2017年04月29日

死にはせぬ。。。禅とスピリチュアリズムのはざまで

若い頃から禅には興味があった。

あの参禅の時のカッコ良さにひかれて

修行したい!なんて思っていた。

でも根性なしだったからついぞ

寺を訪れたこともなかった。


ただ禅に関する本は昔ずいぶん読んだ。

禅的な生き方をしている作家のものも読んだ。

ほとんど忘れてしまったが。


その結果中途半端な状態になって

よけいに悩み苦しむことになった。


たとえば「将来に何の希望ももたないこと」は

本来限りない「空」の自由さを表しているのだが

それを「何の希望もない=虚無」と

取り違えてしまったのだ。


これを禅的な言葉で「悪手空」という。


けれども何がしかの影響はあったのだろう。

偏見や差別の感覚を捨てること

人の目があまり気にならないこと

などが身に染みついたようだ。


社会に出てからは、それこそ紆余曲折があって

どういうわけかまた禅に帰ってきた。

19才で最初に禅に触れてから実に

半世紀近くが経ってしまった。


死別の悲しみの中で一休禅師の言葉が響いた。

「死にはせぬ、どこにも行かぬ、ここにおる。

たずねはするな返事はできぬぞ」


これは霊界探しにウロウロしていた

私の残り少ない脳みその正気の部分を

「喝!」と叩き起こした。

これが唯一の真実なのだ、と。


一休の言葉は「ここまではぎりぎりの

正真正銘の事実だよ」と言っているのだ。


それ以降はどうしてもおぼろげで、

茫洋としていて、そばに居る気配はするが

死んでない私達には証拠がつかみようがないのだ。


しかし一休の有名なこの言葉は誤解を招きやすい。

それは決して亡くなった人が守護霊のように

あなたのそばにいるという意味ではない。


そういう風に解釈した人がいたとしても

それはそれで慰めにはなることだろうが。。。

「空」をかいま見ない限り真の意味は謎だろう。


私は真実だけを知りたかった。

ちゃんと体験した事だけを大事にしたかった。


そんな折、見性と呼ばれる状態を何度か経験した。

その時からすべてが180度ひっくり返ってしまった。


それは当たり前の事だったのに、目の前にあるのに

今まで全く見えないものだった。

それが見えないので苦しんでいたのだった。

自分は世界の中の一粒に過ぎないと思っていた。

すべてが逆さまだったのだ。


そしてあれこれさまよい、悲しみの中でも

「空」というものがどういうものか

だんだんにわかってきたのだった。


それは全く現実に起こっていることだった。

私の心は限りなく平安になった。


ただこの「空」の世界の恩恵を受けながらも

私には「魂の存在」というものをどうしても

捨て去ることはできない。


それは「禅」を「仏教」としてみなせば

あきらかにスピリチュアリズムとは矛盾が出てくる。

それでどれほど苦しんだことだろう。

どこかで接点が見いだせればいいのだけれど。


今はスピリチュアリズムの勉強から離れ

素晴らしい先生や友達ともお別れしてしまった。

ただこの状況をそのまま受け止めて

成り行きを見守るしかないと思っている。


あくまでも導き次第なのだろう。あるがまま。

私はただただ真実が知りたい。。。


今の私はそんな問題もかかえながら

けれど禅というものに深く引かれている。

もちろん今更悟りなど求めてはいない。

私の場合、探求ではなく、あくまでも

「楽しく禅(空)の世界に遊びましょ」

ということなので。。。


血眼で修行なさっている方には

誠に不謹慎かもしれないけれど

この年で膝の骨はすり減っているし

座禅などとても出来る状態ではないので

何卒ごかんべんを。。。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお越しいただきありがとうございます。

それではご一緒に「喝!」






posted by おとめ at 19:13 | Comment(0) | TrackBack(0) |
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