2017年05月19日

大発見

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↓加筆しました。


ふだんは穏やかに過ごせているが

まだ死別後3年、悲しみの発作には

時々どうしようもなく襲われる。


それもあるがままなのだけれど。。。

そんな時は本当に不思議だけど

必ず助け舟が何らかの形で現れる。


その時の助け舟はシュタイナーだった。

「久しぶりに読んでみようかな」

シュタイナーからは見性体験後は全く

遠ざかっていた。彼にはどうしようもなく

うさん臭いところもあるからだ。

たとえば人種差別的であったことなど。


何気なくページを開くとそこには

驚くべきことが書かれていたのだ。

いつも思うんだけど、「導き」で書物

を開く時って必ずそのページがダイレクトに

開き、私が読むのを待っているのだ。

この時もそうだった。。。。。

なので素直にまた読み返してみた。


ここにその文章を引用しようと思う。

少し長いし人によっては難解で理解は

難しいかも知れないけれど、あとで

簡単な言葉で説明するつもりだ。


これは「神智学」という本にある

「死後の霊界における霊」という表題

の中にあった文章だ。


「いま霊となった人間は霊の形成する諸力を現実として体験する。
そこにいる思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容
もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を
感じる。霊的存在だけが自分に属すると感じられる。そして
自分の遺体をもはや物質としてではなく、記憶の中でのように、
思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に
属するものとして目の前に現れる。人は自分の肉体を外界の
一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。
もはや、自分の体的本性を、自分の自我に親和したものとは考えず、
したがってそれを他の外界から区別しようとはしなくなる。
外界全体の中に、自分がこの世で受けてきた身体をも含めて、
ひとつの統一性を感じるようになる。自分の受けてきた体も、
周囲の世界と一つに融合するのである。このように、物質的、
身体的現実の諸現像を、自らもそれに属していた統一体として
観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に
学び取る。人は自分に向って今ここでお前のまわりにひろがって
いるものは、かつてはお前自身であったのだ、ということを学ぶ。」
(高橋巌訳)


つまり、ここに書かれていることは禅や

アドバイタで言われている「悟り」(見性)

や覚醒体験そのものなのだ。自分という物質体

が無くなり、自分が外界と一つであったと気づく。

ただ一つの命だけがある、という事に目覚める。

それは私も経験したことだった。


さらにシュタイナーはこう書いている:

「しかし、こういうとき、それは古代インドのヴェーダンタの叡智の
根本思想のひとつを語ったことになる。『賢者』はすでにこの世の
生活の中で、他の者が死後体験するところのものを、即ち自分自身
が一切万物と同質のものだという思想を、『これは汝に他ならない』
という思想を、自分のものにしているのである。この思想は地上生活
においては思考生活の努力目標であるが、『霊たちの世界』において
は、霊的経験を通してますます明瞭になるひとつの直接的事実なので
ある。」(高橋巌訳)


なんのことはない、シュタイナーは断食だとか

辛い修行や座禅などしなくても、みんな死ねば

一人の例外もなく悟れるんだよ、と言っているのだ。


「インドのヴェーダンタ」とはアドバイタのことだ。

これは凄い。私はもちろん『賢者』どころか

「凡人」ということさえおこがましいような人間

だけれど、その世界をちらっと垣間見た。(見性)


何故私のようなものがロクな修行もなく、一瞥が

できたのかというと、そこには死別の「深い絶望」が

あったからだった。その時自分のすべてを捨て

生ける屍(しかばね)状態だったことはすでに書いた。

つまり一度死んだ状態だったといえる。


禅の修行などで座禅をやったりすることで

「我」というものを取っていくが、それも生きた

状態で死を経験することに似ている。何故なら

「死」というのは自分に属するすべてを捨てる

ことと同じことだからだ。従って禅の修行者は

家やモノや金や家族などの執着を捨てるのだ。

「悟り」というものを得るために。


私ははじめっから悟りなんて欲しいと思った

ことは無いけれど、このシュタイナーの文章は

別の意味で私を救ったのだ。それは「霊」や「魂」

を信じることが禅やアドバイタと全く矛盾は

しないかも知れない、という可能性(あくまでも

可能性だけど)が出て来たからだった。


何故なら私は「今の所」シュタイナーという人物

のある部分は少なくとも信じているからでそれは、

現在に至る霊媒主義や「スピリチュアリズム」を

広めていった他の誰よりも、彼のみが「科学的に」

真の霊魂の世界を解き明かしたと思っているからだ。


けれどもそれは私が全面的にシュタイナーに傾倒

していくことを意味しない。ただ魂の存在と

悟りの世界を一つに語った人間がいたという事が

嬉しかった。


禅やアドバイタではどういうわけか「魂」の存在

に対しての素朴な疑問を抱く人間を煙に巻く。

そういうものはほっておきなさい、と言われる。


私はそこがどうしても納得できなかったのだ。

確かに不思議な出来事は起こる。それは

「現象」として「幻想」とも言われる。

けれども確かにそこに存在するものなのだ。

それでずいぶん苦しんでいたのだった。


何故なら死別したものにとって、魂の存在を

信じることは立ち直りに不可欠だということを

どうしても頭から消し去ることができなかったから。


色々グレーゾーンもある「守護霊」とか「霊界」

「霊媒行為」といった事はひとまず置いておいて

「魂」や「霊」の存在だけはどうしても否定は

できなかったし、したくなかったのだ。


ちなみにシュタイナーは霊媒によって死者からの

メッセージを言葉で聞くことは不可能としている。

何故なら死者は言葉というものはどんどん忘れて

別の手段で伝達してくるからだという。そして

どうやったら死者とコンタクトがとれるかを

色々書いている。


そして当時の霊媒現象や交霊会などを批判している。

霊媒が伝える事は霊媒自身の中にある「潜在意識」

に過ぎないと。これは現在のミディアムには

あてはまらないかもしれないが、今でも彼らは

せいぜい必ず60%しか当たらない、と念をおす。

「せいぜい」、という事はほとんど当たらないことも

珍しくないということだ。その逆もしかりだろう。


話がだいぶそれてしまった。テーマを前にもどすと、

なんのことはない、死ねば悟れるんなら、今から

悟り、悟り、と騒いでいる輩が馬鹿みたいだよね。


「一瞥体験」(見性)をしたからって、それで

「非二元」というかいま見たものを「商品化」して

金儲けしたり聖人きどりになってる人も一杯いる

みたいだけど本当に浅はかだと思う。


せっかく覚醒したのなら、そういう人たちにこそ

早く目を覚まして、ただの人になってほしい。


この世は楽しみ、苦しみ、悲しみを味わうために

あるんで、そこから逃げようと悟りを求めたり

するよりも、神が与えてくれたすべての経験を

していくことこそ人のやるべき事という気がする。

つまり当たり前の暮らしをしていくこと。

与えられた試練をありがたく受けること。


ちなみにシュタイナーの本筋は霊や魂の世界を

どのようにしたら見たり感じたりできるように

なるかの「道」を教えたことだ。ただしそれは

とても険しく厳しい道だ。「我」=「エゴ」を

徹底的に磨いていく。ひたすら他の為に生きる。

などなどの修行があって、それを生半可にやると

危険なことになると言っている。精神鍛錬が

きちんとできずに霊界とつながることを急ぐことを

シュタイナーは強く警告している。ぼんやりして怪我を

したり、精神疾患になることもあるそうだ。


けれども彼の言う「修行」は私はもうしない。彼の

教えにはあまりに現実離れしたところもあるから。


長くなってしまうから、その事はまたあとで。

そんなわけでまたもや導きによって救われて

心はすがすがしさと感謝で一杯になった。


長い長い放浪に出ていたような気がする。

禅やアドバイタで「一つであること」は

充分に納得した。もうお腹が一杯だ(笑)

基本はそれで日々を穏やかに過ごしていく。


そしてまたこれから元の家にもどって、

ゆっくりと夫のいる世界を探索していこうと思う。

そしてそれはそのうちに私が行く世界でもある。。。

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たくさんのアクセスいつもありがとうございます。

これでひとまず長い葛藤は終わりました。






posted by おとめ at 20:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | シュタイナー