2017年05月27日

マダムのお出まし

我が家はせっかく春の薔薇が今をここぞと

咲き誇っているので、またまたご紹介。

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今日の薔薇は「マダム・イサックペレール」

なにやら舌をかみそうな名前なので

私はこちらを「マダム」そして昨日ご紹介の

「プリンセス・シャルレーヌ・ド・モナコ」を

「プリンセス」と呼んでいる。


プリンセスはハイブリッド・ティー

略してH.T.に属するモダン・ローズ。


このマダムは系統としては「オールドローズ」

に属する。その中でも「ブルボン・ローズ」

と呼ばれるもので、東洋と西洋の血をひき

昔ブルボン島ではじめて発見され、さまざまな

品種が交配によって生まれた。


かのナポレオンの王妃ジョセフィーヌも

薔薇が大好きで、マルメゾンの広大な庭園で

おかかえの園丁たちにあらゆる種類の薔薇を

栽培させていた。ブルボンローズもその中に

入っていたという。

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このマダム・イサックペレールは「ぺレール夫人」

という女性にちなんで作られたものだろう。

きっとたぐいまれな美人であったとか

すぐれた叡智の持ち主で慈愛の深い女性だったとか

何かそういった女性がいたのだろうか。。。


あるいはただ単に知り合いの奥さんとか(( ´艸`)

その人に惚れちゃっただけだったとか。。。

薔薇には人名がつけられることが多く、いつも

想像力を掻き立てられる。


この花の花色を見ていると優雅で社交的な美女が

心に浮かんでくる。香りはそれこそ着飾った

貴婦人がつける香水のようで、「私、ここよ!」

みたいな感じにアピールしてくる(笑)

きっとこんな感じの美女じゃないかと。。。


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この女性はどことなく若い頃の母に似ている。。。


本来とても花付きの良い薔薇なのだけれど

マダムには信州の気候がまだなじまず

(てか私の栽培の仕方が東京のままなんで)

もって生まれた押し出しの強さが出ていない。


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あでやかなロゼット咲き


うどんこ病にもちらほらやられて。。。

オールドローズの特徴である艶消しの葉が

あな、おいたわしや。。。お可哀想なマダム。

この下手な園丁をば、何卒お許しのほどを。


夜はセーターをはおりたいくらい寒くなったり

かと思うと先日は真夏のような暑さで。。。

マダムもさぞご苦労なさっているに違いない。

どうぞ、とレースのハンカチでも渡したくなる。


でも秋にも返り咲くというから、楽しみに

お待ちしていますよ、ぺレール夫人。

信州の秋はきっとお気に召すことでしょう。

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今日も私の小さな薔薇の園にお越しいただき

ありがとうございます。しばしの間優雅な気分に

なれましたでしょうか。おほほ。



posted by おとめ at 19:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小さな花園

2017年05月26日

五月のプリンセス

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うちのプリンセスが咲いた


今日の薔薇はモナコのシャルレーヌ公妃に

捧げられた「プリンセス・シャルレーヌド・モナコ」

その名の通り淡いピンクオレンジの貴婦人の

ドレスのような色合いの花色で花はゆったりと

大らかで、花の香りは実に素晴らしい。


この香りは「ローズ・ド・メ」(五月の薔薇)の香

を放つ。つまり香水の原料のために栽培される

ブルガリアン・ローズの血を引いている。


毎朝ベランダの戸を開ける度に癒しの香りが。。。

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ここでお茶を飲むと、安いテイーバッグでも

ロイヤル・テイーの味になるんだよね♪

となりにあるトマトの鉢植えが。。。若干

夢を。。。覚ましそうではあるけど(汗)


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直径10cmは軽く超えるかな?

素晴らしい色合いは言葉に尽くせない。


作出者はメイアンでこれも昔からさまざまな

薔薇を作り出してきた名作出会社だ。

つまりフレンチ・ローズ。


こちらが実際のシャルレーヌ公妃

イメージがまさにぴったりだね。

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この北アルプスのふもと地方では昼夜の寒暖差が

とても激しいので、葉が少しうどんこ病になって

しまったけど、そんな事など何のその。

愛しい薔薇に顔をうずめてくんくん。。。

まさにヒーリングのアロマだ〜。


あ〜シアワセだあ〜!この瞬間をず〜っと

冬中待ち焦がれていたのだから。

神様ありがとう。。。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日もアクセスありがとうございます。

写真がね〜あまり上手くないけど雰囲気は

伝わるといいなあ。
posted by おとめ at 16:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小さな花園

2017年05月25日

恋人は赤い薔薇


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夫は赤い薔薇が大好きだった。さっそくお供えした。



薔薇や草花をこちらのマンションでも植えよう

と思ったのは、スーパーで買うお供えの花が

とても高いからだった。安い花屋さんが近所に

見当たらず、車で遠くのブラワーセンターへ

行かないと買えない。


こちらへ越して驚いたのは案外車社会

であることだった。女性の99.9%が

免許取得者だという。今更免許はとれないし

スーパーで何か買い物してもけっこう重く

なるし、歩いて帰るのもきつくなったので

大人用三輪車でも買おうかと思っている(笑)


昔はバスも走っていたようだが、今はほとんど

見かけない。大きい子供のいる家では一家に

3台くらい車がある家も珍しくない。


けれども圧倒的に人口が少ないので、大気汚染は

東京に比べれば話にならないくらい感じない。

たまに東京へ出ると空気が臭いのがわかる。


だから昨日の記事でも書いたように

気軽にお供えの花として飾れる花、それも

大好きな薔薇が咲いてとても嬉しかった。


そういえば昔あったな、こんな詩が:

my Luve's like a red, red rose
僕の恋人は赤い赤い薔薇

ロバート・バーンズ作

O my Luve's like a red, red rose
That’s newly sprung in June;
O my Luve's like the melodie
That’s sweetly play'd in tune.

ああ 僕の恋人は 赤い 赤いバラのよう
6月にみずみずしく咲いている
ああ 僕の恋人はメロディのようだ
甘い調べを奏でてる

As fair art thou, my bonnie lass,
So deep in luve am I:
And I will luve thee still, my dear,
Till a’ the seas gang dry:

なんと君は美しいことか 可愛い人よ
そして僕の愛もなんと深いことだろう
僕は君を愛し続けるだろう 愛しい人よ
海がすべて枯れ果てるまで

Till a’ the seas gang dry, my dear,
And the rocks melt wi’ the sun:
I will luve thee still, my dear,
While the sands o’ life shall run.

海がすべて枯れ果てるまで 愛しい人よ
岩が太陽に融けてしまうまで
僕は君を愛し続けるだろう 愛しい人よ
命の砂がこぼれ落ちている限り

And fare thee well, my only Luve
And fare thee well, a while!
And I will come again, my Luve,
Tho’ it were ten thousand mile.

さようなら 僕のたった一人の恋人よ
さようなら しばしの別れだ
僕はふたたび戻ってくる 愛しい人よ
たとえ一万マイルのかなたからでも

(おとめ訳)


ロバート・バーンズは「蛍の光」の

作者だと言えばわかりやすいだろうか。

この詩は非常にシンプルなだけに

よけい果てしない愛の深さを感じる。。。


私があちら側に行くときは

夫も一万マイル、いやそれ以上のかなたから

迎えに来てくれるだろうか。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつもアクセスありがとうございます。

みなさんに香りが届かないのが残念です。
posted by おとめ at 18:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 詩歌の世界

2017年05月24日

咲き始めた薔薇

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ベランダに真っ赤な薔薇が咲いた。

薔薇は鉢植えでも十分に咲いてくれる。


この薔薇は「クリムソン・グローリー」

1935年に作出されたドイツ薔薇。

作出者はコルデスという有名な人で

多くの薔薇を世に送り出した。


クリムソングローリーとは「深紅の栄光」

とでも訳せるかな?春の花なので「深紅」

というよりややローズがかっている。

この薔薇の本当の花色が出るのは秋だと思う。


そのかわり、素晴らしい香りがする。

「ダマスク香」といって昔の野ばらの香りを

そのまま受け継いでいちゃったりするのだ。


古くはクレオパトラの時代にも栽培されて

いたというのがそのダマスク薔薇だった。

それが十字軍によってヨーロッパへ持ち込まれ

他の中国やヨーロッパ、日本などの原種バラと

次々に混血されてさまざまな品種が生まれ

それが今日花屋さんに色々並んでいるバラ。


そういえばシュタイナーの瞑想に

「薔薇十字の瞑想」というのがあったな。

真っ赤な薔薇が7つ、真黒な十字架に

からみついているところを思い浮かべる

という瞑想で、ちょっと怖そうだから

やったことは無いしやる気もないけど。


私は薔薇が好きで好きで10代のころから

鉢植えで栽培してきたけど、今は匂いの強い品種

しか植えない。香りの無い薔薇は私には魅力が

ないな〜。お店で切り花として売られているのは

ほとんど無香なので自分で栽培できるのは最高に幸せだ。


寒い2月に大苗を通販で購入して、痛い腰を

さすりながら鉢植えにしたから可愛さもひとしお。


こちらの気候だと寒さで新芽が枯れてしまったり

ボーリング現象といって蕾が開かなくなったり

東京とは勝手が違ってさんざん苦労してしまった。

それでやっと真っ先に咲いてくれたのがこの

クリムソングローリー。


クレオパトラも好きだったダマスクの香りを

毎朝胸いっぱい吸い込んでセルフヒーリング。

薔薇の香りにはさまざまな効能があると言われる。

薔薇水は肌にもいいし、ハゲにも効くそうだ(笑)


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他の子達もぼちぼち咲き出した。



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今日もお読みいただきありがとうございます。

薔薇の香りに酔いしれています。
posted by おとめ at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小さな花園

2017年05月23日

誕生日の怪

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まあ、いつものことだけど、妹の誕生日会の朝

またあれが起こったんだよね〜(^^;


今まで何度も起きたけど、こちらに来てからは

これが多分2回目かな〜。


今はバスルームに三本のタオルがかかっているけど

そのうち一本で体を洗っていて、ひょいっと

後ろを振り返ったらもうすでに2本落ちてた。


いつもなんの気配もなく気づいたら落ちてる

って感じで、毎日お風呂に入ってるわけだから

自分が触ったりしたらすぐわかるけど、全く

触ってもいないし、だいいち落ちやすいなら

もっとひんぱんに普段から落ちる筈なんだ。


目の前で手も触れないのに突然スルスル〜っと

すべり落ちたこともある。動きがすごく早い。


で、いつ、どのような時に落ちるかと言うと

何か大事な事とかがある時で、一番印象に

残っているのはまだ以前のマンションにいた時で

夫のお骨を持って、まず義妹と落ち会うため

パリへ向けていざ出発、というその朝だった。

まるでそれは「気を付けていってらっしゃい」

という夫からのメッセージみたいだった。


その時はそれだけでなく他にも凄い事が

あったんだけど。。。今は書けない。


あとは今の物件を見に来たときとか、何かを

決定した時とか、他にも色々あったけど

タオルがスルスル落ちるのは、思い出すと

些細な決め事の時とかもあったように思う。


でも途中から何故か「スピリット」というものへの

不信感みたいのが湧いてきた時期があって、

全部偶然だろうで片づけていた頃だったから

そういうのはもう忘れてしまったけど。。。


不思議なんだけど、引っ越ししてきたのも

まるで導きだったけど、今のバスルームの

湯船とかシャワーの配置が以前のマンションと

そっくりで、タオルかけもそっくり同じ位置にあるの。


別に色々なマンションから選んで入居した

わけじゃないし、条件の良い物件はこれしか

無かったの。もう選びようがないというか

否応なくここに来るしか無いという事態に

追い込まれてこうなったわけだから。

元々物件の少ない所なんだよね。


だからあっち側が「ここが連絡しやすいだろう」

とでも相談して決めたみたいな気さえする。

なんだかこれだけ色々起きると自分たちの存在を

教えているとしか思えない。。。それとも何かの

エネルギーがそこにあるのか。。。


あともっと気になるのはまだ親たちが健在で

親子一緒にマンションに暮らしていた頃、その時の

マンションに今の新しいマンションの間取りが

酷似しているということ。部屋数はもっとあったけど

部屋の配置や雰囲気がまるで同じ。まあマンションだから

そういう事はあるさ、って言われればそれまでだけど。


今回は多分私がこちらへ来て、始めてみんなで妹の

誕生日を祝う、ということをあちら側が喜んで、そばで

いつも応援してるよ、っていうメッセージかも知れない。


この次はどんな時に落ちるのかな〜

馬鹿げたことに思われるだろうけれど

今度からもう少しまた注意してみることにした。


他にもいろんなサインというか、神秘体験は

あるので、おいおい書いていきますね〜。

まだまだ研究中。


とりあえず今日は堅い事無しということで

世間話風にまとめてみました〜(笑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも沢山アクセスありがとうございます。
あなたの不思議体験は何ですか?

Pさんメールありがとう。あとで返事しますね。

posted by おとめ at 19:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神秘体験

2017年05月22日

誕生日パーチー

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夫婦二人のツーショット撮りました。


数日前は妹の誕生日だったのでうちでパーチーをした。


ケンタッキーフライドチキンが食べたい

というので(笑)それを買ってきてもらい

オードブルやオープンサンドなどを

私が担当した。料理は下手の横好きww


スモークサーモンやゆで卵、生ハム、エビ

アボカドクリーム、カニのマヨネーズ和え

などなど好きな具をはさんで食べる。

パンは2種類用意した。


これ超お手軽でパーチーにおすすめ。

あとはそら豆のペルー風とか葉物サラダ

たこのカルパッチョ、塩豆腐のカプレーゼ

などなど、みんなあっという間にできる。


デザートはこれも旦那が買ってきてくれた

老舗マサムラのショートケーキ。あまりうまくて

写真撮らなかった。。。


料理をちょっとだけご紹介:

*そら豆のペルー風

そら豆を普通にゆでて、熱いうちに塩とガーリックパウダーをふる。
そら豆の匂いが消えておいしいです。

*塩豆腐のカプレーゼ

木綿豆腐のまわりに塩をまぶしつけて半日〜一晩おく。
その時ペーパータオルでくるんで水切りも兼ねる。

スライスして、トマトと交互に並べる。
オレガノ(またはバジル)塩コショウを振りバージンオイルを
かけまわす。あればブラックオリーブを飾る。

本当はモッツアレラチーズで作るんだけど、こっちの方が
ヘルシーで安上がり。塩豆腐はそのまま食べても
すごくおいしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もお読みいただきありがとうございます。
ところで誕生日の朝、また不思議現象があったので
それは明日書きますね。
posted by おとめ at 19:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 愛する人達と

2017年05月21日

親子猫

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久しぶりに撮ったうちの猫たち。

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仲の悪い親子でいつもケンカばかりしてる二匹。

広く空いた距離が断絶を物語ってる(笑)
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だけどこうやって見るとやっぱり

かわいいな〜。(親バカ)

・・・・・・・・・・・・・・・

いつもアクセスありがとうございます。

たまには短くしようと思って(笑)


タグ:猫の親子
posted by おとめ at 23:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 猫なで声

2017年05月20日

足音

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母の死別後、妹夫婦はとても不思議な

体験をした。二人とも霊だとか魂とかには

全くと言っていいくらい無縁だった。


義弟はマジメが歩いているという風な

信州人らしい実直で優しい人柄。

口は貝のように固く、働き者だ。


妹は神経が少し疲れていてひきこもりがち

ではあるが、料理をしたり洗濯したり

日常生活に問題はなく優しい性格。


この二人が実に不可思議な事を言いだした。

まず妹だが、私が引っ越しして間もなくのことだ。


「リビングでアイロンをかけていたら、誰かが

廊下を走ってこっちへくる足音がした」という。

「それはもうはっきりと聞こえた」


「廊下を走ってこちらへくる足音」で思い出した。

地球の裏側の夫の故郷でも姪っ子が亡くなった時

別の都市にいるもう一人の姪が「廊下を小走りに

走ってくる足音」を聞いたのだ。軽くノックの音まで

聞こえたという。思わずドアを開けた。


妹もこの姪っ子と同じことをした。

もちろん、そこには誰もいなかった。。。。


「昨日もまた足音がしただよ。私がシャワーに

入っていたら廊下をだれかが小走りに来て

リビングへ入って行った」


それでリビングで会社が休みの長男が

TVでも見ているのかなと思ったそうだ。


でもリビングへ行ったら誰もいない。

二階に部屋のある長男に聞いたら階下には

全然行ってないと言う。


「でも確かにはっきり聞こえただよ。

ヘンだな〜。。。。」


そのような事は以前私も何度も経験したが

妹にとっては本当に不思議だったようだ。

そういえば妹は私の夫が亡くなった時

ドライヤーから声が聞こえる、という体験をした。


その足音は毎日のように聞こえたが、妹は

「きっとお母さんだね」と妙に納得して

ちっとも怖がっていないようだった。


私もそれを聞いて安心したが、どこかで

「私があまりにおばけのクラスのことや

霊界のことを話してきたから影響されちゃって

単なる思い過ごしじゃないのかな?」と

疑いの心もあったことはいなめない。


お母さんを亡くした悲しみが、魂の存在を

信じさせているのかも知れない、とさえ思った。


けれどもあまりにしょっちゅう「聞こえた」

と言うので私も見過ごせなくなった。

「今日は聞こえただ?」

「今日はまだだじ」という会話が日課だった(笑)


それが単なる妹の幻想や幻聴なんかではなさそう

というのがわかる事が起こった。


あの実直な旦那がある朝ねぼけまなこをこすって

「きのうは眠れなかった」と言って起きてきたという。


「どうしたの?」と聞くと「誰かがそこの

ソファに寝てたようで、寝息が聞こえたんだ」

「えっ?だって〇〇(息子)はちゃんと部屋に

寝てたよね?誰だろう?」という会話になり

二人とも狐につままれたようだったという。


旦那は長男がうたたねしたら風邪をひくと思い

起き上がってリビングまで見に行ったそうだ。


長男は毎日夜中まで働かされ、昼食の弁当さえ

食べられずに持ち帰ることがほぼ毎日続いている。

私はこちらに来てから地方で働く若者の

悲惨な状況を目のあたりにすることになった。


そこはけっこう大手の外資系自動車会社

なのだが、やってることは実に汚い。というのも

TVのニュースで「過労死」が取り上げられると

そういう日に限って早く社員を帰宅させるのだ。


その事は今は書かないけれど、ともかく

旦那が「リビングまで見に行った」という一言

は彼の言葉を100%信頼させるに値するだろう。


更に妹の証言は続いた。

「ダイニングテーブルの椅子をひく音がした」

そうこうしているうちに旦那の方も「寝息」を

何度か聞くハメになった。そんなことが数か月

の間に何度も繰り返し起きた。


私はしばらく考えていたけれど妹に言った。

「お墓参りに行くしかない。ずっと行ってないし

49日の時はろくにお墓を掃除していないもん。

お義母さんはお墓の掃除をいつも気にしていたよ」


それで遠出をずっとしていない妹の気持ちを汲んで

一人で行こうとも思ったが、意外な事に妹も

「私も行く」と言ってくれたのだ。


母親は慣れない土地に嫁に来て色んな苦労の末

繊細な神経をすり減らしてしまった妹のことを

とても心配していた。心残りだったのだろう。

夫を亡くして一人ぽっちの私のことも。。。


無事にお墓参りは済んで、とんぼ帰りだったけど

なんとかお墓を綺麗にし、お花やお酒をたむけた。


するとそれ以来ぴたりと全く何も起こらなくなった。

「やっぱりお母さんだったんだね」


じゃ、母親の死後、私は何も不思議なことを経験

しなかったのか、と聞かれるかも知れない。で、

私の答えは「もちろん凄いことがありましたよ」だ。

けれどもそれはあまりに凄すぎて書くのはためらう。

そこまで頭がおかしくなったか、と言われるのがオチ。

そのことについてはまたいつか。。。


亡くなった人達はいつも私達を見ている。

けれども生きている私達が彼らの存在を思い

信じなければ彼らに私達が見えなくなってしまう。

何故ならすべてが思考による「想念」であり霊はその

世界にいて私達とつながるからだ。

私達の心にその「想念」がなければ何も伝わらない。

とシュタイナーは言っている。更に:


私達も死ねばすでに亡くなった人達に会うが

それはこちらの人生で縁のあった人たちに

限られる、と。

とりあえず救われる言葉だ。。。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。
あなたも不思議体験したことありますか?






posted by おとめ at 21:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | 神秘体験

2017年05月19日

大発見

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↓加筆しました。


ふだんは穏やかに過ごせているが

まだ死別後3年、悲しみの発作には

時々どうしようもなく襲われる。


それもあるがままなのだけれど。。。

そんな時は本当に不思議だけど

必ず助け舟が何らかの形で現れる。


その時の助け舟はシュタイナーだった。

「久しぶりに読んでみようかな」

シュタイナーからは見性体験後は全く

遠ざかっていた。彼にはどうしようもなく

うさん臭いところもあるからだ。

たとえば人種差別的であったことなど。


何気なくページを開くとそこには

驚くべきことが書かれていたのだ。

いつも思うんだけど、「導き」で書物

を開く時って必ずそのページがダイレクトに

開き、私が読むのを待っているのだ。

この時もそうだった。。。。。

なので素直にまた読み返してみた。


ここにその文章を引用しようと思う。

少し長いし人によっては難解で理解は

難しいかも知れないけれど、あとで

簡単な言葉で説明するつもりだ。


これは「神智学」という本にある

「死後の霊界における霊」という表題

の中にあった文章だ。


「いま霊となった人間は霊の形成する諸力を現実として体験する。
そこにいる思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容
もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を
感じる。霊的存在だけが自分に属すると感じられる。そして
自分の遺体をもはや物質としてではなく、記憶の中でのように、
思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に
属するものとして目の前に現れる。人は自分の肉体を外界の
一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。
もはや、自分の体的本性を、自分の自我に親和したものとは考えず、
したがってそれを他の外界から区別しようとはしなくなる。
外界全体の中に、自分がこの世で受けてきた身体をも含めて、
ひとつの統一性を感じるようになる。自分の受けてきた体も、
周囲の世界と一つに融合するのである。このように、物質的、
身体的現実の諸現像を、自らもそれに属していた統一体として
観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に
学び取る。人は自分に向って今ここでお前のまわりにひろがって
いるものは、かつてはお前自身であったのだ、ということを学ぶ。」
(高橋巌訳)


つまり、ここに書かれていることは禅や

アドバイタで言われている「悟り」(見性)

や覚醒体験そのものなのだ。自分という物質体

が無くなり、自分が外界と一つであったと気づく。

ただ一つの命だけがある、という事に目覚める。

それは私も経験したことだった。


さらにシュタイナーはこう書いている:

「しかし、こういうとき、それは古代インドのヴェーダンタの叡智の
根本思想のひとつを語ったことになる。『賢者』はすでにこの世の
生活の中で、他の者が死後体験するところのものを、即ち自分自身
が一切万物と同質のものだという思想を、『これは汝に他ならない』
という思想を、自分のものにしているのである。この思想は地上生活
においては思考生活の努力目標であるが、『霊たちの世界』において
は、霊的経験を通してますます明瞭になるひとつの直接的事実なので
ある。」(高橋巌訳)


なんのことはない、シュタイナーは断食だとか

辛い修行や座禅などしなくても、みんな死ねば

一人の例外もなく悟れるんだよ、と言っているのだ。


「インドのヴェーダンタ」とはアドバイタのことだ。

これは凄い。私はもちろん『賢者』どころか

「凡人」ということさえおこがましいような人間

だけれど、その世界をちらっと垣間見た。(見性)


何故私のようなものがロクな修行もなく、一瞥が

できたのかというと、そこには死別の「深い絶望」が

あったからだった。その時自分のすべてを捨て

生ける屍(しかばね)状態だったことはすでに書いた。

つまり一度死んだ状態だったといえる。


禅の修行などで座禅をやったりすることで

「我」というものを取っていくが、それも生きた

状態で死を経験することに似ている。何故なら

「死」というのは自分に属するすべてを捨てる

ことと同じことだからだ。従って禅の修行者は

家やモノや金や家族などの執着を捨てるのだ。

「悟り」というものを得るために。


私ははじめっから悟りなんて欲しいと思った

ことは無いけれど、このシュタイナーの文章は

別の意味で私を救ったのだ。それは「霊」や「魂」

を信じることが禅やアドバイタと全く矛盾は

しないかも知れない、という可能性(あくまでも

可能性だけど)が出て来たからだった。


何故なら私は「今の所」シュタイナーという人物

のある部分は少なくとも信じているからでそれは、

現在に至る霊媒主義や「スピリチュアリズム」を

広めていった他の誰よりも、彼のみが「科学的に」

真の霊魂の世界を解き明かしたと思っているからだ。


けれどもそれは私が全面的にシュタイナーに傾倒

していくことを意味しない。ただ魂の存在と

悟りの世界を一つに語った人間がいたという事が

嬉しかった。


禅やアドバイタではどういうわけか「魂」の存在

に対しての素朴な疑問を抱く人間を煙に巻く。

そういうものはほっておきなさい、と言われる。


私はそこがどうしても納得できなかったのだ。

確かに不思議な出来事は起こる。それは

「現象」として「幻想」とも言われる。

けれども確かにそこに存在するものなのだ。

それでずいぶん苦しんでいたのだった。


何故なら死別したものにとって、魂の存在を

信じることは立ち直りに不可欠だということを

どうしても頭から消し去ることができなかったから。


色々グレーゾーンもある「守護霊」とか「霊界」

「霊媒行為」といった事はひとまず置いておいて

「魂」や「霊」の存在だけはどうしても否定は

できなかったし、したくなかったのだ。


ちなみにシュタイナーは霊媒によって死者からの

メッセージを言葉で聞くことは不可能としている。

何故なら死者は言葉というものはどんどん忘れて

別の手段で伝達してくるからだという。そして

どうやったら死者とコンタクトがとれるかを

色々書いている。


そして当時の霊媒現象や交霊会などを批判している。

霊媒が伝える事は霊媒自身の中にある「潜在意識」

に過ぎないと。これは現在のミディアムには

あてはまらないかもしれないが、今でも彼らは

せいぜい必ず60%しか当たらない、と念をおす。

「せいぜい」、という事はほとんど当たらないことも

珍しくないということだ。その逆もしかりだろう。


話がだいぶそれてしまった。テーマを前にもどすと、

なんのことはない、死ねば悟れるんなら、今から

悟り、悟り、と騒いでいる輩が馬鹿みたいだよね。


「一瞥体験」(見性)をしたからって、それで

「非二元」というかいま見たものを「商品化」して

金儲けしたり聖人きどりになってる人も一杯いる

みたいだけど本当に浅はかだと思う。


せっかく覚醒したのなら、そういう人たちにこそ

早く目を覚まして、ただの人になってほしい。


この世は楽しみ、苦しみ、悲しみを味わうために

あるんで、そこから逃げようと悟りを求めたり

するよりも、神が与えてくれたすべての経験を

していくことこそ人のやるべき事という気がする。

つまり当たり前の暮らしをしていくこと。

与えられた試練をありがたく受けること。


ちなみにシュタイナーの本筋は霊や魂の世界を

どのようにしたら見たり感じたりできるように

なるかの「道」を教えたことだ。ただしそれは

とても険しく厳しい道だ。「我」=「エゴ」を

徹底的に磨いていく。ひたすら他の為に生きる。

などなどの修行があって、それを生半可にやると

危険なことになると言っている。精神鍛錬が

きちんとできずに霊界とつながることを急ぐことを

シュタイナーは強く警告している。ぼんやりして怪我を

したり、精神疾患になることもあるそうだ。


けれども彼の言う「修行」は私はもうしない。彼の

教えにはあまりに現実離れしたところもあるから。


長くなってしまうから、その事はまたあとで。

そんなわけでまたもや導きによって救われて

心はすがすがしさと感謝で一杯になった。


長い長い放浪に出ていたような気がする。

禅やアドバイタで「一つであること」は

充分に納得した。もうお腹が一杯だ(笑)

基本はそれで日々を穏やかに過ごしていく。


そしてまたこれから元の家にもどって、

ゆっくりと夫のいる世界を探索していこうと思う。

そしてそれはそのうちに私が行く世界でもある。。。

・・・・・・・・・・・・・・・

たくさんのアクセスいつもありがとうございます。

これでひとまず長い葛藤は終わりました。






posted by おとめ at 20:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | シュタイナー

2017年05月18日

年をとったら

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西洋のおばあちゃんの足。私のではありません。念のため(笑)



年をとったら (W.B.イエイツ)


年とって髪は灰色になり暖炉のそばでうつらうつら

居眠りしてるなら、この本を手に取ってみるといい

そしてゆっくり読みながら思い出してみよう

若き日の自分の優しげな瞳、その影の深さを


どんなに沢山の男たちがその優雅な物腰を愛しただろう

その美しさを愛しただろう、真心にせよ偽りにせよ。

けれどもその移ろいゆく心、老けゆく顔に浮かぶ悲しさ

それを愛してくれたのはただ一人の男だけだった。


赤々と燃える薪のそばに身をかがめながらちょっぴり

悲し気に呟いてみるといい。愛は飛び去ってしまい

かなたの山々の向こう、星屑の彼方へ

もう消え去ってしまったと。

(おとめ訳)



When you are old and grey and full of sleep, 
And nodding by the fire, take down this book, 
And slowly read, and dream of the soft look 
Your eyes had once, and of their shadows deep; 

How many loved your moments of glad grace, 
And loved your beauty with love false or true, 
But one man loved the pilgrim soul in you, 
And loved the sorrows of your changing face; 

And bending down beside the glowing bars, 
Murmur, a little sadly, how Love fled 
And paced upon the mountains overhead 
And hid his face amid a crowd of stars. 


このおばあさんは最後は悲し気につぶやいています。

「愛は飛び去ってしまった」と。

だからおばあさんに言ってあげましょう。


「いいえ、違います。

愛はそこにあります。あるんです。

愛がある限りあなたは大丈夫なんです。


禅坊主やクリシュナムルティが何を言おうと

スピリチュアリズムがあろうと無かろうと

そんなことは本当はどうでもいいんです。

私もわかっていながら書いているんです。


どんな聖人であろうと、仏陀であろうと

本当に愛した事のない人にはわかりません。

キリストが何を言ったか知りませんが

そんなのは気にすることはありません。


あなたの愛が真実であるならば

エゴの濾過されたあとの透明な滓で

その愛の燃えさしをまだまだ赤々と

ふたたび燃え上がらせることはできます。


その愛は変わらずあなたを癒しなぐさめ

不安や苦しみを拭い去ってくれるでしょう。


そしてその愛でみんなを照らしましょう。

暖炉のように。。。最後まで。。。


そこにはいつだって「存在」がいます。。。。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

W.B.イエイツはアイルランドの詩人です。
下手な翻訳ですみません。
この詩を読むと何故か泣けてきます。。。


posted by おとめ at 12:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 詩歌の世界

2017年05月17日

テレパシー

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テレパシーというのはある。

それはある種の見えないエネルギー。


たとえば私と妹はそれで繋がっている。

彼女がメールした同じ時間に

私も彼女にメールしている。

それが毎日起こっていること。


たとえば、明日引っ越しという日に突然

私は得体の知れない不安にかられた。

車の事故がある、という気がした。

折しもペットのために猫タクシーをチャーター

それで行く心づもりをしていた所だった。


背骨を圧迫骨折している体で5キロの猫を

二匹キャリーバッグに入れ、電車で出発など

到底できない相談だった。


それで、高額だったけど、ペットタクシー

を予約したのだった。けれども次第に

不安がつのっていき、打ち消そうとしても

「大丈夫かな?」という思いが心の隅から

消え去らないままタクシーに乗り込んだ。

忙しくてキャンセルするヒマもなかったから。


そのまま東京を出発したタクシーは走り

無事に目的地、妹の家に着いた。

一晩そこで泊まることになっていた。


玄関に入ると妹の靴や旦那の靴が

泥まみれになっていた。

「どうしたの?」と私は聞いた。すると

なんと私が来る前日交通事故に遭ったのだ

と言う。「心配するから黙っていたよ」と。


信号無視の常習犯にぶつけられたのだ。

車はへこみ、ヘッドライトは粉々になり

車体は田んぼに落ちておまけに

電柱にぶつかって止まった。

死亡事故になるところだったのに

二人はかすり傷で済んだのだった。


ぶつけられた瞬間二人の頭に浮かんだのは

「明日お姉さんが来るのにどうしよう?」

だったそうだ(笑)


一か月前に亡くなった母が守ってくれた

皆がそう言っていた。


別に不思議でもなんでもない。

見えないけれどそこにある。


特に愛する者同士の間でそれはある。

母と息子や娘、恋人同士、夫と妻。。。

もっともアンテナにもよるけどね(笑)


かつてある人とつながっていた。

彼女の心は白いデイジーのようだった。

私は彼女を深く尊敬していた。

どんぐりの背比べの世界で

彼女だけは本物だった。


けれどもある「システム」が彼女の才能

彼女の愛、彼女の魂を腐敗させ、さらに

私自身も腐敗していくだろう。。。

そんな予感がして私は彼女から去った。


とても悲しかった。

私が泣きながらメールをした時

彼女も泣きながら返事をくれた。。。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもアクセスありがとうございます。

あなたもなにかしらこんな経験ありませんか?
posted by おとめ at 20:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神秘体験

2017年05月16日

ラテンダンス

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本場のラテンダンス




最近いつも小難しい事を書いているので

ずっとしかめっ面してるのかと思われそう。


でも毎日好きな事をして、のんびり暮らしてる。

翻訳仕事もするけど、花を育てたり、縫物をしたり

けっこう家の中にこもってしまいがちだ。


当然運動不足になるので、そんな時は

好きなラテン音楽を聞いて踊ってる。


サルサ、クンビア、メレンゲ、チャチャチャ

どれもこれも踊りだしたくなる曲ばかり。

ロックも好きだし、フォルクローレも

クラシックも、ポップスも大好き。

でもラテン音楽が一番好き。


ラテンダンスというと日本人は知らない人が多く

だいぶ違うイメージを持たれているようだ。

でも今や世界中で踊られているクールなダンス。

それを知ってほしいな。


難しいステップは知らなくても大丈夫。

すぐその日から誰でも踊れる。


主人とよく踊りに行っていたので、しばらく

思い出すと悲しくて、ずっと音楽を聞かなかった。


でも思い切っていつかメレンゲやサルサを聞きたくて

聞いていたら、いつの間にか踊っていた。


メレンゲというのはあの卵の白身で作るメレンゲ。

卵を泡立てる時のリズムに似てなくもない。

元々はドミニカの踊りだが今は世界中で

老若男女に踊られている。


サルサは「ソース」という意味でキューバで生まれ

今ではラテンダンスのメイン。


田舎では先生はいないだろうな〜と思ったら

なんとこっちにもラテンダンスの教室を見つけた。

さっそく行ってみたら、これが楽しい!

家の中でクリシュナムルティ読んでるより

ずっと生きてる感じがした(笑)


何も考えずひたすら踊っているって

瞑想より精神安定に良いと思う。


またはまりそうだ。

夫が一緒に踊ってる気がした。。。


ラテンダンス踊ってみたい人はこれがおすすめ:
(初心者ステップ)

(メレンゲ)

(サルサ)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もアクセスありがとうございます。

ホラ簡単でしょ。あなたもカッコよく踊ってね。



posted by おとめ at 17:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽好き

2017年05月15日

飛び込む

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人生は悲哀、悲しみ、苦しみに満ちている。

幸せな瞬間はほんの少し、うちのスブタの肉みたいだ。(笑)


今幸せだと思っている人、お気楽に生きている人も

いずれは必ず「人生の悲哀」に出くわす。

そうでなければ、逆にそれは人生とは言えないのかも。


たとえばサラリーマンなら何十年も大して好きではない

ハードな仕事をし、周りに気を使い、肩書にこだわり、

履歴を気にし、嫌われないよう世間と同じことをし、

家と会社を往復し、忙しさで季節の移り変わりにも

全く気付かず、それでも家族を持ち、家族に金にモノに執着し、

常に現在に不満でより良い住まい、より良い状態を求め、

ついには病気になり、または愛する家族と死別し、自分も

あと数年の命となった時、自分がいかにからっぽで、

くだらない事に命を費やしてきたか、何一つ本当の事を知らずに

きたかを思い知って愕然とする。


少なくとも私はそうだった。人はそこになんとかして

意味をつけようとむなしい努力をするけれど、そこに

「希望」や「根性」や「道徳」「愛」などをくっつけて

むなしさを忘れようとするけれど、失敗する。


ある人は「神頼み」に行き、「宗教」や「オカルト」

などの世界に救いを求めるがどれも嘘偽りに満ちている。

どれだけ沢山の宗教や教義が人をだましてきたか。

そのためにお互いに殺し合って(今でも)きたか。


何故ならすべてが「自分」で成り立っているからだ。

「経験」「知識」「時間」の泥沼なのだ。


こう書くといかにも悲惨だけれど、初めからそう思って

そういうものだ、と理解していればいいのだと思う。


よくポジティブに生きようとか言うけれど、

そうではなく人生とは苦しみの連続であり

永久に続くものは何一つ無いのであり、

幸せな瞬間はほんの僅かということを悟れば

あるがまま「今」に生きる事を知るだろう。


さらに言えば色々な「苦しみ」に遭遇した時

そこから逃げるのではなく、すすんでそこへ

「飛び込んでいく」ことこそ生きるコツだと

私は思う。それは多分に禅的な生き方だけど。

そうすればもはやそこには苦しみは無くなる。


私は死別後ひたすら逃げていた。悲しみから

苦しみから、孤独から。。。ワークショップや

忙しい活動に逃げ、祈りに逃げ、瞑想に逃げ

自分に何かを教えてくれる物をひたすら求めた。


けれども今ではそんなことは何の解決にもならず

事態を悪くしてしまうだけだと気づいた。

幸いなことにOL時代イジメにあってから

私はある事を対人関係によってすでに学んでいた。


たとえば、私は自分の悪口を言ったりいじわるしたり

そんな可哀想な人に会うと嬉しくてたまらない。

何故ならそういう人たちは素晴らしい「先生」だから。

学ぶ絶好のチャンスがやってきたのだ。


そしてそんな人達をつくづく観察して見ると、

彼らは多くの苦しみをかかえていることに気づく。

すると彼らに対する憐みの心で一杯になるのだ。

それはいじめる人から逃げることでは無く

すすんで彼らの中へ飛び込んでいくことだ。

こうして私は私をいじめた人と友達になった。


そんなベースがあったから苦しみの中でも

クリシュナムルティを読んで共感し、禅をまた

勉強してみたりすることで、悲しみへの対処法も

次第に解決の糸口が見えてきたのだった。

「飛び込むこと」キーワードはそれだった。


対人関係はとても大事だとは思うけれど無理に

良い人ぶることは無い。嫌われないように良い人

を演じると必ずそこには「抑圧」という毒が溜まる。


人を憎たらしいと思ったら「コノヤロー」と心から

思えばいいのだ。もちろん面と向かって言ったり

殴ったりしないほうがベターだけど(笑)


そしてその感情を批判したり「怒るべきではない」

などと善人ぶらないことだ。するべきことはただ

その感情を味わい、その感情になりきり、その感情と

一つになる。私自身がその感情なのだから。


そして(ここが肝心なのだが)その怒りの感情の中に

何があるのかをひたすら見ていくのだ。そこからは

色んなものが出てくるに違いない。それをただ見つめる。


すると誠に不思議な事にその感情はいつの間にか

消えてしまうのに気づいたのだ。私の外側のどこかに

「怒り」という物体があるわけではないので、それを

消そうとしても無駄だということなのだ。


それなのに「反省」したり「私って怒りっぽいな」

と落ち込んだり、その怒りをしずめようとあれこれ

色んな事をしたり、そうなるといつまでもその感情を

引きずって苦しむことになってしまう。


「苦しみ」を「悲しみ」に変えても同じことが言える。

更に「孤独」を感じたらすすんでその「孤独」に

なりきる。孤独をとことん味わう。すべて同じだ。


多分ほとんどの人はそれが怖いために逃避しようとする。

映画を見たり、お酒を飲んだり、忙しい活動に

身を置いたり、大して面白くも無いTVを見たり

その他ありとあらゆることをして、「苦しみ」や

「悲しみ」や「孤独」などから逃げようとする。


人は孤独を恐れる。一人でいることができない。

必ず群れる、はじき出されることを恐れ媚びる。

そこには何の自由もない。むしろ絶対に一人で

いようと思ってもなかなかできはしない。


で、逃げ切れただろうか?ドライブやギャンブル

そのほか色々なことで問題は解決しただろうか?

全く解決していないはずだ。何故なら「あるがまま」

そこに留まる事を決してしないからだ。


けれど一人ある時、その状態をあるがままに味わい

変えようともせず、動かず、ただある時、もはや

そこに「孤独」と呼ばれるものは無くなってしまう。

そこには素晴らしい「自由」しかない。


自分を今よりマシな状態にしよう、と反省するのも

また自己中心的な考え方となってしまう。

そう、人は素晴らしい自分、浄化された自分、

人より数倍マシな生き方のできる自分、などが

欲しくてたまらない。。。それはすべて苦しみを

確実に自分の所へ運んでくるだろう。


なにも変えようとせず、ひたすらそこにとどまり、

そこにある感情を静かに見つめていく。

すると驚くべきものが次々に現れてくるのだ。

でも決してそれを批判はしない。反省もしない。

ただただそこにある真実を観察する。


何も欲しがらず、求めず、ただあるがままにいる時

私は「存在」と共にあり、そこには平和だけがある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日はちょっと長いですね。

もっと短くしようと思うんだけどなかなか。







posted by おとめ at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 苦しみについて

2017年05月14日

お日様の朝ごはん

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ホットケーキを焼いた。

お月様みたいだったけど

バターを載せて、蜂蜜をかけたら

きらきらしてお日様みたいだった。


小さく切ったオレンジもお日様の色。。。


友達のルースにもらった星の王子様のマグカップ〜

どういうわけか私の持っているマグカップは

もらいものばかりだ(笑)〜には

大好きなコーンスープ。豆乳で作り



お日様。。。太陽の光は昔から信仰されてきた。

それは当然と言えば当然だけど。

あらためて太陽の光のことを考えてみた。


植物は太陽の光で成長する。

その植物を草食動物が食べる。

その動物の肉を肉食動物が食べる。

その肉も植物も人間は食べる。


つまり肉食動物も間接的に植物を食べている。

もし植物が無かったらどうなっていただろう。

私達は植物を通じて太陽エネルギーを

食べているのだ。


肉を食べなくても生きていけるけれど

植物が絶滅したらみんなアウトだ。


最近は太陽光線が無くても人工的に

植物を育てることはできるようだけれど。

栄養的にどうなのかな?


実際は食べている時はこんな事は考えていない。

食べる時はひたすら食べる。味わう。

それが私のあるがまま。

やっとそれができるようになった。


夫と一緒の食事を思い出しては

泣いていた頃からはすごい進歩だ。


太陽の光を浴びるとメラトニンだか

セロトニンだか知らないが精神安定に良い物質が

分泌されるらしい。


確かに陽の光をあびると幸せな気分になる。

何故だろう。

最高のヒーリングだ。


太陽光線そのものが宇宙エネルギーだもんね。

でも紫外線にはご用心。ほどほどに。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おはようございます。

今日も太陽の光を一杯あびてヒーリング。
posted by おとめ at 16:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小さな食卓

2017年05月13日

スピリチュアリズムと霊媒主義

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SNUから送られてきた会員用資料。内容はあまり無い


引っ越し以来大きな変化が起こった。


私のブログやあるいは他の人のブログにも

あるかも知れないけどミディアムシップを受けて、

何がしかの不思議な感銘を受け、それからクラスや

ワークショップへ行き、自分もミディアムやヒーラー

になろうと勉強をする方が増えている。


私自身もあちこち行ってそうした勉強をしたのはすでに

書いた。今思うとそうした活動を行う事で悲しみから

逃れようというその一念があったと思う。


けれども母の死後、導きによって田舎へ引っ越して

8か月がたち、そうした活動が一切できなくなり、

悲しみとじかに向き合っていく中で

自分の中で大きな転換があった。


それは色んな活動をしていた頃よりずっと悲しみが減った

という事実だ。いえ、ほとんど回復したと言える。

それはスピリチュアリズムのおかげではなかった。

残念ながら。


私が若い頃からずっと勉強してきた「禅」や「非二元」

といった物をふたたび勉強していく中で得たものだった。

やはり「あるがまま」という考えに救われたのだと思う。


どんな活動で自分を忙しくしても、悲しみと真剣勝負で向き合い

とことん悲しまなければ悲しみは消えない、ということだった。


そこであらためて私があれほどはまっていた「スピリチュアリズム」

について考えて見た。あくまでも私の場合なので、他の人には

まったくあてはまらないことかも知れない。


確かに不思議なことは起こるし、それで「魂はある」

と思って救われる事も多々あったかも知れない。けれども

そうした現象は今の私たちが生きているこの世界と同様

あくまでも「幻想=現象」の世界なのだ。


瞑想を続ければ誰でも幻覚を見るし、音が聞こえたりもする。

スピリチュアリズムの瞑想を続けて行くといろんな物が見える。

「指導霊?」に会ったり、アドバイスをもらったり。。。

禅ではそうしたものは「魔境」といって一切しりぞける。

そこにはいつも「自分」がいるからだ。

だからいくら霊的能力が増しても幸せにはなれない。


「自分が」見た。「自分が」霊視をした。「自分が」浄化された。

そして(私の場合だけど)どんどんエゴがふくらんでいく。

スピリチュアリズムの勉強をつづけて、自分のエゴが巨大に

なっていくことに気付いてびっくりしたのだった。


「自分を」「浄化してエゴをなくそう」というのも大きなエゴなのだ。

何故なら「きれいな自分になりたい」というエゴだからだ。


「エゴ=自分」は「今」が嫌いだ。常に過去や未来を見ている。

そして今の状態では無い、他の状態へと動きたがる。


人は物事をそのままにしておくことができない。

私は大きくなったエゴでふたたび苦しんだのだった。


でもミディアムシップやヒーリングが好きで好きで

それだけで勉強するなら良いと思う。


趣味で手品や占いを勉強するのと全く同じだから。

私は引っ越し後もしばらく一つのクラスだけ行って

遊んでいた。「遊び」とやっと割り切ることができた。


あてっこゲームが単純に楽しかったからかも知れない。

今はもうやめている。お金が続かないから(笑)


けれども私は今ある「危惧」を感じている。

それは勉強やワークショップに行くことで

「悲しみから救われよう」としたり、苦しさから

逃れようと、自分の人生を賭けてしまったりすること。


すべてがビジネスなのだ。そこに気付いてからでも

全く遅くない。それに今の「スピリチュアリズム」

と呼ばれているものは本物のスピリチュアリズムとは

全く別物かも知れないからだ。この場合に限り

「無知」は敵だと言っておこう。


今いわゆるスピリチュアリズムと呼ばれているもの

その歴史はたかだか170年だ。

その発足もそれは「ハイズヴィル事件」というどこか

いかがわしさに満ちたもので、疑問点が沢山ある。


広めていった科学者達も自分の愛人を霊に見せかけ

インチキ写真をとったりメチャクチャだ。

私が信頼しているのはパイパー婦人だけかな。

それも真偽のほどは今となってはわからない。

それほど曖昧模糊とした「学問」ではある。


それは真のスピリチュアリズムとは全く「別物」と

私は思っており、今みんながそう呼んでいるのは

「霊媒主義」と呼んだ方がふさわしいように思う。


真のスピリチュアリズムについては今必死に研究中で

まだ詳しいことは書けないけれども、それは17世紀の

西洋哲学にまでさかのぼる。生きてるうちに理解できるか

それすらもわからない。それほどのものなのだ。

でも私は魂=聖なるモナドというものを全く否定はしない。


今さかんにワークショップなどが行われていたり

TVで〇〇〇の泉とかに出ていた有名霊媒が

(そのおかげで御殿を建てたらしいが)、その沢山の

著書に書いているようなスピリチュアリズムの

元を作ったのはイギリスの霊媒学校だ。


学校は色々あるが現在有名なのはAFC(SNU)

という学校で、昔の大金持ちが出資して作られた。

そこから世界へ「霊媒=ミディアム」達を大量に

生産・送り出している。

設立当時はかなり良心的だったらしい。


そこに私はついおととしの秋のコースへ一人で行こうと

迷っていたが、色々都合があわず行かず終いだった。


そして色々調べていくうちそこがすべてを組織化して

次第にスピリチュアリズムを大きなビジネス体系へと

持って行ったという事実が次第にわかってきて

その事が妙に心にひっかかるようになった。


日本人はあまり知らないけれど、英国では新聞などで

かなり批判されている学校だ。もちろん褒めている記事も

たくさんあるし、賛否両論だ。面白いのは英国の有名誌

サンデータイムズの記者が生徒としてそこへもぐりこんで

皮肉な記事を書いていることだ。英語がわかる人は

面白いので読んでみて。そこへ行くのがミディアム

としてステイタスのようになっていて、勉強している人は

みんなAFCへ行くのが夢になっている風潮がある。

現にかつての私がそうだった。(恥ずかしながら元会員)


でもここへきて何度も書いているが一番気になる事。

「そもそも精神的な世界ってお金で買うものだろうか。」

この一行が言いたいがためにこんなに書かなきゃならない(汗)


子供でもわかるそんな簡単なことにも気づけない状態に

人は陥ってしまうものだ。せめて高額のワークショップへは

お金の無い人は行かないでほしい。


私はよせばいいのに、Vというぼったくり会社で

エゴの塊のような(今思うと)D.L.というミディアムの

上級ミディアムシップコースで大金すっちまっただ。

(何故か突然信州弁)馬鹿ですよね〜。

お金が有り余っている人ならな〜んにも言わない。

どうぞ楽しんで下さい。


そういうぼったくりは禅もキリスト教系もカルトでもある。

何十万もとって座禅させるかと思うと無料の所もある。


けれども私がこう書いても金も無いのにワークショップへ

行く人は行くだろう。何故なら(ここがポイントです)

私たちには「自由意思」は無いからなのだ。


それは昔のギリシャの哲人やインドの賢人が

とっくに言っていることなのだが、驚くことに

最近科学でもそれが証明されそうなのだ。


すべての人は源によって動かされている聖なるロボット。。。

こう書くと曲解する人も出てくるだろうが真実かもしれない。

仏教や禅やアドバイタを突き詰めていくとそうなる。


だからミディアムになる人はなるだろうし、導きが無ければ

ならない人はならないだろうと思う。


けれども真に能力のある人は一握りに決まっている。

それが「私もなれる」と思わせるのがビジネスなのだ。


まじめな先生もたくさんいるし、人格者もいるでしょう。

けれどもスピリチュアルの勉強で金銭的なトラブルに

陥っている人が後を絶たない。


先日はTVのニュースでも話題になった。

結論はこうです:

もしあなたが「死別の苦しみをなんとかしたい」と思うなら

大切なお金を使って100回ワークショップへ行くよりも

一晩中ベッドで七転八倒して泣き叫んだ方が効果があります。


そして悲しみと共にそこにとどまってほしい。

そこから逃げないで下さい。

そうすれば悲しみから逃げていく。


私のいう事が残酷に聞こえるかも知れない。

けれども私は心底心配している。何故なら世間には

深い悲しみにいる人を食い物にする人は

いくらでもいるからだ。


もしスピリチュアルの勉強が生きる励みになるなら

予算が十分にあるなら、人助けの為にうんと勉強して下さい。


でも私みたいにビンボーならお金を使わなくても十分できる。

瞑想会、読書、無料勉強会など色々できると思う。


今の心境を正直に言うと、あれだけのお金を動物団体や

貧しい子供達に寄付していたら。。。という大きな悔い

それが私をいじめている(笑)


もっと色々と書きたいことはあるけれど、あまり書くと

差し障りがありますのでこのくらいにしておこうかな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もお読みいただきありがとうございます。
「流されないで」「見極めて」。。。

それしか言えない。



posted by おとめ at 19:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアリズム

2017年05月12日

ああ渡り鳥

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夕方ベランダでぼ〜っとしていたら

突然南から北へむかって飛んでいる

渡り鳥の群れを見かけた。


10羽に満たない小さな群れだったけど

雄大な翼をひろげて、整然と三角形をなし

ゆったりと飛んでいた。


写真を撮りそこなったので無料画像↑

あれは白鳥だろうか。それにしては

時期が遅い気もする。


ムクドリや雀に慣れた目には

素晴らしく新鮮で感動した。

生まれて初めて見たような感じ。

本当にカッコよかったのだ。


こっちに来てから今まで見た事の無い

自然や鳥や花を見ていると、そこには

本当に「見ること」だけがあって、

「思考」や「知識」の入る余裕が全くない。

つまり「自我」や「時間」が全く抜けた状態。


それはそのまま見る者と見られるものが

一体となった状態でクリシュナムルティの言う

瞑想状態となる。そこにはただ幸せ感だけがある。

何故なら「存在」がそこに在るからだ。


この状態をずっと保てると生きることはただ喜び

至福、愛、満足、感謝で一杯となる。


それは何も野鳥でなくてもいい。花でも猫でも

自分の子供の愛しい顔でも、電車の中の素敵な人でも。。。

良い、悪い、なんのかんのとジャッジせずに

ただあるがままに見ていることだけがある状態。

こんな時間をもっと増やしましょう。


それにしても渡り鳥カッコよかった〜。

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松本城のお堀の白鳥。これは私が写しましたがよく撮れてるでしょ?
奇跡。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

毎日300人もの方がブックマークから来ていただき

キンチョーしますが、また再開してよかったです♪

posted by おとめ at 19:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | そのまんまの日々

2017年05月11日

ヒーリング

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私はかつてヒーリングを勉強していた。

でも諸事情あってやめてしまった。


今はセルフ・ヒーリングをしている。

おかげですこぶる調子がいい。

というと聞こえがいいけど

ただ花をクンクンしているだけだ(笑)

ときには猫の肉球もクンクン。

肉球の匂いが好きって言うひとは多いね。


勉強していた頃、あるワークショップで

自称ヒーラーさんとペアになって向かい合い

相手の心を読むワークをやった。

彼女はお人形さんのようにカッコよくて

とても愛らしい女性だった。


けれども彼女の視線はウロウロと定まらず

心の中は迷いで一杯なのがわかってしまった。

彼女は若い人生に苦しんでいた。


私は彼女が心底可愛そうになった。

ひとかどの人間になりたいという我欲が

彼女を思い切り苛んでいた。


ヒーリングが必要なのは彼女自身だったのだ。

彼女を救ってあげたい気持ちで一杯になった。

でも私には何もできない。


たとえば「死にたい」という人がいても

「そうですか。色々あなたも大変でしたね。

どうぞあの世でもお達者で」としか私には言えない。


時々ネットでもよく見かけるが、天使だとか

宇宙エネルギーだとかバシャールだとかに

はまっているスピ系の人達ってたいてい

こんな風に考えているかも知れない:


フツーの人生じゃつまらないし〜

これまで辛い事一杯あったしぃ〜

私はフツーの女の子と違うんだし〜

スピ勉強にいっぱいお金を使っちゃったし〜

ちょっとくらい元をとってもさ〜

バチは当たらないよね〜?

うんぬんかんぬん。。。


むしろ何も求めず、期待せず、ただ楽しいから

勉強してるという人に私は心から拍手を送る。

カルチャーセンターのように楽しめばいいのだ。

そういう人には我欲が無いから「存在」が

入りやすくなるかもね〜

あくまでも「かも」だけど。


それなのに人の為で、お金の為じゃない

とか綺麗ごとを言って我を守りながらしかも

お金をとるから、ややこしくなってしまう。


「肩書」を増やそうとあちこちウロウロして

あれこれ「伝授」されてる時、あなたは

限りなく「存在」から遠い所にいるだろう。


逆に人生の同じ時間に、老人を優しく介護したり

死にゆく人の手を握ったり、みんなの幸せを祈ったり

大して面白くも無い仕事や肉体労働を一生懸命やったり

子供たちや猫と遊んだり、自然の美しさにただ感動する時

あなたは「存在」のすぐそばにいて祝福される。


そこにはただ喜びしかないだろう。

あなたは「存在」のエネルギーを感じ取れるはずだ。


それは「ヒーリング」なんかとは似ても似つかない

果てしない永遠の今の愛だ。それは「売買」できない。

そこにつながった時あなたはただそれだけで生きていける。

もちろんそれを追い求めて猫と遊んでもダメだけど(笑)


「我」のあるところに「存在」はやってこない。


あなたが真にからっぽである時、「存在」はいる。

あなたがどんなに集中しても、乞うても

あなたからそれに近づくことは決してできない。


お金を稼ぎたくて勉強してるならそれでいいじゃない。

相手が授業料を取る限り「ビジネス」なんだから

その「エネルギー」を「買う」人がいる限り。

「資格」をとる「お教室」なんだから。

それに対してギルティに感じることは無い。

堂々と商売すればいいじゃない。


でもそこに妙なヒューマニズムや人助けや

ボランティア精神などを持ち出して美化し

自己を守ろうとすればそれは「存在」への

冒涜となるだろう。


それでは本物のヒーラーなんかいるのか?

と問われれば私は「いる」と答える。

昔ダスカロスという人がいたっけな〜。

真偽のほどはわからないが、イメージとしては

そんな感じの人。キリストもそうだった。


本物のヒーラーとは歩けない人が歩けるようになったり

盲目が直ちに治るといったあのヒーラーのことだ。

ただ何百年に一人か二人の割合じゃないかな〜

という気はする。


その人は「存在」に一番近い人であり

自分を捨てた人だ。もちろん

ネットで宣伝なんかしていない(笑)

生まれつき天と約束した人だ。

そして「存在」が彼(彼女)を使う。

決してその人の力なんかじゃない。


その人のヒーリングを受けるには

「存在」が許可した人しか行かれないだろう。

お金を何十万払っても、その人には会えない。


彼(彼女)は人生でただ人の為に生き、

まわりの人を無償で癒し、そして死ぬ。

死後、その周りにたくさんの人間が集まり

その存在を神格化する。ただ普通の人だったのに。

誰かが「私は一番弟子だった!」の名乗りをあげる。

そして時にはこんな風にして「宗教」が出来ていく。。。


それじゃ病気はヒーラーさんに治してもらえないの?

私が少ない脳ミソでわかっている限りでは

人は「存在」が決めたとおりに生きて死ぬんだ。

主導権は常に「それ」にある。


生涯フライドポテトを山のように食べて

100歳まで長生きした人もいると思えば

(うらやましい)

ちょっとの傷で死んでしまう人もいる。


私の祖父のように胃潰瘍が治ったのに

ただの盲腸炎で死んでしまう人もいる。


たとえヒーラーさんが何をしてくれようとも

治る時は治るし、そうでない時もある。

でも「存在」はそこまで無慈悲ではない。


その証拠にヒーリングエネルギーはタダで

私達のまわりに一杯充満している。

私は毎日それを感じられるようになった。

あなたにも感じられる筈だ。その気になれば。


なにも高いお金を出してなんとかレメディや

なんとかエッセンスなんて買わなくても。


あなたが思考や、忙しい活動や、

未来や過去で頭が一杯の時は

そのエネルギーを感じられない。


そしてまるきりタダだと人は信じようとしない。

これが実にフシギなんだけどね。


それは一輪の花に、霞む山々に、飛んでる蝶に

流れる清水や、顔を撫でるそよ風に、一杯のお茶や

顔を無心に洗っている猫の姿に、潮風に。。。。

都会の人なら窓からこぼれる月の光に。。。

無数に、限りないヒーリングエネルギーはある。


そういうのを利用しない手はないでしょ?

何も宇宙からわざわざ持ってこなくていいんだよ。

宇宙があなたであり、猫であり、花なんだから。


こうしたエネルギーは日々破壊されつつある。

排気ガス、農薬、ゴミから出る毒、工場廃棄物

そして核燃料問題。。。。。

歩ける所をわざわざ車を使う。。。。。

なんでもパック詰めにしてゴミを増やす。。。


空気をどんどん汚しておいて病気になって

ヒーリングビジネスが盛んになる。

なんて世話なしの馬鹿げたサイクルだろう。


存在がくれた素晴らしい癒しのエネルギー

それを生かすも殺すも私達次第なんじゃないかな?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもお読みいただきありがとうございます。
あなたもタダで癒されてね♪






posted by おとめ at 19:02 | Comment(2) | TrackBack(0) | 癒しについて

2017年05月10日

やっとあったかいずら〜

こっちへ来てから本当に春が来るのが遅かった。

つい4月終わりまで肌寒くてセーター着てた。

でも五月に入ったとたんやっと春!って感じ。

東京はもう初夏なのに。

さて〜信州は百花繚乱

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おだまき。

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野生のスミレ

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これも野生化したスズラン

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芝桜はそろそろ終わりだね〜

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裏の畑にある見事な藤。舞子のかんざしだね♪

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キンポウゲ?よくわからない。

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大好きなおきなぐさ。こっちでは「ちごちご」という可愛い名前で呼ぶ。

ついでに宮沢賢治の「おきなぐさ」↓

5分で読める童話だけど、愛や宇宙や生や死が

ぜ〜んぶ入ってる深いお話いかが?


あなたの心もほっこりしますように。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もアクセスありがとうございました。

なんだかとってもいい気分。


タグ:信州の春
posted by おとめ at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | そのまんまの日々

2017年05月09日

いちご

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いちごもそろそろ終わりかな〜。

今食べない手はないよね〜。

今朝はシリアルに載せて

豆乳をかけて食べたよ〜。


ミンボー人だから

大きないちごは半分に切った(笑)


最近なんだか難しい記事ばかり書いてるけど

私はフツーのおばさん、じゃないおとめで

こんなビンボー暮らしをしているだけ。


すべてあるがまま、エネルギーが体を動かし

どこからともなく言葉がやってくる。


きっと理解できない人はいっぱいいるだろう。

私だってまだまだわからないことだらけだ。

一人でもなんとなくわかってくれる人がいれば。。。

そんな気分で書いている。

書けるだけ書いたら終わり。


毎日自分がすごいスピードで変化している。

見る物がすべてが自分に変わりつつある。

すべて、すべてが自分なのだ。

それでいて今までの自分はどこにもいない。


そこに何の抵抗もなく、したがって

エネルギーの無駄使いも無く、悲しみを

じっと見つめることで悲しみは濾過されて、

ただ純粋に愛だけが残っている。


境界線なんて無く、ぜんぶ繋がっている。

それがわかったとき大声で笑いたくなった。


終わりも無く初めも無い。時間は無い。

誰も生まれないし、死にもしない。

「存在」が私の命を生きている。


あなたにそれを伝えたいのだけれど、むずかしい。

それはただそこにあるのだけれど。。。。。

自我にとらわれている限りそれは見えない。

ただ、いつかあなたにもそれが訪れますように。


・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もアクセスありがとうございます。

いちごおいしかった〜♪










posted by おとめ at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小さな食卓

2017年05月08日

生きながら死人となりて

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「生きながら死人となりてなりはてて

思いのままにするわざぞよき」

志道無難禅師 「即心記」


この言葉がしみじみわかる方は多分、

私と同じように一度は苦しみを究極まで味わい

そして今、限りない平安の中にいるのだと思う。


私の場合は死別によって一度自分も死んだ。

それは七転八倒の地獄の苦しみだった。


そのおかげ、と言ってはおかしいが、まさに

その悲しみのさ中に不思議な事が起こった。


それは、今まで自分が大切にしていたもの、

価値があると思っていたもの、好きな家具や

お金や、希望や、仕事への意欲やそのほか

ありとあらゆるこの世で自分を支えていたもの

そうしたものに一切の執着が無くなったのだ。


それが「生きながら死人となりてなりはてて」

の意味だろうと思う。死人(しびと)になるとは

この世との自分にかかわりのある一切を捨て去ること。


実際肉体的に「死ぬ」ということもそういうことだ。

愛する家族、ペット、好きだった数々の品、

そうしたものと完全に決別することだ。

クリシュナムルティも全く同じことを言っており、

一度すべてを手放してみると人は全く新しい

素晴らしい見地が開かれると言っている。


そして私に起こった事はその言葉の通りだった。

その時自分に死というものへの恐怖が全く無くなり

どういうわけか深い悲しみの中にいるにもかかわらず

今まで自分を悩ませていたあらゆる諸問題に対して

心が限りなく自由になったのだった。


今までのように執着しなくなった、と言っても

一切合切、家具から猫から全部をゴミ捨て場に

出したわけではもちろんない。それはできない。

あくまでも「心理的に」捨てた、ということだった。


ペットを愛していないわけではないし、すべてが

嫌いになったわけではなく、ただ「執着」しなくなったのだ。

それはもちろん、ある種の一時的な悟りに過ぎなかった。


それ以降また「迷い」や「自己憐憫」の気持ちが起き

紆余曲折あったし、物欲もお金に対する執着も

次第に戻ってくるようになった。


それでも今は死別以前よりは心は平安で、何が起きても

そのまま柔らかく受け止められるようになった。

その結果、苦しみや不安はほとんど無い。


けれども時々あの死別直後の、何物にも代えがたい

あの果てしなく自由な気分、悲しみの絶頂の中にも

一切の恐怖が消えたあの瞬間を懐かしく思う。


すべてを捨て去った後、生まれ変わったようになって

ただただあるがままに生きて行くその空の感覚。

それは「やけくそ」のような刹那感とは違う。

それは「死別者の悟り」だった。


執着が無い所に「恐怖」は無く、したがって一切の葛藤

と呼ばれるものは無くなるだろう。

けれどもそれは断捨離のように、無駄なものを捨てて

シンプルな暮らしをしなさい、ということではない。


それはただの物質的な見かけに過ぎない。

「私って物欲がないのよ。ほら、見て」と言っている

ただの自我の表現に過ぎず、ファッションだと思う。


今死別の苦しみの耐えがたさの中にいる人に

これだけは言いたい。

あなたの感じているその悲しみこそがあなたを救い

「真実」を教えてくれる神の愛なのだと。


そうして、何もやる気がおきず、食べられず、

やせ衰えて、夜は全く眠れず、泣いて目を覚まし、

残された家族の事も考える余裕さえも無い時

その一切の欲望から自由なその状態にとどまって

そしてただただ思う存分悲しんでほしい。

実際それしかできない筈だ。


「泣いたら亡くなった人が悲しみますよ」だの

「気晴らしに温泉でも行きましょうよ」などの

殊勝な世間の言葉に煩わされないでほしい。

そういったことはただ苦しみを長引かせるだけだ。


グリーフケアなどへ行きたければ行ってもいいだろう。

あなたが心から行きたいと思うなら。けれども

良い結果を期待したらがっかりする筈だ。


誰も、どんな手段もあなたの悲しみを癒すことはできない。

あなたを癒すのはあなたの悲しみそのものなのだ。


思う存分悲しんでその悲しみと一体となり

これ以上悲しめない所まで悲しんだ時。。。


それが何か月だろうと何年だろうとかまわない。

神様は悲しみに期限など設けてはいない。

「もうそろそろいい加減にしたら」、などという

残酷な言葉は神様は持っていらっしゃらない。


その間、その悲しみを見つめ、味わうあなたは

ヘタな生臭坊主より修行をしているのだ。


あなたが行きつく所まで行った時、灰の中から

不死鳥が生まれるように新しいエネルギーが

きっときっといつか生まれてくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもアクセス感謝です。

本当の事、これからも書いていきます。




posted by おとめ at 19:07 | Comment(0) | TrackBack(0) |

2017年05月07日

瞑想について

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私はクリシュナムルティをかなり読んでから

今まで自分が確実に「真実」だと思っていた

色々な観念がいかに馬鹿げだ幻想であったのか

ということを思い知らされることになった。


彼は「修行」やスピリチュアルクラスなどで行われる

いわゆる「瞑想」が、ただ精神を鈍く愚かにする

だけで、背筋を伸ばしたり、規則正しく呼吸したり

「守護霊」に会ったりマントラを唱えたり。。。

と言ったことがいかに時間の浪費であるかと言っている。


それを読んだとき大変ショックを受けた。

何故ならその世界に自分が身を置いていたからだ。

彼はこうしたことすべてを脇へのけてしまう。


私はまだまだ不勉強なので、霊魂の存在とか

不思議体験とかそういったものはあったのだし、

霊界はあるとか、それは誰にも証明はできない事で

それを否定もせず、肯定もせず、そのままあるがままに

放っておけばいいと思うようになった。


何故なら「霊界うんぬん」を言うよりずっと以前に

自分が死ぬことなどありえない、とわかったからだった。

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けれども瞑想についての彼のその言葉の真の意味は

少しづつではあるがわかりかけてくるようになった。


通常の瞑想ではある規定通りの呼吸をして心を静めてから、

先生の指導によってある一定のイメージを心に浮かばせ

そのイメージの世界で「自分が」ある意味「行動」する。

その世界で「守護霊」に会ったり、守護霊から贈り物を

もらったり、啓示を受けたりする。


しかしいま真に自分に正直になって考えると

それらはすべて自分の想像の世界に過ぎなかった。

瞑想中に「会った」「守護霊」とはすべて

自分の無意識または想像力の産物だったのだ。


太ったおじいちゃんや薄物を着た美女。。。

古代インデアンや、太古の魔術師。。。

すべては「自分」の世界であり、自分の経験

知識、苦しみ、悩み、不安。。。そこから

湧いてくる「映像」に過ぎなかった。


守護霊からもらったとするメッセージも

自分の潜在意識から湧いてくる「願望」だったり

自分が受けたい「慰め」だったりした。


つまりこの手の瞑想をすればするほど

自我=エゴがどんどん膨らんでいくことになり

私の心は一向に静まらないのだった。


断っておくと、これはあくまでも私の場合で

他の人の事は知らない。正真正銘「守護霊」に

会ったのだという人はいるかも知れない。

その人達のことまで私は何も言いいたくはない。


ただ私は自分が経験した事のみ正直に書いている

それだけのことだ。


だから少なくとも私が会ったのは正真正銘の

インチキ守護霊だった(笑)誠に情けない生徒だった。

スピリチュアリズムの勉強で私は実に不謹慎な生徒で

やめて大正解だったのだ、というのがこの頃やっとわかった。


クリシュナムルティが言う「瞑想」は普通の瞑想とは

全く違うものであり、私は現在はずっとそれを実行している。

それは呼吸を整えることでもないし、きちんと座る事や

背筋をのばして目を閉じることでもない。


それはけっこう難しく、うまくいかないことも多い。。。

たとえば一輪の花を見る時、本当にこの一瞬の

その花そのものを見て、何も思考や知識が無い時

そこにはただ花を見ることだけがある。


その時、この花はナスタチウムで和名はキンレンカ

葉も花も実も食べられる。。。などという「知識」が

お出ましになるとたちまちそこには思考が戻って

花そのものへの気づきがすっかり鈍ってしまう。


あなたは全く花を見ていない。知識に汚染された花を

見ているだけだ。そのようなものをすべて脇にどけて

生まれて初めてその花を見るように見て見る。


そこには純粋に見ることだけがあり、心は

限りなく鋭敏になり静かになる。

それと同時に自分の思考に注意をしていく。

思考がどのように動いてもそれを批判したり

なんとかしようとせず、それと共にあり

思考を無理に止めようとせずそのメカニズムを

理解していく。これが実に難しい。


こういったことがクリシュナムルティの「瞑想」だ。

花を見ているだけがある時、それは「存在」が

自分を通して花を見ているのだ。


もっとわかりやすく言えば、思考=自分が無い時

そこには神様がいるのだ。神様が私を通じて花を見て

神様が花の美しさを楽しんでいるのだ。神様という言葉は

誤解を招くのであまり使いたくはないのだが。


もし頭の中が「知識」や「世間体」や何かの「教義」や

「何かになろうとする意欲」すなわち「自分の事」で一杯で

新緑の木の葉一枚もじっくり見ることができないなら

彼の言う瞑想はできなくなってしまう。


けれどもうまくできると限りない平安がそこにある。

もう何も欲しがらず、何も求めず、ただあるがまま

ただそこに、この瞬間を見る「存在」だけがあり

「自分」はもうどこにもいない。


何故ならたとえば一輪の花を見る時、それと

ただ一つになった時、それを見ているのは

私という自我ではなく「存在」そのものだからだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もアクセスありがとうございます。

うまく書けませんが、ただあるがまま書いてます。

わかっていただける人もきっといるでしょう。

















posted by おとめ at 19:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | クリシュナムルティ

2017年05月06日

真実の人

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本はボロボロです(汗)



始めてクリシュナムルティを読んだとき

全く理解できず、ちんぷんかんぷんだった。


それ以上に「なんだかイケスカナイおっさんだな〜」

と思っていた。どうしてかと言うと、彼の著作には

ほとんど、と言っていいほど彼の顔写真が載っていて

「この人ナルシストじゃないの?」と思ったからだった。


けれども読んでいくうちに「すごい事を書いている」と

段々にわかってきて、その後はもっと次々読みたくなった。


たとえば彼は「絶対的な平等」について書いている。

それは共産主義とも社会主義とも違う。

それはただの物質的な平等を目指したに過ぎない。

そして失敗した(当然)集団エゴの残骸だ。


彼はどんなイデオロギーからも自由だ。

どんな宗教からも自由だ。「神」からでさえ。

それと同時に人間に不幸や苦しみをもたらすもの

ありとあらゆる苦しみの根源を見つけ出し

その息の根をとめようとした人だった。


彼の洞察は鋭く、時に読者に厳しい行動を要求する。

しかし貫かれているものはただただ人への愛だ。


始めてクリシュナムルティを読む人で、すぐに

彼の書いていることを理解できる人は稀だろう。


けれどももしあなたが真に心が平安であるとは

どういうことなのかを知りたいのなら。。。。

「存在」について知りたいのなら。。。

インチキやごまかしや詐欺や嘘、から解放され

まっとうで純粋な霊的真理を知りたいのなら、

彼の著作をめげずに読んでいってほしい。


めげずに、というのは彼はあなたが自分自身の中の

一番見たくないものを見なさいと言うからだ。


そうすればそのうちに彼の言葉が真実であること

ただ真実だけを書いているのだ、という事がわかる。

冬にゆっくりと氷が解けていくように。。。。。


彼は若い頃から90才で亡くなる直前まで

どの著作でもブレずに大体同じ事を貫いているので

自分に読みやすいものから入るといいと思う。


彼は若い頃、神智学と関係したある団体の救世主

に祭り上げられたトップですらあった。神智学は

日本のスピリチュアリズムの元を作った浅野和三郎や

今の時代では江原啓介などに影響を与えたとされる。


自らそこを解散したのはさぞ勇気のいることだったろう。

彼は「組織」を作る事を何よりも嫌った。


しかし実は彼は花や鳥と会話したり、意外にも

ヒーリングもできたひとだったという。


しかし彼はそういった事についてほとんど触れていない。

その能力のことはひた隠しにしていたようだ。


彼の著作を理解した時あなたはきっと知るだろう。

本当に自由になるとはどういうことなのか。

自分が存在するとはどういうことなのか。


また知識や教養というものがいかに真実を見る目の

大きなさまたげになるか。知識を並べ立てる人間ほど

真理を全くわかっていない、と彼は言う。


彼をいくら読んでも「どうすればあなたは幸せになるか」

という方法論は全く書いていない。いわゆる安易な

ハウツー本ではない。だからそういうものを求める人

にとっては彼の本は何の役にも立たないだろう。

彼はあくまでもあなたに自分の足で立つことを要求する。


何故なら「どうすれば〜になれるのか」という事自体

「今」の自分のあるがままを捨てて何かになりゆくことを意味し

そういうものを求めることがそもそも不幸の源泉だからだ。


それを理解した時人は本当に「あるがままに生きる」を知り

真の自由という事がどういうことなのかがわかる。


かれのあるがままは禅でいう「即今に生きる」と

全く矛盾していない。しかし彼は禅とは何の関係も無い。

インドの人だがインドの神々とも無縁だ。

キリストとも仏陀ともどんなグルとも無縁だ。

どんな偶像ともいわゆる「神」とも無縁だ。

悪魔とも天使とも罪や罰とも完全に無縁だ。


「本当のこと」とは宗教やイデオロギーを超えて

たった一つしかないのだということを人は悟る。

その時自分というものをそっくりそのまま愛し

同時に世界のすべてを愛することだろう。

何故なら世界はあなただからだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

我ながら理屈っぽいこと書いてるな〜。

何かのエネルギーが入ってて止まらないんですよ〜。

フシギです。ま、あるがままってことで。








posted by おとめ at 20:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | クリシュナムルティ

2017年05月05日

ベランダで朝ご飯

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ささやかなオープンカフェ♪


ベランダで朝食が食べたい!と思うと

無謀にもすぐに実行する私(笑)

でも洒落た屋外用のテーブルも椅子もない。

そこで、くたびれた椅子を二つ持ち出して

にわかカフェスペースを作ってみた。


巾90cmの狭いベランダ。典型的な

団地サイズだけど、けっこう楽しめる。


カフェオレとあんずジャムを塗ったパンとオレンジ。

香りが違う、味わいが違う!

質素な朝食が何倍もおいしかった〜。


鳥の声がする。花の匂いがする。

チューリップは終わってしまったけど

ユリが芽を出し始めた。

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薔薇たちがやっとつぼみをつけた。

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妹の庭から持ってきたミントが根付いた。

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大事な白いゼラニウム。私のプリンセス。

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植え付けたばかりのロベリア

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柵にとりつけたプランターには
マリーゴールドとペチュニア

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ラディッシュが可愛い芽を出した。

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右の白い花台はダイソーのスノコと箱、古板で作った。

こういうビンボー臭いことするの好きなのよねww

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Pちゃんにもらった大きなマグカップ。

手前は私の膝(笑)


そのままのベランダでも十分良かったけど

でもちゃんと「神様」はこうして私に可愛い

ベランダカフェを下さった。


あなたは「引き寄せの法則」信じてる?

私はあの本を読んだとき笑ってしまったよ。


あなたは願いが叶った時、それをもはや

望んではいなかった、という経験はないだろうか。

引き寄せない時にそれはやってくるんだよ。

まるで逆なんだ。


何も望まず、期待せず、あるがまま

そのままの現実を味わっていれば。。。

それは無理に「受け入れる」こととは違う。

「耐え忍ぶ」こととも違う。

ただ何も考えず味わって生きる。


人生は苦しみ、悩み、悲しみで一杯だ。

幸せはほんのちょっぴり。それが真実だ。


どんなに楽しそうに見える顔でも

どれだけの苦しみをかかえていることだろう。

それならばそのちょっぴりしか無い幸せを

思い切り大事にしよう。


ぼ〜〜っとしていたらおっと足長蜂が!

あわてて退散、カフェオレも終わったし、

リフレッシュできたし、潮時かな。。。


すべてが変化し、動いている。

そのエネルギーを思い切り吸い込んだ。

ベランダはまだまだこれから進化するだろう。


もしあなたがベランダをお持ちなら

色々難しいことは考えなくても

手持ちの椅子を持ち出して、座ってみて。

その変化に驚くはず。


とりあえずのオープンカフェおすすめです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もアクセスありがとうございます。

忙しいからこそ、ちゃんと朝ご飯食べたいね。



posted by おとめ at 20:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小さな花園

2017年05月04日

スマホの画面について

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スマホの画面を見てびっくりした。

画面の「関連する記事」とあってその下に

私が書いた記事では無いものが一緒に並んでいる。

「関連する」ってどこが?


右端に小さく[AD]とあるが、それを見落とせば

「人生は誕生日で8割決まっている」だの

「当たり前過ぎて怖いほどの占い♪」なんてのが

私が書いたものと誤解してしまうだろう。

特に私のように老眼だとその可能性は大。


私が書いた記事は真ん中の「見えないもの」だけだ。

問い合わせをしたらそれは削除できないとの事。

Seesaaブログは書きやすくて好きだったのに。

無料ブログだから仕方ないと言えばそうだけれど

ちょっとひどいんじゃないですかね〜。。。。。


スマホ画面ってどこのブログでもそうなのかな?

私はスマホが嫌いなのでよくわからないけど。

そこから来てくださる方も多いと思うので。


PR表示については問題ないのよ。

でもそれをあたかも関連記事のように見せてるのが

改善できないとなると、ちょっと考えちゃう。


最近本腰入れて書き出しただけにこの対応には

本当にがっかりだ〜。

やっぱりブログ引っ越ししかないのかな〜。

・・・・・・・・・・・・・・・・

にもかかわらず沢山のアクセスありがとうございます。




posted by おとめ at 20:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | そのまんまの日々

2017年05月03日

春の宵の食事会

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今日のカルパッチョはよくできた。

おいしい日本酒を持ってきてくれたので

それに合わせてソースに梅をたたいて入れてみた。

好評でした〜。


ペルーのおふくろの味。牛肉のソテー「ロモサルタード」
これは集まりの時の私の定番料理。売り切れました〜。
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写真の写りが悪いけど、フライドポテトが入ってて超おいしい。

牛肉はステーキ用の良いものを使ってね。

TVでも紹介されていたけど、クミンしか使ってなかった。

オレガノ、チリ、ガーリックも入れないと。

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信州の美酒、ちょっといただいたよ。
まろやかでおいしかった〜。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もアクセスありがとうございます。

ヒック!
posted by おとめ at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 愛する人達と

2017年05月02日

キャンパスの八重桜

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松本歯科大学

八重桜を見に連れてってくれたよ〜

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広〜いキャンパスに八重桜が一杯。

お花見の名所へ行くと

人ばかりで花は見られないし

ここは穴場だからって信州人が言ってたよ。


でもほんとはね〜私がソメイヨシノを見たら

辛かろうと思って、お花見を八重桜にしたんだよ。

優しいね〜

でももうこの間のミヤコ蝶々

免疫できたから、見れるようになったけど(笑)

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ここで勉強できる学生は幸せだね〜

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遠くにアルプスも見えるよ。

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一葉(イチヨウ)


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鬱金(ウコン)

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どれにも素敵な名前がついているよ。

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御衣黄(ギョイコウ)緑の桜なんてびっくり。

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朱雀(スザク)

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高砂(タカサゴ)

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関山(カンザン)

花の中でお弁当を食べたよ。

ピクニックなんて何年ぶりかな〜。

降りそそぐ花びらと風と光が

みんなを祝福していたよ〜


この日に撮った写真をプロフィールにはるよ。

ちょっと恥ずかしいけど。

幸せな瞬間だったから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

↖こんな顔ですんで、よろしく(笑)

えっ?よく見えない?

だから貼ったのさ〜。わはは。




posted by おとめ at 21:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 愛する人達と

2017年05月01日

つばめの詩(うた)

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きのうつばめについて書いていて

自作のある詩のことを思い出した。

だいぶ以前に作ったものだ。

近所でつばめの巣を見つけたのだけど

しばらくして見に行った時もはや巣はなく、

何者かに叩き壊されていた。


私は悲しくて、つばめの事を考えているうちに

あるストーリーが心に浮かんだ。


それは美しい盲目の乙女に恋したつばめが失恋し

はるか北の国にやってくる、というお話。

物語の舞台となるのは南米の夫の生まれた国

ペルーにそっくりな雰囲気となっている。


これはつばめの鎮魂歌になってしまった。

今、それを亡き夫に捧げようと思う。

夫にこの詩の事を話したことはなかった。


南の明るい国から来て、苦労の多い人生を送り

そして寿命を全うして去って行った夫の姿が

心優しいつばめの姿と重なる。

そしてまた涙にくれながらも明るく生きる

その姿はこれからの私に勇気を与えてくれる。


別ブログに載せていたものだけれど

これを夫に捧げることになるとは

その時は夢にも思わなかった。。。。。

つばめはスペイン語で「ラ・ゴロンドリーナ」という。



「つばめ」

つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

粋な黒の夜会服

銀の雨をすりぬけて

おどけて風切る伊達男

首元に 赤いスカーフのぞかせて


つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

それでも雨は冷たかろ

はるか南の故郷(ふるさと)の

ジャスミン繁るバルコンで

恋する乙女のため息を

聞いた夜にくらべれば


つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

乙女の肌は肉桂(カネラ)の色

細いつま先 槍のよう

けれども盲いし(めしいし) その瞳 

緑の湖(うみ)に光りは宿らず

濃いその睫毛もふせたまま


つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

幾たびおまえはおどけたことか

黒い尻尾をひるがえし

バタバタ羽音を響かせて

滑稽踊りをおどったか

さくらんぼの口もとの

こぼれる笑みに魅せられて


つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

幾たびおまえは夢見たことか

野辺の乙女によりそって

ブーゲンビリアの葉先にとまり

しなだれて 乙女の髪に

口づけするを


つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

けれどもオレンジの月の宵

マンドリンの音にふと目覚め

おまえが聞きしはセレナーデ

若者歌う恋の歌


つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

その時おまえが見たものは

乙女の瞳のその奥に

浮かんだ小さな金の舟

ゆらゆら揺れておりました

やがてはよりそう影二つ。。。


つばめよつばめ

ラ・ゴロンドリーナ!

そこでおまえは旅に出た

はるか北の 柳の国へ

千の枝の 戯れ かわし

雨に涙 隠しつつ

今日もおどけて宙を舞う


(作詞byおとめ)


我ながらこの詩は気に入っていて

もし作曲の才能があるならメロディーを

つけたいのだけれど。。。それは無理。


南米の国々では昔、恋する若者が

恋人の住む家の外でギターやマンドリンをひき

恋の歌を歌う習慣があった。

それを「セレナーデ」と言う。


夫の若い頃までその風習があったそうで、

友達とセレナーデに参加した事があるそうだ。


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今日もお読みいただきありがとうございます。

フラれても優しい男でいてくれるのは

トラさんくらいになっちゃったな〜


posted by おとめ at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 詩歌の世界