2017年05月07日

瞑想について

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私はクリシュナムルティをかなり読んでから

今まで自分が確実に「真実」だと思っていた

色々な観念がいかに馬鹿げだ幻想であったのか

ということを思い知らされることになった。


彼は「修行」やスピリチュアルクラスなどで行われる

いわゆる「瞑想」が、ただ精神を鈍く愚かにする

だけで、背筋を伸ばしたり、規則正しく呼吸したり

「守護霊」に会ったりマントラを唱えたり。。。

と言ったことがいかに時間の浪費であるかと言っている。


それを読んだとき大変ショックを受けた。

何故ならその世界に自分が身を置いていたからだ。

彼はこうしたことすべてを脇へのけてしまう。


私はまだまだ不勉強なので、霊魂の存在とか

不思議体験とかそういったものはあったのだし、

霊界はあるとか、それは誰にも証明はできない事で

それを否定もせず、肯定もせず、そのままあるがままに

放っておけばいいと思うようになった。


何故なら「霊界うんぬん」を言うよりずっと以前に

自分が死ぬことなどありえない、とわかったからだった。

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けれども瞑想についての彼のその言葉の真の意味は

少しづつではあるがわかりかけてくるようになった。


通常の瞑想ではある規定通りの呼吸をして心を静めてから、

先生の指導によってある一定のイメージを心に浮かばせ

そのイメージの世界で「自分が」ある意味「行動」する。

その世界で「守護霊」に会ったり、守護霊から贈り物を

もらったり、啓示を受けたりする。


しかしいま真に自分に正直になって考えると

それらはすべて自分の想像の世界に過ぎなかった。

瞑想中に「会った」「守護霊」とはすべて

自分の無意識または想像力の産物だったのだ。


太ったおじいちゃんや薄物を着た美女。。。

古代インデアンや、太古の魔術師。。。

すべては「自分」の世界であり、自分の経験

知識、苦しみ、悩み、不安。。。そこから

湧いてくる「映像」に過ぎなかった。


守護霊からもらったとするメッセージも

自分の潜在意識から湧いてくる「願望」だったり

自分が受けたい「慰め」だったりした。


つまりこの手の瞑想をすればするほど

自我=エゴがどんどん膨らんでいくことになり

私の心は一向に静まらないのだった。


断っておくと、これはあくまでも私の場合で

他の人の事は知らない。正真正銘「守護霊」に

会ったのだという人はいるかも知れない。

その人達のことまで私は何も言いいたくはない。


ただ私は自分が経験した事のみ正直に書いている

それだけのことだ。


だから少なくとも私が会ったのは正真正銘の

インチキ守護霊だった(笑)誠に情けない生徒だった。

スピリチュアリズムの勉強で私は実に不謹慎な生徒で

やめて大正解だったのだ、というのがこの頃やっとわかった。


クリシュナムルティが言う「瞑想」は普通の瞑想とは

全く違うものであり、私は現在はずっとそれを実行している。

それは呼吸を整えることでもないし、きちんと座る事や

背筋をのばして目を閉じることでもない。


それはけっこう難しく、うまくいかないことも多い。。。

たとえば一輪の花を見る時、本当にこの一瞬の

その花そのものを見て、何も思考や知識が無い時

そこにはただ花を見ることだけがある。


その時、この花はナスタチウムで和名はキンレンカ

葉も花も実も食べられる。。。などという「知識」が

お出ましになるとたちまちそこには思考が戻って

花そのものへの気づきがすっかり鈍ってしまう。


あなたは全く花を見ていない。知識に汚染された花を

見ているだけだ。そのようなものをすべて脇にどけて

生まれて初めてその花を見るように見て見る。


そこには純粋に見ることだけがあり、心は

限りなく鋭敏になり静かになる。

それと同時に自分の思考に注意をしていく。

思考がどのように動いてもそれを批判したり

なんとかしようとせず、それと共にあり

思考を無理に止めようとせずそのメカニズムを

理解していく。これが実に難しい。


こういったことがクリシュナムルティの「瞑想」だ。

花を見ているだけがある時、それは「存在」が

自分を通して花を見ているのだ。


もっとわかりやすく言えば、思考=自分が無い時

そこには神様がいるのだ。神様が私を通じて花を見て

神様が花の美しさを楽しんでいるのだ。神様という言葉は

誤解を招くのであまり使いたくはないのだが。


もし頭の中が「知識」や「世間体」や何かの「教義」や

「何かになろうとする意欲」すなわち「自分の事」で一杯で

新緑の木の葉一枚もじっくり見ることができないなら

彼の言う瞑想はできなくなってしまう。


けれどもうまくできると限りない平安がそこにある。

もう何も欲しがらず、何も求めず、ただあるがまま

ただそこに、この瞬間を見る「存在」だけがあり

「自分」はもうどこにもいない。


何故ならたとえば一輪の花を見る時、それと

ただ一つになった時、それを見ているのは

私という自我ではなく「存在」そのものだからだ。

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今日もアクセスありがとうございます。

うまく書けませんが、ただあるがまま書いてます。

わかっていただける人もきっといるでしょう。

















posted by おとめ at 19:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | クリシュナムルティ