2017年05月15日

飛び込む

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人生は悲哀、悲しみ、苦しみに満ちている。

幸せな瞬間はほんの少し、うちのスブタの肉みたいだ。(笑)


今幸せだと思っている人、お気楽に生きている人も

いずれは必ず「人生の悲哀」に出くわす。

そうでなければ、逆にそれは人生とは言えないのかも。


たとえばサラリーマンなら何十年も大して好きではない

ハードな仕事をし、周りに気を使い、肩書にこだわり、

履歴を気にし、嫌われないよう世間と同じことをし、

家と会社を往復し、忙しさで季節の移り変わりにも

全く気付かず、それでも家族を持ち、家族に金にモノに執着し、

常に現在に不満でより良い住まい、より良い状態を求め、

ついには病気になり、または愛する家族と死別し、自分も

あと数年の命となった時、自分がいかにからっぽで、

くだらない事に命を費やしてきたか、何一つ本当の事を知らずに

きたかを思い知って愕然とする。


少なくとも私はそうだった。人はそこになんとかして

意味をつけようとむなしい努力をするけれど、そこに

「希望」や「根性」や「道徳」「愛」などをくっつけて

むなしさを忘れようとするけれど、失敗する。


ある人は「神頼み」に行き、「宗教」や「オカルト」

などの世界に救いを求めるがどれも嘘偽りに満ちている。

どれだけ沢山の宗教や教義が人をだましてきたか。

そのためにお互いに殺し合って(今でも)きたか。


何故ならすべてが「自分」で成り立っているからだ。

「経験」「知識」「時間」の泥沼なのだ。


こう書くといかにも悲惨だけれど、初めからそう思って

そういうものだ、と理解していればいいのだと思う。


よくポジティブに生きようとか言うけれど、

そうではなく人生とは苦しみの連続であり

永久に続くものは何一つ無いのであり、

幸せな瞬間はほんの僅かということを悟れば

あるがまま「今」に生きる事を知るだろう。


さらに言えば色々な「苦しみ」に遭遇した時

そこから逃げるのではなく、すすんでそこへ

「飛び込んでいく」ことこそ生きるコツだと

私は思う。それは多分に禅的な生き方だけど。

そうすればもはやそこには苦しみは無くなる。


私は死別後ひたすら逃げていた。悲しみから

苦しみから、孤独から。。。ワークショップや

忙しい活動に逃げ、祈りに逃げ、瞑想に逃げ

自分に何かを教えてくれる物をひたすら求めた。


けれども今ではそんなことは何の解決にもならず

事態を悪くしてしまうだけだと気づいた。

幸いなことにOL時代イジメにあってから

私はある事を対人関係によってすでに学んでいた。


たとえば、私は自分の悪口を言ったりいじわるしたり

そんな可哀想な人に会うと嬉しくてたまらない。

何故ならそういう人たちは素晴らしい「先生」だから。

学ぶ絶好のチャンスがやってきたのだ。


そしてそんな人達をつくづく観察して見ると、

彼らは多くの苦しみをかかえていることに気づく。

すると彼らに対する憐みの心で一杯になるのだ。

それはいじめる人から逃げることでは無く

すすんで彼らの中へ飛び込んでいくことだ。

こうして私は私をいじめた人と友達になった。


そんなベースがあったから苦しみの中でも

クリシュナムルティを読んで共感し、禅をまた

勉強してみたりすることで、悲しみへの対処法も

次第に解決の糸口が見えてきたのだった。

「飛び込むこと」キーワードはそれだった。


対人関係はとても大事だとは思うけれど無理に

良い人ぶることは無い。嫌われないように良い人

を演じると必ずそこには「抑圧」という毒が溜まる。


人を憎たらしいと思ったら「コノヤロー」と心から

思えばいいのだ。もちろん面と向かって言ったり

殴ったりしないほうがベターだけど(笑)


そしてその感情を批判したり「怒るべきではない」

などと善人ぶらないことだ。するべきことはただ

その感情を味わい、その感情になりきり、その感情と

一つになる。私自身がその感情なのだから。


そして(ここが肝心なのだが)その怒りの感情の中に

何があるのかをひたすら見ていくのだ。そこからは

色んなものが出てくるに違いない。それをただ見つめる。


すると誠に不思議な事にその感情はいつの間にか

消えてしまうのに気づいたのだ。私の外側のどこかに

「怒り」という物体があるわけではないので、それを

消そうとしても無駄だということなのだ。


それなのに「反省」したり「私って怒りっぽいな」

と落ち込んだり、その怒りをしずめようとあれこれ

色んな事をしたり、そうなるといつまでもその感情を

引きずって苦しむことになってしまう。


「苦しみ」を「悲しみ」に変えても同じことが言える。

更に「孤独」を感じたらすすんでその「孤独」に

なりきる。孤独をとことん味わう。すべて同じだ。


多分ほとんどの人はそれが怖いために逃避しようとする。

映画を見たり、お酒を飲んだり、忙しい活動に

身を置いたり、大して面白くも無いTVを見たり

その他ありとあらゆることをして、「苦しみ」や

「悲しみ」や「孤独」などから逃げようとする。


人は孤独を恐れる。一人でいることができない。

必ず群れる、はじき出されることを恐れ媚びる。

そこには何の自由もない。むしろ絶対に一人で

いようと思ってもなかなかできはしない。


で、逃げ切れただろうか?ドライブやギャンブル

そのほか色々なことで問題は解決しただろうか?

全く解決していないはずだ。何故なら「あるがまま」

そこに留まる事を決してしないからだ。


けれど一人ある時、その状態をあるがままに味わい

変えようともせず、動かず、ただある時、もはや

そこに「孤独」と呼ばれるものは無くなってしまう。

そこには素晴らしい「自由」しかない。


自分を今よりマシな状態にしよう、と反省するのも

また自己中心的な考え方となってしまう。

そう、人は素晴らしい自分、浄化された自分、

人より数倍マシな生き方のできる自分、などが

欲しくてたまらない。。。それはすべて苦しみを

確実に自分の所へ運んでくるだろう。


なにも変えようとせず、ひたすらそこにとどまり、

そこにある感情を静かに見つめていく。

すると驚くべきものが次々に現れてくるのだ。

でも決してそれを批判はしない。反省もしない。

ただただそこにある真実を観察する。


何も欲しがらず、求めず、ただあるがままにいる時

私は「存在」と共にあり、そこには平和だけがある。

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今日はちょっと長いですね。

もっと短くしようと思うんだけどなかなか。







posted by おとめ at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 苦しみについて

2017年04月17日

なたね梅雨


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今。。。よけいな苦しみを作るのは自分

それが分かった時苦しみはない。

ちゃんと見た時、感じた時。


たとえば雨が降っている。。。気がめいる。

それだけで自分が不幸の塊のような気分になる。

それは雨が降るという現実をそのままに

受けとめていないからなんだよね。


雨が降っているそのことが

過去に見た映画や、過去の思い出と重なり

今降っている雨とは別物にしてしまっている。


それをやっている犯人は誰だ?

それは「心」⇒「思考」⇒「自分」←「記憶」←「知識」


あらゆる思考がない時

本当の雨の姿が見えるだろう。

本当の雨の音が聴けるだろう。


雨が降っている事自体に何の問題もない。

しとしと降る雨、雨、雨。。。。。


誰も雨をストップすることはできない。

雨、無数の水滴、冷たい、これはなに?

しとしと、しとしと、頬を濡らすもの

。。。。。。。。。。。。。。。。。。


幼い頃雨の日が大好きだった。

何故なら水たまりに虹があったから。


いつまでもいつまでも眺めていた。

私は水たまりの虹と一つだった。


大きくなってそれが車から漏れた

オイルかガソリンに過ぎないと誰かが言うまで。


あとからつけられた観念や思込みのせいで

私たちって人生を台無しにしてるかもよ。


だから何の先入観も無かった幼年期は幸せなんだ。

なにもかも、ジャッジせず、そのまま見ていた。


ここに大嫌いな人がいるとする。

あなたの頭痛の種だ。

その人の性格が変わって欲しい。

でも。。。

そんな事できるだろうか。

絶対にできはしない。ためしてみよう。


その人を変えようと思うから苦しみが生まれる。

その人はその人でほっておくしかない。


かといってそこで自分を変える必要も無い。

自分も人もそのままでいい。雨と同じこと。


限りなく大きなエネルギーに

すべては一つで一つしかない。


あなたはあなたの世界に

私は私の世界しか見えないけど

両方とも同じ命を生きている。


あなたであるものをどうして変えたりするのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


いつもアクセスありがとうございます。

読んで下さり感謝で一杯です


posted by おとめ at 17:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 苦しみについて

2015年11月23日

あなたがネガティブな感情を本当に経験すると
それは消えてしまいます。(ガンガジ)
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6人兄弟の長男でした。

いつも陽気で、弱いものや女性に優しく

ユーモアにあふれた夫でしたが。。。


意外にもガンが発症する数年前まで

夫は長い間仕事の疲れから「うつ病」

に苦しんでいました。


外国人でありながら一流企業の職を得て

その後独立して事務所をかまえ

順風満帆の人生を歩んでいた途中に

ふと足元をすくわれたのでした。


ずっと精神科の薬を飲んでいて

あらゆるカウンセリングを受けました。


働き者だった夫が一日の大半をべッドで

過ごすようになり、ほとんど誰にも

会いたがらなくなりました。


日本では「我慢」や「忍耐」あるいは

「外面(そとづら)」の良いことが

尊ばれます。中身より包装紙なのです。

そのためかうつ病の人は後を絶ちません。


「ホンネ」と「建前」は夫がいつまでも

受け入れられないことだったようです。


ほとんどすべての人が人目を気にします。

人と違っていることを恐れます。

何にでも一定の「形」があって

そこに自分をはめるよう努力し

人より遅れをとるまいとしています。

そのためイジメも多いです。

人に気軽に愚痴をいう事もできません。


「根性」だとか「頑張る」などの言葉が

常に飛び交っています。


こうした事はすべて精神的な疾患を

起こしやすい日本という国が持つ

特有の欠点です。


しかし夫が精神的な病気になったのは

日本の空気が合わなかったという事では

全くありません。夫は日本が好きでした。

でなければ半世紀近くもここにはいません。


またもちろん、この国には欠点を上回る長所も

一杯あるからです。それに夫は人間は

どこへ行っても同じだ、と言っていました。


夫はまじめで穏やかな性格でしたが、時々

激情にも似た絶望感に襲われていました。

それは成長過程で親から受けた影響

によるものも大きかったと思います。


親は常に長男の夫に「我慢」を強いました。

いつも妹や弟の世話をして、8歳の時から

親の仕事を手伝っていました。

当然他の子どもたちのようにのびのびと

遊ぶことを知りませんでした。

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末の妹たちと。。。


私は夫を治すべく、あらゆる心理学

の本をよみあさりました。

それで利益を得たのは私だけでした。


精神科の先生は機械的に無表情で

夫の話を「聴いて」くれました。

病院からの帰り道、ある日夫は

その主治医がウオークマンをつけて

音楽に没頭しているのを目撃しました。


毎日毎日人のグチをひたすら聴き

ストレスで一杯のもう一人の男性が

そこにいたのです。


夫は自分を治してくれる人はいない、

と絶望的になりました。

自殺願望が芽生え「死にたい」と

私に訴えるようになりました。


あの時点で夫が先立ってしまっても

私は決して驚かなかったでしょう。

それほど夫は苦しんでいました。

けれどもそれ以上の苦しみを私や

他の家族に与えることはしませんでした。


つまり夫は自殺という事が究極の

自分本位の行為であり、残されたものを

どれほど果てしない絶望に陥れることか、

エゴの最高の勝利かという事はぎりぎりの

どこかではっきりわかっていたと思います。


私も絶望的になっていきました。

必死に有能なカウンセラーを探しました。

あるアメリカ人カウンセラーに会った時

ある程度までは良くなりました。


しかし彼を本当に助けてくれたのは

医者でもカウンセラーのような専門家

でもありませんでした。ある「師」でした。


本当の師は目立たないものです。

本当の幸せと同じように本当の師は

あなたのそばにいつもいます。


真の師は自分を人にアピールしません。

自分は師である、なんて言いません。

勿体つけて教えを垂れることもありません。

神様に一番近い人が師です。


夫を立ち直らせたのは一体誰

だったと思いますか?


それはごくごく普通の人々だったのです。

夫は長年病院へ通っている間に

さまざまな患者達を目にしました。


ストレッチャーに乗せられた意識不明

の弱弱しい老人、車椅子に乗っても

ニコニコとほほ笑んでいる子供、盲人、

喋ることもできない人、やせ細って

すべてをあきらめた末期の患者。。。


そんな人々が夫の師であり、名医

になってくれたのです。


夫の中の善なる声が夫に教えました。

食べられる、見える、歩ける。。。


それが人間としてどれほど幸せなことかを。

自分がどんなにエゴに生きていたかを。

どんなに自分の事だけを考えていたかを。


そんな自分が、あのダウン症の子供のような

心からの笑顔さえ持っていない。


それが夫にわかった時、偶然にも

主治医が代わりました。

今度は若い、新しい教育を受けた先生で

非常に「傾聴」のできる方でした。


人の痛みを自分の痛みに感じられる人でした。

この幸運によって夫はあっという間に

ぐんぐん良くなっていきました。


強い薬はもう飲まなくなり、ただの

お守りになりました。


私達夫婦の暮らしに笑いが戻ってきました。

それが束の間であったとは言え、二人で

この困難を乗り越えた喜びを味わい

本当の幸せを実感できたのでした。


けれどもそれからほどなくして、運命は

夫に最後の卒業試験を与えました。


ついにガンが発症した後も夫はもはや

うつ状態に陥ることはありませんでした。

淡々と自分の運命を受け入れていました。


どんなに辛い状態でもあるがままでした。

いつもジョークを言っていました。

沢山の疲れた看護師さんを笑いで癒しました。


臨終の瞬間まで次の治療に期待しながら

息を引き取りました。


夫は人生最高の苦しみを途中で放り投げる

ことなく受け入れ、その中で必死に生き抜いて

力尽き、あちら側に渡っても私の事を心配し

自分がまだ存在しているというたくさんの

サインをくれました。


人の意識のエネルギーが永遠であることを

今でもずっと教えてくれています。


ただいること、毎瞬ここにあること

そして与えられたやるべき事をすること

それだけで価値があるのが人生です。


その他のどんなに大きく見える問題も

さまざまな苦しみも悲しみもすべて

あなたがただただこの世に存在すること、

それに代えられるものはありません。


問題が大きくても、耐えがたい苦しみ

があっても、ただ身をまかせれば

ずっと楽になります。受け入れず

逃れようとするから、その状態を

「最悪」とジャッジしてしまうから

苦しくてたまらなくなります。


ある苦しい経験をしている時にそれを

「不幸」とネーミングすればその苦しみは

実際の大きさよりも大きくなります。


「不幸」という名前を付ける前に

その経験を徹底的に経験すると

その苦しみは消えていきます。

驚くことにあなたはその苦しみの中でも

生を楽しむことさえできるのです。


実際、最後の数か月は必死だったものの

がんの5年間の闘病生活で私たちは

いつも何かのジョークで笑っていました。


今この瞬間に入ってきたものを

あるがままに経験すること

起きることはすべて起こるべくして起こること。


それを教えてくれた夫が私にとっては

この人生で最高の師なのかも知れません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もお読みいただきありがとうございます。
m(__)m

追記:P様コメントありがとうございます。
のちほどメールさせていただきますね♪







posted by おとめ at 16:34 | Comment(15) | TrackBack(0) | 苦しみについて

2015年10月30日

怪我とチョコレート

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幼児が公園でニコニコしながら走っています。

体全体が喜びに輝きながら。。。


けれども突然石につまづいて転んでしまいました。

その時あなたが心配そうに駆け寄って

「大丈夫?」「よしよし。。。」

と抱き寄せたならその幼児は「ギャ〜ッ」と

泣き叫ぶでしょう。


何故なら心配そうな顔のあなたが

あわてて駆け寄ったのを見た瞬間

幼児は何か起こってはならない嫌な出来事が

自分にあった、と判断し、それが苦痛へと

変わるからです。


その時幼児の幼い頭はフル回転し

「思考」によって今自分が経験した「転ぶ」

という事がネガティブな事だと識別します。


それによってケガが大したことがなくても

痛みは現実より数倍に感じるかもしれません。

これが「識別」による苦痛です。


「思い込み」や「識別」はすべて「思考」

によってもたらされます。思考は大事ですが

思考のみで生きていると、そこから

エゴが生まれ、苦しみが芽生えます。

成長するにしたがって、このマイナス思考は

無意識となって人間に組み込まれます。


けれども転んでもあなたが遠目で見守り

ニコニコして近づくなら、その子は

自分が何か面白いことをやってのけた、と

思いケラケラ楽しそうに笑うかも知れません。


実際はあるかも知れない痛みも、笑う事で

忘れてしまうかも知れません。


その時幼児は「転んだ」という事実を

良い事にも悪い事にも判断をしていません。

ただ転んだ、ということだけを知っているだけです。

その経験を味わっているだけです。


私の子守経験から言うと、大体どの幼児も

転んだ直後は一瞬「きょとん」とするものです。

その後で泣きわめくなり笑うなりします。


そのたった一瞬の「きょとん」の状態

これが現実を「あるがままに」受け入れる

極意なのだと私には思えます。


事が起こったとき、それを良いか悪いか

判断しないで、とりあえずそのまま経験し

あるがままに味わうこと、それだけが

人を現実の「よけいな」苦しみから救います。

少なくとも私はそれで救われています。


もちろんすぐに受け入れられない場合もあり、

その時は「いやだな〜」などのネガティブな

一種の感情が起こりますが、それが「思考」や

「自我」からだ、とわかっていると不思議に

気持ちは落ち着いてきます。この「気づいている」

ことが重要なのだと思います。


しかし世の中のほとんどの人は

ある「不幸な」事が起きたとき、

それによって起こる感情に、さらに

「思い込み」によって「無意識のうちに」

苦痛を何倍にも膨れ上がらせてしまいがちです。


そして、そこにたびたび関係するのは

「過去」や「未来」への思いなのです。


もしこの幼児がしたケガが血の出るような

なにか治療が必要なほどの状態だとしたら

ニコニコでは済まないかも知れないでしょう。

その場合はあなたが近寄るより先に

痛みのあまり泣きじゃくっているかも知れません。


このような深い傷の場合も

あなたはできるだけ気持ちを静めて集中し

傷をよく見定めなければなりません。

治療が必要ならしなければなりません。


その時あなたが母親なら、その子の傷が

自分の痛みとして感じられるでしょう。

幼児が泣くのなら好きなだけ泣くにまかせ

優しく見守っていましょう。


そうすればひとしきり、存分に泣いた後

幼児はやっと傷と向かい合えるでしょう。

そして向かい合った時に、辛い治療を

がんばったご褒美に幼児は何か

美味しいチョコレートのような

素敵なプレゼントを「いい子にしたね!」

と、もらえるかも知しれません。


これはただのたとえ話ですが、たとえば

死別などはその「深い傷」の部類に入ります。


人生は理不尽なことに満ち満ちています。

家族を災害や戦争でいっぺんに失う人もいます。

私には到底そんな人達の本当の気持ちは

計り知ることはできません。偉そうなことも

言う資格はありません。


けれどもただ一つ知ったこと、それは

「どうして私だけがこんな目に」という時

あなたは丸ごと自我の手中に入り、

元々の、ありのままの「苦しみ」に

さらなる分厚い苦しみの上塗りを

コテコテとするハメになるという事です。


そして過去の苦しみや未来への不安が

無意識のうちに追加されることで

一層苦しみは大きなものになるでしょう。


もしあなたの今の苦しみが「死別」のためなら

とりあえず「過去」や「未来」は放っておき

今のこの瞬間に集中して生きましょう。


過去を思い出してしまったら

「あ、今自我が作動を始めた」と思い

泣きたくなったら思い切り泣けばいいんです。


間違っても苦しみを紛らわすために

「誰か」や「何か」の力を借りようなんて

しないことです。何故ならば「あなた」

以外の誰も、何も、あなたの苦しみを

すっかり無くすなんて到底できないからです。


そしてそこから逃げようとすることで

かえって苦しみは増していきます。


そして更にいうと、「あなた」でさえ

その苦しみを消すことはできないのです。

苦しみを消すのは苦しみそのものです。

そしてそこには「ある存在」の力が働きます。


もちろん小さな助けやアドバイスは必要ですが

あなた自身が今の悲しみ、痛みがどこから

どうやって来るのかを思い切り直視すれば

悲しみはずっと残るかも知れませんが、

苦しみは減り、心は落ち着くかも知れません。


苦しみは最小限にしたいですね。


そしてチョコレートは頑張った人への

母親のような存在からのプレゼント

かも知れません。そしてこの母親のような存在は

誰の中にも永遠にいる存在かも知れません。。。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

m(_)m


posted by おとめ at 12:22 | Comment(7) | TrackBack(0) | 苦しみについて