2017年05月08日

生きながら死人となりて

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「生きながら死人となりてなりはてて

思いのままにするわざぞよき」

志道無難禅師 「即心記」


この言葉がしみじみわかる方は多分、

私と同じように一度は苦しみを究極まで味わい

そして今、限りない平安の中にいるのだと思う。


私の場合は死別によって一度自分も死んだ。

それは七転八倒の地獄の苦しみだった。


そのおかげ、と言ってはおかしいが、まさに

その悲しみのさ中に不思議な事が起こった。


それは、今まで自分が大切にしていたもの、

価値があると思っていたもの、好きな家具や

お金や、希望や、仕事への意欲やそのほか

ありとあらゆるこの世で自分を支えていたもの

そうしたものに一切の執着が無くなったのだ。


それが「生きながら死人となりてなりはてて」

の意味だろうと思う。死人(しびと)になるとは

この世との自分にかかわりのある一切を捨て去ること。


実際肉体的に「死ぬ」ということもそういうことだ。

愛する家族、ペット、好きだった数々の品、

そうしたものと完全に決別することだ。

クリシュナムルティも全く同じことを言っており、

一度すべてを手放してみると人は全く新しい

素晴らしい見地が開かれると言っている。


そして私に起こった事はその言葉の通りだった。

その時自分に死というものへの恐怖が全く無くなり

どういうわけか深い悲しみの中にいるにもかかわらず

今まで自分を悩ませていたあらゆる諸問題に対して

心が限りなく自由になったのだった。


今までのように執着しなくなった、と言っても

一切合切、家具から猫から全部をゴミ捨て場に

出したわけではもちろんない。それはできない。

あくまでも「心理的に」捨てた、ということだった。


ペットを愛していないわけではないし、すべてが

嫌いになったわけではなく、ただ「執着」しなくなったのだ。

それはもちろん、ある種の一時的な悟りに過ぎなかった。


それ以降また「迷い」や「自己憐憫」の気持ちが起き

紆余曲折あったし、物欲もお金に対する執着も

次第に戻ってくるようになった。


それでも今は死別以前よりは心は平安で、何が起きても

そのまま柔らかく受け止められるようになった。

その結果、苦しみや不安はほとんど無い。


けれども時々あの死別直後の、何物にも代えがたい

あの果てしなく自由な気分、悲しみの絶頂の中にも

一切の恐怖が消えたあの瞬間を懐かしく思う。


すべてを捨て去った後、生まれ変わったようになって

ただただあるがままに生きて行くその空の感覚。

それは「やけくそ」のような刹那感とは違う。

それは「死別者の悟り」だった。


執着が無い所に「恐怖」は無く、したがって一切の葛藤

と呼ばれるものは無くなるだろう。

けれどもそれは断捨離のように、無駄なものを捨てて

シンプルな暮らしをしなさい、ということではない。


それはただの物質的な見かけに過ぎない。

「私って物欲がないのよ。ほら、見て」と言っている

ただの自我の表現に過ぎず、ファッションだと思う。


今死別の苦しみの耐えがたさの中にいる人に

これだけは言いたい。

あなたの感じているその悲しみこそがあなたを救い

「真実」を教えてくれる神の愛なのだと。


そうして、何もやる気がおきず、食べられず、

やせ衰えて、夜は全く眠れず、泣いて目を覚まし、

残された家族の事も考える余裕さえも無い時

その一切の欲望から自由なその状態にとどまって

そしてただただ思う存分悲しんでほしい。

実際それしかできない筈だ。


「泣いたら亡くなった人が悲しみますよ」だの

「気晴らしに温泉でも行きましょうよ」などの

殊勝な世間の言葉に煩わされないでほしい。

そういったことはただ苦しみを長引かせるだけだ。


グリーフケアなどへ行きたければ行ってもいいだろう。

あなたが心から行きたいと思うなら。けれども

良い結果を期待したらがっかりする筈だ。


誰も、どんな手段もあなたの悲しみを癒すことはできない。

あなたを癒すのはあなたの悲しみそのものなのだ。


思う存分悲しんでその悲しみと一体となり

これ以上悲しめない所まで悲しんだ時。。。


それが何か月だろうと何年だろうとかまわない。

神様は悲しみに期限など設けてはいない。

「もうそろそろいい加減にしたら」、などという

残酷な言葉は神様は持っていらっしゃらない。


その間、その悲しみを見つめ、味わうあなたは

ヘタな生臭坊主より修行をしているのだ。


あなたが行きつく所まで行った時、灰の中から

不死鳥が生まれるように新しいエネルギーが

きっときっといつか生まれてくる。

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いつもアクセス感謝です。

本当の事、これからも書いていきます。




posted by おとめ at 19:07 | Comment(0) | TrackBack(0) |

2017年04月29日

死にはせぬ。。。禅とスピリチュアリズムのはざまで

若い頃から禅には興味があった。

あの参禅の時のカッコ良さにひかれて

修行したい!なんて思っていた。

でも根性なしだったからついぞ

寺を訪れたこともなかった。


ただ禅に関する本は昔ずいぶん読んだ。

禅的な生き方をしている作家のものも読んだ。

ほとんど忘れてしまったが。


その結果中途半端な状態になって

よけいに悩み苦しむことになった。


たとえば「将来に何の希望ももたないこと」は

本来限りない「空」の自由さを表しているのだが

それを「何の希望もない=虚無」と

取り違えてしまったのだ。


これを禅的な言葉で「悪手空」という。


けれども何がしかの影響はあったのだろう。

偏見や差別の感覚を捨てること

人の目があまり気にならないこと

などが身に染みついたようだ。


社会に出てからは、それこそ紆余曲折があって

どういうわけかまた禅に帰ってきた。

19才で最初に禅に触れてから実に

半世紀近くが経ってしまった。


死別の悲しみの中で一休禅師の言葉が響いた。

「死にはせぬ、どこにも行かぬ、ここにおる。

たずねはするな返事はできぬぞ」


これは霊界探しにウロウロしていた

私の残り少ない脳みその正気の部分を

「喝!」と叩き起こした。

これが唯一の真実なのだ、と。


一休の言葉は「ここまではぎりぎりの

正真正銘の事実だよ」と言っているのだ。


それ以降はどうしてもおぼろげで、

茫洋としていて、そばに居る気配はするが

死んでない私達には証拠がつかみようがないのだ。


しかし一休の有名なこの言葉は誤解を招きやすい。

それは決して亡くなった人が守護霊のように

あなたのそばにいるという意味ではない。


そういう風に解釈した人がいたとしても

それはそれで慰めにはなることだろうが。。。

「空」をかいま見ない限り真の意味は謎だろう。


私は真実だけを知りたかった。

ちゃんと体験した事だけを大事にしたかった。


そんな折、見性と呼ばれる状態を何度か経験した。

その時からすべてが180度ひっくり返ってしまった。


それは当たり前の事だったのに、目の前にあるのに

今まで全く見えないものだった。

それが見えないので苦しんでいたのだった。

自分は世界の中の一粒に過ぎないと思っていた。

すべてが逆さまだったのだ。


そしてあれこれさまよい、悲しみの中でも

「空」というものがどういうものか

だんだんにわかってきたのだった。


それは全く現実に起こっていることだった。

私の心は限りなく平安になった。


ただこの「空」の世界の恩恵を受けながらも

私には「魂の存在」というものをどうしても

捨て去ることはできない。


それは「禅」を「仏教」としてみなせば

あきらかにスピリチュアリズムとは矛盾が出てくる。

それでどれほど苦しんだことだろう。

どこかで接点が見いだせればいいのだけれど。


今はスピリチュアリズムの勉強から離れ

素晴らしい先生や友達ともお別れしてしまった。

ただこの状況をそのまま受け止めて

成り行きを見守るしかないと思っている。


あくまでも導き次第なのだろう。あるがまま。

私はただただ真実が知りたい。。。


今の私はそんな問題もかかえながら

けれど禅というものに深く引かれている。

もちろん今更悟りなど求めてはいない。

私の場合、探求ではなく、あくまでも

「楽しく禅(空)の世界に遊びましょ」

ということなので。。。


血眼で修行なさっている方には

誠に不謹慎かもしれないけれど

この年で膝の骨はすり減っているし

座禅などとても出来る状態ではないので

何卒ごかんべんを。。。


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今日もお越しいただきありがとうございます。

それではご一緒に「喝!」






posted by おとめ at 19:13 | Comment(0) | TrackBack(0) |