

私の記事を楽しみにして下さった方々には大変申し訳ありませんが、
これ以上書いても繰り返しになるだけですのでここで一区切り
しようと思いました。

いずれ新しい境地に達した時にブログは削除させていただくかも
しれませんが、今はこのままそっとしておきます。

ただ、精神世界の勉強はこれからも続けていくつもりでおります。
そしてエネルギーがあれば新しいブログを作るかも知れません。
今はまだ未定ですが。。。

その時もきっとひっそりと書いていくと思います。ご縁がありましたら
またお目にかかるのを楽しみにしております。それでは。。。
さようなら。。。
そしてどうか、お元気でいてください。。。。。

今まで私を励まし、共に悲しみ歩んで下さった読者の皆さま、
素晴らしい友人達と家族に心から感謝を捧げます。

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おとめより

後記:この記事を書いてからだいぶたった後、8月に母親も天に
   召されました。
   そして紆余曲折の末、私は東京から地方へ引っ越すことに
   なりました。すべて、すべて導きによるものでした。
   皆さまありがとうございました。










posted by おとめ at 12:48 | Comment(17) | TrackBack(0) | アドバイタ

悟りなんていらない

*以下の記事はスピリチュアリズムとあるがままの間で
悩み苦しんでいた頃に書いたものでまだ混乱があり
多少加筆、訂正を加えています。


「本当の私は未来も過去もありません。一なるものは
永遠です。」(ダグラス・ハーディング)

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私がこの世に生まれて一番古い記憶は
朝目を覚まして横になったまま朝日に輝く「塵」をうっとり
眺めている自分です。

窓から差し込む光線の中に何億という塵がうごめいていました。

ただ不思議で驚きで見ていて、その時の驚きは
今でも鮮明に覚えています。

それは「塵」が「ゴミ」という「知識」をもたない私が
見ていたものでした。
それこそが「神」と繋がった「意識」であるとも
気づかずに。。。

幼い頃、私は亡くなった祖父や神様とずっと心の中で
話をするようになりました。

けれども思春期になってから、そんな事はすべて忘れて
しまいました。

他に楽しいことが沢山あったからです。

修行をしていたわけでもないし瞑想していたことも
ありませんでした。ただ成人式の前後に「禅」というものに
興味を持ち始めました。

けれども結婚して生活に追われると、そんな事よりまず
食べて行くことが先決でした

それがはるかな年月を経てまた同じように私にやってきました。
夫の死をきっかけに、さまざまな事を知りたいと思いました。
アドバイタ(非二元)やスピリチュアリズムに惹かれたのも
そのせいでした。

夫が亡くなって一年以上が経ったとき、ある体験をしました。
その時の私の見ているものは、あの幼い私が見ていた
「塵」と全く同じだったのです。

すべてがこのままで良かったんだ、という感覚。

何も変わらなくていい。すべてが「愛」そのものでした。
強い喜びが湧いてきてその気分はその後数日続きました。

それは霊媒さんから亡くなった人のメッセージを聞くより
もっと現実的で信頼できるものでした。

それ以来一滴の涙も出ない日が続きました。

さらに先にご紹介したラメッシの本の翻訳者である
高木悠鼓さん自身の著作の中でもっと詳しい道筋を
いただくことができました。

それについては長くなってしまうのですべてをご紹介
することができず残念です。

それは人間の魂の進化についてであり、「三段階」に
別れています。(「人をめぐる冒険」高木悠鼓著)

人がある段階にいて、それが苦痛になると
それは次の段階への導きであるそうです。その時に
「抵抗しないように」と高木さんは書いています。

私がいたのはその第二段階と第三段階のはざまだったのです。
それであれほど悩んでいたのでした。

高木さんの分類では第一段階は「動物意識」でこの意識で
生きている人間はたくさんいるそうです。

「動物意識」その特徴は:
☆死んだらすべてが終わりである。私は肉体である。
☆私は他者と競争する。
☆人にどう思われるかを気にする。
☆社会的地位を重視し、自分の味方をほしがる。
☆人と群れたり、団体に所属したがる
☆物質(お金)を重視する
などです。
(もっとたくさんありますが全部ここでは書けません)

第二段階は「人間意識」で、その特徴は:
☆私は肉体の中にいる
☆私は自分の意志を使える。責任がある。
☆私は他者と違うユニークな存在
☆輪廻転生があると信じる
☆現実は自分の思い通りになる。ポジティブ。
☆エネルギーを重視する
などなど。

そして第三段階は「神意識の段階」で:
☆私の中に肉体がある
☆神の意志だけがある。責任は無い。
☆すべての存在は一つの中にある
☆輪廻転生する存在はどこにもない
☆すべてあるがままで完璧である
☆覚醒を重視する
などなどです。

人はこの三つの段階を行ったり来たりして成長します。
ほとんどの人間は動物と人間と神の間をウロウロし、
それぞれの段階にいる人は、他の段階と反発
し合います。


第二段階にずっぽりはまっていた私が、突然
第三段階を覗き見て仰天し、苦しんだのも当然のこと
だったのです。。。。

つまり非二元が目指すものはスピリチュアリズムより
さらに上の領域だったのです。(上が優れているという
意味ではありません)

私はそうとは知らず非二元の世界と霊界を混同し
悩んでいたのでした。

けれどもスピリチュアリズムでいう「霊界」は
現実が幻であると同様に幻想でもあります。

それは人間の想念が作ったものです。

それでも尚人間がこの世を現実であると信じるように
あの世を信じる人間もいることでしょう。

私はアドバイタが好きですが、「悟り」には何の興味も
ありませんでした。

たとえ悟って至高の極みに入り、二度と
この世に生まれ変わる必要がなくなるとしても、
私には悟りより夫への愛が大事だったのです。

あと100回生まれ変わって人生を生き苦しむとしても
夫と共に苦しみたいのです。「悟り」なんかいりません。

死んだら喜んで夫のいる領域へ行き、そこで生きるでしょう。
夫が生まれ変わるなら私も一緒にそうするでしょう。

一枚のカーペットが「源」だとすれば、6億もの人間は
その模様のようなものであり、実体はなく、一つの源に
動かされているだけである、と非二元は言います。

それならば、人生やあの世がたとえ幻想であっても
私はカーペットの織地の二本の糸のように夫とよりそい
模様を作ってきたのだ、と夢見ていたかったのです。

たとえ人生や個人というものが非二元や禅にとってただの
「幻想」であっても。

私は嘆きの中でずっとそう思っていました。

私は「あの世」や「霊魂」や「霊界とのコンタクト」から
離れられないでいました。

それがさらに自分を苦しめる「執着」であるとも知らずに。
。。。。。

。。。。。


posted by おとめ at 12:02 | アドバイタ

2016年05月09日

自分は肉体なのか

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*以下の記事はまだ過渡期に書いたものなので
混乱が見られます。多少削除してありますので
ご承知おきください。


桜と共に散っていった夫も
おかげ様で先月無事に三回忌を終えました。

実は。。。三回忌の前と後で私は一生忘れられない経験をしました。
それは春の嵐のような一連の不思議な体験でした。

その体験はこれまで経験したことの無い悲しみと苦しみ
から始まりました。

命日が近づくにつれて「時間薬」どころか苦しみは
ますます大きくなっていました。
私はとことん絶望しました。

一時は落ち着いたように見えた苦しみがまだそこに
あったからです。

スピリチュアリズムを知り、ミディアムシップを受け、
魂の存在を確信した筈なのに。。。

私は霊界通信に疑問を抱き始めました。そのためか
悲しみはますます膨れ上がっていきました。

その苦しみが限界に達してもうこれ以上は耐えられない!と
思った時、複数の「出来事」が連続して起こりました。

まさに何かの「力」によって起こったとしか思えない
出来事だったのです。

そして、その出来事の嵐が過ぎ去った時、私はひどかった
苦しみが和らいできたのに気づきました。

それは不思議な感覚です。
長い間の夢から覚めたような
何かを脱ぎ捨て、自由になったような。。。

その短い嵐の体験のあいだに私はとても変わりました。

人と話をしている時、私はごく普通です。
友達と楽しく普通に会話します。ジョークも言います。
だから人は私の奥深くのその変化に全く気づかないでしょう。

けれどもかつての「私」そのものは激変しました。
その衝撃的な体験の後に。。。
いえ、それは実は前からある本当の私で、それに
気づかなかったのが偽りの私だったとも言えます。

うまく書くことができなくて申し訳ありません。
まだ内側に混乱があって考えはまとまっていないんです。

悲しみはまだ残っています。
でも今の私はそれと戦わず、安らかに日々をおくっています。
その方法は「肉体」=自分という考えを捨てること
それが初めの一歩でした。

そのことについてこれから書いていこうと思います。

それが今悲しみ、苦しみのさなかにいる人達に何らかの
参考になりそうなことや、お手伝いができるのかは
わかりません。

ただ書いておかなければという感覚だけが起こっています。

これから書くことは「人は肉体だけの存在ではない」
という事がわかっている人へのものです。

そう思えない人は多分不快感を感じるでしょうし、
そういう人はそれはまたそれでとても幸せな事です。
どうぞそのままでいて下さい。

そして私の書くことに決して惑わされないで下さい。

夢は見ている間が一番いいのかも知れません。

ところで、「人間は体だけの存在では無い」という事は
本当は現在では科学者が言っていることです。

それは誰でもちょっとびっくりすることでしょうね。

昔から禅の坊さんが言ってきたことと、今
量子物理学者が言っていることは全く同じです。

それはつまり「空」「からっぽ」ということです。

人間や物質の細胞の最小単位を突き詰めていくと
それは粒子というものになります。
粒子には実は実体が無いのです。
そこには物体では無くエネルギーがあるだけです。

そして粒子は感情をもっているかのようなふるまいをします。
その事が最近まで科学者の冷静なマインドを
混乱させ続けてきました。

顕微鏡はウソをつきません。

体も家具もモノも全部そうです。固い物体ではありません。
そう見えるだけで実体はないのです。

そして何がすごいかと言うと、その事をすでに何千年も前に
お釈迦さまは言っていたということなんです。

けれどどんなにお釈迦様がこの世のすべては幻想だ、
と言っても、私たちの愛する家族は幻想なんかじゃない、
幻想であってたまるか、と私は思いました。

アメリカの脳外科医であるエベン・アレグザンダーは
自分の臨死体験によって、意識と脳は別物である、
という結論を出しました。ベテランの「脳外科医」が「脳」について
言っていることを私は信じます。

ケンブリッジの数学者、ロジャー・ペンローズは
意識とは極小の粒子であり、それが生きている間は
脳に収まっているけれども、死の時にはそれが
脳から出て拡散して宇宙にあり続けると言っています。

こうした科学者による結論は何を意味するのでしょうか。

私はオカルト的なことを書こうとしているのではありません。
ただの真実を書きたいだけです。
全国の大槻教授はどうぞ目を覚まして下さい。

「確率」という事についてインドの霊的指導者である
ラメッシ・バルセカールは、アメリカのある科学者が調べた
確率の神秘について面白いことを書いています。

それによると一日に犬が人を噛む割合が5年にわたる調査で
ほぼ同数だという事がわかりました。

ここには驚くべき秘密があります。

「犬はどうやって毎年人を噛む回数を決めたのか?」
という事です。

さらにドイツの軍隊で兵隊が馬に蹴られて亡くなる件数や
英国で起きる100万人あたりの殺人件数についても
同様の結果でした。

「どうやって英国の殺人者たちは100万人につき
4人でやめるようになっているのでしょうか」
馬はどうやって兵士が一定の数だけ死ぬように蹴るのでしょう?

そこにはある神秘の力が働いているからであり、
それについは私達ははかり知ることはできない、
とラメッシは書いています。

そしてこの「力」の前では誰もが無力であり、
誰もが愛され、誰もがこの世に存在させられているのです。

そこには善も悪もなく、否応なしに安全性は吹っ飛びます。
汗水流して向かう目標も、絶対手に入ると思っていた幸せも
予想とは違っていた事にある日気がつきます。

かけがえのない夫を亡くしたあなた、最愛の奥さんを
亡くしたあなたはとっくにその事をご存知ですね。
それなのに私達はまだ懲りずに「将来」の夢が叶うために
必死の努力を続けます。

私たちには一分後に何が起こるかさえ
正確にはわからないのに。

そして、さらに言うなら一瞬一瞬全く同じ瞬間はありません。

私はその事を今朝コーヒーを飲んでいる時気づきました。
その味は今日の味であり、昨日の味とは違います。

たしなむ方はお酒の味も煙草の味もその時々で変わることは
とっくにご存知でしょう。

レストランのシェフの料理もそうです。
すべてその時にかかわる人体の状態も影響するでしょう。

では工場で作られるクッキーはどうでしょうか?
機械が作っているから同一でしょうか。

いいえ、それさえも変化します。何故なら、ある時期にとれた
小麦、一個一個の玉子、塩、砂糖。。。そんなものすべてが
一瞬一瞬変化する宇宙エネルギーの影響を受けるからです。

電力さえも。。。その場の空気さえも。。。

私達は絶え間のない変化の中に息をしています。
一瞬一瞬が二度と来ない瞬間なのです。

その瞬間を「操作」しているのは誰でしょうか?
確率を操作しているのは?
一瞬一瞬を好きに変化させているのは?
粒子を作ったのは?

私たちの指紋は二つと同じ物はありません。
イエスは「あなた方の髪の毛一本一本が
数えられている」と言いました。

一体誰なんでしょう。それをしているのは。
それは人間的な「個人」では無いことは確かです。

宗教が作り上げてきたイメージの中にある、「神様」
や「天の父」とも違うような気がします。

一瞬先の事を私達は決められません。
明日の事はわかりません。

ならば私達はどうして頑張るのでしょうか。
なるようにしかならないものである以上
どうしてそれに抵抗するのでしょうか。

私達は精一杯頑張りました。苦しみ抜きました。
人に言えないほどの辛い日々をおくりました。
あなたの果てしない苦しみを私は知っています。
あなたは十分頑張ったのです。よく耐えました。
毎日寝ませんでした。祈りました。

自分の命はいりませんでした。愛する人のためなら。
そして。。。愛する人は死にました。

そこに意味があるとすれば何なのか?
それを必死で私は追い求めました。

蚊が殺されるように私たちの伴侶は、パートナーは
殺された筈はありません。

そしてとうとう私はその「意味」を見つけました。
もし意味と言うようなものが人生にあるとすれば。

それはすごく簡単な事でした。いつも一緒にあるもの
見過ごしてしまうものでした。

それは宗教ではありません、思いでもありません、
教えられたことでもありません。

ただただ「実感」したことです。
そしてそれをこれから書いていこうと思います。

でも正確に伝えることはすごく難しいです。

一時は削除しようと思っていたブログですが、
今書きたいという衝動が起こっています。

ただ今は食べるために必死で働いているので
時間があまりありません。
でもそれは私の悩むことではなくすべてあるがままです。
ただ書きたい衝動のままに書かせていただきます。

たとえそれがほとんどの人には理解が不可能であっても
一人でも理解してくださる方の為に書きます。

そして私は今その衝動がどこから来るのかはわかりません。

。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m




posted by おとめ at 22:50 | Comment(3) | TrackBack(0) | アドバイタ