2016年09月02日

死別の苦しみからの脱却「悟りなんていらない」

「本当の私は未来も過去もありません。一なるものは
永遠です。」(ダグラス・ハーディング)

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私がこの世に生まれて一番古い記憶は
朝目を覚まして横になったまま朝日に輝く「塵」をうっとり
眺めている自分です。

窓から差し込む光線の中に何億という塵がうごめいていました。

ただ不思議で驚きで見ていて、その時の驚きは
今でも鮮明に覚えています。

それは「塵」が「ゴミ」という「知識」をもたない私が
見ていたものでした。
それこそが「神」と繋がった「意識」であるとも
気づかずに。。。

幼い頃、私は亡くなった祖父や神様とずっと心の中で
話をするようになりました。

けれども思春期になってから、そんな事はすべて忘れて
しまいました。

他に楽しいことが沢山あったからです。

修行をしていたわけでもないし瞑想していたことも
ありませんでした。ただ成人式の前後に「禅」というものに
興味を持ち始めました。

けれども結婚して生活に追われると、そんな事よりまず
食べて行くことが先決でした

それがはるかな年月を経てまた同じように私にやってきました。
夫の死をきっかけに、さまざまな事を知りたいと思いました。
アドバイタ(非二元)やスピリチュアリズムに惹かれたのも
そのせいでした。

夫が亡くなって一年以上が経ったとき、ある早朝
親切で面倒見の良い友人のKさんが貸してくれた
アキアネ・カラマリックの画集をベッドで見ていました。

すると8歳の時彼女が描いたキリストの顔を見ていたら
いきなり涙があふれてきたんです。

自分でもどうしてかわかりませんでした。
それがアキアネの絵であろうと一厘の花であろうと
きっかけは多分どうでも良かったのだと思います。

ただ私は「真実」というものに久しぶりに触れたのでした。

そのまま立ち上がって隣の部屋へ行ったら
部屋のすべてが激変していました。

何もかもがが光り輝いていて、忙しくて片づける時間が
無いために散らかっていて、あれほど嫌でたまらなかった
部屋は、まるでこれ以上ないほど美しく見えました。
今まで知らなかったものを見ているようでした。

机は机では無く、パソコンはパソコンではなく
何か特別のものでした。
パソコンが神様になったようでした。

その時の私の見ているものは、あの幼い私が見ていた
「塵」と全く同じだったのです。

すべてがこのままで良かったんだ、という感覚。

何も変わらなくていい。すべてが「愛」そのものでした。
強い喜びが湧いてきてその気分はその後数日続きました。

私はその出来事が妙に気になりました。友達や家族にも
話しました。
そして当たり前のことですが、そのことを真剣に取り合って
くれる人はいませんでした。

でも出来事はこれで終わりではありませんでした。

ある日、読書をしていたら、突然「自分」が無くなりました。
本を支えている「誰か」は「私」ではありませんでした。
それは不思議な不思議な感覚でした。

自分が「見ているもの」そのものだけ、という感覚。

私は「自分」を探そうとしましたが、見つけたのは何も無い
「空間」だけでした。。。
それはなんだかとても恐ろしい体験でした。

孤独な探求がまた始まり、私は調べ抜きました。
そして私の経験した事があちこちに沢山書かれていることを
知って驚きました。

それは禅やアドバイタで言われる「一瞥体験」とか「小悟」
あるいは「見性」と言われるものでした。

「一瞥」というからには、ずっと続く体験ではなく
本当の悟りとは違うものだという事も知りました。

でも私は「悟り」なんてちっとも求めてはいませんでした。
霊界とつながることばかり考えていました。「一瞥!?」
そんなもの私には何の役にもたたないものでした。

世の中にはそれが欲しくてたまらない人がいるそうです。
私は何も欲しくありませんでした。

それなのに「それ」はふたたびやってきたのです。

三回忌が終わり、まだ絶望の淵にいた私はある日の夕方
重い足取りで芭蕉庵の横の急な「胸突き坂」を昇って
いました。行きつけの図書館に行くためです。

夫が闘病中だった頃、この坂を昇りながら
食事療法の本をひんぱんに借りに行きました。

階段を一段昇るたびに「治りますように、
治りますように。。。」と呪文のように繰り返した
坂道でした。

ずっと泣き暮らしていた私の心は疲れてがらんどうでした。
まるでからっぽだったのです。

久しく何の欲もありませんでした。あそこへ行きたいとか
将来こうしたいとか。。。何も何も私の心にはありませんでした。
物欲も無く、幸せを求める気持ちもとっくにありませんでした。

何の考えも起こりませんでした。いつもは夫の思い出を
反芻しながら目に涙をためて歩く道でした。
でもその時は過去も未来も心に浮かびませんでした。

楽になりたいと思うエネルギーさえ無く歩くのがやっと
だったのです。

夫の介護で背骨を骨折してから、背中が曲がってしまい
膝は傷み、おまけに難病もちのこの肉体を脱ぎ捨てたい、と
つくづく思いながら急な石段をいやいや昇っていました。

このあたりはうっそうと木が繁った都会の異次元です。

私は突然私の周りの木々が妙に自分に迫ってくるのを
感じていました。
実際は私が木々に近づいて歩いているのに向こうが私に向って
歩いていたのです。「あれ〜?」っと一瞬思いました。

帰り道、やはり重い本と重い体を引きずって一本道を
歩いていました。やがて思考が戻ってきました。
次々と起こる雑念を消そうと私は自分の足音にひたすら
耳をすませていました。

その時不思議な事が起こりました。

いつもは景色の中に自分がいるのに、それが無くなり
ただ「歩いていること」があり、それは他のものと同じ風景
でしかありませんでした。
自分と外界との距離が感じられませんでした。
周りを見るとすべてが光って生きていました。

うまく説明できませんが、木々が、花々が
いつもは見過ごしてしまうような汚い植木鉢の中の
枯れかけ植物さえもすべてが「何か」の特別な
エネルギーを吹き込まれたようでした。

というより汚いものほど輝いていました。

建物も道もすべてが違って見えました。
意識?に次々に色んな植物が入ってきました。

みんな喜びにそよいでいました。
「生きている」エネルギーそのものでした。
私はエネルギーそのものを見ていたのです。
もし肉眼でエネルギーが見えるとすればこれがそれでした。

これが「そのまま」という事がわかりました。

そこには悲しみは全くありませんでした。思考も無く何にも
ありませんでした。ただ喜びで「見ていること」だけが
ありました。何より「自分」がありませんでした。

それは霊媒さんから亡くなった人のメッセージを聞くより
もっと現実的で信頼できるものでした。

それ以来一滴の涙も出ない日が続きました。

さらに先にご紹介したラメッシの本の翻訳者である
高木悠鼓さん自身の著作の中でもっと詳しい道筋を
いただくことができました。

それについては長くなってしまうのですべてをご紹介
することができず残念です。

それは人間の魂の進化についてであり、「三段階」に
別れています。(「人をめぐる冒険」高木悠鼓著)

人がある段階にいて、それが苦痛になると
それは次の段階への導きであるそうです。その時に
「抵抗しないように」と高木さんは書いています。

私がいたのはその第二段階と第三段階のはざまだったのです。
それであれほど悩んでいたのでした。

高木さんの分類では第一段階は「動物意識」でこの意識で
生きている人間はたくさんいるそうです。

「動物意識」その特徴は:
☆死んだらすべてが終わりである。私は肉体である。
☆私は他者と競争する。
☆人にどう思われるかを気にする。
☆社会的地位を重視し、自分の味方をほしがる。
☆人と群れたり、団体に所属したがる
☆物質(お金)を重視する
などです。
(もっとたくさんありますが全部ここでは書けません)

第二段階は「人間意識」で、その特徴は:
☆私は肉体の中にいる
☆私は自分の意志を使える。責任がある。
☆私は他者と違うユニークな存在
☆輪廻転生があると信じる
☆現実は自分の思い通りになる。ポジティブ。
☆エネルギーを重視する
などなど。

そして第三段階は「神意識の段階」で:
☆私の中に肉体がある
☆神の意志だけがある。責任は無い。
☆すべての存在は一つの中にある
☆輪廻転生する存在はどこにもない
☆すべてあるがままで完璧である
☆覚醒を重視する
などなどです。

人はこの三つの段階を行ったり来たりして成長します。
ほとんどの人間は動物と人間と神の間をウロウロし、
それぞれの段階にいる人は、他の段階と反発
し合います。


第二段階にずっぽりはまっていた私が、突然
第三段階を覗き見て仰天し、苦しんだのも当然のこと
だったのです。。。。

つまり非二元が目指すものはスピリチュアリズムより
さらに上の領域だったのです。(上が優れているという
意味ではありません)

私はそうとは知らず非二元の世界と霊界を混同し
悩んでいたのでした。

けれどもスピリチュアリズムでいう「霊界」は
現実が幻であると同様に幻想でもあります。

それは人間の想念が作ったものです。

それでも尚人間がこの世を現実であると信じるように
あの世を信じる人間もいることでしょう。

私はアドバイタが好きですが、「悟り」には何の興味も
ありませんでした。

たとえ悟って至高の極みに入り、二度と
この世に生まれ変わる必要がなくなるとしても、
私には悟りより夫への愛が大事だったのです。

あと100回生まれ変わって人生を生き苦しむとしても
夫と共に苦しみたいのです。「悟り」なんかいりません。

死んだら喜んで夫のいる領域へ行き、そこで生きるでしょう。
夫が生まれ変わるなら私も一緒にそうするでしょう。

一枚のカーペットが「源」だとすれば、6億もの人間は
その模様のようなものであり、実体はなく、一つの源に
動かされているだけである、と非二元は言います。

それならば、人生やあの世がたとえ幻想であっても
私はカーペットの織地の二本の糸のように夫とよりそい
模様を作ってきたのだ、と夢見ていたかったのです。

たとえ人生や個人というものが非二元や禅にとってただの
「幻想」であっても。

私は嘆きの中でずっとそう思っていました。

私は「あの世」や「霊魂」や「霊界とのコンタクト」から
離れられないでいました。

それがさらに自分を苦しめる「執着」であるとも知らずに。
。。。。。

。。。。。

(つづく)
posted by おとめ at 12:02 | あの世があると思いたい