2017年12月14日

気づきのレッスンその6 「捨てる」

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みなさんこんにちは。

気づきのレッスンももう6回目ですね。


毎日たくさんの人がブックマークから

ご訪問くださっているので、はりきっちゃいます。


日ごろ私がやってきたこのささやかなレッスンが

誰かの目覚めへのささやかなヒントになれれば

こんなに嬉しいことはありません。


けれども私ができる事は限られています。

実際に目覚めの実感への小道を進むのは

あなた一人だということを忘れないで下さい。


いえ、それは「小道」でさえありません。

今、即、ここにあるものです。


本日のテーマは「捨てる」です。

さて一体なにを捨てるんでしょ〜か。


捨てるといえば断捨離とかがブームになりましたが、

最近ではミニマリストとかね、はやってますが・・・


私個人としては、モデルルームのように

な〜んにもない部屋より、生活臭がぷんぷんの

ごちゃごちゃ部屋が好きですね。


たしかにゴミ屋敷とか問題ですけど

やたらにぽんぽん捨てるのもいかがなものか

と思うのです。


つい最近は妹がまだ新品同様のミシンやら

家の中にある一切合切を捨てたそうで

「ど〜してミシンくれなかったのさ!」と

ぷんぷん怒ったところでして。


というのも職業柄工業用ミシンを使ってますが

このシロモノ、もう40年は経ってる中古で

毎朝ひっぱたかないと電源が入りません。笑


お払い箱であの世行きになるのは一体全体

ミシンが先か私が先かという相棒なんです。


で何が言いたいかと言うとモノをぽんぽん捨てても

物欲はなくなりません。また新しく買うだけです。


肝心なのは「執着を捨てること」であって

モノ自体が悪いわけではないのです。


年配の方なんかはモノを大事にしますが

それは責められるべきことでも何でもないです。

むしろ尊いことでしょう。


その結果家がごちゃごちゃになったとしても

ご近所や人様に迷惑にならないなら

ちっとも悪い事ではない筈です。

そりゃゴミ屋敷は困りますよ。

あれは病気ですから。でも!


すっきり片付いた部屋が精神安定につながる、

というのは一種の思い込みに過ぎません。


問題なのは「欲しがる心」なんです。

部屋を片付けて精神の安定を求めるのも

欲しがる心ということです。


モノを捨ててかっこよく暮らしたい!

というのも欲しがる心です。


何故そのありのままの散らかった部屋を

愛おしむ心がないのでしょうか。

なぜすっきり片付いたかっこいい部屋と

比べたりするのでしょうか。


その部屋はそのままで完璧なのです。

それを認めないことがストレスとなり

散らかった部屋につながっていくのです。


中身が変わらないでモノだけ捨てても

ストレスはそこにあり何も解決しません。


ありのままの部屋を認めることで、逆に

あなたの部屋は自然に片付いていきます。

なぜなら現在もっているものだけで

満足するようになるからです。


すっきりした部屋を欲しがるのは

広くなった部屋で快適に暮らしたいのは

相対的な世界観から来る「欲」なのです。


さて、ここからが本題です。

人は「たかがモノじゃないか」と言いますが

禅的にいうと、モノもあなたなんです。


動物も、植物も、身の回りの品々も

ぜんぶあなたです。


ですから人は目覚めて本当の自分を知ると

モノをいとおしんで使うようになります。

もちろんむやみに捨てたりはしません。


がさつに生きることができなくなります。

丁寧に楽しんで生きるようになります。


けれど逆に執着心はなくなります。

モノを大事に大事に使いますが、

いざとなると全部手放せるのです。


またむやみに新しく買う事もなくなります。

資本主義にとっては大敵ですね。笑


私はむかしむかしのその昔

父親の借金で夜逃げを余儀なくされ

真冬にコートもなしでほっぽり出され

文字どおり裸一貫になりました。


自慢じゃないけど上の写真の果物皿

昔の人が彫った小汚い木皿なんですが、

骨董市で2,3百円で買いました。

30年間ずっと使ってます。


私の暮らしはいつもこんなです。

でも何も欲しくないし、金持ちじゃないし

最愛の夫は死んじゃって悲しいし、

でもそれでも幸せいっぱいなんです。


フシギでしょ〜?

その幸せをあなたに届けたいのです。


今日は前置きで終わっちゃいそうですが、

さてレッスンです。


あなたというモノがあります。

そう、あなたが「自分」だと思っている

その「モノ」です。そのモノには

更にいろんなレッテルやラベルがついてます。


それを徹底的に捨て去っていって下さい。

いわばブランド剥がしみたいなもんです。


たとえば、シャネルのバッグがありますね。

そこには色々な要素があります。


色は黒で、金鎖の持ち手がついていて

キルティングされていて、丈夫で

フランスのシャネルのデザインだけど

埼玉かどこかの工場で作られて・・・

といった事などです。


あなたの場合はどうでしょうか。

たとえば女性で、なになにと言う名前で

身長は何センチで、太ってる、痩せてる、

子供が二人いて、なんとか高校を卒業して

板前修業に入ったとか、あるいはまた

大学へ進んで英語の先生になったとか

破産したとか、宝くじが当たったとか

彼女にふられて自殺を考えた、とか

なんでもいいですが、ストーリーがあります。

そう、それらは全部人生のストーリーです。


そういうレッテルをすべて一つ残らず

きれいさっぱり捨てて行ってください。


たとえば名前ですが、それはあなたが

自分でつけたものではありませんね。

親が勝手につけたものです。それも捨てます。


男か女かというのもただの便宜上のもので

本来のあなたとは何の関係もありません。


ぜんぶ、ぜんぶ捨てて下さい。

これが私の言う「捨てる」ということです。


身の回りの品を片づけるヒマがあったら

まずこっちを先にやってくださいマセ。


すべて、あなたに付随するレッテルが

全部はがれた時、そこに何がありますか?


それはたとえば先日書いたように

ぐっすり眠ってふと目覚めた時のように

「ただ在る」という状態です。


「いけね、会社へ遅刻しそうだ」とか

「何を着ていこう」とかいう「思考」が

まだな〜んにも湧いてない状態です。


ちょうど生まれたばかりの赤ちゃんのような

無垢な、でも自分は確かにここにいる、

という意識だけがある状態です。


その状態にたびたび浸って見て下さい。

なぜなら、そこにこそ、真のあなたが放つ

永遠の輝きがあるからです。

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本日もアクセスありがとうございます。







posted by おとめ at 08:48 | Comment(0) | ブログリニューアルについて

2017年12月11日

ザ・ロネッツ「ビーマイベイビー」

*いまだに好きな曲 3



カラオケに行くと今でも真っ先に歌う曲(笑)


主人を思い出して辛い時などに良い方法が。

主人と会う以前の曲を聞くことにしたのだ。


これを初めて聞いたのは中学3年生の頃で

店番をしながらラジオにかじりついていた。


いわゆるヒットパレードに目覚めてからは

歌っている歌手や遠い外国に思いをはせた。


その頃は外国の歌手をTVで見られないから

小遣いで買ったドーナツ盤の写真だけが

唯一の情報源だった。


それにしてもここまで美女のグループとは

レコードジャケットではわからなかった。

今ビデオが見られてサイコーに幸せだ。

(バックのダンサーがいまいち痛いけど)


この曲のイントロのビートとそれに続く

何とも言えない流れるようなサウンドは

青春の悩みで一杯の心を夢中にさせた。


まるで音の海に浸っているようだった。

日本の音楽には全く無かった音。

それが世界の音へと私をいざなった。


まだバービー人形で遊んでいる子供なのに

こののびやかなロニーの声が奏でる

恋ひとすじの女心の歌詞は理解できた。


おばあちゃんが「ドリーたち」と呼んでいた

美人で評判だった黒人の姉妹&従姉が歌う

この素直な恋の歌は、今聞いても新鮮で

あちこち痛くて、ボロボロのこの体も

ヒーリングをしてくれそうな気がする。


体はおいさらばえても本当の自分は変わらず

いつもここにいて、あの時と同じ音を聴き

名曲につきものの、あの天から響くような

愛に満ちた波動を全身に注いでくれるのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもご訪問ありがとうございます。
オールディーズ、たまにはいかが?

何よりのアンチエイジングでっせ(笑)
















posted by おとめ at 18:24 | Comment(0) | 音楽好き

2017年12月07日

ひとりごと

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ひとりごと〜真空妙有


色即是空

空即是色


始めの苦しい色を抜けると

すべてはつながるひとつの命のなかで

色はダイヤモンドダストになる


70億のエネルギーのいくつかが

苦悩の炎であぶられ炎症を起こし

時空を超えた無の彼方で失神し

突然 透明なかたまりになった


それがふたたび弾け、すべての素粒子が

信じられない輝きをもって蘇みがえり

そこら中に漂うとき。。。


真空の妙なる剣が虚空から飛来し

無数の「私」が続く時間のチューブを

真っ二つにぶった切るとき

宇宙の妙なる十字路となる


縦だけでは虚しく、横だけでは

嵐に巻き込まれてしまう


その十字路こそが救いの町

ゲートの無い町への門だ


お手軽聖者たちよ

すべてが幻想と片づけてはいけない。

それは虚無の渦への入り口だ。


愚かな思考に作り出された

幻想の悪魔よ 天使はいない

おまえは相手を間違っている

「おまえ自身」を殺せ


しかし かの「自己」は

おまえの相手ではない

おまえは常に監視されるだろう


その十字路こそが真実の町

そこでは一瞬一瞬の営みが

果てしない愛に満ちた奇跡となる


その時あなたは息をしながら

酸素をとりこまず

体がありながら透明だ


あなたが笑えば葉っぱも笑う

一輪の花を見て神が涙を流す


その瞬間、誰が、何が

どんな種類の死が、苦痛が

あなたを傷つけられるだろう


死神のカマさえ

風をかすめるだけだ


山是山水是水

星是星銀河是銀河


人は幸せを求める

悟りを求める

心の安定を求める


ちょっと垣間見ただけで

人は酔ってしまう


求める心がやんだとき

あなたは十字路を見つける


人生になにもいらない

ただ知りたい

さもなくば生ける屍になる

その願いだけになった時

恩寵は起こる


真実は至福など超えている

その時何故苦しむのか

何故ここにいるのか

何故生きるのか

何故死ぬのかの果てしない問いは

すべて解決される


ああ、なんということ

亡き人はここにいたのか・・・


一人でも多くの人が

かの十字路へ行けますように・・・


南無観世音菩薩

合掌


詩・byおとめ





真空妙有〜

すべてはつながっていて一つです。

それが「空」(くう)です。

そのひとつの命にあなたや私

亡くなった人などがいます。


誰も生まれていません。

誰も死んでいません。

亡くなった人はあなたと一つです。


本当に一つであるとわかったとき

そこにどんな悲しみもありません。


すべては実体がなく空でありながら

ひとつひとつがリアルに輝いています。

それが真空妙有です。


あなたという「個人」のいない所で

それがわかるでしょう。

ずっと以前からそこにいたのだと。

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いつもご訪問ありがとうございます。
posted by おとめ at 08:58 | Comment(0) | 詩歌の世界

2017年12月03日

気づきのレッスンその5 「瞑想1」朝の瞑想

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気づきのレッスンもいよいよ

佳境に入ってきました。


この年末のふところ寂しい折に

タダより安いものはない!だけが

とりえのこの気づきのレッスン。


寄ってらっしゃい見てらっしゃい

さてお立ち合い!

年末助け合いセール。。。じゃない、

本日はこれから簡単な瞑想をご紹介します。


瞑想と言ってもいろいろありますが

私が日頃やっているのはとてもシンプルです。


どんなことでもそうですが、思い立ったら

気軽に、リラックスしてやることです。


さあ瞑想しよう!なんて意気込んだり

身構えたりしては続きません。


まず体を軟体動物のようにぐにゃぐにゃにして

体のどこにも力が入らない状態がベストです。

まあ動物で言えばタコのような。。。


その点、今日ご紹介する瞑想は誰でも

そのタコになれます。何故ってこれは

朝目が覚めたその瞬間にやるからです。


(余談ですが胃カメラやる時もこれは

非常にいいです。ラクにできますよ)


目覚めの瞬間と言うのは「自分」というのを

忘れている状態です。はっと目をあけた瞬間

そのとき自分がどんな名前で、どんな職業で

なんて考える人はいません。


目覚めた瞬間のその「意識」があるだけです。

あなたはその時男でも女でもなく、お父さんでも

お母さんでも、子供でも、オネエでもありません。


ただ「私はある」という感じがあるだけです。

その「存在感」「ある」というだけがある感覚を

逆手にとって瞑想します。


これは私が三年ほど続けた瞑想を

自分なりに改良したものです。


これは自我に働きかける瞑想なので

あとでご紹介するほかの瞑想とは違います。


自我が一日のスタートを心地よく始めるため

そしてマイナスエネルギーから身を守り

ついでに体調もよくしちゃえ!という

一粒で二度おいしい、瞑想です。


ごく最近になってOSHO(ラジニーシ)が

これとそっくりな瞑想を教えていたことを

ネットで見ましたが、彼はプロテクトのみに

終始しているのでバリアーだけを作り

まわりと隔絶してしまいます。


したがって私のとは違います。

くれぐれも混同なさらないように

お願いいたします。


では前置きが長くなりましたが始めます。


毎朝あなたは目を覚まします。

(覚めなかったらコワイですね 笑)


そのとき意識がぼ〜っとしたままでいいので

仰向けになり手足を自分の心地よいやり方で

自然にのばし、力を抜きます。


呼吸は特にこだわらなくていいです。

自然にラクに呼吸してください。


要するに目覚めたらリラックスして

仰向けになれ!ということです。

(はじめからそう書くべきだった)


次に目を軽く閉じます。


すると天井から真っ白な光が降りそそいできます。

そうイメージしてください。


その光の成分は「愛」です。

果てしないどこからかの愛があなたの体を包み

頭からつま先まで体は真っ白に輝きはじめます。


その光に包まれたあなたは決して傷つきません。

どんな攻撃がきてもあなたは守られます。


心地よ〜い光に包まれた体はだんだん暖かくなり

そのまま真っ白なやわらかい物体となって

布団のシーツに少しづつ溶けていきます。


体が光り輝いてどんどんシーツに溶け込んでいき

ついには体はなくなってしまいます。


あなたは「光」だけになってしまいました。


その体の無い「光」の状態を、思う存分

横たわったまま、心ゆくまで味わって下さい。

実際あなたは「体」ではないのですから。


しばらくして目がだんだん覚めてくると同時に

あなたの体の感覚が戻ってきます。

けれどもその体は今は全身光に包まれています。

そのまま静かに目をあけて、光をまとった体で

起き上がり、一日を始めて下さい。


あなたの体から放射される光はあなたを守り

どんな攻撃の矢がきても光のシェル(殻)の前で

グニャリと折れてしまいます。


しかし同時に(ここが一番かんじんです)その光は

果てしない「愛」を外へ放っています。


あなたは完全に守られ「愛」を放射しながら

電車に乗り会社へ行ったりします。


あるいはまた「愛」を放射しながら料理したり

家族を送りだしたりゴミを捨てたりします。


ただし「愛」を放射しているからと言って

無理にニコニコしたり、急に人に優しくしたりは

する必要はありません。普段のままでいいのです。

朝機嫌が悪い人は仏頂面のままでいてください。


でも「自分が守られている」という意識が

あなたに自然な態度をとらせるでしょう。


会社で嫌な上司が何かを言ったとしてもあなたは

決して傷つきません。光が守ってくれます。


それと同時にあなたから放射される愛が

まわりの人間の心を照らします。

あなたは人間としての社会生活をスムーズに

始められるでしょう。


この瞑想は私は今はほとんどやっていません。

何故なら自分がもはや何物にも傷つかないことを

完全に納得できたからです。


体調が悪かったり、不安感が消えないときなどは

たまに思い出して今でもやっています。


またなにかマイナスエネルギーをまとってしまった

と感じた時もこの光で洗い流します。


これはスピリチュアリズムでも似たような瞑想をしますが

それだけでは他からガードするのみで分離感が増し

最終的には苦しくなってしまいます。


ですからガードするのも大事ですがそれ以上に

「愛」の放出が大事になります。

あなたが真実を見た時それがはっきりわかるでしょう。


これは朝の起き抜けの時が一番手軽にできますが、

時間がある方は一日いつでも思い出したら

やることができます。

勤め先の椅子に座ってもできます。


また夜お休み前にやってもいいのです。

光に包まれぐっすり眠れるかも知れません。

その場合は朝起きたら真っ先に光をそのまま

まとった状態で起きて下さいね。


どうでしょう?できそうですか?

ネットでこう言葉でかいているだけでは

わかりにくい所もあるでしょうが。。。


そのうちにどこかでお会いして、この瞑想や

他の色々なワークをご一緒にやる場をもうけて

直接シェアできたらいいな〜と思っています。


私が移住した長野県は大変素晴らしいところですが、

グリーフケアの会や心のケアのボランティアは

想像に反して極端に少ないです。


この瞑想は死別や挫折を体験して、日々の生活や

仕事などに差し障りがでてくるほど苦しいとき

私には非常に役にたちました。


あるいは人によってはなんの効果もないかもですが、

あまりに苦しい時なんかは、ダメ元でとにかく

やってみるだけやってみたらいいんじゃないかと思います。


ただし、あまり気持ちよくなりすぎて

会社に遅刻しないように気を付けてくださいね。(笑)

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いつもお読みいただきありがとうございます。







posted by おとめ at 10:10 | Comment(4) | 気づきのレッスン

2017年11月30日

魂について

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今日は禅やアドバイタや非二元の世界では

ある意味タブーとされることを書きます。


何故かと言うとここ数日ある思いが

私にとりついて離れず、大変苦しいからです。

それは愛する人を亡くした人達への思いです。

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一本の柿の木にたくさん実がなっています。

私たちはこの実であり

またこの木そのものでもあります。


柿の実を一個もいで食べてしまっても

柿の木は枯れません。


これが禅や非二元の考えです。

肉体は死にます。滅びます。

けれどもそれは単なる個々の現象に過ぎず

永遠の一つなる存在は不滅なのです。


すべては変化し流転しこの瞬間にも

生き生きとその生命は活動しています。


それは生や死という概念を超えた

永遠のエネルギーの大活動です。

したがって生死(しょうじ)はなく

亡くなった人達もその時間の無い空間に

形を変えて存在しているのです。


と、まあこういう風に禅的に言われても

実際に愛する人と死別した人間がどれほど

慰められるかは疑問です。


禅は苦しみなく「生きるため」の方法であり

死別で苦しんでいる自我を叩きのめします。

決して黄泉の国に人の目を向かわせません。

今、ここの生が大事だからです。


それは「生きようとするエネルギーのある人」

のための方便ともいえるでしょう。


たしかに自我がよれよれになるにつれて

苦しみは無くなっていきます。

けれども死別の苦しみの真っただ中にいる人は

そんな殊勝な方便なんか耳には入りません。

ますます黄泉の国を求めて苦しむだけです。


そこに私は計り知れない悲しみを感じます。

今この瞬間にもたくさんの人の悲しみが

全身に矢のように刺さってきます。


死別の苦しみは死別した者でないと

決して本当に理解はできないものです。


死別した人は愛する人に会いたくてたまらず

気も狂わんばかりになります。

それは自我の苦しみですが、それを

「執着だ。切りなさい」などと言われても

ますます辛くなるだけでしょう。


人は自分を温かく包んでくれた存在

いつも自分を楽しませてくれ、笑わせてくれ

いつもそばにいてくれたその肉体と人格が

今でもまだどこかにいて、存在していると

信じなければ生きて行くことはできません。


そこで「魂」の話になります。

「魂」はあるのかないのか。

「死後の世界」はあるのかないのか。


長いあいだ、私自身も苦しみましたが、

私は「魂」のようなものはあると思います。


それから「死後の世界」というより

肉体が別の物質に変化して一定期間それが

存在していくのではないか、とも思います。


ですからそれも禅や非二元で言われるところの

「現象」そのものでもあります。


これは禅や非二元を勉強するものとしては

非常にアブナイ考えではありますが

心情として、今死別で苦しんでいる方への

メッセージとして書いておきます。


ただし、亡くなった幼子が「霊界」の

幼稚園に通って成長して大学へ行って。。。

などという話は到底信じられません。

というより真実のほどはわかりません。


ただ、ある「意識」のようなものが、何らかの

時空を超えた空間で、何らかの活動をするかも

知れないとは推察されます。


そこで鬼才ロジャーペンローズの言ったことも

納得できる範囲に入ってきます。


今のところは私が言えるのはそれだけです。

それよりも、今苦しくて悲しくて仕方ない人に

ここで一番私が言いたいことは一つです。


あなたは人生で最大の悟りのチャンスにいる

ということ。一番神に近い場所にいるのだ、

ということを忘れないで下さい。


「自分の人生などいらない。」

「あの苦しい治療の時代わってあげたかった」

「あの子が帰ってくるなら何一ついらない」

「もっと幸せにしてあげればよかった」

などなどの尊い思いの数々は純粋な愛です。


これらの思いを今すぐ、この世で、この場所で

あなたの周りにいる人たちに実行してください。

大げさなことではなくあなたの友人や家族に

その思いをあてはめて見て下さい。


それがそのままあなたのグリーフケアになります。


それは親が坊さんだから仕方なく修行したり

生半可な面白半分でスピリチュアルにはまったり

毎日が退屈でたまらないから超能力に憧れたり

といったくだらない動機をはるかに超えた

本当の人生の修行なのです。


それはたとえばミディアムやヒーラーの勉強を

するにしても、大きな意味があると思います。


自己中心的な心が無いところ、あなたの中に

無私、無欲の空間ができたときにのみ、あの

はかりしれないハイヤーパワーがやってきます。


「やってくる」というのは二元的な言い方です。

真実はあなたがハイヤーパワーなのです。


そのパワーによってのみ、あなたはヒーリングや

そのほかの創造的なことができるようになり、

真実をかいま見ることもできるでしょう。


だからいつも書いているようにそこには

金銭的なやりとりがあってはならないし

どんな些細な自己中心性があっても

ハイヤーパワーはやってこないでしょう。


そして、愛するものはすぐそばにいる、

ということをいつも感じていてください。

そしてそのパワーと愛を素直にもらってください。

受け入れて下さい。受動的なことが大事です。


苦しい時はそのパワーと愛に身をゆだねて下さい。

自分から何かをしようとはせず、ただそのまま

すべての苦しみ、悲しみをおまかせしましょう。


あなたが無私の心でいれば必ずエネルギーと

はかりしれない愛を受け取ることができます。

そして、あなたはいつのまにか苦しみや悲しみが

変化しはじめたことに気づくでしょう。

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いつもご訪問ありがとうございます。





posted by おとめ at 08:33 | Comment(4) | あの世があると思いたい

2017年11月24日

何故この人生なのかがわかるとき


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悟りを求めてもやってきてはくれませんが

もしあなたが「なにひとつ望まない」という

究極の状況になったとしたら、悟りのほうから

必ずやってきてくれるでしょう。


願いはかなえられます。それは恩寵です。

もしそれが「悟りたい!」という願いではなく

「真実を知りたい」という生きるか死ぬかの

ぎりぎりの所での欲求であるならば。


えっ?そんなアブナイ橋は渡れない?笑


悟ったらメシの種にしようとたくらんだり

悟れば一目おかれる人間になれるなどと思う

下心があるうちはきっとダメかもしれません。


さらに「願ってはいけない、でも願っちゃう」

という状態になって四苦八苦することになります。


その辺に腹立たしいジレンマがありますが

悟っても100%煩悩や苦しみがぜ〜んぶ

ただちに消えてなくなるわけではありません。


だから悟り後の修行があるのだと思います。

けれども少なくとも真実に目覚めると

あなたは確実に人生が変わるでしょう。

それはまさに生まれ変わりです。


今までとらわれていたほとんどの苦しみや

思い込み、世間体や出世欲、名誉欲、孤独感

嫉妬や憎しみや悲しみ、こういったものから

すっかり自由になっていくでしょう。


絶対に過去と同じように生きることは

二度とできなくなります。それは解放です。


苦悩は残るかも知れませんが、その苦悩を

どこか愛おしく見られる目ができます。


だから何としても一度は悟って、今までいかに

勘違いに生きていたかを実感してほしいです。


でも私はただの一般人で今まで厳しい修行をし

お寺に悟りの印可証明をもらったわけでもないし

その他専門的な勉強をしたわけでもありません。


だから私には人に教えるなんて到底できません。

ただ人に私と同じ体験をしてほしい、という

痛切な願いがあるだけです。


一度真実がわかると、今まで全く理解できなかった

過去に悟った人たち、たとえば聖者や覚者、禅師

こういう人たちの言葉がはっきりわかってきます。


それは今風にいえば「シェア」することです。

仏陀やマハラジと同じことをシェアできるのです。

それでやっと自分が狂ったのではないと知ります。笑


たとえばお寺のお坊さんでも悟った人と

まだ悟りを得てない人がわかってしまいます。

(悟りを得てないからダメというわけではなく

悟らなくても人格的にすぐれたお坊さんはいます)


またネットで悟りについて書いているのを読んでも

その人が悟ったのか悟ってないのか大体わかります。


どんなに博識で何でも知っているような人でも

悟りがなくて危うい方向へいってしまう人もいます。


むしろ博識な人ほどそんな感じがします。

残念賞ですね。


クリシュナムルティは哲学や宗教などの本は

一切読まなかったそうです。ミステリーが好きで

ユーモアもあったようです。なので知識ばかり

前面に押し出すと真実は隠れてしまいがちです。


それはまるで曇った窓ガラスがピカピカになり

今まで見えなかった綺麗な景色がはっきりと

視界に飛び込んでくるようなものです。


こう書くと偉そうに見えるでしょうが、真実とは

本当に単純なものなのです。それをやたらに

難しい仏語などで表現するからやっかいなのです。


本当は仏教もキリスト教もクリシュナムルティも

何も必要ないのです。子供でもわかることです。


私のようなものでもわかったのですから必ず

あなたにも真実がわかる時が来るはずです。


それにはやはり探求の心が不可欠です。


般若心経に書かれていることは真実のことですが

本当にわかる人がどれほどいるでしょうか。


あそこに書かれていることは悟って初めて

意味がわかることばかりです。

ですから無理にわかる必要もないですが。


もっとやさしい言葉で真実を人に伝えられないかと

毎日考えています。ですから無事禅のようには

なってしまいますが、ある程度頭で理解しても

いいのかな〜とも思います。


「照見五蘊皆空 度一切苦厄」な〜んてのより

「あなたの体のどこにあなたがありますか?

探してみてください、どこにもないでしょ?」

というほうがずっとわかりやすいでしょう。


さらに「色即是空 空即是色」というよりも

一切は空(幻想)でありこの体も空である、

しかし同時にすべてが変化し、形をとって

あらわれている、それが毎瞬に起こっている、

などという風になら理解できるでしょう。


そう言う風に書いていきたいと思っています。

なに?それでもわからない?


それならば一番わかりやすい方法を書きますね。


それは今のあなたの人生をとことん生きる事

ずるい事を考えない事、ひたすらあるがままに

笑ったり、悲しんだりしながら生きる事です。


宮沢賢治の「自分の事は一切勘定に入れず」です。


二元的にはなってしまうかも知れませんが

キリスト教の「すべて御心のままに」でも

いいと思います。要するに「おまかせ」です。


これだけでも自分がいなくなってきますので

我がとれてラクにはなってきます。


苦しみから回避しようとすると苦しみは増します。

逃げなければ苦しみは消えてしまいます。

あなたは苦しむ必要はありません。


長い苦しみの末に、可愛い赤子が授かるように

苦しみが極限に達した時、その時にこそ

あの見えなかった門が開きます。


そしてその門の先にあるものは「愛」です。


その時あなたは何故自分がここにいるのか

何故その人生なのかがわかるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもありがとうございます。



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posted by おとめ at 08:06 | Comment(0) | 悟りについて

2017年11月20日

慈悲心

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すべての人には慈悲心があります。

けれども自我(エゴ)という幻想によって

本当の自分が見えない間は

慈悲心はどこかへ隠れてしまいます。


本当の自分に気づいた時

慈悲心が自然に湧き起ってきます。


それは同情心ではありません。

憐みの心でもありませんし、

親切にしようとするのでもなく

単なる愛でもありません。


たぶん、それらすべてを包括し

さらにアップグレードしたような

深い深いところからの心です。


それが自然に起こってくるのを

自分でコントロールはできません。


それはすべての人や生き物が

自分自身だとわかっていることです。


すべてが自分なのだから人に起こる事は

自分に起こっているように感じます。

動物や植物などに起こる事も同じです。


そしてその時すべてが愛おしいと同時に

自分がなにものにも傷つかない事を

はっきりと自覚するようになります。


なぜならすべてが自分だとわかれば

自分はこの体や心や思考ではないという

究極の事実に目覚めるからです。


それはたとえば人があなたになにか

とんでもない悪口を言ったとします。

でももしあなたが個人のあなたではなく

真実無二のあなたに気づいていれば

個人のあなたはいないのですから

傷つけられるものはどこにもいないのです。


まさにカエルのつらになんとかで

痛くもかゆくもありません。

それどころか深い同情心が相手に対して

湧き起ってくるでしょう。


まさにあなたを傷つけようとする相手が

相手自身やあなたを個人だと思い、

その自我の泥沼にはまりこんでいて

その幻想にいるのがわかるからです。


自分がその幻想から抜け出して

限りない自由を味わうと、人にも

同じように味わってほしい!という

強烈な思いが出ます。


それが慈悲心です。

私がブログを書いているのもそれです。

そこに個人の私はいません。


いじめが後を絶ちませんが、それも

メカニズムは全く同じです。


自分と他人を分離するのは自我です。

あなたがいて、私がいる、という

幻想の境界線によって区別が生まれ

人は世界から自分を守ろうとします。


いじめによって一番同情されるべきは

いじめる側の人間なのです。

いじめる人は必ず何かに苦しんでいます。

それは自我による苦しみです。

いじめられた人はそこに気づいてください。


そして常にあなた自身の自我を見守って

目を離さないようにします。

でも自我を攻撃しようとせず、責めず

ただそれを飼いならして下さい。


そうすれば必ずいつかわかるでしょう。

本当のあなたを傷つけることは決して

誰にもできないのだということを。


あなたという存在はその身長と体重に表れる

ちっぽけな体の中にはいません。


対人関係の悩みが絶えない人もいます。

まさに自我が自分と他人をへだてていて

人を批判せずにはいられないし

自分を守る事に懸命になってしまいます。

そこには常に自我による「恐れ」があります。


あなたは自分を守る必要などないのです。

本当のあなたしかいないのですから。


あなたという「個人」はどこにもいません。

相手という「個体」もどこにもいません。

体が、心が、動かされているだけです。

本来の面目がそれを動かしているのです。


思い出して下さい。境界線はないのです。

あなたとその相手の人は一体なのです。

これがいわゆる二つに非ず(非二元)

ということです。


すべてが自分であり、たった一つのその自分が

存在するすべてだということに気づいてください。


そしてその自分は慈悲心というゆたかな海に

いつもゆったりとくつろいでいるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも読んでいただき感謝です。




posted by おとめ at 12:24 | Comment(0) | 自我(エゴ)について

2017年11月18日

気づきのレッスンその4「体」



はい、みなさんこんにちは。

今日もこのわけのわからないブログへようこそ(笑)


今日は体についてお話します。

そう、あなたが自分自身だと思っているその体、

太っていれば太っているなりに

痩せていればやせているなりに

悩みのつきないその体というシロモノ。


たとえば何故ダイエットしたいのかといえば

「人」にくらべて太っているみたいだし

もちろん自分=その体だと思い込んでいるから。


じゃもし自分がその体じゃないとしたら

あなたはダイエットしますかね〜?


だって自分じゃないんだから、カンケー

ないんだから、太ろうと痩せようと

そのままでいいんじゃありませんか?


するとたとえばあなたが太っていて

人から「デブ!」と言われても

一向に気にしなくなるでしょう。


さらに話をすすめて、たとえば

あなたが病気になったとしても

あなたは一向に動ぜず、ただ淡々と

その自分ではない体の病気を見つめ

なりゆきにまかせることでしょう。


それはとてつもない解放だと思いませんか?

「自分が絶対にこの体ではない」と

はっきりと実感するのが悟りです。


便宜上「悟り」が実感と書きましたが

それは「悟る」のはあくまでもまだ

「自我」であるからで、厳密にいえば

すべての人はすでに悟っているのです。


一瞥体験(見性)の場合には

強烈な至福感や神秘感覚があり

「あ〜ついにオレは悟ったぞ」と

早とちりしがちですが、おっとどっこい

一瞥体験は悟りではありません。


それはただ破れた障子のスキマから

真実の世界を垣間見たに過ぎません。


悟りは真実の自分に気づくことです。

体も心もその時完全に脱落します。


ある種の体感をともなう、自分=体ではない

という「確信」のようなものです。


「ホエ〜!またわけのわからないこと書いてる」

とうんざりしているそこのあなたも

いつなんどき真実に目覚めるかわかりませんよ。


目覚めには、つまり悟る過程には二通りあって

長年の修行の末にそうなる人もいるし

あるいは一切何もしていないのにある日突然

青天の霹靂で否応なく目覚める人もいます。


一言で言えば「自分が体」と思っているうちは

あなたは「我」(エゴ)と一体であり

自分のまわりに境界線をひいているのです。


自分は宇宙の中のたった一粒に過ぎないのだ

という壮大な勘違いに生きているのです。

そしてそれがすべての苦しみの大元です。


でもちょっと見てみて下さい。

あなたの体の境界線はどこにありますか?


「皮膚」という人もいるでしょう。

けれども皮膚からは毎瞬毎瞬空気が出て

呼吸しているし、空間というのは

まったく何も無いところではなく

あらゆる「物質」に満ちています。


ウソだと思うなら最先端の科学者が

あちこちで発表してますから一度

のぞいてみてください。


つまりあなたの体と空間はぴったりと

フィットしているのですよ。

風に吹かれている時のあの心地よさを

思い出してみてください。


細身のパンツを無理やりフィットさせようと

やっきになっているそこのあなた、

そのフイットではないのです。

今日限りムダな抵抗はやめましょう。

そして、ゆっくりと座ってお茶でも飲んで

ちょっとばかり考えて見て下さい。


どこにも境界線はないのです。

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・・・・・・・・・・・・・

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これを毎日つきつめて見ていくと

すべては全く分離していないとわかります。

これは頭で理解してもよいと思いますが

やはり実感をしてほしいです。


この分離のなさを体感するには

日ごろから体を柔軟にしておき

体や頭の血のめぐりをよくしておくのを

おすすめ致します。


ヨガや太極拳、ウオーキングや水泳

あるいはただ家事をせっせとやったり

部屋をこまめに片づけたりしてとにかく

体を動かすことです。


私自身について言えば若い頃から運動は苦手

友人に誘われ太極拳や空手道場に行ったことも

ありましたが、最終的に自分にはダンスが

一番似合っているとわかりました。


だから好きなものでよいと思います。

とくに悲しみや苦しみのがんじがらめから

抜け出られないときは思い切り体を動かし

頭をからっぽにしてみましょう。


もともと私たちはからっぽなのですから。。。。


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いつもアクセス感謝です。














posted by おとめ at 08:48 | Comment(0) | 気づきのレッスン

2017年11月09日

ポールアンカ「ダイアナ」

*いまだに好きな曲 2


いや〜おもしろいビデオ見つけちゃった。


このところお堅い話がつづいたので

この辺で一息つきましょうか。


あのポールアンカがね〜びっくり。

出て来た時、一瞬不安そうな表情を見せます。

突然幕があいてとまどった表情。


まだこの頃は16才くらいでしょうか。

初々しいですね。


でもすぐリズムにのって

楽しそうに歌ってます。

実に気持ちよさそうです。


昔のことだから音声と映像を

別々に収録したのかも知れませんが、

それにしても彼が天性の才能を持って

生まれてきたということがよくわかります。


年上の女性への恋を素直にぶつけたこの曲は

彼のデビュー曲でした。


彼はたしか中東系の移民の子でしたが

アメリカに移住してからスターダムにのり

70代の今でも歌っているみたいです。


けれども私は他の彼の曲はあまり好きでなく、

この「ダイアナ」一曲が好きなんです。

ビデオを見てからますます好きになりました。


彼を見ているとスーフィダンス思い出します。

この曲を歌っている彼は神そのものです。


彼がこの曲を作った時たぶんそこには

恋心を表現したい!という純粋な思い

それだけしかなかったはずです。


そこに余計な私利私欲はありませんでした。

それが世間の人の心を打ちあれほどの

ヒット曲になったのだと思います。


何かを表現したい!という深い底からの欲求

それがお金をかせぎたい!とか

注目されたい!とかの自己中心的なものが

何も無い時、人は神となります。


だから世間にはいわゆる一発屋が多いのでしょう。

最初の曲は心から作りたくて作った。

神さまになった自分が作った作品です。

けれどもそれがヒットすると欲が出てきてしまう。

神さまは逃げていきます。


これがワナです。

人生の真実です。


クリシュナムルティは人の心になにも無い時

「自分の為」という思いが消えている時

人はそのまま神(基底)になる、と言っています。


それはつまり我欲をおさえるのではなくて

むしろ純粋な欲なのです。

深い所から来る欲求、「そうせざるをえない」

ようなそんな思いが湧いてくるときです。


棟方志功が歌を口ずさみながら次々と

トイレの中にまで絵を描いたあの欲求です。


おいしいものを食べさせたい!という欲求で

お母さんが料理をする。それも同じです。

見返りを期待せず何かを作る、行動する。


そしてそれは必ず人の心を打ちます。

なぜならすべての人が神だからです。

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今日もお読みいただきありがとうございました。



posted by おとめ at 08:24 | Comment(0) | 音楽好き

2017年11月07日

仏とスープ

寒い朝の温かいスープはいいですね。
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スープをひとさじすくいます。

わずかにポタポタと落ちました。


ここに真理があります。

わたしたちはこのスープそのものです。


荒れた冬の海を想像してください。

大波、小波が次々生まれます。

波同士がからみ合い、ぶつかり合い

時には会話をしているようです。


一瞬海から離れようとするのもあり

でもそれも一時に過ぎず

ふたたび大海へとのまれます。


真理は驚くほど単純です。

でも常識や怖れに生きていると

それが全く見えません。


自分は体と心だ、という「錯覚」

それがどこまでも邪魔をします。


だから死を怖がったり、人を殺したり

憎んだり、苦しんだりします。


自分は体じゃない、とさえわかれば

それですべて解決します。


確かに体という物質はあります。

でもそれが「自分」という「主体」

だと思うのが錯覚なのです。


生も死もありません。

そんなものどこにもありません。

逆に言えば生も死も今ここで

この瞬間に起こっています。

あなたの中で。。。。。


体じゃないなら「魂」じゃないかって?

「魂」はあるかも知れません。

ない、とは言いません。

でももしあるとすれば体と同じ

なんらかの物質的なものであり、

解明されていないだけなのでしょう。


そしてそれも一つの自己から見れば

机や椅子と同じことです。


一つの自己とは仏のあなたです。

無字とか如来、神、宇宙とも言います。

クリシュナムルティはground

(ベースのようなもの、基底)

と言いました。


温かいスープやラーメンを食べる時

その時あなたが腹ペコで、おまけに

めちゃくちゃうまいものが出されたら

口に入れた瞬間、その瞬間ですが、

一瞬思考がとまるとき、「うまい!」

という感覚だけがあるでしょう。


本当にうまかったその瞬間にあなたは

財布に500円しかないとか、

あの人にメールの返事をどうやって書こうとか

そんなこと考えてません。


ただ「うまい味」のその感覚があるだけです。

あなたはその感覚そのものなんです。

その時あなたは仏そのものなのです。

仏が体を通じて味わっているのです。


それなのにひとしきり食べた後

思考がじわじわとやってきて、

「あ〜お金が足りない。どうしよう」

とか考え始めるのです。


むかしむかしの偉い白隠というお坊さん

はそれを「衆生本来仏なり」といいました。


衆生(しゅじょう)とは一般人のことです。

人はみな本当は仏なのに、かわいそうに

それを知らないのじゃ、と言っているのです。


「水と氷のごとくにて

水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし

衆生近きを不和(しらず)して 遠く求むるはかなさよ」


氷が水からできるのだから氷=水であるように

人も仏そのものなのだ。それなのに人は

それを知らず、とんちんかんな方向を見ている。

それはたとえば水の中にいて喉がカラカラだ

というようなものだとも言っています。

嘆く和尚の心は衆生への大きな愛そのものです。


行列のできるラーメンを食べているのは

あなたではなくあなたの体でもなく

仏が、宇宙が食べているのです。


今朝暖かいスープを飲んだのも仏です。

どこかでお母さんの味噌汁を飲んでいる

子供やお父さんも仏なのです。


自分が体ではない、というこの事実を

一人でも多くの人が見極めてください。


それを見極めて一緒に勉強したい、

という人の為にこれを書いています。

あなたのあるがままそのものが極楽なのだ、

とわかっていただくために。。。


座禅をしたり、瞑想もいいでしょう。

でも方法を間違えるとやばい事になります。


そんなことも私なりにやってきた事を

これからも書いていきます。

私もまだまだこれからが修行です。


もしこれをお読みの方で「そこはちょっと

違うんじゃないか?」とか思う方は

いつでもコメント下さい。

色々教えていただきたいです。


真実のわかるその時、生死からはなれ、

しかも起こることがあるがままに起こる

あなたの中のそのすべてを慈しみ、見守り、

味わうご自分自身を見出されることでしょう。


「此時何をか求むべき 寂滅現前するゆゑに

当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」(白隠)

・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もお越しいただきありがとうございました。




posted by おとめ at 09:31 | Comment(0) |

2017年11月06日

あなたの中にすべてある

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あなたは私です。

そして私はあなたを含むすべてです。


クリシュナムルティはこの立場から

いつも世界中の聴衆に向かって

真実のみを言い続けました。


つまり彼は覚醒者の目で語っているため

その目がないと非常にわかりにくいのです。


その言葉は英語でも日本語でも決して難解ではなく

ごく普通の平易な言葉を使っているのですが、

いつわりの自己にとらわれているとそれは

あなたの頭を素通りしてしまうかもしれません。


けれども、もしあなたが彼を心から信頼し

彼の書いていること、言っていることを

全身で注意深く理解しようとするなら

あなたの人生は、苦しみから自由になり

これまでとは全く違うものになるでしょう。


そこに「時間」はありません。

彼を理解した時、変容は一瞬に起きます。


彼はただ人が自分で自分自身を救えるよう

まがいものの神や霊魂やそのほかの

うそいつわりの世界に騙されることなく

自分の力だけで怖れや苦しみから

本当に解放されるよう導いたのでした。

そのためだけに一生をささげたのです。


私は彼を奉ったり神のようにあがめたり

そんな気は毛頭ありませんし、彼自身も

神のような完璧な生き方をした人でもなく

まさにあるがままに生きた人でした。


霊魂の世界に迷ったり、怪しげな団体の

トップにむりやり据えられたり

不倫をしたりもしました。

けれどもずば抜けて正直な人でした。


彼はあらゆる宗教から離れているけれど

言っていることは禅とほぼ同じです。


彼は悟りの立場から書いていますが、

人を悟りへ導こうとはしませんでした。


知らず知らずのうちにあなたが彼と共に

悟りの世界を歩めるようにしたのです。


すべてのものはあなたです。

これを理解すると何が起こるでしょうか。


人を嫌うのは自分を嫌うという事です。

人を愛するのは自分を愛すること。


遠い国で子供が飢え死にすれば

あなたの一部も死ぬのです。


何故なら私たちは一つだからです。

これは概念ではなく「事実」なのです。

真実の自己を見つければそれがわかります。


すべてが自分だとわかればそこには

ただ大きな愛しかありません。


それを悟るために人は修行をしたりしますが、

それがなかなかわからないから世界中で今も

悲惨な争いが起こります。


その原因となる自己中心性に気づくとき

すべての人の心は変化します。


人を何が苦しみから救うのでしょうか?

何が自己中心性を消してくれるのでしょうか。


それは修行でもなく、滝行でも瞑想でもなく

宇宙エネルギーでも守護霊でもありません。


それはあなた自身です。

それは体のあなたではありません。


本当のあなたです。

本当のあなたがあなたを、世界を救います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もお読みいただきありがとうございます。





posted by おとめ at 12:14 | Comment(0) | クリシュナムルティ

2017年11月02日

十三夜

*加筆しました。
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ふと夕空を見上げるととてつもなく美しい月が。

山は真っ赤に焼けていました。


じっと眺めていたら、まったく突然

写真をとりたい!という衝動にかられて

あわてて家にカメラをとりにもどりました。


いざ写真をとろうとしたら、山はもう真っ暗。

まさに秋の夕日はつるべ落とし。残念。


晩御飯を食べていたらTVのニュースで

「今夜は十三夜です」と言っていました。


「そうか!」だからあんなに美しかったのか。

と思考がしゃしゃり出てきました。


十三夜と知らずに見上げて感動した月。

それが禅の意味するところです。


なんの知識もよけいな思考も無いところ

ただ見るところ。。。


始めに月を見上げた時そこに自分はいませんでした。

ただ「今」の月だけがありました。


次に思考が「写真をとらなきゃ」と言いました。

これをみんなとシェアしたい!という思いです。


その時はもう月を見ていませんでした。

シャラクサイ思考があるだけです。


これはどういうことかというと、たとえば

このブログに「読んだ本」などというカテゴリ

があってあれこれ書き込んできたけど、

ただのゴミためなんです。

単なる個人的なメモに過ぎませんので。

くれぐれも本気になさらないようお願いします(笑)


知識なんてなんの足しにもなりません。

だから宇宙規模の知識があっても

何万冊の本を読もうと何しようと

真実を知らなければ、「本来の面目」が

わからなければ人は救われません。

(本来の面目=本当の自分)


それは知識による理解ではいけない。

実感しなければただの無事禅だ。


ずっとそう思ってきました。

それはある意味正しいのですが、

けれど今はこうも思います。


わからなくてもいいから理解しようと

努める人はいるでしょうか、と。

そして頭の隅にでも置いてほしい。

すべてはこのままで完璧なのだということを。


逆らわないこと、なにも望まないこと

何かになろうとしないこと

悲しみをいじらないこと

苦しくてもとどまること


感情は見つめていくと一時的に

非常に強くなります。それに耐えきれない

と思うこともあるでしょう。


けれどもとにかくその感情を

なんとかせず、それに浸っていれば

必ず消えていきます。


それを繰り返すだけです。

救いはそこにしかありません。


そう思っていてもなかなか実行できないのが

現実なのでしょうが。。。


あるがままで完璧だと理屈でわかっても

そこに踏みとどまることができません。

踏みとどまろうと奮闘すれば

逆にあるがままではなくなってしまう。


そこにあるがままへのパラドックスがあります。

けれどもそれを打破する方法があります。


それが自分を見ていくということです。

葛藤や苦しみ、悲しみをただそのまま

見つめていくことをつづけます。


これは道元やクリシュナムルティが

さんざん言ってきた事と同じです。


道元さんはまたより簡単な方法として

「仏の家に投げ入れろ」と言っています。


「ただ我が身をも心をもはなちわすれて

仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて

これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず

こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」

(正法眼蔵より)


「仏のいへ(家)」というのは宇宙のことです。

神と呼んでもいいです。そこから来るパワーに

身をゆだねていればいつか生死(しょうじ)の

あらゆる悩みから解放されると言っています。


これはぐちゃぐちゃした悩みや悲しみを

あれこれいじらず、考え込まず

すべて仏(宇宙、根源、神)に

おまかせしちゃえ、ってことです。


なんでいつまでも悲しいのだろう、とか

あれをやれば悲しみは消えるだろう、とか

あ〜だ、こ〜だ考えないってことです。


悲しければ「あ〜悲しい!」でいいのです。

そして身も心も悲しみにゆだねます。

その時こそあなたは仏なのです。


感情がもともと湧いてきた根源へ

お返ししちゃえってことです。


するとそこにはかりしれない

あるパワーがやってきます。


そうすればいつかわかるでしょう。

目があけばわかります。


魂胆があって月を見るのも

カメラをとりに家に走るのも

山が真っ暗になりがっかりするのも

悲しみと孤独感に押しつぶされ

ボロ雑巾のようになっているのも


すべてすべて宇宙の大活動なのだと。

そこには非難すべき事もなにもなく

ただあるがままがあるだけです。


あっけらかんとして、からっぽで。。。

そしてそこにのみ大いなる安らぎがあるのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつもアクセスありがとうございます。






posted by おとめ at 12:02 | Comment(0) |

2017年10月24日

フランスギャル「夢見るシャンソン人形」

*いまだに好きな曲 1


こんな丁寧な字幕を作ってくれるなんて
いい時代になったな〜


常に何らかの音楽が頭の中で鳴っている。

2,3日前は亡き夫の誕生日だったからか

モーツアルトのレクイエムの中の

「キリエ」が鳴り響いてやまず閉口した。


それで仕方なくキリエを歌いながら

仕事をしたりアイロンをかけたり

料理をしたりしていた。


実は昔オラトリオの合唱団に所属していて

レクイエムばかり歌っていたのだ。

まさか夫のために歌うハメになるとは(笑)


こんなわけで音楽漬けの生活は今でも

自然に毎日に溶け込んでおり、時々

発作的に若い頃のように踊ったりもする。


60年代、私がまだ中学か高校の頃

ラジオで実にさまざまな音楽を聴いた。

クラシック、ポップス、ブラックミュージック

映画音楽、ラテン、フォーク、歌謡曲。。。


特にブリティッシュロックや黒人系の

リズムのはっきりした音楽が好きだったから

その中でフレンチポップスというのは

どこかダサいと思っていた。


でも今フランスギャルのこの歌を聞いてみると

4,50年たったからこその味わいがあった。


今はユーチューブでこうして姿を見られるが

当時はそんなこと思いもしなかったことだった。


歌ってる姿を見てあらためてびっくりした。

彼女の挑戦的な目、いやいやながらする動作

そのぎこちなさは全くのお人形。


大げさなオーケストラのサウンドをバックに

決して美声とはいえない彼女の歌声が

妙にミスマッチしている。


いかにもフランス人好みのどこかはずした

粋な雰囲気もただよっている。


彼女は自分が人形だとわかって歌っている。

歌う自動人形なのだ。


いやでも動かなくてはならない

媚を売らなくてはならない

可愛く、ほほえんで、みんなに愛されて。。。


そういったアイドル性への反抗を

わざとらしくなく見せることで

逆に人気を呼んだのだろう。


考えて見ると私たちも同じことをしている。

ほほえんで、胸のうちは見せず

嫌われないように、置いていかれないように。。。。


彼女は年はほとんど私と同世代

幸せな結婚をし、スターダムをのぼりつめたが

夫はわりあい早く亡くし、ついで娘を亡くした。


かなり太ったおばさんになるまで

歌っていたようだが娘を亡くしてからは

姿を消したようで私にはそれ以上はわからない。


じっと見ていると彼女は私であり

当時の夢を現実だと思っていた人形、

レプリカント、あるいはトニーパーソンズが

いうように聖なるロボット。。。なんでもいいが

その真実をまさに彼女は体現していたのだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もたくさんのアクセスをメルシーでございます!












posted by おとめ at 21:32 | Comment(2) | 音楽好き

2017年10月20日

あなただけが世界

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あなたが思う半分もこの世界はリアルではないと知ったとしても
あなたは死ぬまでこの世界を愛することでしょう。

人々があなたの思うような人ではないと知ったとしても
あなたは何百倍も人を愛せずにはいられないでしょう。

(アジャシャンティ「空を生きる」より)


私は何故このブログを書いているのかと

ふと思いました。


言葉はいつも深い所からごく自然に

泉のように湧いてきます。

それはこの自分の能力ではありません。


数年前に自分の書いたことを読むと

まあ、なんて幻想にとらわれていたことか!

と今の自分との違いに驚き、また、それを

どこか遠くから眺めていて面白くもあります。


ブログと言うのは一種の自我の表現であり

自分の作ったものや、している事、

考えていることなどを人に伝えたい、

という願いがそこにあると思います。


そして更に言うなら、できるだけ

沢山の人に見てもらいたい!

自分を好きになってもらいたい!

この楽しみをみんなとシェアしたい!

などの気持ちもある筈です。


わたしもかつてはそうでした。

でも今は全く違います。


私は誰に向かって書いているのでしょうか?

何のためなのでしょうか。

自分も人も幸せになるため?


世間には自分は幸せ、という人はいます。

満ち足りていて、この世界がリアルで

起こる事が楽しくて充実している。

そういう人たちに何も言う事はありません。


その幸せを味わってほしいだけです。

存分に味わって、生きてほしいです。


それにしても何故この私はこのブログを

性懲りもなく書いているのでしょう。


それは書く衝動が起こっているから、としか言えず

自分でもよくわからないのです。


今あるこの真実、それを必要な人に知ってほしいから

かな〜と思いましたが、それも別に以前ほどには

願ってません。何にも希望はありません。

だいいち私の自我は書くのはめんどくさい、

とたまにグチをこぼすのです。


ただ、必要な人だけが読んでくれてるな、

という風にはなんとなく思っています。


あるいはまた、理解ができている人なら

読んでいて自分をそこに感じることでしょう。


そうでない人には理解せよ、という方が

ムリなのです。何故なら自我が常に

理解の足を引っ張るからです。


私が書きたい、という衝動を持つように

読みたい、という衝動を持ってくれる人は

苦しみの中にいるか、またはかつてそんな

状態にあった人でもあるでしょう。


悲しい、辛い、苦しい。。。

自分には何の価値も無い気がする。。。

などなどの苦悩を経験したか、している人たちへ

書いていこうという衝動が起こっている

。。。よくわかりませんがそんな感じかな。


なぜなら、苦悩の中にいる時、まれに人には

「探求心」というものが生まれるからです。

けれども大半の人はそうなりません。

癒しや慰めへと逃げ込む人が多いからです。

それはなんの解決にもなりませんが。。。


何故自分が生まれてきたのか、どうして

この辛い世界で生きて行かなくてはいけないか

どこかに真実があるに違いない、それを

絶対に探して見つけたい!


というエネルギーのようなものが起こる人がいます。

そしてそれは稀です。

それは決して自我からくる願いではなく

何か深い底知れないところからくるものです。


そこになにかの自己中心的な希望があっては

その探求心は本物ではありません。


たとえばスピの勉強をして超能力を身につけよう、

とか、真実を知れば自分は癒されるだろう、とか

この本を読めば自分は賢く、今よりマシになるとか

宇宙エネルギーをもらえばサイキックになるだろう

などなど、それはすべて自我の幻想なのであり

自分にとっての「利益」を含む場合はダメです。

また、悟りを得る目的で座禅や瞑想をしても無駄です。


そんなものすべてかなぐり捨てて、ただただ

「真実」だけが知りたい、それを知らないでは

死ねないし、生きてもいけない、と心から願い

そのほかのすべてが重要でなくなった時

その人に真実を見る準備ができるでしょう。


その最大のチャンスが人生における苦しみや

あらゆる挫折、たとえば死別などがその

きっかけとなることは以前も書きました。


その時本当に苦しんだ人は、なにもかも

欲しがらなくなります。自分の幸せや

癒し、楽しみ、夢や希望、好きだった仕事

価値観を置いていたすべての物事。。。


こういうものに何の興味も無くなります。

かといって仕事をやめるわけではないのですが。

ただそれがすべて幻想だったと気づくのです。


そうすればなにもかも自動的に事が運びます。

あなたが何もしなくても目の前に真実が

ある日、在る時、思いもしないときに

それは訪れるでしょう。


それはあなたの自我にとっては最悪です。

なぜならそれは自分の「死」だからです。


ブログを何故書いているのか、と書きましたが

私は苦しみの中にある人を救おうなんて

そんな大それたことは考えていません。


書いていることを認めてもらおうとも

これっぽっちも思っていません。

ただ書いているだけなんです。


たくさんの人が目覚め、苦しみから自由で

真実の自己を知ってほしい、とは思いますが。

でもそれを私がしてあげることはできません。


すべての人は自分で自分を救わなければ

なんの意味もないのです。

自分で真実を実感しなければ、それは

壁に描かれたごちそうと同じです。


そしてそれを私は時々とても歯がゆく思い

悲しくなるのです。。。


けれど一方で目覚める人も増えています。

自我の幻想に気づいてあなたの人生は終わります。


けれども同時にあなたは世界にあなたしかいない、

という事を悟り、その新しい生を生きるのです。

そこにはあるがままの喜びの光が溢れています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もアクセスありがとうございます。










posted by おとめ at 08:15 | Comment(4) | 悟りについて

2017年10月06日

庭の千草



信州では虫の音もかぼそくなり

秋の蝶がはかなげに舞っています。


庭の千草という歌を思い出します。


これはアイルランド民謡ですが

アイルランド人気質というのは

大変詩的でウエットな感じがします。


沢山のすぐれた詩人を生み出しました。

身近なところではかのビートルズが

アイルランド系ですね。

大好きな詩を訳してみました。

The last rose of summer
夏の終わりの薔薇

'Tis the last rose of Summer, 
Left blooming alone; 
All her lovely companions 
Are faded and gone; 
No flower of her kindred, 
No rosebud is nigh, 
To reflect back her blushes, 
Or give sigh for sigh!

それは夏の終わりの薔薇
ひとりぼっちで咲いている
楽しき仲間はみんな色あせ
散っていってしまった
同じ血筋の花もおらず
つぼみさえももはや見当たらず
紅色のかがやきを思い出し
ため息をつき合う相手もない


I'll not leave thee, thou lone one, 
To pine on the stem; 
Since the lovely are sleeping, 
Go sleep thou with them. 
Thus kindly I scatter 
Thy leaves o'er the bed 
Where thy mates of the garden 
Lie scentless and dead.

おまえを一人にはしないよ、寂しきものよ
その茎の上で嘆き枯らせはしない
愛しいものたちは眠っているのだから
おまえも行って一緒に眠るがいい
さあこのように優しくおまえの葉を
庭の永遠のしとねにまき散らそう
おまえの仲間たちが香りも無く枯れて
横たわり眠るその上に


So soon may I follow, 
When friendships decay, 
And from Love's shining circle 
The gems drop away! 
When true hearts lie withered, 
And fond ones are flown, 
Oh! who would inhabit 
This bleak world alone?

すぐに私も後を追うだろう
友情も萎び枯れはてて
喜びに輝く交わりの輪から
宝石がひとつぶづつこぼれ落ちるときに!
真実の心が色あせ
愛しい人もどこかへ飛び去るときに
ああ、誰がこの荒涼とした世界で
一人生きていけるだろう

おとめ訳


・・・・とまあ、なんだかしんみりと

死別した身にはちとこたえる歌詞ですね。


これが日本語に翻訳されたのが

あの有名な「庭の千草」です。

こっちは:

庭の千草も 虫の音も
耐えて寂しくなりにけり

ああ白菊 ああ白菊
一人遅れて咲きにけり

露もたわむや 菊の花
霜におごるや 菊の花

ああ あわれあわれ ああ 白菊
人のみさおも かくてこそ


となり、感じがだいぶ違いますね。

こちらは別れの悲哀というより

一人一輪咲く白菊のけなげさが

際立っているように思います。


年取るにつれて友達が病気になったり

伴侶が亡くなったりしていくのは

人間である以上仕方のないことですが

まさに薔薇が衰えて枯れて行くように

全く自然なことではないでしょうか。


でもやがては自分も老いて誰にも相手にされず

寂しく死んでいく運命ということに

面と向かって向き合う人は少ないです。


若作りをしてみたり、サプリを飲んだり

少しでも体に良いと思われるものを食べたり。


まあそうやってごまかしているうちが

ハナかもしれませんが。。。

やがてはごまかしきれないときは来ます。


その時になってワハハと豪快に笑って

「楽しかった、苦しかった、じゃこれで」と

棺桶にすすんで足をつっこむ

そんな人間になりたいと思っています。


その為にクリシュナムルティを読んだり

禅を勉強したりあれこれやってきました。


勉強していくなかでわかったことは

生と死にはまったく区別がないということです。

肉体は死にますが私たちの本質、

真の自分に死というものはありません。

従ってむやみに死を恐れることはないのです。


母の亡くなる直前の言葉は

「あ〜これで死ねれば本望だ」でした。

いかにも江戸っ子らしい最後でした。


母を超えられるかどうか、これからも

精進していきたいと思っています。



日本語のほうはやはりこの人の歌がいいかな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもお読みいただきありがとうございます。



posted by おとめ at 17:26 | Comment(0) | 詩歌の世界

2017年10月01日

悟りの先にあるもの

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もうすぐ十五夜だねえ・・・



ネットを見ていると私と同じ経験をし

覚醒している人がとてもたくさんいて、

その中で自己中心的な目的は何もなく

誠実に本当の事を書いているひとたちも

数は少ないが確実にいる。


そのひとたちの書いていることは全く

自分のことのようにわかる。


今まではとうていわからなかったこと

理解しようともせず、だいいち

自分にもそんなことが訪れるなんて

考えてもいなかったのに。


「霊魂の世界」という自我の延長の世界に

どっぷりつかっていただけだったのに。


恩寵は眠っていた私をたたき起こした。

起こされてみれば今までわからなかったことが

手にとるようにわかり嬉しくなった。


ニサルガダッタ・マハラジの言葉が

自分の言葉に思え、道元の言葉も

びんびん響いてきて、ただ「わかる」


禅の考案集「無門関」の難問と言われる

兜率の三関(とそつのさんかん)なんて

赤子の手をひねるようにやさしい。


こう書くとたくさんの禅者の方々に

おまえごときに何がわかる、と

大ひんしゅくを買ってしまうだろうけれど。


なんだ、こんな簡単なことだったんだ。

とわかってしまえばわかってしまう。

これは決しておごりでも何でもなく事実。

それほど単純なこと。

だってそのまま今見ているものだから。


ただみんなが難しいと言っているから

そう思ってしまうだけの事。

この世はそんな思い込みに満ちている。


苦しい修行をしなければ悟れない。

悟るとすべての煩悩は消える。

一般人に悟りは無縁だ。。。。

などなど、すべて迷信だ。



エゴが悟ってる。

そんな人もいる。


悟ったからといって聖人になるわけじゃない。

性格はそうは変わらない。

ただ生き方はがらりと変わるだろう。


悟りとはただ普通の人が気づかない「真実」に

否応なく目覚めてしまうこと。

気づいてしまえば「な〜んだ」という

それだけのこと。


ただ問題はお金を払っても修行しても

求めてもそれは得られないということ。

それは青天霹靂、ある日突然むこうから

やってくるもの。


だからそのために無駄な歳月を過ごすなら

私はむしろ悟らなくても

人として善良である事の方が

ずっとマシなのではないかとさえ

ときどき思う。


もちろん区別のない世界を実感してほしい

みんながそうあってほしい、とは思う。

でも!


悟りを後生大事にかかえてそれを自慢するほど

手の付けられないものはない。


それに悟ってもそれで終わりじゃない。

それがすべてじゃない。

それが単に始まりであることに気づくのは

悟りで有頂天になっている時期を

やっと卒業しかけた時。


更にもっともっとわかってしまう時がこうして

やってきて悟り後の苦悩が訪れる。


すべての苦悩が幻想であるとわかっても

自我は次々と新しい苦悩を持ってくる。


それは河原の小石。

捨てても捨ててもそこにある。


それに自我が無い世界では呼吸さえできない。

つまり生きてはいけない。仕事もしないと。

だから両方の世界を行ったり来たりするしかない。


けれど真実の世界も一度見たら

決してそこが故郷だということを

忘れることはできない。絶対に。


まずすべてが幻想とわかる色即是空

これが第一ステージ。

次に色即是空、空即是色。。。

始めの色は後の色とは全く違う。

それがわかるのが第二ステージ


次に来るのが虚であり有であるところ

つまり空でありながら色がある。

それが真空妙有。。。


私はこれがほぼいっぺんに来てしまった。

その日のことは忘れないが、いつだったかが

正確には全く思い出せない。


ただその瞬間は誰がなんと言おうとこれが

「真実」だ、という事ははっきりと実感する。


アドバイタではこのくらいの悟りで十分とする。

けれど、禅ではまだその先がある。

私はまだまだだ。


私はまだ「一つ」の世界にしがみついている。

我の世界からやおら靴を履き替えて

一つの世界に戻ったりしている。


靴があるのも忘れ、悟りも忘れる所

そこがゴールなのだとわかっている。

そこが花はくれない、柳はみどりだ。


いまわの際に「死にとうない」と言った

仙高竏鼡x。。。


虚だとわかっての「死にとうない」では

まだ悟りくさい。

わからないでの「死にとうない」は只の人。

さてどうするか。。。これが私の一生の問。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも沢山のアクセスありがとうございます。

けれどもどれくらいの方にわかってもらえるのか・・・

書いていても仕方ないかな、とふと思うこの頃です(笑)








posted by おとめ at 10:24 | Comment(0) | 悟りについて

2017年09月26日

フレディの悟り


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葉っぱのフレディという童話があります。

けっこう有名なお話なのでご存知の方は

多いかと思いますが。。。


ただの児童書と思いきや、これが本当に

深いお話なのですね。


でもネットでこの童話についての感想を読むと、

輪廻の話だとか、死を受け入れる話だとか

さまざまなレビューがありますが、私には

「悟り」の話そのものでは無いかという気がします。


作者のレオ・バスカーリアについてはあまり

知られてませんが、イタリア系のアメリカ人で

学習障害児の教育をしていたということです。

私は彼が悟っていたのだと思っています。


葉っぱのフレディは梢の近くに育った葉っぱです。

彼にはダニエルと言う葉っぱの親友がいます。

ダニエルはいわば悟った覚者なのです。

つまりダニエルはバスカーリアの分身だと思います。


何故なら彼は自分が葉っぱではなく一本の木である、

という真実に目覚めているからです。

これはまさに覚者が、自分は体では無く

一つの大きな命だという真実に目覚めることと

全く同じだと私は思います。


フレディはまだ目覚めていない一般人で普通に

死を怖がり、何故死ぬのか、何故生まれたのか、と

疑問で一杯になります。


それに対してダニエルは死は怖いものではないと言い

さらに真実をフレディに伝えようとしますが、自分が

一枚の独立した葉である、という幻想から抜けられない

フレディにはわかりません。


やがて秋になりまわりの葉っぱたちがどんどん落ちて

死んでいくのを目のあたりにすることになります。

木はほとんど裸になりました。

そしてフレディはダニエルに言います。

「僕は死ぬのが怖い。」


つまり人間で言えば自分はこの体であって

いつかは死んでしまい、それっきり、と考える

ごく普通の人達と同じなのです。


「みんな死ぬの?」
フレディーが聞いた。

「うん。」
ダニエルが答えた。
「何もかも死ぬ。
 どんなに大きくても小さくても。
 どんなに弱くても強くても。
 僕たちはまずするべきことをする。
 太陽や月や雨や風を経験する。
 踊ったり笑ったりできるようにする。
 そしたら死ぬだけさ。」


そのためフレディはとことん苦しみます。

そして死ぬもんか!とつっぱります。

つまりあるがままへの抵抗です。

「木も死ぬの?」
フレディーが聞いた。

それに対して悟ったダニエルは優しく言います。

「いつかはね。
 だけど木よりもっと強いものがある。
 それは“生命(いのち)”。
 永遠にながらえる物。
 僕たちも“生命”の一部なんだよ。」

「死んだらどこへ行くのだろう?」

「誰もたしかなことは知らない。
 大きな謎だ。」

「僕たちは春になったら戻ってくるのかな?」

「僕たちは戻ってこないかもしれないけれど、“生命”は戻ってくる。」

「じゃあ、今までのことは一体何だったのさ?」
フレディーは質問を続けた。
「そもそも落っこちて死ぬだけなら何で僕たちは生まれてきたのさ?」


しかし秋が深まり、ついに親友のダニエルも

枯れ葉となって落ちていきます。

その死にざまは実に平安でした。


とうとうフレディは木に残ったたった一枚の

葉っぱになってしまいました。

そしてある雪の積もった翌日一陣の風が吹き

フレディを枝から離します。


その時フレディは落ちていきながら

一本の大きな木を見ます。そして自分が

その木の一部であったことを知ります。


そして自分という葉の一枚が無くなっても

木そのものは生き続けるのだ、という真実を

ついに悟るのでした。。。


ここでこのお話は終わりますが、フレディの

苦しみの原因は自分が「木」であることの

自覚が全く無かった点にあります。


自分はあくまでも木にいる一枚の葉であり、

他の葉も自分からは独立したそれぞれの葉だ

という分離の感覚から抜けられなかったのです。


この分離感こそが人を苦しめる最大の原因です。

最後にフレディがついに木から離れ地面に落ちる

その瞬間を、生きながらにして体験すること

それが悟りなのです。


人は人の死を目の当たりにすると、フレディのように

死と相対することになります。

つまり逃げようが無くなります。


そうなった時ごまかしで生きる人もいるでしょうが

真の生き方を選択するようになる人もいます。

その時人は自分にまつわるすべての欲や執着や知識の

虚しさを知り、死んだような状態になります。

そしてその結果、あるがままの自然に目覚めます。


けれども求めても悟りは得られません。

座禅や瞑想や修行も我をとるには良いでしょうが

それだけで悟るのではありません。


ダニエルのようにあるがままにすべてを受け入れ

そのままのあなたを愛し、人を愛し、すべてに

感謝の気持ちしか無くなる時、そして人の苦しみは

自分の苦しみとわかる時に、ついに悟りの方から

あなたの元へやってくることでしょう。。。


その時あなたもフレディが最後に見たものを見ます。

そしてそれが全く新しい生のスタートです。

悟りはゴールではなく、単なる始まりなのです。


ダニエルは彼特有の淡々とした口調で答えた。
「いつも太陽と月がめぐっていたこと。
 ともに楽しい日々を過ごしてきたこと。
 かげとお年寄りと子供たちのこと。
 秋の色のこと。
 季節のこと。
 これでも分からないかい?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

一人でも多くの方が目覚めますように。








posted by おとめ at 08:28 | Comment(0) | 悟りについて

2017年09月16日

気づきのレッスンその3「ある初秋のホラー」


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自分というカタマリをからだ中探しても見つからない。
しかし、わたしはこのようにパソコンを、いま、たたいている。
だから、いま、なにかがわたしを動かしている。
その動かしているなにかを、真我と呼ぶ。
・・・以上わが師の言葉

(私が勝手に師と呼んでるその人は師と呼ばれるのを
とても嫌う。ここで書いてるのがバレませんように。 笑)


さ〜て、お立ち合い。長らくお待たせいたしました。

大好評「気づきのレッスン」の再開です〜。


御用とお急ぎでない方も、お急ぎな方も、

今口をあんぐり開けておやつを食べようとしている人も

ゼツボーして橋から飛び降りようとしている人も

まあ、そういうのはいつでもできるから(笑)

ちょっと後回しにして、お集まりくださいマセ。


気分を切り替えて、前代未聞、空前絶後のこのレッスン

タダより安いものはない、このネット教室で

ちょいと高級なヒマつぶしでもしてみませんか?


TVのクイズ以外にモノを考えたことの無い人も

ちったあ考えるハメになるかもしれません。


知らないうちに心にゆとりが生まれ、いますぐに

この人生を、そう、もうちょっと生きてみようかな

ど思わせるような、そんな気にさせるかも知れない

(あくまでもカモですので。人によりますが。)

そんなひとときを私とシェアしませんか?



今回はちょっと近所の小学生をつかまえましてね。

実験してみようかと・・・

このあたりの子供はとても素直なんですよ〜。

道で会えば「こんちは!」って言ってくれるし

かわいいもんでして・・・


アッ、ちょうどあそこに鈴虫を探してる子がいます。

すぐ近所のT君です。彼にしましょう。

彼と「本当の自分探し」をしてみますよ〜。


前回の自分が消える実験でちょっと理解がいまいち

どころか、ちんぷんかんぷんだった人も

自分が小学生に戻った気分になって

素直な心で一緒に考えて見て下さい。


さてさて、それではプチシアターの開幕でっす!


登場人物1.おとめ

登場人物2.少年T(近所の小学生)



おとめ(以下省略)

「Tく〜ん!」

(と懸命に草むらをあさってる少年を呼び止める)

少年T(以下省略)

「は〜い?」

(私に気づき走り寄ってくる。この前あげたクッキーを
またくれると思ってるらしい)

「T君、突然だけど、君は自分がどこにいると思う?」

「自分?ここにいるよ」

(私がヘンな人というのはわかっているので急な質問にも
別にヘンとも思わず答えてくれる)

「それはわかってるよ。そうじゃなくて自分て
どこにあると思う?」

「ここだよ、この体じゃん」

「体のどこ?」

「胸かな?いやちがう・・・頭かな。」

(かなり悩みながら)

「頭のどこ?」

「う〜んと、脳だよ。人間は脳で考えるって先生が
言ったもん」

「脳が考えるから自分なの?」

「そうだよ」

(胸をはって答える)

「それじゃ聞くけど・・・脳が自分だってわかってる
その人は誰?」

「・・・・・・・」

(目が点になる少年)

「そのわかっている人、それは脳じゃないはずでしょ?

それが本当の自分だよ。違うかな?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「脳が自分って言ってるその人はどこにいる?」

「・・・ええと・・・ええと・・・・わからないや!」

(完全に混乱)

「でも脳は自分じゃないってわかったね。」

「うん」

(早く昆虫採集にもどりたそう)

「だってさ、君は脳でもないし体でもないんだ。」

「え〜〜〜!?」

「だって考えてごらん。今やったように体中

どこ探しても"自分"って言うカタマリはないでしょ?」

「まあね・・・」

(少年若干考え込む)

「でも君は考えたり体を動かしてる。その

君を動かしてる人は誰かな?どこにいるかな?」

「・・・・・・・・・・・・」

「誰かが君を動かしているんだ。そうでしょ?」

「・・・そうかもしれない・・・」

「あのね、面白いこと教えてあげようか?」

「うん」

「君と私はべつべつに見えるよね?でも本当は

つながっているんだよ。」

「え〜?!おばちゃんとボクが?」

(かなり嫌そう)

「うそじゃないよ。あの鳥も、あの山も、雲も、空も、

星も、あそこのおじさんも、家も猫のトラスケも鉄塔も

みんなつながっていて、ひとつなんだよ。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

(少年じっと考えている)

「星も月も火星もだよ」

「・・・オリオン座も!?ボクのスズムシも?」

(若干嬉しそう。オリオン座が好きらしい)

「もちろんだよ。み〜んなつながっていて

一つの命なんだよ。」

「ふ〜ん・・・・・」

「その一つの命は絶対死なない。永遠なんだ。だから

その中にいる誰も死なない。ただ現れては消えている

ように見えるだけでずっとそこにいるんだよ」

「ほんと?」

「そのたった一つの命が、君の脳の働きを知っている

さっきのあの人なんだ」

「へえ〜〜〜〜」

(かなり興味が出たようだ)

「それを大人たちは意識とか神さまとか真我って呼んでるの」

「神さま?シンガ?」

「そう・・・で、それが本当の君なんだよ。」

「えっ?じゃボクが神さまなの?」

「そうなんだよ。でもみんなが言ってる神様じゃないよ」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「その人が君を動かしている正体だよ」

「へえ〜〜〜」

(まだまだどこか疑いのまなこ)

「そして・・・君の中にぜんぶあって愛でつながってるんだ」

「愛?」

「うん・・・私にはそうとしか思えない・・・」

(おとめ遠くを見る)

「ふ〜ん、愛なんてボクにはわからないや」

「だろうね、今にわかるさ・・・・・・」

「隣のMちゃんにはさぁ〜ええとォ〜このまえ

愛してるって言われたけど・・・うひょひょ」

「君はもてるんだね」

「まあね・・・さほどでもないけど、うひょひょ・・・」

(身をよじってる。かなり嬉しそう)

「・・・まだまだつづきがあるんだよ。知りたい?」

「うん、教えて」

「あのね、トラスケもオリオン座もスズムシも

みんな君が写してる映画に過ぎないんだ。

映画だから本当にいるんじゃないんだ」

「え〜〜〜、どういうこと?ウソでしょ」

「これをシキソクゼークーって言うんだ」

「??・・・・・・」

「本当は誰もいないの・・・ただ・・・・・・・・」

(おとめ言うか言うまいか迷っている)

「ただ・・・・・なに?」

「今ここには一人だけいるんだ。それは誰だと思う?」

「誰なの?」

「実はね・・・・・君だけしかいないんだよ・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「??・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

(おとめニンマリと笑って見せる)

「☆=>=>=>(+_+。)Σ(T▽T;) アィーン 」

(少年完全にぶっ飛ぶ。虫かごが手から落ちる。)

「・・・・・・・・・・・・・ふふふ・・・・」

(おとめじっと少年の目を見つめる)

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

(約30秒の沈黙)

「ママ〜〜〜〜〜〜!!」

(少年走って逃げる)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


ワハハ・・・ちょっといじめ過ぎたかな。

また近所で評判が落ちそうです(笑)

でも真我とか悟りについてかなりきわどい所まで

書いてみました〜。

なに?よけいわかんなくなっちゃった?

それでいいんです。考えて下さいね。

とりあえず、鈴虫の鳴き声でもどうぞ・・・

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。
posted by おとめ at 09:24 | Comment(2) | 気づきのレッスン

2017年09月15日

観察

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ポプリでハート作りました。



朝ベッドを片づけていた時

湧き起ってくる強い感情がありました。

それは強いエネルギーのようでした。

どこか遠い源からやってきたものでした。


なんだろう、これは。。。?

。。。。。

。。。。。

次の瞬間

「愛だ!」と聞こえました。


そうだ、愛だ、愛だったんだ!

それは残っている悲しみを押し流し

私を強い力で奮い立たせました。


夫を喪い、子供を亡くし、妻を亡くし

あなたは悲嘆にくれます。


死別の悲しみにいる人に仏陀は言いました。

「亡くなった人のいない家を探しなさい」


ラマナマハリシという賢者は言いました。

「あなた自身が死になさい」


そしてクリシュナムルティは言います。

「悲しみと一つになりなさい」

さらに彼は言います。

「観察こそが自我から自由にさせてくれる」


そうです。私が心からあなたにおすすめするのは

「観察」です。あらゆる思考や感情の観察、

それこそが自我からあなたが自由になる近道です。


死別の悲しみの中心には固い固い自我があるのです。

その時こそ「観察」しなければなりません。

思い切り泣くだけ泣いて、もう涙が出ず

苦しみにもがいている時こそ、この言葉を

どうか思い出して下さい。


「観察」

そうです。

あなたはあなたの悲しみを観察して下さい。

そこに何があるのか、どれだけの「自分」がいるかを。

それは本当に「愛」だったでしょうか。

あなたは次第に気づいていきます。

どんどん悲しみから「自分」を取り除いて下さい。


「あの子は私の未来だった」

「夫のいない今誰が私のめんどうを見るの?」

「妻の料理が恋しい」エトセトラ、エトセトラ。


どれほどあなたは自分が可哀相で嘆いているかに

遅かれ早かれ気づいてください。

これこそが真のグリーフケアなのです。

始めは辛いかもしれません。

でも自分を責める必要はありません。

ただただ気づいてください。


心理学の本を何百冊読んでも無駄です。

カウンセラーへ行ってもあなたの悲しみを

誰も根本的には取り除いてはくれません。


「自分」に気づき、気づき、捨て去った時

なおも捨てきれないものが残ります。


それが「愛」です。それこそが源からの

贈り物なのです。それこそがあなたを救います。


そしてその愛はどんどん広がっていき

あなたのハートを真から温め、慰めます。


そして「自分」の観察が習慣になり、やがて

自然に「自分」に気づくようになったあなたは

知らず知らずのうちに菩薩になるのです。。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もご訪問ありがとうございます。


posted by おとめ at 07:27 | Comment(0) | 悲しみについて

2017年09月14日

「悟った人」を信じちゃダメ

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いわゆる世間で言われる「悟り」について

人はだいぶ誤解しているようです。


「悟った人」という時、あなたは多分

どっしりと落ち着いていて、物事に動じず

なにもかもわかっていて、すべての苦からも

煩悩からも解放された聖人のような人。。。

というのをイメージすることでしょう。


なんとか老師とかなにがし禅師とか。。。

ど偉い坊さんをイメージしたり。。。


それは必ずしも間違いではありませんが、

それだけを信じるのは間違いです。


何故なら本来、あなたも私も悟っているからです。

ただ自我によって気づけないだけなのです。


「悟り」とは一体何でしょうか。

人はそれを求め続けて、死に物狂いで修行し

自分を浄化し、時には家族と泣いて別れ

洞窟に閉じこもり、廃屋に暮らし、苦行し

あげくの果てに悟れず絶望する人も一杯いました。


何故それほどまでに人間は悟りを求めてきたのでしょう。

なぜなら人生は苦であふれていたからです。

悟ればその苦がすべて解消すると教えられたからです。

そして修行すればいつか必ず悟れると、宗教に

騙され続けてきたからです。


悟りとは。。。あるがままの状態です。

しかも本当の自分が何であるかをわかっている状態

自分が体ではなく、心でもなく、感情でもなく

しかも一つの永遠のもので、すべての根源であると

恩寵によって真から実感することなのです。


これを知識によって理屈でわかってもダメです。

修行で求めても得られません。

求める心こそ悟りから一番離れているからです。


求める心。。。それをクリシュナムルティは

「なりゆくこと」と言いました。

つまり今の自分の状態を否定し、より良い自分

より違う自分になろうと努力することです。

世間では努力を称賛します。根性だ!とか言います。

それこそが苦しみの大元なのです。


悟りとは一体なんでしょうか。。。


それは個人の「私」が死ぬことです。

これが欲しい、私はああなりたい、

幸せになりたい、彼を愛している、金が欲しい、

浄化されたい、サイキック能力を身につけたい、

人よりすぐれた自分でいたい。。。などなどの

「自分」が消えることです。


自分という個人が消えるので「私は悟った」というのは

本来はとてもおかしな事なのです。

この頃は悟りを商品化して商売したりしていますが

とんだお笑い草なのです。愚の骨頂です。


たしかに至福体験や、一瞥体験はインパクトがあり

それが探求へのきっかけになることもあります。

現に私がそうでした。

でもそれ以上でもそれ以下でもないのです。


一瞥体験した人を特別な目で見ない事です。

そうした「体験」は悟りとは何の関係もありません。

それはあくまでも「自我」が体験した事に過ぎません。


けれどもそうした至福体験は自分を夢中にさせます。

めくらにしてしまいます。自分を特別だと思わせます。


悟り。。。そこには一つのモノしかありません。

従って何かになる自分も無いのです。

本来の、ほんとうの自分を知る事、それが悟りです。

「悟った人」というのも当然いません。

悟った自分を捨てること。。。それが本当の悟りです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

こちらは朝晩めっきり肌寒くなりました。

虫の大合唱がうるさいです(笑)














posted by おとめ at 08:28 | Comment(0) | 悟りについて