2018年02月18日

神意識について(13)「神様のお人形」

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甥っ子が娘たちに作った人形。かなり傑作だと思います( ´艸`)



スポーツってあまり好きじゃないんですが

オリンピックは何とはなしに見ています。


世界中の若者が集ってエネルギーを思い切り

シェアしているのは見ていて気持ちいいです。


そんな中ふと大好きな曲がTVから・・・

ショパンのバラード第一番です。


見ると羽生結弦がスケートしてました。

彼は完全に神意識で演技していましたね。


自分を捨て切れたのだな、と思いました。


彼は怪我や震災など困難に数多く遭っており

そのため人への感謝の気持ちが自我に勝っていて

それも功を奏したかと思います。


曲が始まる直前に彼は十字を切っていました。

神に明け渡していたのでしょう。


明け渡す、とは結果を自分に課さないこと、

すべて御心のままに行われることをすべて

あるがままに受け入れることです。


わかりやすく言えば、神様の人形になる、

とでもいえばいいでしょうか。


何かが欲しい、何かになりたい!という

自我の言いなりにならず、それを捨てた時、

人は本来の神意識になり「自分」ではなく

「神」の意志によって行動します。


つまりすべて神様がやってくれるので

自分にプレッシャーがなくなるのです。

結果がどうであろうと自分の責任では

なくなるからです。


お人形といえば、羽生自体が中性的で妖精

のような感じの人ですね。


振付師も外国人のせいかフリープログラムでは

衣装や選曲も東洋的で海外受けしたのだろうな、

と思います。


TVをつければマスコミは「金メダル」と

騒ぎ立て、選手の本番前日まで押しかけて

インタビューで攻め立てます。


あ〜そっとしといてやれよ〜と思うのは

私だけでしょうか。


マスコミ全体が「欲しがる心」になり

ナショナリズムを煽っている感じがします。


そんな中で選手のプレッシャーはどんなにか

凄まじいのだろうかとぞっとします。


メダルなんてどうでもいいですが、ただ

日本はもっとメダルはとれるはずなんです。


「欲しがる心」は確実に欲しがるものを

遠ざけてしまいます。


自我にしてみれば自分は自分の自由意思ですべて

行われると錯覚しています。


そしてそれが責任感やプレッシャーにつながり、

良い結果は出ません。


しかし自我は幻想なのです。

したがって個人に自由意思はありえないのです。


すべては一つの神意識によって宇宙は活動を

つづけ、そこには因果しかありません。


あなたが欲しがろうと欲しがるまいと結果は

もうすでに決まっているのです。


ならばなぜ結果を気にしてわざわざ苦しむ

必要があるでしょうか。


「欲しがる心」に気づいた時、自我は弱まり

神の御心のまま行動することによって

ストレスは無くなり自然に物事は運ばれます。


しかし、自我から見ると神の人形になることは

そこにはまだ神と自分(自我)という微妙な

二元性があります。


けれどもこれを悟りの立場から見ると違ってきます。


すべてが神意識という宇宙の源泉(本来の自分)

それ一つしかないことを理解したならば

人はもはや人形ではなく神意識そのものとして

動けるようになるのです。


そしてそれこそが本当の自由意思なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお越しいただきありがとうございました。

オリンピックで寝不足になりがちですね。

posted by おとめ at 08:49 | Comment(0) | 神について

2018年02月12日

神意識について(12)「自我は暴れ馬」

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おいしいおそば食べました。(小木曾製粉所)



きのう自我が神意識の邪魔をするので、それが

苦しみの大元だということを書きました。


でも自我は幻想なだけに実体はありません。

なので殺すこともできません。


また自我がなければ私たちは自活するのも

仕事もできなくなってしまいます。


自我はそれなりに役立つこともある事は

事実です。それは神のプレゼントでも

あるのです。


自我に苦しめられないようにするには

思考(自我)の観察をすることが一つの

方法です。


思考をあるがままに見ることで次第に

自己中心性から離れていきます。


それは良い人になろうと努力することでは
決してありません。


それは湧き起る思考に注意しながらも

流れゆく出来事に全く抵抗しない事です。


それはいわゆる「浄化」ではありません。

良い行いをしようと意識したり、ボランティア

やらなきゃ、な〜んて思ったり、反省したり

後悔して自分を責めることではありません。


思考をただ見て流していくうちに、無駄な

思考は起こらなくなってきます。

つまり心が限りなく静かになるのです。


この「静けさ」こそ神意識の椅子なのです。


ここで大事なことは「思考」というのは

個人的なあなたが自ら起こしたものではない

という事です。


思考はどこからともなくただやってくるのです。

そしてあなたはあれこれ思考に基づいて行動

しますが、それはあなたの「意思」ではなく

すべて神意識が源泉なのです。


それを「自分」がやっていると思うから

自我が幅をきかせるようになります。


自我は暴れ馬のようなものです。

それは実体のないペガサスのような幻想の馬

ですが、これが実にあの手この手で人を

悩ませてきます。


手綱を話すとすぐにこの瞬間から離れ

あなたを過去や未来へ連れ去ってしまいます。


すでに書いたように過去や未来は苦しみの

ドロドロした溜め池です。


えっ?未来は希望があるんじゃないの?

っていう声が聞こえそうですね(笑)


そう考えがちですが実は違います。

その事についてはまたあとでゆっくり・・・


あきらかな事は自我を放っておくよりそれに

気づいている方が良く、それを手なずける

必要はないが、ただ見て流す、ということです。


それはクリシュナムルティの「観察」でもあり、

道元の「只管打坐」あるいはまたアドバイタでは

「観照」ともいいます。


批判することなくムチ打つことなく思考の

湧き起るまま、常に見守っていきましょう。


つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もおいでいただきありがとうございます。

ここまで一気に書いてきましたがこのへんで
少しスローダウンするかもしれません♪
posted by おとめ at 20:31 | Comment(0) | 神について

2018年02月11日

神意識について(11)「般若の智慧」

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神意識が自由に入って来られるようにする為に

心はいつもからっぽで自我が薄い状態がベスト

だという事はわかっていただけたでしょうか。


その時にはじめて人は神の叡智と共になります。

この叡智は仏教では「般若」と呼ばれます。

般若心経の般若ですね。


これが入ってくるためには自我を強める

知識や学歴などはかえって妨げになります。


高学歴の人、長年仏教を勉強した人あるいは

宇宙規模のスピ知識がある人などは知識のみに

凝り固まってしまって思考が脳の中で充満して

しまいます。


こういう人は悟りを求めながらも往々にして

悟れず悶々としているのを見かけます。


でもその悶々とするのもまた仏なんですね。

その状態を深く味わえばと思います。


なんのてらいもない、正直で素朴な心こそ

般若の知恵に好かれるんですね〜。


その良い例がかの鈴木大拙が紹介した

浅原才市という浄土真宗の信徒です。


彼は一介の下駄職人で無学無知でしたが

仕事で下駄の歯を削りながらその歯に

毛筆で浮かぶ言葉を書き続けていました。


「さいちや、どんどこ、はたらくばかり。

いまわ、あなたに、くをとられ、

はたらく みこそ、なむあみだぶつ。

らくも これ、よろこびも これ、

さとるも これ、

らくらくと、 らくこそ、らくで、

うきよを すごすよ。」


そのあるがままの純粋無垢な言葉の数々は

人の心を打ちます。


けれどそうなるためには悟ることだけが

重要なのでは無いことはすでに書きました。


悟りたい、その方法が知りたい、という思いは

ますます自我を強め、人を苦しめます。


すでに書いたようにすべての人は神意識であり

そのままで完璧なのです。


けれど、神意識の前に常に自我が仁王のように

立ちはだかっていて、自分が神意識そのものだ

という真実を隠してしまうのです。


つづく
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もありがとうございます。

posted by おとめ at 21:35 | Comment(0) | 神について

2018年02月10日

神意識について(10)「神意識は愛」

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ふとした瞬間に人は神意識として行動することが

しばしばあります。


たとえば電車にひかれそうな人を見てとっさに

線路へ飛び込んで助けた、というような事です。


あるいはひどいアルコール中毒の人が

とことん地獄を味わったとします。


「もうオレはだめだ」と人生も何もかも

すべてを完全にあきらめた瞬間、その時に

からっぽになり、自我は消えうせその分の

スペースを神意識が埋めます。


自我には決してアル中を治すことはできません。

ましてや精神科や医者、カウンセラーには

治すことは難しいでしょう。

神意識だけがアル中を治すことができます。


バイロン・ケイティという人がいます。

彼女はかつて薬中毒でした。

ある日施設の隔離部屋で目を覚まして

見性体験を得ました。


彼女は「ワーク」という独自の手法を生み出し

すべての苦しみは自分自身によって作られる

という真実を人に伝えています。


こんな風に神意識は地獄を見た人間に

ひょんなことで助けをくれたりします。


だから死別の苦しみで自分の命や幸せ

この世のすべてを放棄した時などにも

神意識はす〜っと入ってきます。


そして間違いなく救ってくれます。

私も救われた一人です。


もうどうにでもなれ!と開き直って

すべてを放棄した時にあなたの心は

神に明け渡されます。


それは個人のあなたから本来のあなたへの

移行ともいえます。


そしてあの「自分を守らない心」すなわち

神意識で常に生きて行くことができます。

何にも求めなければすべて与えられるのです。


こうなるコツは簡単です。


抵抗しないことが大きな鍵だと思います。

抵抗は葛藤を生み、それが苦しみとなります。


できるだけ悲しんで悲しんで悲しみと一体

になり、その結果「からっぽ」になることです。


何故なら神意識とは別名「愛」だからです。

それだけが真のグリーフケアをしてくれます。



つづく
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつもアクセスありがとうございます。

posted by おとめ at 15:18 | Comment(0) | 神について

2018年02月09日

神意識について(9)「みんな神様」

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「当処即ち蓮華国、この身即ち仏なり」

(白隠禅師)



悟らなくても神意識で生きている人がいます。


先天的にいわゆる自分を計算に入れない人です。

その善良な行動は神意識から来るので

そのエネルギーが周りの人を照らしてくれます。


生まれつきの障害で神意識の人もいます。

たとえばダウン症の子供などは「天使の病気」

と言われるくらい自我が薄いようです。


こうした人々はまさに人類の宝なのです。


宮沢賢治の「虔十公園林」という童話を

読んだことありますか?


教科書にものっているような地味なお話ですが、

ここには神意識の人がどんな感じだか

実に見事に書かれています。


すぐ読めますのでご興味ありましたら↑上の

青空文庫で是非読んでみてください。

あなたも神意識に接触できるかもしれません。


また逆にあまりにも自我の幻想にとらわれて

神意識からはるかに遠ざかってしまう人がいます。

その為犯罪などをやってしまったりします。


逆に良い事をしているように見えても、実は

神意識でなく自我で満タンな人もいます。


けれどもどんな人でも元は神様(神意識)です。

神でない人もモノも生き物もありません。


ですからどんなに血迷ったことをしてしまっても

それは自我による迷いにしか過ぎず元々私たちは

完璧なのです。(煩悩即菩提)


自分の原点である神意識で動くようになると

人は人のあるがままを認めるようになり、その人が

どんなことをしても憎むことはできないのです。


何故なら人が何か愛の無い行動をしても、それが

本当のその人でなく幻想の自我の行動に過ぎないと

はっきりわかるようになるからです。


その結果この世は天国と化すでしょう。

いえ、もともと天国なのです。


この神意識へのルートはひとによってさまざまで

悟りもその一つですが、上記のような善良な心に

接するのもその一つです。


なのでふとした拍子にあるルートを通り、自我が

横へどいて神意識だけで行動する場合もあります。

それはどんな場合でしょうか。


つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日もお読みいただき誠にありがとうございます。

posted by おとめ at 08:51 | Comment(0) | 神について

2018年02月08日

神意識について(8)「神はからっぽが好き」

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猫も悟ってるんだってば



さとりから最も遠い所にいる人とは、人間には

悟りが必要だとかたく信じている人です。

(タデウス・ゴラス)


自分は無く、ただ神意識だけがあった。

そうわかった人だけを「悟った人」

と呼びますが、それはちょっと早とちりで

間違っているんです。


なぜならみんな元々は神意識だからです。

だから本当はみんなが悟っているんです。

道端の雑草も小石も悟っています。


これを「仏性がある」といいます。

みんな仏様(神様)だというわけです。


また悟るための修行もありますが、なかなか

そうならないのは「悟りたい」という自我が

あまりにも強烈だからです。


すでに書いたように体があまりにも自我に

支配されているとエネルギーは縮こまってしまい

神意識は入って来れません。


人が悟ってしまうのは突然のアクシデントです。

たまたまです。それは自分で選べません。(笑)


私は悟る事より神意識で生きるほうがずっと

大事だと思います。


だから悟らなくても別に全く構わないのですが、

ただ、悟るとその分近道になるので

うんとラクになるというだけの話です。


本当の修行とは悟るためというのもありですが

願っても悟れませんから、自我を直接

なんとかしたほうが近道なのはあきらかです。


そのため初期の仏教やさまざまな宗教で自分を

浄化するために色々な苦行をして自我を消そうと

あらゆる事をやってきました。


けれどすでに書いたように自我は幻想で

ホログラムですから消せません。


でもホログラムだからとほうっておいては

ますます苦しくなるだけです。


かといって自我を消そうと必死になれば

自我はますます強くなるだけです。


ではどうしたらいいのかというと、「からっぽ」

になることなんです。

思考をあれこれ動かさないことです。


そのあたりの舵取りをうまく教えてくれるのが

禅やクリシュナムルティだったりします。


あるいは一般人にも教えてくれる人は

沢山いるんですよ〜


つづき

・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもありがとうございます。
posted by おとめ at 17:17 | Comment(0) | 神について

2018年02月07日

神意識について(7)「本当の自分」

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なにかの拍子に、この体は「自分」ではないと

わかることがあります。


ここで重要な事はその時、この体という「感覚」

が消えていることです。


それは脳が自我を超えて直接宇宙に繋がり本来の

自分を思い出す瞬間です。


その時自我はありませんが、あとで戻ってきて

それを「自分の」体験とします。


それを人は仮に「悟り」と呼んでいるのです。

それだけのことです。


その時自分は本当は体ではなく思考でもなく

神意識そのものだったと気づきます。


それは別の言葉で言えばすべてが「自分」

という事です。


すべてが自分だからすべてが大切です。

自分の中に愛が溢れてくるのを感じます。


そして今までの自分の苦しみは何だったのかと

はっきりと目が覚めるのがわかります。


けれど体にくっついた記憶や経験や欲望など

自我と呼ばれる自己愛のエネルギーは

たとえ悟ったあとでも執拗に、強烈に

宇宙から体へと人を引き戻そうとします。


悟ったからそれで終わりじゃないんです。

人生はそのまま続いていきます。


自我である思考を監視するのはその為です。

座禅をしたりします。(只管打坐)

あるいは観察をします。(クリシュナムルティ)


その方が苦しまないで済むし、悟りが

深まっていくためでもあります。


本当の瞑想や座禅とは悟るためではなく

ただ悟りの中に浸る、神意識の状態でいる

ということだと私は思います。


そして最終的に悟りを手放す時がきます。

ここまで行かないと悟りは本物じゃないんですね。


また、ここで一つ大事なことがあります。

悟った人だけが特権的に神意識へとつながる

と思われがちですが全くそうではありません。


つづく
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今晩もアクセスありがとうございます。

posted by おとめ at 18:59 | Comment(0) | 神について

2018年02月06日

神意識について(6)「もともとからっぽ」

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紙粘土の蝶(姪っ子作)



ホログラムを見たことがありますか?

私はあります。空中に蝶が浮かんでいました。


非常にリアルなので思わず触ろうとしますが

絶対に触れません。

それは実体のないただの映像だからです。


あなたが「自分」と呼んでいるその心と体も

このホログラムのようなものなのです。


え〜?そんなの寂しいじゃん、という人も

あるでしょうが、ちっともそんな風に思う

必要はなく、全く逆なのです。


あなたが「自分」と呼んでいるものから

学歴や知識、名前、肩書、などをすべて

はぎとったら何が残りますか?


こういったものはすべて過去の思い出と同様

「さわれない」つまり実体のないものです。


それは肉体の経験や記憶から生まれた

脳ミソの中だけにある抽象観念なのです。


「あなた」と呼ばれるものの中で唯一の実体

(つまりさわれるもの)は「体」だけ。

そうじゃありませんか?


けれどもその体もまた幻想だという事は

量子物理がとうとうバラしちゃいました。


私たちの体は素粒子という宇宙と同じ物質

でできています。

が、実際はほぼ実体はなくただの「空間」

でした〜。それもスッカスカです(笑)


また最新の量子物理の研究では宇宙そのものも

あるんだかないんだかわからないことが

ダメおしで証明されたようです。


量子物理学については興味が尽きませんが

それについて書くのは後に回すとして

私は近い将来量子物理学で言われていることと

仏教的あるいは非二元的な真理がほとんど

同じことであるというのは世界の常識に

なることは間違いないと思っています。


上記の事を仏教的にまた言い直しましょう。


体だけでなく、触れることができる「もの」は

すべてすべて刻々と変化をしつづけていて

やがては消えゆくものです。


この一瞬一瞬にもたとえば細胞は消えたり

また新しく生まれたりしています。

ですからこれだ!という常に安定している

実体ではありません。


またこの体と心でできているものは

決して独立、自立して存在していません。

すべては繋がっていてお互いになんらかの

影響をしあっているのです。


ですから独立した「自分」というものは

どこにもないのです。

いつも書いているようにすべては繋がって

一つなのです。


この事を大昔にとっくにわかっていた人が

インドのナーガルジュナ(龍樹)です。

それが「空」という思想でした。


ごく最近になって理論物理学者のハラメイン

という学者が宇宙は一つのモノからできて以来

すべてのものが繋がっている、という理論を

展開しているようです。


その真偽のほどはわかりませんが興味深いです。


ここまで「自分」と呼んでるあなたのその

心と体はまったくの幻想でしかないのだ

ということを書いてきました。


おやおや、「自分」が消えてしまいました。

それでは本当のあなたとは一体なんでしょうか?


つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつも読んでいただきありがとうございます。

posted by おとめ at 20:18 | Comment(0) | 神について

2018年02月05日

神意識について(5)「幻想の引き出し」

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私たちのこの体=自分であるという思い込みは

非常に強烈なものです。


さんざん書いたように「自分」というのは

この体と心であり、それが色々な体験をしている

というのは完全な思い込みです。


思考が感覚から主体をつくってしまい、それが

「自分」という自我になってしまうのです。


まず体と心があって体験をする、と思って

いますが全く反対で、まず感覚による経験があって、

そのあとに思考が「体験者」である「自分」(自我)

を作るのです。


この自我は常に「過去」とつながっています。

過去に体験したさまざまな事を脳の引き出しに

しまいこんでおきます。


そして常にその体験を元にして未来を考えます。

決して今のこの瞬間にいることはありません。

過去や未来は幻想です。

ですから自我はいつでも幻想の中にいます。


たとえばあなたが過去に素晴らしい公園に行き

夢のような時を過ごしたかも知れませんが、

その「経験」自体は今ありませんよね。


その時見た目の覚めるような薔薇の花は

今のあなたには見ることも香りをかぐことも

手に取る事もできません。


つまり「経験」や「記憶」はただの抽象観念で

実体はないものなのです。


過去の出来事、それは現在のあなたとなんの

関係もありません。


けれども自我はあたかも過去の経験が今だに

存在するようにそれを実体と思い、この体と

結びつけていつまでも執着します。


たとえば「あ〜あの時あの薔薇はきれいだった。

でも一緒に行った夫はもうそばにいない」

「私はなんて一人ぽっちなのだろう」

などと思考が思考を生んでいきます。


そして過去のイメージに浸ろうとします。

そしてそれが人の苦しみの最大の原因です。


自我に脚色される以前の、今のこの瞬間を

超越した所から見ている存在・・・


それこそが本当のあなたです。

その瞬間に苦しみはありません。


つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日も寒いですね。皆さまお体ご自愛下さい。
posted by おとめ at 20:21 | Comment(0) | 神について

2018年02月04日

神意識について(4)「はじける命」

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爆弾スフレ(星乃珈琲店)




このまえも書きましたが宇宙にあるものは一つ。

それを私は仮に「神意識」と呼びます。


この所ちょっと理屈っぽかったので今日は

気軽な感じで行きますね〜♪


神意識はそれ自身は「無」なので寂しいのです。

それで、あなたや私、動物や植物の体となって

それぞれを動かしいろんな体験をするのです。


何にもない真っ白な壁を想像してください。

殺風景で病院みたいでいやですよね。

だから絵を飾ったり棚をつったりします。

それと同じことです。


おいしいものも食べたいじゃありませんか。

神意識だってそうなんです。


動いているものだけではなく、道端の

石ころでさえ神意識でできています。

まあいわばすべては神様のようなもの。


そしてそれぞれの体がもたらす「生命感」を

楽しんでいるのです。


つまり感覚、美味しいな、綺麗だな〜、眠いな

そんな体感覚もそうだし、「自分」がここに

確かに存在しているという意識です。


神意識はまた楽しいことばかりではなく

苦しみや悲しみといった事も経験します。


まあ毎日ごちそうではあきますからね。

たまにはさっぱりとお茶漬けが食べたいな

と思うのと同じです。


たとえば病気や手術で痛かったりしても

本当はその感覚だけがあるので主体はなく

主人があるとすれば神意識がそれなのです。


ところがこれまで書いてきたように思考が

しゃしゃり出てきて苦痛や不安を

なんとかしなくちゃ、と思います。


そしてわざわざ「苦しんでいる人」を

作り上げてしまいます。


すると神意識はうまく作動できません。

それは自動運転に逆らうようなもの。


すると苦痛は倍加してしまいます。


私たちはただ身をゆだねて安心して

神意識におまかせしていればいいんです。


この体はそれぞれの役割に応じた命の躍動を

存分に体験してからやがて朽ちていきます。

それが「天命」というものかもしれません。


けれど体はただの入れ物だから誰も死にません。

生も死もありません。

もしあなたが神意識の状態にあるならば・・・

「生死の中にほとけあれば生死なし」(道元)


それは髪をカットしたり服をぬぐことと

全く同じことなのです。

あなたは神意識という不滅の存在なのです。


ちょっと安心しませんか?


つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

posted by おとめ at 22:17 | Comment(0) | 神について

2018年02月03日

神意識について(3)「この瞬間」

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寒さで枯れそうだったゼラニウムが見事復帰!



きのうにつづいて今日は自我というものが

どのように人を苦しめるかの過程について

書いてみようと思います。


たとえば「暑い」という感覚があります。

けれども思考は「自分」が「暑い」つまり

「暑がっている人」という主体を作り

そのできた主体が「自我」=自分です。


本当はただ「暑い」という感覚があるだけで

その経験だけがあるのです。


このあたりちょっと難しいですが

わかっていただけるでしょうか?


また、自我は他から全く独立した絶対的な

「私」という中心がこちら側にあるという

偽の感覚を作り上げます。


その自我の思い込みが色々な不快な感覚、

たとえば「痛い」「悲しい」「怖い」などを

体験する「私」を作り上げてしまいますが

ここに悪循環が生まれます。


自我はその不快な感覚が自分とは別個に

存在する「実体」だと思い、そこから

ひたすら逃げようとするのです。


このまさにその感覚にとどまろうとせず、

それをなんとかしようとする行為、

それこそが私たちが自然にスムーズに

神意識で生きるのを非常にさまたげ

色々な苦しみを生んでしまうのです。


本当はそこには感覚があるだけなのです。

だから苦しみをなくすにはただその感覚に

なりきっていればいいのです。

そうすればそれは去っていきます。


これが本当の「あるがまま」ということで

神意識と共にあるということなのです。


逆に快感の瞬間に自我はありません。

また、この「瞬間」というのは重要です。


たとえば怪我をした瞬間、ころんだ瞬間

やけどをした瞬間に自我はありません。


その瞬間その経験、感覚があるだけです。

そしてそのあと思考が「私怪我をしちゃった」と

主体を作り上げるのです。


また動物や植物、また幼子などは神意識

のみで感じ、考え、動きます。


幼い子供や可愛い猫、綺麗な花を見て人が

癒されるのは神意識に癒されているのです。

その瞬間に自我はありません。

つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎度お越しいただきありがとうございます。
posted by おとめ at 18:55 | Comment(0) | 神について

2018年02月02日

神意識について(2)「感覚だけがある」

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神の意識だから神意識。

まあ〜勝手につけた名前ですけど(笑)


「宇宙意識」ということもあります。

「真我」と呼ばれることもあります。


「神様」でもいいんですけど、神って

人によってイメージが様々ですよね。


だからこれが一番ぴったりくる感じ。

私たちはこの神意識の化身であり、

また同時に受信機なんです。

神意識の「入れ物」と言ってもいいです。


私たちの体を動かしているのが神意識です。

つまり私たちは自分の自由意思によって

動いているのではありません。


自分の意思で動いていると「錯覚」

しているだけなんです。


どういうわけか進化の過程で人間だけが

異常に脳が発達してしまったのです。


そのためにさまざまな経験や知識、記憶

などを貯めこみそれが体と一緒になって

「自分」(自我)という幻想を作り出して

しまいます。


その為、感じている、思っているなどの経験を

「自分」がしていると思い込んでいますが、

実際は人に自由意思は無く、神意識によって

操作されているのです。


実際はただ神意識が味わう感覚だけがあり

(五感:眼・耳・鼻・舌・身)

心もその感覚です(意)。


けれどもこの心(思考)が偽の主体である

「自分」を作り上げてしまいます。

たとえば初めは寒いという感覚があります。

それだけがある筈なんです。


けれども思考が寒いという感覚に主体を

でっちあげるのです。


つまり「私が」「寒い」となります。

この「私」が「自我」です。


この自我が本来神意識のスムーズな運動

である感覚や心の状態を捻じ曲げてしまいます。

そして人は不要な苦しみをすることになるのです。


ではどのようにしてそのメカニズムが

生まれてしまうのでしょうか。


つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

posted by おとめ at 21:48 | Comment(0) | 神について

2018年02月01日

神意識について(1)「一つの存在」

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鷹が悠々と飛んでいたんだけど見えないかな〜?




宇宙にはたった一つの存在しかありません。

それはある種の「意識」であり、生命体の

エネルギーのようなものです。


けれどもそれを直接誰も見ることはできません。

人が自分の目を見ることができないように・・・


それは私たち自身でもあります。

何百億光年の昔から生き生きと躍動しています。


この洞察ははるか昔の古代ギリシャや

インドに生まれ、それが中国に伝わってやがて

日本の仏教や禅になったりしています。


またある時期に神智学にも影響を与えました。

欧米に伝わったものは、ちょっと軽く処理され

流行りのノン・デュアリティになりました。


また、この考えは古今東西の文学者や哲学者に

大いに影響を与えてきました。


また別のルートではクリシュナムルティにも

叡智を与えたりといった世界共通の「真理」

なのです。


決して私一人が精神錯乱して好き勝手に

書いたことではありません(笑)


このことは現代の物理学でも言われています。

すべてはつながっていて宇宙間にあるものは

お互いに呼応し同時に動くそうです。


あなたが指をパチンと鳴らすだけで

それはかなたの星雲まで届きます!


信じられないでしょうけど・・・

厳密にいえばどんな些細な影響も

なんらかの形で互いに伝わる筈です。


どこかで難民の子供が飢えて死ねば

あなたの一部も死んでいるのです。

何故なら宇宙とは一つの命だからです。


それは一枚のカーペットのようなものです。

あるいはまた無数の泡や波を生み出す

あの果てしない大海原や、毎日毎日あきもせず

まったく違う様相をみせる大空のようなもの

かも知れません。


そしてどうやら・・・その一つの存在は

この個人的な私たちにははかりしれない

「意思」のようなものを持っている・・・

かもしれないのです。


私はそれを「神意識」と呼んでいます。

しばらくこの「神意識」というものについて

書いていこうと思います。


つづく
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posted by おとめ at 08:49 | Comment(0) | 神について

2018年01月30日

故郷

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20才の頃、禅に大変ひかれていた時期に、

ある「啓示」のようなものを受けた事を

以前ちらっと書いたことがあります。


その頃は禅だけでなく、実存主義や

汎神論で有名なスピノザの本を読んで

かなり影響を受けたと思います。


どうしてかというと、私は幼い頃から

「神」というものの存在を確信していて

けれどもそれはキリスト教の神様でも

神社の神様でもない、もっとそれらを

はるかに超えた「源泉」であり、非常に

身近にいるものという、無知なりにも

自分なりの直観があったからです。


なのでスピノザの言う神はそれと全く

矛盾を起こさなかったので、学生時代は

その著作を読みふけっていた記憶があります。


こう書くとすごいインテリみたいですが、

それはとんでもない事で、読んだ記憶だけで、

内容はすっかり忘れてしまいました。


私はできの悪い学生だったし、実際は

難しくてわずかな内容しか理解できずほぼ

ちんぷんかんぷんだったのです( ´艸`)


ただ彼の一元的な神のイメージは

どうやら理解できたような気がします。


そんな頃のある日、ぼ〜っとしていたら

ある情景がふと浮かびました。


それは綺麗な小川の川底の映像でした。

濃いみどりのレースのような藻が

ゆらゆらと流れに揺れていました。


よく見るとそこには無数の魚の卵が

産みつけられていました。

私は透明なビーズのような可愛らしい

小さな命に見入っていました。


その時声のようなものが聞こえたのです。

「それは何億光年ものかなたにある

星雲と同じものだよ」と。


その時はまだ「ワンネス」については

わかりませんでしたが、この宇宙にある

森羅万象は何らかの形で繋がっているのだ

という直観が湧いたのです。


私は妙に気になってその事をノートに

書き留めておきました。


その後人生の荒波にもまれて、いつしか

禅からも、その声からも遠ざかっていました。


そして因果によってさまざまな体験をし

今ここに流されてきた自分はつくづくと

そして驚きで一杯になって思うのです。

あれはまぎれもない真理だったと。


それは私が「故郷」のエネルギーに触れた

一番最初の体験でした。

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今日もご訪問ありがとうございます。

posted by おとめ at 19:44 | Comment(0) | 神について

2018年01月29日

物理学者とワンネス

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量子力学では神様のようなシュレディンガー

実はアドバイタの世界に傾倒していました。


彼は「生命とは何か」という著作の中で

ただ一つの意識があるだけで、その一つが

さまざまな形をとって表れていると書いています。


おっそろしく難しい本でしたがなんとか読んで

かなり感動しました。


それはまさに非二元の真理であり、私がここで

いつも書いていることと全く同じことです。


これは本当に興味深い事です。

今や科学は真我や神、仏の世界と

かつてないほど近づいているのです。


量子物理論がなかったらどうなったでしょう。

パソコンもケータイもスマホも動きません。


遠く離れたもの同士の情報が瞬時につながる

「エンタングルメント」という事象や

量子そのものが見せる神秘的な運動は

私達が現代生活をするために欠かせないのです。


にもかかわらずその不可思議な量子の性質は

何人かの物理学者をとても宗教的にしました。


たとえばデビッド・ボームもその一人です。

彼の「全体性と内蔵秩序」という一冊は

大変おすすめです。


彼は量子論には自然への洞察が含まれており

アリストテレスが宇宙をたった一つの

「有機体」と考えたことを重要視しました。


ボームは宇宙とは一つの大きな流れる

絶え間ない全体的な運動であり、

その全体性から思考が分離することが

人間の不幸をもたらすと言っています。


つまり人間は全体から自分を分離し

分類し、キリスト教や仏教、右派や左派

さらには黒人や白人、日本人やイギリス人

といったように自らを「断片化」します。


この思考の断片化が戦争や混乱を生み

世界の悲劇を生み出すというわけです。

彼はクリシュナムルティの何よりの理解者でした。


そうです。ここに非常に面白い縁というか

神のもう一つの導きがあったのでした。

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今日もたくさんのアクセス感謝です。


posted by おとめ at 21:56 | Comment(2) | 量子物理学

2018年01月28日

神さまって一体な〜に?

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神社の前にあった大きな御神木

こういう木を見ると私は神様というより
頼もしい兄弟として抱きつきたくなります( ´艸`)



すべてのものは神と直結しています。

というよりすべてが神さまなのです。


なんてこと書くとまた頭がおかしいと

思われそうですが、本当なんです。


「神」というと誤解を受けますが、

それは天使や悪魔と一緒に出てくる

キリスト教などの宗教的な創造主

としての神様ではありません。


また神社で拝むような神様とも

ちょっと違うかな〜って感じがします。


それは一つの「存在」、生き生きと躍動する

エネルギーのようなもの。

それを神と言ったり源とか宇宙、真我、仏教では

無字や仏、如来と言ったりします。


それが猫になったり花やあなたや山になったり

はたまた机や石ころ、月やコオロギやオリオン座など

あらゆる生きとし生けるものや物質として現れ

生きていて、さまざまな活動をしているのです。

宇宙にはそれ以外のものはありません。


ですからあなたが泣いたり笑ったりするのも

神=宇宙意識がそうしているのです。

あなたの脳は宇宙意識の受信機に過ぎません。


あなたの体はあなたではありません。

すべての人は仏です。

白隠さんの「衆生本来仏なり」です。

私がこの記事を書くのも、仏が書いているのです。

読んでいるあなたも仏です。


あなたという存在はそのちっぽけな体には

到底おさまりきれない永久不滅の命なのです。


そしてこれ以上手を加える必要は全く無い

完全で完璧な存在です。

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あなたも私も完全無欠ってことで

元気でやっていきましょう(笑)





posted by おとめ at 19:29 | Comment(0) | 神について

2018年01月25日

パソコンと壮大な勘違い

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記録的な寒さで窓が凍り付いてます。(;´・ω・)



朝パソコンをつけると、低温対策機能が働くのか

「寒いよ〜」とうなり声をあげます。


私たちはパソコンのようなものかもしれません。

OSは宇宙にあるただ一つの「意識」です。


それを「存在」と言ったり「神」とか

「アートマン」とか呼んだりします。


アリストテレス以来、古今東西の宗教や

哲学者、はたまた物理学者の意見が

宇宙にあるのはただ一つのモノしかない

というところで一致しています。


そのたった一つのOSによって脳である

CPUが動きます。

脳は受信機のようなものなのです。


脳は手足や心臓を動かしたりしますが、

また記憶や経験、経歴や職歴といったものを

どんどんファイルとしてため込んでいきます。


幼い頃はまだ宇宙意識のみで生きているので

まだメモリは一杯になっていません。


楽しい、美味しい、嬉しいといった感覚や

感情があるだけでそれを存分に楽しんでいたのです。


けれども体の成長と共に次第に経験や知識といった

「ファイル」がどんどん溜まっていきます。


脳はそれを「体」とくっつけて「自分」と認識し、

やがてその自分を他人や他の生き物や物質から

完全に分離したものと勘違いをしてしまいます。


そうやってできた幻想の自分が「自我」です。

それが人間の壮大な勘違いなのです。


本当は本来の自分である宇宙の体は一つであり

他人や動物や植物といった区別はないのです。


ただ宇宙意識の体験だけがあり、体験する

「個人」はどこにもいません。


体験はただ起こっては過ぎ去っていきますが、

自我はそれを自分のものとし、かかえこみます。

そして人生の苦しみが生まれるのです。


このフォルダは一度初期化されねばなりません。

そのために瞑想や座禅、あるいはクリシュナムルティの

観察などが役立つことがあります。

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今夜は本体にカバーをかけました。
なに、お風呂のマットです( ´艸`)

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今日もありがとうございます。

みなさまお風邪を召しませんように・・・



posted by おとめ at 20:49 | Comment(0) | 自我(エゴ)について

2018年01月22日

贈り物

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人生のあらゆる浮き沈みや苦難は

そのまま充分な苦行だ。(マハラジ)



私はそれを「贈り物」と呼びます。


悲しみであろうと苦しみであろうと

すべては仏(宇宙)の大いなる活動です。


それを避けたり、なんとかしようとしたり

あがけばあがくほど苦しみは増します。


ただバカになって、大いなる力にゆだね

あるがままに生きればいいんです。


けれど、その辛い現実を「受け入れよう」

と「努力」をすると、ますますあるがままでは

なくなってしまいます。


苦しい時は苦しむしかないのです。

それが苦しみから早く抜け出る方法です。


自我の小じゃれたアドバイスや解決法などに

決して耳をかさず、ただ苦しんでいれば

頭はからっぽになります。


あなたがからっぽになった時

あなたが何の目標も持たないとき

全宇宙があなたの味方になるでしょう。

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今日もありがとうございます。




posted by おとめ at 20:40 | Comment(2) | 苦しみについて

2018年01月21日

薪灰にならず

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このあたりはよく薪を積んでいるのを見かける。
なんだか贅沢。



思うに・・・あの世もこの世もないんですね。

すべてはここにあるんです。


あなたは亡くなった人と一つなのです。

愛する人はどこへも行っていないのです。

涙は枯れずに流れますが、それは

自我が勝手に流す涙です。


本当のあなたは悲しんではいません。

生きているものが死ぬのではありません。

生も死もありません。


別の言葉で言えば一瞬ごとの「状態」

があるだけです。

一つの中でそれが起こっているのです。


道元は「たきぎは灰にならない」と言いました。

つまり薪が燃えて灰になるのではなく

薪はたきぎ、灰は灰だというのです。


死者の体が生き返る事がないように

生きている体が死ぬのでもない。

季節で言えば春は春であり

春が秋になるのではない、と言うのです。


これについてはさまざまな解釈があって

私もまだ100%理解できていません。

けれどもこうも思うのです:


そこには過去⇔現在⇔未来という時間が

徹底的に否定され、ただこの瞬間のみの

そのスパっとした断面だけがあります。

春は春の今、生は生の今、死は死の今です。


つきつめれば生も死も永遠の存在の表現であり

体と言う「実体」が変化して死へと向かう

のではありません。体は幻に過ぎませんが

同時に限りなく美しい創造物なのです。


すべては永遠の今が演じる一人芝居なのです。

従って生も死もありません。

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道元のこの現成公案ってむずかしいんですよ(;´・ω・)

ちょっと書いてみましたけどまだまだかな。

posted by おとめ at 22:35 | Comment(0) |

2018年01月20日

幼い頃を思い出せばいいんです。

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真実はびっくりするくらい単純なのです。

「一つ」があるだけなのです。


それはたとえば幼子にもどることです。

その時あなたに守るべき人生などあったでしょうか。


過去など、未来などあったでしょうか。

あなたはただニコニコして、泣きたければ

泣いていたはずです。


その時「自分」があったでしょうか。

言い換えれば「自分」を意識したでしょうか。


幼い子が時々自分のことを自分の名前で呼ぶのは

とても興味深い事です。

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本日よりしばらくこんな感じでいきます。

短くて読みやすいでしょ?

posted by おとめ at 18:21 | Comment(0) | 悟りについて