2016年09月02日

死別の苦しみからの脱却 「苦しみは今終わる」


お知らせ:

今これを書くのは私の「良心」ですが、他に
何か計り知れないものが私を促しています。

母の没後、田舎で一人静かに暮らす中で大きな変化が
ありました。私はただあらゆる忙しい活動を
ストップしただけでした。

それが理由だったのかはわかりません。
けれどもついに「それ」に到達したようです。

それは素晴らしいものでしたが、考えていたような
神秘的なものでもなんでもなく、まるで故郷へ
帰ったような気分でした。

それはすぐここに、目の前にあるものでした。
全くなんでもないものでした。

それはあまりにも当たり前過ぎて、自分にとらわれて
いる限り見えないのです。

それを「悟り」とか「解脱」あるいは「空」などと
おこがましくよぶつもりはありませんが、
少なくとも私がこれまで書いてきたことに
間違いがなかった、ということにほっとしています。

更に幸いなことに私は尊敬できる禅の師を見つけました。

死別の悲しみ、苦しみにある人にこれだけは言えます。
どうかそのままあなたの悲しみにとどまってください。
踏ん張って下さい。

沢山涙を流して七転八倒して下さい。
それが近道なのです。

これが悲しみを消す何よりの方法だという事は
すでに書きました。

決してそこから逃れようとしたり、気をまぎらわせて
くれるものを探したりしないで下さい。

それはあなたを混乱させ、悲しみを深めるだけです。
何故ならそこにはより良くなりたいという
「自分」があるからです。

カウンセリングもワークショップもそのほかありとあらゆる
「手段」もあなたを癒すことはできません。

あなた自身でさえそれを癒すことはできません。
「自分」は決して自分を癒せません。

悲しみを癒すもの。。。それはあなたが今持っている
その「悲しみ」そのものなのです。

けれども何かにすがりたい、という気持ちは私も
そうでしたからよくわかります。

私も「何か」自分を癒してくれるものを求めて
あちこちさまよいました。

ミディアムシップも受けました。

お世話になった先生方には申し訳ありませんが
私の悲しみを癒したのは別の道でした。

そのため今まで書いた記事の一部を削除させていただき
アップ済の記事も書き直し、今の自分が真実と
確信している部分だけを残しました。

「死別の苦しみからの脱却」というタイトルですが
「脱却」してはいけなかったんです。

この世が現実であるならあの世も現実なのでしょう。
そこまで否定はしません。

けれども本当は両方ともすべてが幻なのです。

一なるものだけがあり、愛する人も自分もそこにいます。
誰も生まれないし、誰も死にません。

あなたと愛する人は今も1cmも離れていません。

すべてがつながっているんです。
このままでいいんです。

自分の苦しみから逃げず、じっと見つめそこに浸る時
あなたもきっと真実を見ることと思います。

あなたが悲しみにじっととどまり、苦しみが極限に達した時、
運が良ければ神が恩寵を下さるでしょう。

あなたにも「それ」が見えた時、どうか私に
連絡をして下さい。



(2/04記)
・・・・・・・・・・・・・・

皆さまから沢山のメールをいただきました。

心からお礼申し上げます。
今地方への引っ越し準備で大わらわ、あたふた、大パニック。。。
何でもいいですが、とにかくそんな状態でして。
落ち着きましたら必ずご返事させていただきますので
申し訳ありませんがもうしばらくお待ちください。
(9/14記)

*この記事をもちましてこのブログの更新を
終了させていただきます。
長い間ありがとうございました。

。。。。。。。。。。。。。


「私は眠り、私は座り、私は歩く
そして私は幸せだ」
(アシュターヴァクラ・ギーター/トマス・バイロン英訳より)

「日日是好日」
(碧巌録 第六則)

「起きるすべての事に意味がある。抵抗しないように。
ただ身をゆだねて楽しみなさい。」
(真我のことば)


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(写真は主人の故郷にて。猫のニーナ)


一瞥体験(見性)は私に次の真実を教えてくれました:

現実を拒否することで苦しみは生まれるという事。

この苦しみをなんとかしようともがくほど
泥沼にはまるということ。

これはあくまでも私の場合で他の人には全く
あてはまらないかも知れませんが、すべての苦しみは
「自分」が作ったことだったんです。

今ここにあるものを拒否し逃れようとすることは
かえって苦しみを大きくしてしまいます。

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よく私は夫の辛い闘病生活を思い出してはあれほど
苦しい目に遭った夫が可哀想で泣いていました。

けれども良く考えて見ると「今」夫の顔を思い浮かべて
見ればそれは全く苦しんでいません。

苦しんでいる顔が浮かんだのならそれは事実ではなく
私のマインドが作り上げた過去の思い出に過ぎません。

今、この瞬間に愛する人がどこかにいると仮定して
その顔を思い浮かべて見るんです。
これはとても強力な効果があります。

その人の顔は泣いているでしょうか。
いいえ、心の底から楽しそうで、幸せそうです。

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私は悲しみがこみあげてひとしきり泣いたあと
これをやっています。するとなんだかラクになれます。

亡き人の「現在」を真に見つめてみれば、悲しみは
ありません。もしあるとすれば、その人の不在を嘆く
「我」があるだけです。

夫は「今」苦しんでいません。毎朝の辛い吐き気も
腹水もありません。入院していません。
これでもかと抗がん剤を打たれることもありません。
どうして私が悲しまなければならないでしょう。

私達人間にははかりしれない「力」が
夫を病気の苦しみから救ってくれたのです。

夫を「自分はこれからどうなるんだろう?」という
恐ろしい不安から解放してくれたんです。

何故悲しいんでしょう。
それは「自分」が悲しんでいるだけです。
「私が、私が。。。」という「自分」です。
「私がかわいそう」「私が大事」という気持ちです。

つきつめると悲しむのは夫への愛ではないことになります。
愛しているなら夫が楽になったことを喜ぶ筈なんです。

魂を信じるなら、亡くなった人の新しい門出を
喜ぶべきなんです。

悲しいのは私で夫ではないんです。

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そうは言ってもそれは頭ではわかるけど、実際は。。。
と誰もが言うでしょう。それはよくわかります。

私も今でも泣けてしかたありません。悲しみは依然として
そこにあります。

けれども我が出てきて思い出してしまった自分も私は好きです。
思い出しては泣き、悲嘆にくれている自分を愛します。

今、この悲しみの現実が私の人生なのです。
その「今」を味わい、生きなければどうして生まれてきた
甲斐があるでしょうか。

とにかく夫はもうすべてのしがらみから自由の身なのです。
でも夫も私への愛と感謝で一杯なのを私は知っています。

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あの図書館からの帰り道、私には「今」しか
ありませんでした。過去も未来もなく自分もありませんでした。

悲しみからの解放は「今」「この瞬間」にしかありません。
過去や未来についての不安や悲しみはいつも私達を苦しめます。
楽しい思い出さえも。。。

源(神)は私達にさまざまな事を経験させているのです。
苦しい病さえも貴重な体験なのです。

すべて起こる事は源の目線で言うと善も悪もなく
良い事も悪いことも含まれます。

悪魔なんていません。天使なんていません。
ただ一つの存在だけがあります。

愛する人の死でさえもそこにはポジティブな
要素があるのがわかります。
たとえば病の苦しみからの解放や、残された
家族の魂の成長などです。

それはまた死別者でなくても言えることです。
自分と会わない伴侶との結婚、ウマの合わない友人、
辛い仕事、悪天候。。。

すべてすべて起こる事を事実として受け止め
そこに価値判断を下さなければずっと楽になれます。

たとえば霊能力や悟りを得ようと必死に努力するのは
「今」にいないで、未来(と思いこんでいるもの)に
いることを意味します。

未来は常に幻想です。過去もしかり。

ひたすら今の自分や状況に不満だから、
「何かになる」事でそれを変えようとすることは、
せっかくのそのままの状態の素晴らしさから視線を
そらす事にならないでしょうか。

だからヒマラヤの霊能者のように、霊能力を極めても
いつまでも幸せはつかめません。

一瞥体験の時、道端のゴミでさえ芸術作品でした。

すべてはそのままで素晴らしいのだ、と私は思います。
何かになる必要も無く、変わる必要もないのだと。

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苦しみを終わらせるのは「未来」では絶対ありません。

体外離脱をしてもミディアムシップを受けても、
夫のいない「今」という現実を受け入れなかった為に
苦しんでいたんです。

「時間薬」はあるでしょうが、それまで待てますか?

私は待てませんでした。
苦しみを終わらせるのは「今」でした。

今こそが苦しみを終わらせてくれます。

今この瞬間に苦しみなどどこにも無いことに私は気づきました。

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もし苦しみがあるとすればそれは私が作った幻想なのです。
それは過去と未来と「自分が大事」という材料でできています。

ここで誤解しないでいただきたいのは「悲しみ」と
「苦しみ」は違うという事です。

純粋な悲しみはむしろ人を進化させます。

多くの死別体験者が純粋な「悲しみ」では無くよけいな事で
悲しみを「変質」させ、「苦しみ」を倍増させているのを
目にしてきました。

絶望や不安感、他者へのねたみ、金銭問題、対人関係の悪化など、
これらはすべて「恐れ」から来ます。そしてその栄養となるのが
エゴイズムです。

これらすべてが「愛」によって昇華され、「今」を受け入れる時
何かが絶対的に変わります。

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死別したからこそ、他人と仲良くし、人をいたわり
人に親切にすることで死別者自身が癒されていくと思います。

私に言わせるとただそれだけが唯一の癒しなのです。

ただ無理してはいけないし、心からそうしたいと思った時
それがその時だと思います。

それは死別者同士だけが仲良くなることとは違います。
何故なら私達はすべて源とひとつだからです。
それがワンネスとか二つにあらず(非二元)という事だと
思います。

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今ある現実、そのままの自分、そのままの家族や友人を
あるがままに「完璧なもの」として受け入れる時、癒し度は
一気に高まります。

特別な事ではなく、それはまず自分の親や周りの友人など
身近な人への愛や感謝の気持ちから始まるでしょう。

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そして何よりまず自分を癒さなくてはなりません。
そこから変えていくときっと光の出口が見つかると私は
強く信じています。

自分の好きな事を思い切りやって楽しみます。
旅行、友人と会う事、勉強、ペット、美味しいもの。。。
いっぱいあると思います。

ただ何かの行動によって自分が変わろうとしないで下さい。
あなたはそのままでいいんです。

期待と変わろうとする衝動はいつも人間を不幸にします。

「このワークショップへ行けば変われるだろう」
「今の状態から抜け出なくては」
「浄化してエゴをとらなくては」などなど。。。

どこへあなたが行こうと、何をしようと、それはすべて
神の「恩寵」によるものであなたの意志ではないのです。

すべてが見えて来た時それが真実であることがわかります。

そしてまた、究極の手段として私は想念から一切の過去と未来を
たとえ一瞬でも手放し、そこに何があるか見てみました。

そこには自分の悲しみを見つめているある冷静な「意識」だけ
がありました。それは「自分」ではありません。

それはあの坂道で私に命の躍動を見せてくれた
あの「何か」と同じ物です。

それは永遠にあり、生まれることも死ぬこともありません。

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その「意識」は亡くなった人は天の絶妙なタイミングと
慈悲によって肉体を脱いだのだ、という事実を
段々にわからせてくれました。

私と亡き人が人生で過ごした幸せな時間も辛い時間も
すべて「源」からの贈り物でした。
それは一瞬一瞬違う色に光り輝く宝石でした。

一瞬先に何が起こるか正確にわかる人はいません。
それほど人生は驚きに満ちています。
特別な事を何もしなくても。。。

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これはあくまでも私のやり方で人にどうこう言うつもりは
全くありません。

ただ自分の苦しみがどうして減ったのかつくづく考えて見ますと
今この瞬間に与えられたことをとことん「受け入れ」、「集中」
することが一番の近道だったとつくづくわかりました。

目の前の自分に用意されたいつもの現在の仕事を淡々と
心をこめてすることでした。

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それを素晴らしいプレゼントとして楽しみ、日々味わい、
行う事でも苦しみから抜け出せることがわかったのです。

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それは生そのものを思い切り味わう事でもあります。
何故なら私達はすべてを味わうために生まれたからです。
悲しみさえも。。。

生の躍動は至る所にあります。すぐ近くにあるんです。
朝日の輝き、一杯のお茶、猫のひげ、工事の騒音、長雨、
夕方顔を流れる涙、いじわるな同僚など。。。すべてすべて
恩寵による生そのものです。

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あの坂道での一瞥以来、私はすべてのものを見る自分の目が
驚くほど変化していることに気づきました。

そして自分のこれまでとさほど変わらない日常の中で
一瞬一瞬を味わい、喜び、あるいは悲しみながら生きる。。。
それが嬉しくて幸せです。

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そのまま、ありのままを否定することでどれだけ多くの人達が
無駄な苦しみをしているかを私は見てきました。

そしてそれは多くの場合「批判」から始まります。
「これはまずい」「あの人はこうあるべきだ」などなど。。。
それはとりもなおさず現実を、今を否定することです。

自分も含めたすべての人やモノをジャッジせず、ありのままに
見る時、人はこの上なく自由になります。

そこに恐怖はなく、ただ受け入れることしか無くなります。

悲しみに対処するには一つの方法しかありません。
どこへ行っても、今と違う何かをしても消えません。

悲しみを消すには悲しみの中に入るしかないと思います。

もし悲しみが襲ってきたら自分の悲しみをじっくり
見つめます。悲しみが何でできているか良く分析するんです。

そこには必ず「自分」がいます。
すべてが「私は」「私が」で始まります。
それに次々と気づいていきます。

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「自分」と言えば、かつて私はエゴを消そうと必死に
なったことがありました。でもエゴは消えません。

またエゴを攻撃する必要は無いと思います。

というよりエゴを消そうとする努力そのものが
強いエゴを呼んでしまうこともあります。

「私は浄化されてるけどあなたは違う」という
恐ろしい考えになりかねないからです。

自分が「良い人」と思われたい、という願望や
「エゴの無い自分」という幻想を捨てることで
かえってエゴを超越できるのだと思います。

自分のエゴを知る事によって他人のエゴを知り
自分自身や人の「本当の姿」をエゴから切り離して
考えることができるようになりました。

もし悲しみの発作に襲われたらとことんそれに
集中します。泣きたければとことん泣きます。すると
悲しみを味わい尽くしていくうちに悲しみは消えます。

そして気が済んだら現在、この瞬間に戻ります。

それは尻尾を踏まれた猫が「ギャ〜」とわめき、
次の瞬間何事もなかったようにじゃれて遊ぶのと
全く同じです。

そしてすべてを大いなる力にゆだねます。
そこに「自分」はいません。
すべて「起こる事」を楽しむ「意識」だけがあります。

猫は常に今しかありません。
何故なら今はいつもそのままで完璧だと知っているからです。

すべてをあるがままにゆだねてのんびり生きています。

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「今、この瞬間」に苦しみや悲しみはどこにもありません。

それは私がかつて見つけたのに失くしてしまい、またやっと
見つけた事でした。そしてそれは前より更に輝いていました。

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そうは言っても人間は常にこの瞬間にいるわけでもなく、
悲しみの発作が起こることがあります。
意思とは関係なく突然起こります。

そんな時はただじっとその悲しみを見つめます。
するとその悲しみをみつめている「意識」に気づきます。

それが「真我」です。

これからも私は悲しみ、泣くこともあるでしょう。
けれどもそれは「解放された」涙です。

悲しみはあります。当分続くでしょう。あるいは一生かも
知れません。悲しみを消そうとは私は思いません。

けれども「苦しみ」は今終わります。

そこにはえぐられる痛みも、人への恨みも何もありません。

すべての行いが「自分」というものからなされない時
そこには純粋な悲しみだけがのこります。

すべてが一つであの世もこの世も無いのだとわかります。

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それがアドバイタでいえば「源」にゆだねる、という事ですし
禅で言う「柳は緑、花は紅」なのでしょう。
キリスト教で言われる「御心のままに生きる」という事でもあります。


それはあなたも限りなく進化させていくでしょう。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

長い間このブログをお読みいただきありがとうございました。
この記事をもちましてこのブログを終わらせていただきます。

本当は三回忌をめどに終わらせるつもりでしたが。。。
読んで下さる方のおかげでここまで続いて参りました。心から
感謝に耐えません。

調子にのって最後の記事は4まで書いてしまいました。

たくさん載せました写真はお墓を作る時に行った
主人の故郷のものです。「癒しの旅」という記事に
使うつもりでいましたが、ついに記事にはなりませんでした。

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「この世は愛と喜びに満ちている」ということを実感した旅
でした。どうか写真だけでもお楽しみ下さい。

私はただ自分が夫の死別と言う出来事によって経験した事を
書きました。すべて事実です。

江戸川べりで転げまわって遊んでいた少女のまま年を取った
自分が、ペットロスという状態になった時に始めた
お気楽ブログでした。

それが。。。自分の命より大切と思っていた夫というもの
を亡くしてブログもすっかり様変わりしてしまいました。

ブログの後半ではいかに死別後の自分が変化をし、苦しみ、
勉強し、癒しに至ったのかがすべて書かれています。

ブログの前半で知り合った方はさぞとまどわれたことと思います。
けれども尚私は自分の経験をウソ偽りなく書きたかったのです。

個人的なものですので、皆様には何の参考にもならないかも知れません。

ひっそりと書いていきたいと思ったのでブログ村の「死別ブログ」
も途中で抜けました。それでも沢山の方が毎日「ブックマーク」から
来て下さっているのを見て驚愕しました。

コメントを下さった勇気ある方々(笑)本当にありがとうございました。

私はただ「真実」とは何であるかをひたすら知りたいと思いました。

でも今ついに見つけたと思っています。でもまだ「確信」ではありません。
これからも恐らく私は変化していくと思います。

私の記事を楽しみにして下さった方々には大変申し訳ありませんが、
これ以上書いても繰り返しになるだけですのでここで一区切り
しようと思いました。

記事はそのままにしておきますが、もう更新はしないつもりです。
いずれ新しい境地に達した時にブログは削除させていただくかも
しれませんが、今はこのままそっとしておきます。

ただ、精神世界の勉強はこれからも続けていくつもりでおります。
そしてエネルギーがあれば新しいブログを作るかも知れません。
今はまだ未定ですが。。。

その時もきっとひっそりと書いていくと思います。ご縁がありましたら
またお目にかかるのを楽しみにしております。それでは。。。
さようなら。。。
そしてどうか、お元気でいてください。。。。。

今まで私を励まし、共に悲しみ歩んで下さった読者の皆さま、
素晴らしい友人達と家族に心から感謝を捧げます。

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おとめより

後記:この記事を書いてからだいぶたった後、8月に母親も天に
   召されました。
   そして紆余曲折の末、私は東京から地方へ引っ越すことに
   なりました。すべて、すべて導きによるものでした。
   皆さまありがとうございました。










posted by おとめ at 12:48 | Comment(17) | TrackBack(0) | あの世があると思いたい

死別の苦しみからの脱却「悟りなんていらない」

「本当の私は未来も過去もありません。一なるものは
永遠です。」(ダグラス・ハーディング)

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私がこの世に生まれて一番古い記憶は
朝目を覚まして横になったまま朝日に輝く「塵」をうっとり
眺めている自分です。

窓から差し込む光線の中に何億という塵がうごめいていました。

ただ不思議で驚きで見ていて、その時の驚きは
今でも鮮明に覚えています。

それは「塵」が「ゴミ」という「知識」をもたない私が
見ていたものでした。
それこそが「神」と繋がった「意識」であるとも
気づかずに。。。

幼い頃、私は亡くなった祖父や神様とずっと心の中で
話をするようになりました。

けれども思春期になってから、そんな事はすべて忘れて
しまいました。

他に楽しいことが沢山あったからです。

修行をしていたわけでもないし瞑想していたことも
ありませんでした。ただ成人式の前後に「禅」というものに
興味を持ち始めました。

けれども結婚して生活に追われると、そんな事よりまず
食べて行くことが先決でした

それがはるかな年月を経てまた同じように私にやってきました。
夫の死をきっかけに、さまざまな事を知りたいと思いました。
アドバイタ(非二元)やスピリチュアリズムに惹かれたのも
そのせいでした。

夫が亡くなって一年以上が経ったとき、ある早朝
親切で面倒見の良い友人のKさんが貸してくれた
アキアネ・カラマリックの画集をベッドで見ていました。

すると8歳の時彼女が描いたキリストの顔を見ていたら
いきなり涙があふれてきたんです。

自分でもどうしてかわかりませんでした。
それがアキアネの絵であろうと一厘の花であろうと
きっかけは多分どうでも良かったのだと思います。

ただ私は「真実」というものに久しぶりに触れたのでした。

そのまま立ち上がって隣の部屋へ行ったら
部屋のすべてが激変していました。

何もかもがが光り輝いていて、忙しくて片づける時間が
無いために散らかっていて、あれほど嫌でたまらなかった
部屋は、まるでこれ以上ないほど美しく見えました。
今まで知らなかったものを見ているようでした。

机は机では無く、パソコンはパソコンではなく
何か特別のものでした。
パソコンが神様になったようでした。

その時の私の見ているものは、あの幼い私が見ていた
「塵」と全く同じだったのです。

すべてがこのままで良かったんだ、という感覚。

何も変わらなくていい。すべてが「愛」そのものでした。
強い喜びが湧いてきてその気分はその後数日続きました。

私はその出来事が妙に気になりました。友達や家族にも
話しました。
そして当たり前のことですが、そのことを真剣に取り合って
くれる人はいませんでした。

でも出来事はこれで終わりではありませんでした。

ある日、読書をしていたら、突然「自分」が無くなりました。
本を支えている「誰か」は「私」ではありませんでした。
それは不思議な不思議な感覚でした。

自分が「見ているもの」そのものだけ、という感覚。

私は「自分」を探そうとしましたが、見つけたのは何も無い
「空間」だけでした。。。
それはなんだかとても恐ろしい体験でした。

孤独な探求がまた始まり、私は調べ抜きました。
そして私の経験した事があちこちに沢山書かれていることを
知って驚きました。

それは禅やアドバイタで言われる「一瞥体験」とか「小悟」
あるいは「見性」と言われるものでした。

「一瞥」というからには、ずっと続く体験ではなく
本当の悟りとは違うものだという事も知りました。

でも私は「悟り」なんてちっとも求めてはいませんでした。
霊界とつながることばかり考えていました。「一瞥!?」
そんなもの私には何の役にもたたないものでした。

世の中にはそれが欲しくてたまらない人がいるそうです。
私は何も欲しくありませんでした。

それなのに「それ」はふたたびやってきたのです。

三回忌が終わり、まだ絶望の淵にいた私はある日の夕方
重い足取りで芭蕉庵の横の急な「胸突き坂」を昇って
いました。行きつけの図書館に行くためです。

夫が闘病中だった頃、この坂を昇りながら
食事療法の本をひんぱんに借りに行きました。

階段を一段昇るたびに「治りますように、
治りますように。。。」と呪文のように繰り返した
坂道でした。

ずっと泣き暮らしていた私の心は疲れてがらんどうでした。
まるでからっぽだったのです。

久しく何の欲もありませんでした。あそこへ行きたいとか
将来こうしたいとか。。。何も何も私の心にはありませんでした。
物欲も無く、幸せを求める気持ちもとっくにありませんでした。

何の考えも起こりませんでした。いつもは夫の思い出を
反芻しながら目に涙をためて歩く道でした。
でもその時は過去も未来も心に浮かびませんでした。

楽になりたいと思うエネルギーさえ無く歩くのがやっと
だったのです。

夫の介護で背骨を骨折してから、背中が曲がってしまい
膝は傷み、おまけに難病もちのこの肉体を脱ぎ捨てたい、と
つくづく思いながら急な石段をいやいや昇っていました。

このあたりはうっそうと木が繁った都会の異次元です。

私は突然私の周りの木々が妙に自分に迫ってくるのを
感じていました。
実際は私が木々に近づいて歩いているのに向こうが私に向って
歩いていたのです。「あれ〜?」っと一瞬思いました。

帰り道、やはり重い本と重い体を引きずって一本道を
歩いていました。やがて思考が戻ってきました。
次々と起こる雑念を消そうと私は自分の足音にひたすら
耳をすませていました。

その時不思議な事が起こりました。

いつもは景色の中に自分がいるのに、それが無くなり
ただ「歩いていること」があり、それは他のものと同じ風景
でしかありませんでした。
自分と外界との距離が感じられませんでした。
周りを見るとすべてが光って生きていました。

うまく説明できませんが、木々が、花々が
いつもは見過ごしてしまうような汚い植木鉢の中の
枯れかけ植物さえもすべてが「何か」の特別な
エネルギーを吹き込まれたようでした。

というより汚いものほど輝いていました。

建物も道もすべてが違って見えました。
意識?に次々に色んな植物が入ってきました。

みんな喜びにそよいでいました。
「生きている」エネルギーそのものでした。
私はエネルギーそのものを見ていたのです。
もし肉眼でエネルギーが見えるとすればこれがそれでした。

これが「そのまま」という事がわかりました。

そこには悲しみは全くありませんでした。思考も無く何にも
ありませんでした。ただ喜びで「見ていること」だけが
ありました。何より「自分」がありませんでした。

それは霊媒さんから亡くなった人のメッセージを聞くより
もっと現実的で信頼できるものでした。

それ以来一滴の涙も出ない日が続きました。

さらに先にご紹介したラメッシの本の翻訳者である
高木悠鼓さん自身の著作の中でもっと詳しい道筋を
いただくことができました。

それについては長くなってしまうのですべてをご紹介
することができず残念です。

それは人間の魂の進化についてであり、「三段階」に
別れています。(「人をめぐる冒険」高木悠鼓著)

人がある段階にいて、それが苦痛になると
それは次の段階への導きであるそうです。その時に
「抵抗しないように」と高木さんは書いています。

私がいたのはその第二段階と第三段階のはざまだったのです。
それであれほど悩んでいたのでした。

高木さんの分類では第一段階は「動物意識」でこの意識で
生きている人間はたくさんいるそうです。

「動物意識」その特徴は:
☆死んだらすべてが終わりである。私は肉体である。
☆私は他者と競争する。
☆人にどう思われるかを気にする。
☆社会的地位を重視し、自分の味方をほしがる。
☆人と群れたり、団体に所属したがる
☆物質(お金)を重視する
などです。
(もっとたくさんありますが全部ここでは書けません)

第二段階は「人間意識」で、その特徴は:
☆私は肉体の中にいる
☆私は自分の意志を使える。責任がある。
☆私は他者と違うユニークな存在
☆輪廻転生があると信じる
☆現実は自分の思い通りになる。ポジティブ。
☆エネルギーを重視する
などなど。

そして第三段階は「神意識の段階」で:
☆私の中に肉体がある
☆神の意志だけがある。責任は無い。
☆すべての存在は一つの中にある
☆輪廻転生する存在はどこにもない
☆すべてあるがままで完璧である
☆覚醒を重視する
などなどです。

人はこの三つの段階を行ったり来たりして成長します。
ほとんどの人間は動物と人間と神の間をウロウロし、
それぞれの段階にいる人は、他の段階と反発
し合います。


第二段階にずっぽりはまっていた私が、突然
第三段階を覗き見て仰天し、苦しんだのも当然のこと
だったのです。。。。

つまり非二元が目指すものはスピリチュアリズムより
さらに上の領域だったのです。(上が優れているという
意味ではありません)

私はそうとは知らず非二元の世界と霊界を混同し
悩んでいたのでした。

けれどもスピリチュアリズムでいう「霊界」は
現実が幻であると同様に幻想でもあります。

それは人間の想念が作ったものです。

それでも尚人間がこの世を現実であると信じるように
あの世を信じる人間もいることでしょう。

私はアドバイタが好きですが、「悟り」には何の興味も
ありませんでした。

たとえ悟って至高の極みに入り、二度と
この世に生まれ変わる必要がなくなるとしても、
私には悟りより夫への愛が大事だったのです。

あと100回生まれ変わって人生を生き苦しむとしても
夫と共に苦しみたいのです。「悟り」なんかいりません。

死んだら喜んで夫のいる領域へ行き、そこで生きるでしょう。
夫が生まれ変わるなら私も一緒にそうするでしょう。

一枚のカーペットが「源」だとすれば、6億もの人間は
その模様のようなものであり、実体はなく、一つの源に
動かされているだけである、と非二元は言います。

それならば、人生やあの世がたとえ幻想であっても
私はカーペットの織地の二本の糸のように夫とよりそい
模様を作ってきたのだ、と夢見ていたかったのです。

たとえ人生や個人というものが非二元や禅にとってただの
「幻想」であっても。

私は嘆きの中でずっとそう思っていました。

私は「あの世」や「霊魂」や「霊界とのコンタクト」から
離れられないでいました。

それがさらに自分を苦しめる「執着」であるとも知らずに。
。。。。。

。。。。。

(つづく)
posted by おとめ at 12:02 | あの世があると思いたい

2015年03月25日

見えないもの

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何も見えなかったところからヒヤシンスの蕾が。。。春だね〜♪


星とたんぽぽ(金子みずず)


青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。


ちってすがれたたんぽぽの、

かわらのすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ


。。。。。。。。。。。。。。

人はどうして見えないものを怖がるのだろう

どうして見えなければ信じないのだろう


見えないものを語るとき

どうして世間を気にするのだろう


そこにあるかも知れないのに

特殊ガラスでできた鏡のように

あちらからは見えているかも知れないのに


巷にあふれる携帯電波やWIFI, TVのアンテナ。。。


見えない電波をこれだけ信用しているのに

どうして見えない世界を信じられないのか。。。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m
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2014年06月19日

ドライヤーからの声

恐ろしく古い我が家のドライヤー
CIMG1530.JPG

おそらく’80年代製(笑)


だいぶ昔のことだけれど

父親が亡くなったとき

その魂が私の所へ来た。。。ようだ。

その日は夫が友人と出かけていて

私は一人で家で夜中過ぎまで起きていた。

ふと玄関のほうを見るとそばに飾ってあった

タペストリーに人の影のようなものが映った。

目の錯覚か何かだと思い気にも留めなかった。

夫がなかなか帰ってこないので

痺れを切らして先に寝ることにし寝室へ行くと

突然理由もなく無性に悲しさがこみ上げてきた。

もう時計は2時をまわっていたと思う。

なんだろう、この気分は。。。

とふさぎこんだまま壁に向かってぼ〜っとしていると

目の前に霧のような湯気のようなものが

す〜っと立ち昇るのを見た。

その時も私は多分眠くて疲れているんだろう

としか思わなかった。

伯母から電話が入ったのは次の日の朝

父親が亡くなった、との知らせ。

ずっとあとでわかった事だが

亡くなったのは午前3時頃だったそうだ。

ちょうど私が悲しい気分でもやのようなものを見た頃。


話は変わってその何年かのち

可愛がっていた手乗り文鳥が死んだ。

一度外へ逃げてしまったことがあるが

探しに行くとチチ〜っと鳴いて私の肩に戻った。

それほどなついていた。

その子が死んでからしばらくの間

鳥かごのあった場所から鳴声がしていた。


私の母方の血には「見てしまう」ところがあって

実家では時々ごく普通に「あの世系」の

人から見たらひいてしまいそうな会話を

けっこう普通にしていた。

母は戦前ヒトダマを見た。

大きな丸い輝く物体が飛んできて

玄関に落ちてくだけたそうだ。

父が亡くなってしばらく一人暮らしだったが

その頃おばあさんの幽霊も見ている。

それが自分の母親だったかどうかは

はっきりしなかったらしい。

伯母は幼い頃虫のしらせを経験した。

可愛がってくれた隣のおじさんの霊だった。

「あっ おじさんが来た」と伯母がいうので

皆で玄関に出てみたら誰もいない。

まもなく亡くなった知らせがきたらしい。


主人の葬儀が終わってまもない頃

しばらく我が家に泊まってくれていた妹が

ある日ドライヤーで髪を乾かしていると

「あっ??」と言ったので

「どうしたの?」というと

「人の話し声が聞こえた」という。

なんだか居酒屋のような場所で

にぎやかに話している感じだったそうだ。

「夫だ」私はすぐにそう思った。

夫は居酒屋が大好きだったのだ。

天国にも居酒屋があるのだろうか。

カツオのたたき、冷やしトマト、フライドポテトなど

大好きだったおつまみでビールを飲んでいるのだろうか。

そうでありますように。。。

そのあとで

私がドライヤーを使っても何も聞こえなかった。

なんだか寂しい気がした。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m


posted by おとめ at 08:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | あの世があると思いたい