2018年01月20日

幼い頃を思い出せばいいんです。

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真実はびっくりするくらい単純なのです。

「一つ」があるだけなのです。


それはたとえば幼子にもどることです。

その時あなたに守るべき人生などあったでしょうか。


過去など、未来などあったでしょうか。

あなたはただニコニコして、泣きたければ

泣いていたはずです。


その時「自分」があったでしょうか。

言い換えれば「自分」を意識したでしょうか。


幼い子が時々自分のことを自分の名前で呼ぶのは

とても興味深い事です。

・・・・・・・・・・

本日よりしばらくこんな感じでいきます。

短くて読みやすいでしょ?

posted by おとめ at 18:21 | Comment(0) | 悟りについて

2018年01月18日

気づきのレッスンその10 「瞑想2」

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瞑想中のくーた



今年は記事をもっとシンプルにしようと思うので

長ったらしい投稿はこれにて終了!

となります。(なると思う、なればいいな〜と)笑


長々と書いても頭にはなかなか入らないし

真実はとても単純でシンプルなのです。


一人でも多くの方が気づきを得られますよう

願ってやみません。


さて今日は気づきのレッスン「瞑想2」です。

こちらの瞑想こそが私が実行している

唯一の修行といえるもので、やり方は

実に単純なのですが実行は難しいです。


この瞑想はいわゆるスピリチュアルの世界で

よく行われるような、なにかをイメージしたり

なにかと繋がったりすることではありません。


より自分が高いレベルに行くとか、何か

偉大な力を得るとか、宇宙と一体となるとか

天使とか、神とか、守護霊とか、そういった

超能力や逃避や何かを得ることではありません。


そういったものは何かを欲しがる心です。

スピリチュアルなご褒美を期待することです。


今書こうとする瞑想はそれとは違います。

それはただ以前書いた「観る」ということを

日々座って、また歩いて、はたまた一日中

気づいたらこれをやっている、というものです。


それだけです。それが私の瞑想です。

座ってやれば「座禅」だし、歩いてやれば

かの納豆仙人も実行している「歩行禅」

のようなものと一緒です。


私は膝に障害があるので通常のように

結跏趺坐ができません。なので椅子に座って

椅子禅のようなことをしています。


目は閉じても閉じなくてもいいですが、

私はほとんどの場合あけたままです。

前方1mほどのところに視線を落として

なるべく背筋をのばして静かに座ります。


まあ、姿勢とか形はあまり重要ではないです。

禅寺では厳しいことを言われるようですが、

それにとらわれるとかえって気が散りますし

坊さんになるわけではない人には日常の

仕事やらなにやらもあり、作法うんぬんまで

こまかく定めては長続きしないでしょう。

ただやるときは真剣にやります。


そして静寂の中に浸っているだけです。

といってもあたりの物音や鳥の声など

生活や生命の躍動は感じていますし、

それらに鋭敏に気づいてはいます。


時間は全く気にしません。5分だろうと

一時間だろうと、また朝だろうと夕方だろうと

真夜中だろうとやりたいだけやります。


座っていると次々思考が湧き起りますが、

それをただ見て流していきます。

歩いていても同じです。

私はどちらかというと歩行禅のほうが

自分に向いていると思っています。


間違っても思考を消そうとか、思考を排除

しようとしたり、ひたすら集中しようとか

一切考えません。


集中とは一見大事そうに見えますが、実は

それはあるがままの否定です。

それは他のなにかを排除して一つのものだけを

見ることです。そういうことはしません。


そうではなくただ思考や感情の起こるまま

それを観察していきます。


ただ、ある思考が起こったら、たとえば

「寒いな」とか「お腹がすいたな」とか

湧き起ってきたらそれに「おまけ」を

くっつけずさらさらと流していきます。


「おまけ」とはたとえば、「あ〜そういえば

エアコンの調子が悪いな。買わなきゃ」

となり、「また金がかかるな、うんざり」

と次々思考の連鎖が始まりますが、その時

あなたは無意識に引きずり込まれます。


それに素早く気づいて「寒い」なら「寒い」で

なるべく切る事です。


もちろん連鎖が始まってもそれにある時点で

気づけばそれはそれでいいのですが。

無意識的にならず、神経を研ぎ澄ませて

湧いてくる思考に気づいていきます。


それはたとえば「あいつが憎い」という

マイナーなものであってもそれを

批判したり、判定したりしないことです。


それにしてもどうしてこんな座禅とか

瞑想とかをするのでしょうか。


それは決して目的を持ちませんし、

たとえば悟りたくて瞑想をすればますます

人は悟りから遠ざかるでしょう。

それは「欲しがる心」だからです。


それは自然に起こるものなのです。

ですから準備ができていない人はそれは

「苦痛」になるだけであり、無理にやっても

何の意味もありません。


それは道元が言ったように「ただ座る」

(只管打坐)ということです。

道元はこう言っています:


「不思量底を思量せよ。不思量底いかんが思量せん。

非思量。これすなわち座禅の要術なり」(普勧坐禅儀)

(思考の起こる源を観ろ。それはどうやったら

観られるか。考えを巡らせない事だ)という事です。


またインドのマハラジはこう言っています:

「思考が起こるにまかせ、それらを観ることだ。

その観察自体がマインドをゆっくりさせ

完全に止まらせる。マインドが静まったら

それを保ちその中にありなさい。そしてより深く

入っていきなさい。すべての思考から自由になった

状態が突然起こるだろう」


湧いてくる思考をいじらずそのまま任せるのです。

観ていくとわかりますが、思考と言うのは

どこからともなく勝手に湧いてくるものです。

それは果たして「あなた」が作ったものでしょうか。

ただその思考があるだけではないのでしょうか?


それはまた同時にクリシュナムルティが

いみじくも言っているように集中ではなく

「注意」であり「観察」なのです。


集中するときそこには努力や苦痛があります。

たとえばあなたは受験勉強に「集中」します。

そこには抵抗がありあるがままは否定されます。


瞑想はよく言われるように「雑念」を消す

というようなことではありません。

むしろ雑念そのものに気づいていくことです。


「注意」とはあるがままを観ることです。

思考に含まれるあらゆる醜さ、弱さ、身勝手さ

嫉妬心や貪欲さをそのまま観ることです。


嫌なものを観ることとはすなわち限りなく

正直になることです。それは自分を理解する

ことであり、瞑想のはじまりなのです。


観ることによって心は静まっていきます。

心のおしゃべりが次第に消えていきます。


やっていると思考そのものが湧いてこなくなり

逆に思考を待ち構えるようになります。

そしてある日突然思考と思考の「すきま」に

気づくようになります。


そこにはもはや時間や葛藤や体は無く

果てしない空間とエネルギーだけがあるのです。

そしてそれが「あなた」です。


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ミミの瞑想

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今まで長々と書いてきた下手な文章を読んでいただき

感謝します。これからは理解のヒントになるよう

うんと短い投稿にするつもりです。


ご質問はいつでも受け付けさせていただきます。

引き続き宜しくお願いいたします。






posted by おとめ at 09:16 | Comment(2) | 気づきのレッスン

2018年01月11日

フリオイグレシアス「ビギンザビギン」

*いまだに好きな曲 4



私が好きな男性のタイプはイケメン。

嫌いなタイプは自分がイケメンとわかっている男。


フリオイグレシアスは後者の男性だと思う。

この静かな自信に満ちたいけすかないイケメン。


口パクのくせに色目使ってカメラをチラ見。

お〜イヤだイヤだ(笑)


ところで〜毎回あなたが聞きたくもない

私が個人的な好みでセレクトした、それも

(かなり古くさい)音楽を聴かされて

うんざりでしょうが・・・実はね!


これは私なりに一生懸命考えた

お目覚めレッスンの一環でもあるんでして〜


いつもいつも固い事ばかりでは

かえって理解が遠のくかな〜なんて

思いますんで、音楽でも聴いて、

ついでに非二元のレッスンにちょっぴりでも

なればな〜と。あわよくば。


けっこうマジメな動機でやってるんです。

この曲もかなり一世を風靡しましたよね〜


フリオはスペイン人なのにラテン系ぽくない。

きっと高級車を運転して降りる時、ささっと

反対側にまわり、ドアをあけて美女の手を取り

そっと彼女の目を見つめて手にキスをして

柔らかくエスコート。。。


てか運転しなくてもうんちゃんがいるかも。

「ガリシア風のタコのうまい店があるんだ」

とかなんとか言いながらウインクして

着いたのは一流シェフの店。さてディナー。

彼女の好きなピンクシャンパンでサルー!(乾杯)


あとは惚れず、くどかず、事は自動的にすすむ。

ついに獲物をゲットして思い切り楽しんだら

ある日突然さようなら。でも美女は泣かない。


それがこのテの男のテクニック。

まるでJ.ボンドだね。


大嫌いだ。てか縁が無かったから悔しいのか(笑)

でもこの曲は大好き。

だからアップしたんだけど。


まあ〜フリオがそんなタイプかどうかは知らない。

ただそんなイメージを持たせちゃう人ですね。


でもここまでの話はあくまでも昔の彼のこと。

ちょうどバブルの頃かな〜?

今のフリオは太ったかわいいおじいちゃんです。

あの美男子もはかない夢だった(笑)


この曲を聴いていると、その良さは

バックのオーケストラの演奏にあるとわかる。

あるいはミキサーの腕が良かったのかも。


フリオのヘタクソな歌声が一層それを引き立てている。

それほどこの曲の背後の演奏は際立っている。


フリオ完全にサウンドでは負けちゃってる。

ただイケメンだからおばさんがきゃ〜!っという。

観客との一体感が歌のまずさを消しちゃう。


どうだろう、このワンネス感覚は。

主役だと思っていたものがわき役だった。

というより曲の一部に過ぎなかった。


オーケストラも観客もすべてがまとまって

一つの曲を作っていたのだった。

主体も客体も無い世界。

そこで完璧な曲ができあがった。


観客の一人一人が、オーケストラが

そして歌手もすべて曲の一部でありすべて。


そして。。。その曲があなたです。

あなたは完璧で美しい曲なのです。


それにしても・・・やっぱいい男だね

ウン・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・

ビギンザビギン(プレイボーイの結末? 笑)

When they begin the beguine 
Quiero sentir las cosas de siempre 
Quiero saber si tú aun me quieres 
Quiero volver a empezar

When they begin the beguine 
Quiero saber que fue de tu vida 
Quiero saber si todo se olvida, 
para volver a empezar 

Yo que siempre jugué con tu amor hasta el final 
Y seguro yo estaba que tú aun me querías 
Hoy al ver que ya todo acabó que no daría, 
para volver a empezar.

Día a día te hacías querer un poco más 
¿Quién me iba a decir que una vez te perdería? 
Y hoy al verme tan solo sin ti que no daría, 
para volver a empezar.

When they begin the beguine 
Quiero sentir las cosas de siempre 
Quiero saber si tú aun me quieres, 
para volver a empezar.

ビギンが演奏されると
いつものように感じたくなる
君がまだ僕を愛しているのか
始めに戻りたいんだ

ビギンが聞こえると
君の人生がどうだったか知りたくなる
まだ君が僕を愛しているか知りたくなる
もう一度やり直すために

最後まで僕は君の愛をもて遊んでいた
なのにそれでも君は僕を愛していると思ってた
でも今日すべてが終わったのがわかった
もうやり直せないほどに

毎日君は僕をいっそう愛し続けた
誰が君を失うはめになるなんて言うだろう
そして今日僕はこんなに独りぼっちだ
もうやり直せないほどに

ビギンが演奏されると
いつものように感じたくなる
君がまだ僕を愛しているのか
始めに戻りたいんだ

(おとめ訳)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も読んでいただきありがとうございます。






posted by おとめ at 21:01 | Comment(0) | 音楽好き

2018年01月10日

クリシュナムルティと自我

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あなたや私は完全に平和に生きる事ができるのでしょうか。
といっても、それは退屈な人生をおくるということではありませんし
無気力になるということでもありません。
そのような平和がありうることがみいだせるでしょうか。
もちろん、できるはずです。そうでなければ人生には
ほとんど意味がありません。

クリシュナムルティ


非二元に目覚めた人の多くが、みんな一応に

人にその真実を知らせたい!という強い欲求が湧き

それを慈悲心と呼ぶ、っていつか書きましたが、

この自由感覚や解放感、もはや苦しみがあっても

それに引きずられることがない、ということは

独り占めにはどうしてもできないんですよね〜。


それでおせっかいな心が湧くわけでして、

別にそんなたわごと聞きたくないわい、

てな人はどうぞ無視してやって下さいませ。


自分が解放されるとどういうわけか

人の苦しみがこれまでにも増して、まるで

顕微鏡で見たようにはっきり見えてくるんです。


それでいてもたってもいられなくなることもあるし

TVで悲惨なニュースを見ては涙を流すなんてことも

しばしば起きます。我ながら涙腺が弱くなったな〜

なんて思うんですけどね。


元々そんな優しい人間なんかじゃなかった筈で

年のせいだよ、きっと、なんて妙に理由を

つけたりしてね。


それほど非二元的真実っていうのは

人を根本から変えてしまうものなんですよ〜

ってことはこれまで何回も書いてきました。


一口に非二元といっても禅もあれば仏教もあり

マイスターエックハルトのようなキリスト教や

インドの聖者のアドバイタもあるし、そこから

広がっていった欧米系のネオ・アドバイタ

それから私の好きなクリシュナムルティ

(彼は非二元と一口にはくくれませんが)

なんていうのもありますが、私が思うに

欧米系の非二元、いわゆるノンデュアリテイ

と禅やクリシュナムルティの考えには微妙な

ズレがあるような気がします。


「誰も変わってくれなかった」と嘆いて

クリシュナムルティはこの世を去りました。


今彼が生きていたのなら、私は彼に言うでしょう。

いえいえ、あなたの教えは今でも生きています。

世界中で少しづつ、でも確実に広がっています、と。


確かに彼の教え、というか真実の伝え方は

とても硬派で、厳しい面もあり、とっつきにくく

並みの世間的な常識で生きている人間には

とても理解しにくいことは事実です。


彼は本当に目覚めていたので「教える」

ということを極端に嫌っていました。


インドのアドバイタではグル制度があり、

スピリチュアルや禅の師、または教師たち

そういった「自分はわかっている」という

人達のいうことだけ聞いて言う通りにやれ

というスタンスではありませんでした。


人はついつい「教わる」ほうへ行きます。

その方がラクだからでしょう。

そこに最大の罠がある、と彼は言います。


彼の著作や講話集や対話集は一見難解ですが

良く読めば彼は一生を通じてたった一つの

ことしか言っていないのがわかります。


それは誰にも頼ることなく、完全に自分の力で

この苦しみに満ちた人生を安らかな心で生きるには

ある一つの「コツ」のようなものが必要なのだ、

ということです。


彼はそれを「たったひとつの行為」と呼んでいます。

それは「自己中心的な」自分に常に気づいている

たったこれだけのことなのです。


たったこれだけですが、彼が非常にやさしい言葉で

書いていても、その理解が非常に難しいのは

私たちがみんな生まれて以来社会的にさまざまに

条件づけをされているからです。


素直な良い子に育って、いい学校に入って

いい会社に就職して、幸せな結婚をして・・・

というのがわかりやすい例ですが、他にも

意外な条件付けはあります。


たとえば必死に努力をして営業成績をあげる、

とか、今は不幸だけど将来はきっと幸せになる

そのためには希望を捨てないぞ、とかいうのは

すべてすべて条件付けであり幻想なのです。


どうして努力がいけないの?

希望をもって何が悪い?


というのがジョーシキの世界の反応です。

クリシュナムルティを読むとすべてそれが

とんでもない間違いであったとわかります。


つまりすべてが自我から来る「恐怖」のせいで

そうなっていくのだということなんです。


そのあたりをこれからもゆっくりとブログで

書いていきたいと思っています。


非二元やアドバイタでも同じことが言われます。

禅でもほとんど同じです。


しかしクリシュナムルティとたとえば欧米系

アドバイタの人達の言っている事には微妙な

温度差があるのです。それは多分思うには

おそらく「自我」についてだと思います。


ネオ・アドバイタのトニーパーソンズとか

あるいはクリシュナムルティに影響を受けた

フランシスルシールでさえ、「自我」については

「そんなものほっとけ、どうせ幻想だから」的な

発言をします。それでおしまいです。


欧米系のアドバイタに影響を受けた日本の

ノンデュアリティの人達もそんな感じです。


彼らにクリシュナムルティの言葉はどうやら

完全には届かないのかな〜という気がします。

このあたり非常に残念に感じます。


まあ、もともと欧米系のアドバイタって

玉石混合でかなり怪しいのもあるんですよね〜。


すべてが幻想ですべてが自分ですべてが

神の遊びであり、パーフェクトなんだから

このままで手を加える必要は何も無い、

そのままあるがままに暮らしていけばいい

というのが彼らの主張です。


そして自分の暮らしがいかに自由で

ラクちんであるかを強調します。


もちろん最終的にはあるがままですし、

それはそれで間違いではないのですが、

どこかに無理がある気がするんですよね。

いずれ窮地に陥るのではないかと・・・


それは何故かと言うと「自我」のアブナサに

気づいていないからなんです。


確かに自我がキケンだというのも自我ですし、

自我に自我を殺すことはできません。

このあたりは難しいパラドックスなのです。


だからネオ・アドバイタなんかではそれを

笑い飛ばしてしまい終わりにしてしまいます。

もう自我についてはおなか一杯というわけです。


けれども禅やクリシュナムルティではその先に

まだ解決の道があるんですよね。

それがクリシュナムルティのいう観察や気づき

であり、道元の言う只管打坐なんです。


そして私が実行していることでもあります。

まだまだ危ない操縦しかできませんが、少なくとも

正しい地図は持っているつもりです。


常に自分の「自己中心性」に気づいている事

これを右へよろけたり墜落しそうになりながらも

年がら年中やっています。


そしてそれが「瞑想」へとつながっていくんですが、

これについてはまた後日詳しく書きますね。


自我を見ていくこと、それはすなわち

思考過程を見ていくことでもあります。


全身全霊で今そこにある問題を見つめて

そこから逃げようとしないことです。

そしてこれこそが問題を解決してくれます。


そしてその思考がやむとき、ある「静けさ」

が訪れます。そこにはもはや時間はなく

源である自分がいるだけです。


そしてそれは果てしないエネルギーに

満ちているのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年はもっとわかりやすく書いていきたいな〜

と思うんですけど思うだけ?(;´・ω・)










posted by おとめ at 12:16 | Comment(0) | クリシュナムルティ

2018年01月06日

10年目のごあいさつ

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田舎の駅のイルミネーションはかわいいです。
明日までかな〜


**10年目のごあいさつ(とこれからのテーマ)**



今年も始まってもうそろそろ一週間ですね〜

このブログももう10年たちました。


更新したり、しなかったりで、ひどく

曲がりなりにも、てか、曲がりくねって

ここまできましたが、ひとえにおかげさまですね。

皆さま本当にありがとうございます。


最初の頃と比べると別人28号の私でして

(このギャグわかる人も少ないだろうけど)

そんな私に見切りをつけて去って行った方も

おられるでしょうし、また、私の方も

身内の死やその他の人生の荒波にもまれて

不義理に不義理を重ねておりましたことを

深くおわび申し上げます。


というより、霊魂だの悟りだのって、突然

わけのわからない事言ってたら、誰だって

ひきますよね〜(笑)


まあ、去る者は追わず、来るを拒まず

ということで、ご納得いただければと・・・


それより、私としては個人的には

ブログを始めた頃より大幅に「苦しみ」

というものは確実に減ったわけでして。


それをなにか人のお役に立つような形で

活かしていきたい、ということでこのブログを

いまだに書かせていただいているわけです。


一体それを進歩と呼ぶのかなんなのか

まだまだ色々探求中なのではありますが・・・


その中でもひたすら今興味があるのが

若い頃から何とはなしに縁があって

多少なりとも勉強してきた「禅」というもの

それと「魂の世界」との接点はないのか?

ということなんです。


たとえばね、日ごろはあるがままで

心安らかに過ごせてはいるけれど、

やはり死別体験者としては時々

どうしようもない悲しみの発作

というモノはありますんで・・・


それもあるがままなのだけれど・・・

だからね、そういうときは悲しみに

これでもか!てくらいにね、埋没して、

とことん、もう本当にとことん激しく

悲しんじゃいますね。


するとあとはさっぱり、すっきりなんです。

その時頭は完全にからっぽです。


これが無我というのかね、なんか不思議な

エネルギーに満ちた感じになります。


これって何かに似てるな、っと思ったら

禅でよくやる「無字の考案」にそっくり。

座禅しながらひたすら「ム〜〜〜」

ってやるそうですが・・・


座禅しなくても悲しみがそのまま

修行になるなら好都合だな、って

不謹慎にも考えたりしちゃってます。


いつかの記事にもね、書いたんですけど、

禅やアドバイタではどういうわけか

「魂」の存在に対しての素朴な疑問

そんなのを抱く人間を煙に巻きます。


知っていながら知らんぷり、というか。

かの安谷白雲禅師さんなんかもね、

私はこの方のいかにも禅者というお顔が

大好きでして、そんな不純な動機での

愛読者ですが(笑)


そのご著書の中で言っておられます:


「禅というものは死んだらそれで終わり

死後の世界はない、という唯物論ではない、

いや、断じてない。しかし、個々の魂は

肉体が死んでも続くとかいうものでもない」


な〜んてね、わかったようなそうでないような

謎めいたお言葉を残しておられますが。


禅では霊魂とか個人の魂だとかそういうものは

ほっておきなさい、と言われます。

座禅中に妙なものを見れば「魔境」と捨てられる。


でもね、たとえば前世だとかは禅の公案にも

出てきますし輪廻だって言われていますしね〜

なのにどうしていざ魂とか霊になるとご法度

なんでしょうか。


いつかの記事でも書いたようにどう考えても

私はそこがどうしても納得できなかったのです。


確かに不思議な出来事は起こる。

しかしながらそれは禅や非二元では「現象」

として「幻想」とも言われます。


何故かと言うとそれは霊能力者でもあった

クリシュナムルティも言っているように

「自我の存続」だからなんですね。


個人の魂、つまりこの世の記憶をもった

その魂とかいうものは禅の世界では敵である

「自我」が死後も続いていくことだからです。


けれども確かにそこに存在するものなので

それはある時期やっていた霊媒修行でも

多々感じたことですので・・・

それでずいぶん苦しんでいたのでした。


死別したものにとって、魂の存在というか

何らかの「意識」の存在があるという

そんな確信は限りない慰めになります。


死別者は「悟り」よりむしろそちらを願います。

求めないからかえって悟っちゃったりします(笑)


逆に悟りは死別経験者でなく、生きたいけど

色々苦しんでいる人が往々に欲するものです。


対人関係とか、金が無いとかね、そういう

世俗的な苦しみからの脱却です。


もっとラクに生きたい、という願いです。

そしてもちろんそれは目覚めによって

得られるものではあります。


けれどたとえば災害などでいっぺんに

家族がいなくなっちゃったとしたら

あなたは生きていたいと思いますか?

人生なんかいらない、と思いませんか?

そんな人はどうやったら救われるでしょう?


きっと悟りどころじゃないですよね。

ずっとそんなことを考えてきました。


けれど、死別の苦しみから解放されるには

やはり真実への目覚めが不可欠なのです。

そのあたりが大きなジレンマです。


NHKスペシャルでもやってましたが

大震災のあと不思議体験をした人が続出で

それはどう見ても紛れもない事実です。


色々グレーゾーンもある「守護霊」とか「霊界」

「霊媒行為」といった事はひとまず置いておいて

「魂」や「霊」の存在だけはどうしても否定は

できなかったし、したくなかったのです。


そのあたりの研究や勉強もこれからもしていくし

なんらかの形でみなさんとシェアしたいね〜

なんて思っているんです。


なにかサークルのような勉強会みたいな

そんな心安らぐ場も作りたいと思ってます。


そういえば、長野県にはグリーフケアとか

スピリチュアルなサークルがほとんどないんです。


そんなわけですので、これからもよろしくです。

NHKスペシャルの動画(一部)はこちら↓


・・・・・・・・・・・・・・・・

アクセスだいぶ増えてます。その調子(笑)
posted by おとめ at 11:14 | Comment(2) | 10年目のごあいさつ

2018年01月05日

「みんなちがって、みんないい」

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去年来た小鳥、今年も来ました。
なんという名前なのかなあ。

・・・・・・・・・・・・・

「私と小鳥と鈴と」

金子みすゞ


私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが

飛べる小鳥は私のやうに、

地面を早くは走れない。

きれいな音はでないけど、

あの鳴る鈴は私のやうに

たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。




つくづく好きな詩です。

本当の事が書かれている言葉は

いつもこのようにシンプルなものです。


この頃ね〜、つらつら思うんですよ。

自分ができない事、果たせない事は

人にやってもらえばいいな、と。


自分は自分ができることだけを

一生懸命やればいいんだと。


これってね、すごいラクになりますよ。

だって自分にムチ打つことがなくなりますし

全部仏の世界におまかせですから。


私たちはともすれば人と自分を比べます。

親は上の子と下のこと比べたり、ミスコンは

スタイルや顔を比べられ、会社員であれば

あいつの給料と自分のを比べます。


そのどこに「愛」が生まれるでしょうか。

愛の無いところ、葛藤と苦しみがあるだけです。


本当は比べることなどできないんですよ。

だってみんな一つなんですから。


つきつめると真実の命はひとつであり

それがあなたになったり、小鳥になったり

机になったり、雲になったりしています。


それが禅や非二元で言われる「空」であり

分離のない世界なのです。


もともとひとつしかない命なので

あなたも私も小鳥も同じものです。


その「空」が形をとって無数の「色」として

さまざまに現れ、活動をしているのが

今私たちが見ているこの世界そのものです。


それが別の言葉で言えば「色即是空」であり

また「空即是色」ということです。


あなたの見ている世界はあなただけのもので

私にはそれを感じることはできません。


あなたのすることをそのままそっくり

私が模倣してもあなたと同じ経験はできません。


逆もまた然りです。

私の世界は私だけのものであり、あなたには

到底それを私と同じように体験はできません。


なんとすべてがユニークなことでしょうか。

同じ形の石ころはありません。

同じ指紋もありません。

今この瞬間の経験は今だけのものです。


それが「色」であり「絶対差別」とも言います。

これが「空」の対極にあるものですが

この「色」と「空」二つが同時に存在するところ

その絶妙なバランスで輝いているところ

それが「真空妙有」の世界なのです。


つまり誰もがその世界に今いるのです。

今、いま、イマ、この瞬間にです。

それはまさに天国としか言いようがありません。


それはさらさらと流れゆく小川のように

キラキラと輝き、変化しています。


みんなもともとは一つであり「空」なのです。

つまりからっぽということです。


な〜んでもないもの、「無」なのです。

それがどういうわけか色んな形になり

あなたと私、パソコン、とバラバラに

独立しているように見えます。


そういう区別をさせているのが「自我」です。

仏教的にはいつかも書いた「分別」です。

自分がこの体であり、これがすべてなので

(と思い込んでいるので)これをひたすら

守ろうとします。


この自我というやつが必要以上に自分を

他の世界から独立させて、うまい汁を

自分だけが吸おうとするんですね。


常に自分と世界を対立させており

人より何らかの点で上に立とうとします。

有名になりたい、とか〇〇になりたい

という野望を持ったりします。

そして自分が最終的には苦しむんです。


けれども何かの拍子に我が抜け落ちると

バラバラでありながら元は一つであると

はっきりわかるようになります。


これがわかるとあなたはもう人も自分も

同一のレベルに見るようになります。

自分と人を比較することがなくなります。


と同時に自分の個性を好きになってきて

自分の欠点も気にならなくなります。


だってすべてが一つであるとわかれば

すべてが自分なんですから。


だから人も動物も植物も生きとし生けるもの

すべてを愛おしいと感じるようになります。


みんながそうなったらもうイジメなんて

すっかり無くなるでしょう。


戦争だって無くなる筈なんです。


でもそうならないのはやはりほとんどの人が

「我」を強める生き方をしているからです。


まあ、非二元論者風に言うと「我」も幻想なので

そんなのほっとけばいいさ、となるのでしょうが、

たしかにそれは「空」ではあります。

つまり実体としては存在しません。


でも「空」だけでは片手落ちなんですよ。

「空」の中で自由解放を一瞬味わっても

たとえ見性体験したとしてもそれは一時であり

すぐに苦悩や葛藤は戻ってくるんです。


よくある「一発屋」と同じです。

自分は悟ったと言っても何もしないでいて

我を放置すれば、いずれは凡夫(凡婦)に戻ります。


けれど凡夫であることが悪い事でもなく

そのままでもいいんですけどね〜。

我があっても完全無欠ではあるんです。

このあたりここで全部説明はできませんが・・・


だから同時にそれが「色」となっていて

その中に在る「自我」に常に気づいてないと

いつの間にかそれが暴走して葛藤を生み、

結局は苦しみの多い人生になるということ、

逆に言えば、気づくとどういう風になるか。


それに気づいたのが金子みすゞの世界であり

一羽の小鳥は鳥であると同時に「私」であり

鈴は鈴であると同時に宇宙の全体の鈴で

それがよく言われる別の言葉で言うと、

「柳はみどり、花はくれない」です。


みすゞが気づいていた、と何故わかるのか、

それは「鈴」という言葉です。


小鳥や私は息をして生きているものですが

無機質な「鈴」を同じレベルに見ているところ

それはかいま見ないとわからない感覚だから。


だから自我をただ「観ていく」ということが

大切になるということなんですね。


なんだかうまく説明できないな〜

わかりにくくてすみませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たくさんのアクセスありがとうございます。














posted by おとめ at 12:13 | Comment(0) | 詩歌の世界

2018年01月02日

ひとり雑煮

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今年はけっこうマトモだった。やっと。


質素だけど、元日はなんとかお雑煮作りました。

あとは安物のかずのこと黒豆、かまぼこ

それから紅白なます風ハム入りサラダ

主人の好きだったオリーブの実。

煮ものは妹がめぐんでくれました。


昨年は何食べたか覚えてないし

その前は母と一緒だったので

今年はやっと一人でもまあまあの

おせち料理らしくなりました。


それでも自分のためだけに作ると言うのは

どうしても侘しさがぬぐい切れないね。


世の未亡人の方々や男やもめの皆様は

どうされたでしょうかねえ。


だから食べる時も主人や母の写真に

なにかと話しかけながら食べました。

一人でよかった(笑)


前日の大みそかはまたパーチーに呼ばれて

こんなごちそうになりました:

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食べきれないくらいの量。

暖かいエネルギーをもらいました。

だけど皆といてもやっぱりどこか寂しい。


それにね、愛する家族や友達とたとえ一緒に

楽しい団らんを過ごされていても

この人生はハプニングの連続ですから

いつどうなってもいいように日ごろから

心をきたえておくといいかも知れませんね。


「めでたさも中くらいなりおらが春」だっけ?

たしか小林一茶の句ですね〜


一休禅師はお正月にはしゃれこうべを

杖のてっぺんにつけて歩き回り

「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり

めでたくもなし、ご用心」な〜んて言ったそうで

人がせっかく正月を祝っているってのに

ずいぶんと嫌味なじいさんですが・・・

まあ日本版のメメントモリでしょうかねえ。


クリシュナムルティも同じこと言ってますね。

セキュリティはどこにもないのだ、と。


人はいつか訪れる死というものを怖がりますが、

最愛の人を亡くすとその恐怖は普通の人よりは

薄れるような気がしますね。


それどころか、自我が幻想だとわかれば一気に

生死の問題はあっさりと解決してしまいます。

てか、死ぬのが楽しみになったりしてね。(笑)


けれども「孤独感」というのはなかなか

したたかで、消えないものですね。


今自分が最高に幸せだと思っている人も

心のどこかでは「孤独感」にさいなまれ

いつもそこから逃げようとして、人と群れたり

フェイスブックで友達コレクションしたり

身を粉にして忙しく働いてみたりしますよね。


私が主人と一緒だった時にさえもこの孤独感は

いつも心の奥底にあったものです。


どうしてなんでしょうかね〜。

考えて見た事ありますか?


私もたくさん考えましたよ〜それでね

やっとわかったんです、その孤独感の理由が。


それはね、私たちがみんな「からっぽ」だから

なんです。私たちの本質そのものが、です。


量子物理学的に言うと私たちの体そのものが

スカスカ、というよりただの「空間」なんです。


一個の電子がスイカの種だとすると原子は

サッカー場くらいの大きさになるそうです。


そんなものでできている「肉体」が何者かに

「動かされ」「考えさせられ」「行動させられる」

それが私たち人間と呼ばれているものです。


それをどこかで、人生のある瞬間に人は感じ

自分がからっぽで無力で虚しい存在だと

うすうす気づいてしまうことがあります。


そしてその孤独感というのは

自我がある限り自分を苦しめます。


逆に言うと自我がなくなってしまえば

孤独感はあったとしても苦しみません。


自我といえば「家ついていっていいですか」という

TV番組がありますが、そこに二回出演した

Mさんという方がいます。

彼はほとんど私と同年代です。


代々木の納豆仙人と呼ばれている人で

365日納豆しか食べません。

けっこうエリートの家庭に生まれて

大変なお坊ちゃんだったんですが、

成人してから働いたのはたったの二年間。


幼い頃お母さんが亡くなり、ついで

妹さんが若くして亡くなってしまい、

最後にお父さんが亡くなってから一人暮らし。


せっかく一等地に親が残してくれた家はゴミ屋敷

というより畳が土と化してタケノコが生えそう。

酒の飲み過ぎで体を壊してしまってからは

親の財産の貯金をとりくずして生活しています。


とこう書くと世間的に言えば彼は完璧な

「人生の落伍者」という事なんでしょう。


けれども!この方のインタビューを見ていたら

完璧に自我が落ちているんですね。

ちょっと汚いけど、禅僧のようでした。


びっくりしました。そして感動しました。

彼は大変な読書家ですが、スタッフの

「本を沢山読まれたんですね」との問いに

「うん、バカだからね。コンプレックスだよ」

「大学受験何度も失敗したから」

「知識なんてつきつめれば虚しいよ」

と真理の言葉が続々・・・


本は家の至る所に山積みされ、本棚は傾き

納豆のパックはあちこちに散乱しています。

というか部屋中に敷き詰められています。

食器も洗いません。それでも生きています。


彼にはどこか底が抜けたような明るさがあり

「一人で寂しくないですか?」と聞かれ

「うん、寂しいよ。寂しくて心地いいよ」と

これもまたあるがままを地でいく生き方。


逆にスタッフの将来を気遣ってました。

「ボクはわがままだから結婚しなかった。

知り合いも多くないしみんな死んじゃった。

子供がいたらがんばるだろうけど。

でもキミは結婚したほうがいいよ」


箪笥をあけると玉ねぎがゴロゴロ。

納豆パックをあけて、まずやることは

カラシを口に入れる。(胃の中でミックス?)


それから手のひらで玉ねぎをきざみ

納豆と混ぜる。それをご飯にかける。


炊飯器はちゃんと持っていた。

しかし茶碗は洗ってません。


そんな食事を日に二回のみ。

納豆のパワーってすごいんだな〜って

逆に思わず感心してしまいました。

食中毒にもならないみたいだし、

風邪もひかないようで、うらやましい。


唯一の料理と言えるのは汚い瓶に入った

「ニンニクの醤油漬け」(らしきもの)

それを食べながらスタッフに「君もどう?」


びびりながらも断れない心優しいスタッフ。

洗わない箸で仙人がニンニクを一粒

ついに彼の口に入れました〜。

「もうひとつどう?」(〇✖▽ーー;´・ω・)

このスタッフも素直に食べるんだな〜また。

ここで爆笑全快。お腹の皮が痙攣絶頂。


ついに仙人が「泊まっていけば?」と

恐怖の一言。「ご、ご迷惑では?」と

真っ青なスタッフ。

結局この人、断れず、臨界点つきぬけた

この納豆屋敷に一泊を余儀なくされます。


「今は死を待っているだけ。それで満足だよ」

「あと7,8年じゃないの?」と言いながら

幸せで一杯の顔つきをしているからおかしい。


彼は「歩行禅」をしていました。

10キロ以上歩くこともあるそうです。


日本人が戦争もなくいかに幸せな民族か

いかに人はそれに気づかず不幸のままか

ほどほど食べて満足する事がどれほど幸せか

彼はすべてわかっているのでした。


まさに巷の覚者というか、その我欲のなさ

正直さ、天真爛漫さに心打たれました。


「元祖ニート」を自画自賛、彼は完全に

自分の人生に満足していました。


お正月早々とりとめもなく書きましたが

おせちを食べる自分に納豆仙人の姿が

ちらちらして、何かを教えていました。


本を何冊読んでも教えてもらえない事を

学んだ気がします。


でも当分納豆は食べられないかも(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本年も書いていきます。宜しくお願いします〜♪







posted by おとめ at 09:31 | Comment(0) | 小さな食卓

2017年12月30日

気づきのレッスンその9 「観る」

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久しぶりに人のために料理をしました。
食べてくれるってありがたいことですね。


年が暮れると、やれパーチーだとか

忘年会だとか、プレゼントやら

デートやらの話題ばかりが耳に入り、

愛するものと別れて、いつの間にか

ふたたび独り者になった人間には

かなりこたえるものですよね。


でも心配ありません。

あなたはちっとも一人ではなく

愛する存在と今でも一つなのですから。


また死別などしていなくても、いつも

孤独感に苛まれているそこのあなたも

決して一人ではありえません。

今にそれがわかるでしょう。


さて、年末のこの忙しい時に

この安上がりなレッスンに参加

なんていう変わり者は、どこ探しても

今これを読んでいるそこのあ〜た

くらいなものでしょうが(笑)


来ていただきありがとうございます。

あなたは世界一ラッキーな方ですよ。


何故なら〜このブログに来ていただいた方には

私から遅ればせのX’masプレゼント、てか

早めのお年玉?というかなんというか、

私がそれはそれは大切にしている

心の平安への道筋を描いたささやかな地図を

あなたとシェアするという特典があるからです。


でもこの地図はとても入り組んでいるので

少しづつ進まなくてはなりません。


「なんだ、ちっとも特典なんかじゃないじゃん」

と言わないで下さいよ〜。


困難な道ほどワクワクするもんです。

インディジョーンズになったつもりで、ご一緒に

お宝探しにでかけませんか?


はてさて冗談はこのくらいにして、

先日は「見る」つまり目で外の世界の事象を

あるがままに無心に見ることでしたが

今日は内側を「観る」すなわち「注意して」

「あなた自身」を見ていくという修行です。


そしてこれこそが私のレッスンの核心

であり、究極の救いへの道なのです。


これは本質的には道元の「只管打坐」や

クリシュナムルティの「注意」や「観察」

と同じであり、それを参考にしたものですが

それは「瞑想」へとつながるものです。

その具体的な手法は別の日に書きますね。


さて、この「観る」ということですが、

それを「観察」と呼んでもいいですが

「観察」だけがあり観察する「あなた」は

どこにもいてはなりません。


つまりあなた自身を観るときに、あなたが

何をしていようと、何を考えていようと

それを「批判」したり、「反省」したり、

「治そう」とか「逃げよう」とかしたりせず

ありのままにただ見つめていくということです。


そのときあなたはその観察されるものと一体で

離れてはいません。これがクリシュナムルティの

「観察するものは観察されるもの」ということで

私はずっとこれを、今でも毎日やっています。


たとえばあなたがひどく悲しんでいるとします。

あなたはその悲しみから逃れるために、

その悲しみをなんとかしようとします。


そして努力してさまざまな行動に出ます。

神秘的なものに逃げ込んだり、宗教を信じたり

カウンセリングへ行ったり、本を読んだりします。


それが純粋な興味ならまだしも、「逃避」なら

どうなるでしょうか。


あるいはまたその感情をコントロールします。

「いつまでも悲しんでいてはいけない」とか

「私はだらしなくてまだ立ち直れない」とかで

自分を叱咤激励したり変えようとします。


するとなにが起こるでしょうか。

悲しみは自分から分離して独立してしまいます。


もともとはただ悲しみだけがあったのです。

それなのに「悲しむ人」を作り上げてしまい

悲しみは永遠に続くことになります。

そして正常な判断が不可能になるのです。


これが「悲しみ」(観察されるもの)と

「悲しむ人」(観察するもの)の分離です。

これがすべての苦しみの大元なのです。


そうではなく悲しみはあなたであり

かなしみと一つである状態にあるとき

「悲しみ」だけがあり、「悲しむ人」は

どこかへ消えてしまうのです。


「怒り」であってもそうです。

人は怒ると「こんなに怒ってはいけない」

とか「年甲斐もなく恥ずかしい。」だの

「オレじゃない、あいつがいけないからだ」

とか余計な事を付け加えるのです。


怒る時、その怒りだけがあるのです。

だからただ怒ればいいのです。

ただし人をぶん殴ってはいけません。笑


一人の時思い切り怒ればいいんです。

すると怒りはす〜っと消えていきます。


恐らくほとんどの人はそれを絶対に真剣に

真面目にしたことはありません。


これだけ人生のあらゆる問題で苦しむ人が

未だにたくさんいるというのがその事を

証明しています。


逆に言えば、これがちゃんとできた時

あなたのあらゆる問題は解決します。


あなたはもはや苦しむことはなくなり

人と争ったり、人をうらやんだりせず

お金が無くてもどんな億万長者より幸せで

宝くじを買う事は金輪際なくなるでしょう。(笑)


ただし実行するのは非常に難しいです。

私もまだまだ修行中です。

思考は常にしゃしゃり出てきます。


でも難しくてもやり通す気持ちがあれば

いつか扉は開かれます。

けれどそれは「努力」ではありません。


「努力」は「あるがまま」の否定です。

今のあなたを否定してより違う自分へ

「変化」させるために起こす行動のことです。


そうではなく、良いも悪いもなく

道徳的でも不道徳でもなく

否定も肯定もせず、ただそのままの自分

思考のあるがままを観るだけです。


人は自分を観るということはしません。

常によそを見ています。人と比べます。

人と競争します。人が持っているものを

自分もすぐに買いたくなります。


人が金を稼いでいれば自分も、と思い

それに向かってひたすら努力します。


そんな「自分」を責めずにただありのまま

自分が何をして、何を考えているのかに

常に気づいていること、これがこの

「観る」というレッスンです。


宗教へ逃げてもなにをしてもかまいませんが

ただそれに気づいていることです。

「逃げてるな、オレ」とわかることです。


それは反省でも内省でもありません。

ただ自分のやっていることを敏感に

わかっていることだけです。


はじめはうまくできないかも知れませんが

少しづつ「観て」いくことができてくると

あなたの内側に驚くものを見つけるでしょう。


あなたが悲しみ、苦しみ、悩みを回避するとき

そこには混乱と騒がしさがあるだけです。


あなたは出口を求めて右往左往します。

その結果あなたの心はむなしい活動で

一杯になり、苦しみは倍加するだけです。


そのあなた自身の忙しさ、心のむなしさ自体を

ただ観ることによって心は非常に静かに

安らかになっていきます。


悲しい時は悲しめばいいのです。

そして「悲しんではいけない」などと考えず

ただ悲しみに気づいているだけです。


お金がほしかったら、そんな自分を責めず

お金をほしがっているその欲に気づきます。


あなたの心の醜さ、残酷さ、嫌なクセも

すべてそのまま観ていきます。


そこから逃げず、そこにただあるもの

それを観るとき、そのただあるものは

何か全く違うものになっていくでしょう。


このレッスンと前回のレッスンで

外側を「見る」と内側を「観る」ことを

書いてきました。


それによってあなたはあらゆるものを、

人を、動物を、植物を、生きとし生けるもの

あらゆる森羅万象をそのあるがままに見ることを

自然にできるようになっていきます。


そのときあなたは世界はあなたであり

すべては一つであることがわかるでしょう。

その時に苦しみと呼ばれるものがあるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年も一年間ありがとうございました。

どうぞ良いお年をお迎えくださいね。



















posted by おとめ at 08:07 | Comment(4) | 気づきのレッスン

2017年12月18日

気づきのレッスンその8 「見る」

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自称禅のマスターであるアジャシャンティが

ある結婚式に出席した時のことです。


それは大きな体育館で行われた式の後の

披露宴ビュッフェパーティでのことでした。


お腹がすいていたアジャはおかわりをしようと

料理の並んだところへ行きました。

そしてお皿に料理をてんこ盛りにして

席へ戻ろうとしたその瞬間、彼の目に

列席したたくさんの人々が見えました。


老若男女さまざまな人生の縮図が

そこに繰り広げられていました。


そのとたん彼は理解しました。

二度とふたたび普通の人が見るようには

この世界を見ることはできないだろうと。


橋をわたり、そしてその橋は燃やされてしまい

二度と元にはもどれないだろうと。


彼の人生を、人を、世界を見る目は完全に

変わってしまったのでした。

(アジャシャンテイ「あなたの世界の終わり」)


アジャは「橋を渡ってしまった」

と書いていますが、私に言わせると

橋などは始めからなく、向こう側も

こっち側もないのです。


あなたも私も誰もがすでにそこにいますが、

何度も書いているように自我にはばまれ

真実を見ることができないのです。


どの本だったか忘れましたが、「臨死体験」

についての本に、ある人が一時的ですが

臨床的に「死」を体験したことを書いていて

その時自分があたかも「見ること」そのもの、

目玉そのものになったかのようだった、と

ありましたが、大変面白いです。


変容は一瞬にして起こります。

それは手品でも超常現象でもなく論理的で

れっきとした科学的な裏付けもできる

アイデンティティの革命です。


何の前触れも予期もしていないときに

それは訪れます。

それはある種「見方」の大転換です。


トニーパーソンズに言わせると、それは

宇宙で一番のジョークです。


日ごろから何も期待はせず、子供のように

純真に無邪気でいることと、世間の「常識」に

過度にとらわれないで、またあまりにも沢山の

「知識」に踊らされず何が来ても「受け入れる」態度が

ひょっとしたら一番助けになるかもです。


そしてこれまで書いたように日ごろから

体を柔軟にし、凝り固まった頭をほぐし

好きな音楽などを聴いて、五感を常に

新鮮に保つことをお勧めします。


というわけで今日は「見る」についてです。

目がご不自由な方はこれは出来ませんが

他に色々なレッスンがありますので、あとで

ご紹介しますから心配はいりません。


これは「レッスン」と書いていますが、

あくまでも独断と偏見?に満ちた私流のやり方を

「ご紹介」するだけで「教えている」わけでは

ありませんので、そこんとこはご理解下さいね。


非二元の世界には教師や生徒といった考えは

全くあてはまりません。なぜなら何の区別も

ありえないからです。それが「空」の世界です。


別にパテントもとっておりませんので(笑)

やりたい人はご自由にどうぞ。


「見る」といっても何も難しいテクニックは

ありませんがちょっとしたコツがあります。


「もう一つの目」で書いたように、知識や

経験に汚されていない目で見るように

できるだけ努めて下さい。


やり方は簡単であなたのまわりの風景を

ただ見るだけです。それだけ。


「な〜んだ」と言っているそこのあなた

早合点はいけませんぞ。


私はよくベランダから遠くの山々や家々

ベランダの花や空の雲などをあかず

毎日毎日眺めていました。

大変容はその時起きました。


都会の方なら駅前のロータリーのベンチ

にでも座って、行きかう人々や車、ビル

などを眺めるのもいいでしょう。


またご自分の部屋でもいいのです。

部屋全体をまるで初めて引っ越した時

のようなつもりで眺めてください。


その時あなたは自分が「こっち側」にいて

その自分が「向こう側」にある車や人々や家具

はたまた猫などを見ている、と思っていますね。

それは本当にそうでしょうか〜?


ひとつひとつのモノを凝視する必要はなく

あくまでも風景をひとつのまとまりとして

見て下さい。これをわかりやすく別の

言葉で言うと:


たとえば猫のミ〜助や犬のポチ丸がやってきて

「なにしてんの?」という顔をしたら

そのミ〜助やポチ丸とあなたは別々でしょうか?


個別にこれはパソコン、これは箪笥という風に

分けて見ないほうがいいです。

全体をまるで一つの模様のように見ます。


その時意識を頭のうしろの方に移して

あたかも自分が自分の後ろにいるかのように

自分が目玉になったかのように見るといいです。


その時あなたがその風景を一枚の写真に

撮ったとしたら、その写真と目の前の風景は

どこに違いがあるでしょうか?


これは聖なるナゾナゾです。

神さまのゲームです。

「だまし絵」や3Dの絵がヒントです。


もう一つご紹介します。

これも日常生活で十分できることです。


あなたはスマホやパソコンをお持ちですが、

その画面を見ているとき、自分とその画面

を隔てているもの、に集中します。


画面に没頭している時、その隔てているものは

あるでしょうか?そして「あなた」はそこに

いるでしょうか?


ふと我に返った時、あなたは自分、つまり

こちら側の「体」を意識しますね。

そのあなたが出てくる瞬間に注目です。


それが仏教で言う「分別」(ふんべつ)です。

アドバイタや非二元では「分離感」です。


「もっと分別をもちなさい!」などと言う

あの分別ですが、禅や仏教の世界ではそれは

ご法度なのです。このあたりも考えて見ると

大きなヒントになるでしょう。


その「分別」の起こらない瞬間があります。

その時あなたはどこにいましたか?

その時見ている「主体」は何でしょうか?

見ている「誰か」はいるでしょうか?

あなたですか?それとも?


こんなことを思い出した時にでも

やって見て下さいね。


やってみて、なにかご感想があったら

是非お聞かせ下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもご訪問ありがとうございます。








posted by おとめ at 08:54 | Comment(6) | 気づきのレッスン

2017年12月16日

気づきのレッスンその7 「見る」と「観る」

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冬のたんぽぽ見っけ!


あなたの体はあなたの中にあります。
あなたがその中にいるのではありません。
(フランシス・ルシール)


のっけから何やらちんぷんかんぷんでしょうが、

あなたが真実の自己を発見した時

上記の言葉がはっきりとわかるでしょう。


さてさて恒例の気づきのレッスンです。

歳末助け合い運動の一環として、はたまた

救世軍の社会鍋(レトロ!)並みの人助け?

みたいなノリで今日もいきます。


何故なら一人救われれば万人が救われる

それこそ仏の御心であるからです。


この年末のクソ忙しいときに限って

こんなことに興味をもっている殊勝なあなた、

見込みがありますね〜 笑


ただし借金取りに追われている方は

ご遠慮ください。

ここへ来ても更にビンボーになるだけです。


・・・・・・・・・・・・・・・・


イギリス人で非二元のティチャーである

トニーパーソンズは、ある日突然公園で

歩く自分はいないで歩くことだけがあった

という体験をしたと書いています。


インドの聖者マハラジの一番弟子であった

ラメッシ・バルセカールは彼の師の

講話の通訳もしていました。


ある日突然彼は「自分」が通訳している

という感覚が無くなり、ただ通訳そのものが

「起こって」いてそれをただ「観照」していた。

と言っています。


ラメッシはそれを「悟り」としています。

でも、私はそれは悟りとは別物で単に

「小悟」とか「見性体験」ではないかな〜と

思っていますが、ただ悟りの定義ははっきりせず

人によって解釈はまちまちです。


私が理解している限りでは悟りとは

もう一歩進んで、最終的に「自分」

という宇宙の中のちっぽけな一粒が

根本的にひっくり返る事です。


今まで「自分」だと思っていた主体が

そうではなく、壮大な勘違いの中で

それまで生きていたのだとわかります。


その時にほんとうに生死から解放され

真の自分がなんであるかわかります。


また、ついに大悟徹底すると悟りそのものも

すべて消え去ります。つまり元の木阿弥で

それが本当の解脱です。


ちなみにここにいるこの「私」はまだまだ

悟り臭さがプンプンしています。笑 

だから悟りについて書けるのですけれど。


ワインで言えばまだ青臭いボジョレーヌーボー

あるいは漬けたばかりの梅酒みたいなもんです。


しかし単なる見性体験なら、かなりの確率で

沢山の人が体験可能であると思います。


つまりこの自我が幻想にすぎない事

自分が体ではないとはっきりとわかる

そんな瞬間のことです。


それが道元が言う「心身(しんじん)脱落」です。

それだけでもかなり解放されます。

私は今でもそんな瞬間が時々起こります。


禅ではそれは単なる入り口ですが、

アドバイタでは一応これで探求は終わり

悟りに至ったとするようです。


私に起こるのだからあなたにも

起こらないはずがありません。


それへと導く修行法もありますが

私はロクな修行もなしにある日突然

そうなってしまいあわてふためきました。


修行としては、たとえば禅で言う「無字の考案」

などが有名ですが、座禅とかをしなくても

日ごろの心がけで何とかなるかもしれない

ということで、日々やっているレッスンを

皆さまにもご紹介していますが、本日は

「見る」と「観る」です。


あ〜やっと本題に入りました。

(相変わらず前置きが長くてスミマセン)


私を信頼して、一緒にやってみようかな、

と思って下さる方は、これまでのレッスンで

私が書いたことを日々頭に入れておいてください。

ただそれを「習慣」にしないで下さい。


やる時は真剣にやって下さい。

やる気の無い時はやらないほうがいいです。

そんな時はソファにでも寝転がって

猫と遊んだり本でも読んだ方がマシです。


さて、今日は「見る」と「観る」についてです。

「見る」とは単にあなたのその二つの目玉で

世界を見ることです。


それはレッスン1で書いたようなもう一つの目

をさらに進めたものです。


ただ私なりにやっているちょっとしたコツ

があるのでそれをお教えしちゃいます。


一方「観る」というのは内側を見ること、

つまりあなたの内面、思考、考えや感情

といったものをひたすら観察することです。


これは私の気づきのレッスンの根幹をなす

一番重要なものです。


長くなりましたので詳しくは次のレッスンで

お伝えしますね。

ではお楽しみに〜♪

・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもお読みいただき感謝です。










posted by おとめ at 10:46 | Comment(0) | 気づきのレッスン

2017年12月14日

気づきのレッスンその6 「捨てる」

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みなさんこんにちは。

気づきのレッスンももう6回目ですね。


毎日たくさんの人がブックマークから

ご訪問くださっているので、はりきっちゃいます。


日ごろ私がやってきたこのささやかなレッスンが

誰かの目覚めへのささやかなヒントになれれば

こんなに嬉しいことはありません。


けれども私ができる事は限られています。

実際に目覚めの実感への小道を進むのは

あなた一人だということを忘れないで下さい。


いえ、それは「小道」でさえありません。

今、即、ここにあるものです。


本日のテーマは「捨てる」です。

さて一体なにを捨てるんでしょ〜か。


捨てるといえば断捨離とかがブームになりましたが、

最近ではミニマリストとかね、はやってますが・・・


私個人としては、モデルルームのように

な〜んにもない部屋より、生活臭がぷんぷんの

ごちゃごちゃ部屋が好きですね。


たしかにゴミ屋敷とか問題ですけど

やたらにぽんぽん捨てるのもいかがなものか

と思うのです。


つい最近は妹がまだ新品同様のミシンやら

家の中にある一切合切を捨てたそうで

「ど〜してミシンくれなかったのさ!」と

ぷんぷん怒ったところでして。


というのも職業柄工業用ミシンを使ってますが

このシロモノ、もう40年は経ってる中古で

毎朝ひっぱたかないと電源が入りません。笑


お払い箱であの世行きになるのは一体全体

ミシンが先か私が先かという相棒なんです。


で何が言いたいかと言うとモノをぽんぽん捨てても

物欲はなくなりません。また新しく買うだけです。


肝心なのは「執着を捨てること」であって

モノ自体が悪いわけではないのです。


年配の方なんかはモノを大事にしますが

それは責められるべきことでも何でもないです。

むしろ尊いことでしょう。


その結果家がごちゃごちゃになったとしても

ご近所や人様に迷惑にならないなら

ちっとも悪い事ではない筈です。

そりゃゴミ屋敷は困りますよ。

あれは病気ですから。でも!


すっきり片付いた部屋が精神安定につながる、

というのは一種の思い込みに過ぎません。


問題なのは「欲しがる心」なんです。

部屋を片付けて精神の安定を求めるのも

欲しがる心ということです。


モノを捨ててかっこよく暮らしたい!

というのも欲しがる心です。


何故そのありのままの散らかった部屋を

愛おしむ心がないのでしょうか。

なぜすっきり片付いたかっこいい部屋と

比べたりするのでしょうか。


その部屋はそのままで完璧なのです。

それを認めないことがストレスとなり

散らかった部屋につながっていくのです。


中身が変わらないでモノだけ捨てても

ストレスはそこにあり何も解決しません。


ありのままの部屋を認めることで、逆に

あなたの部屋は自然に片付いていきます。

なぜなら現在もっているものだけで

満足するようになるからです。


すっきりした部屋を欲しがるのは

広くなった部屋で快適に暮らしたいのは

相対的な世界観から来る「欲」なのです。


さて、ここからが本題です。

人は「たかがモノじゃないか」と言いますが

禅的にいうと、モノもあなたなんです。


動物も、植物も、身の回りの品々も

ぜんぶあなたです。


ですから人は目覚めて本当の自分を知ると

モノをいとおしんで使うようになります。

もちろんむやみに捨てたりはしません。


がさつに生きることができなくなります。

丁寧に楽しんで生きるようになります。


けれど逆に執着心はなくなります。

モノを大事に大事に使いますが、

いざとなると全部手放せるのです。


またむやみに新しく買う事もなくなります。

資本主義にとっては大敵ですね。笑


私はむかしむかしのその昔

父親の借金で夜逃げを余儀なくされ

真冬にコートもなしでほっぽり出され

文字どおり裸一貫になりました。


自慢じゃないけど上の写真の果物皿

昔の人が彫った小汚い木皿なんですが、

骨董市で2,3百円で買いました。

30年間ずっと使ってます。


私の暮らしはいつもこんなです。

でも何も欲しくないし、金持ちじゃないし

最愛の夫は死んじゃって悲しいし、

でもそれでも幸せいっぱいなんです。


フシギでしょ〜?

その幸せをあなたに届けたいのです。


今日は前置きで終わっちゃいそうですが、

さてレッスンです。


あなたというモノがあります。

そう、あなたが「自分」だと思っている

その「モノ」です。そのモノには

更にいろんなレッテルやラベルがついてます。


それを徹底的に捨て去っていって下さい。

いわばブランド剥がしみたいなもんです。


たとえば、シャネルのバッグがありますね。

そこには色々な要素があります。


色は黒で、金鎖の持ち手がついていて

キルティングされていて、丈夫で

フランスのシャネルのデザインだけど

埼玉かどこかの工場で作られて・・・

といった事などです。


あなたの場合はどうでしょうか。

たとえば女性で、なになにと言う名前で

身長は何センチで、太ってる、痩せてる、

子供が二人いて、なんとか高校を卒業して

板前修業に入ったとか、あるいはまた

大学へ進んで英語の先生になったとか

破産したとか、宝くじが当たったとか

彼女にふられて自殺を考えた、とか

なんでもいいですが、ストーリーがあります。

そう、それらは全部人生のストーリーです。


そういうレッテルをすべて一つ残らず

きれいさっぱり捨てて行ってください。


たとえば名前ですが、それはあなたが

自分でつけたものではありませんね。

親が勝手につけたものです。それも捨てます。


男か女かというのもただの便宜上のもので

本来のあなたとは何の関係もありません。


ぜんぶ、ぜんぶ捨てて下さい。

これが私の言う「捨てる」ということです。


身の回りの品を片づけるヒマがあったら

まずこっちを先にやってくださいマセ。


すべて、あなたに付随するレッテルが

全部はがれた時、そこに何がありますか?


それはたとえば先日書いたように

ぐっすり眠ってふと目覚めた時のように

「ただ在る」という状態です。


「いけね、会社へ遅刻しそうだ」とか

「何を着ていこう」とかいう「思考」が

まだな〜んにも湧いてない状態です。


ちょうど生まれたばかりの赤ちゃんのような

無垢な、でも自分は確かにここにいる、

という意識だけがある状態です。


その状態にたびたび浸って見て下さい。

なぜなら、そこにこそ、真のあなたが放つ

永遠の輝きがあるからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日もアクセスありがとうございます。







posted by おとめ at 08:48 | Comment(0) | 気づきのレッスン

2017年12月11日

ザ・ロネッツ「ビーマイベイビー」

*いまだに好きな曲 3



カラオケに行くと今でも真っ先に歌う曲(笑)


主人を思い出して辛い時などに良い方法が。

主人と会う以前の曲を聞くことにしたのだ。


これを初めて聞いたのは中学3年生の頃で

店番をしながらラジオにかじりついていた。


いわゆるヒットパレードに目覚めてからは

歌っている歌手や遠い外国に思いをはせた。


その頃は外国の歌手をTVで見られないから

小遣いで買ったドーナツ盤の写真だけが

唯一の情報源だった。


それにしてもここまで美女のグループとは

レコードジャケットではわからなかった。

今ビデオが見られてサイコーに幸せだ。

(バックのダンサーがいまいち痛いけど)


この曲のイントロのビートとそれに続く

何とも言えない流れるようなサウンドは

青春の悩みで一杯の心を夢中にさせた。


まるで音の海に浸っているようだった。

日本の音楽には全く無かった音。

それが世界の音へと私をいざなった。


まだバービー人形で遊んでいる子供なのに

こののびやかなロニーの声が奏でる

恋ひとすじの女心の歌詞は理解できた。


おばあちゃんが「ドリーたち」と呼んでいた

美人で評判だった黒人の姉妹&従姉が歌う

この素直な恋の歌は、今聞いても新鮮で

あちこち痛くて、ボロボロのこの体も

ヒーリングをしてくれそうな気がする。


体はおいさらばえても本当の自分は変わらず

いつもここにいて、あの時と同じ音を聴き

名曲につきものの、あの天から響くような

愛に満ちた波動を全身に注いでくれるのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもご訪問ありがとうございます。
オールディーズ、たまにはいかが?

何よりのアンチエイジングでっせ(笑)
















posted by おとめ at 18:24 | Comment(0) | 音楽好き

2017年12月07日

ひとりごと

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ひとりごと〜真空妙有


色即是空

空即是色


始めの苦しい色を抜けると

すべてはつながるひとつの命のなかで

色はダイヤモンドダストになる


70億のエネルギーのいくつかが

苦悩の炎であぶられ炎症を起こし

時空を超えた無の彼方で失神し

突然 透明なかたまりになった


それがふたたび弾け、すべての素粒子が

信じられない輝きをもって蘇みがえり

そこら中に漂うとき。。。


真空の妙なる剣が虚空から飛来し

無数の「私」が続く時間のチューブを

真っ二つにぶった切るとき

宇宙の妙なる十字路となる


縦だけでは虚しく、横だけでは

嵐に巻き込まれてしまう


その十字路こそが救いの町

ゲートの無い町への門だ


お手軽聖者たちよ

すべてが幻想と片づけてはいけない。

それは虚無の渦への入り口だ。


愚かな思考に作り出された

幻想の悪魔よ 天使はいない

おまえは相手を間違っている

「おまえ自身」を殺せ


しかし かの「自己」は

おまえの相手ではない

おまえは常に監視されるだろう


その十字路こそが真実の町

そこでは一瞬一瞬の営みが

果てしない愛に満ちた奇跡となる


その時あなたは息をしながら

酸素をとりこまず

体がありながら透明だ


あなたが笑えば葉っぱも笑う

一輪の花を見て神が涙を流す


その瞬間、誰が、何が

どんな種類の死が、苦痛が

あなたを傷つけられるだろう


死神のカマさえ

風をかすめるだけだ


山是山水是水

星是星銀河是銀河


人は幸せを求める

悟りを求める

心の安定を求める


ちょっと垣間見ただけで

人は酔ってしまう


求める心がやんだとき

あなたは十字路を見つける


人生になにもいらない

ただ知りたい

さもなくば生ける屍になる

その願いだけになった時

恩寵は起こる


真実は至福など超えている

その時何故苦しむのか

何故ここにいるのか

何故生きるのか

何故死ぬのかの果てしない問いは

すべて解決される


ああ、なんということ

亡き人はここにいたのか・・・


一人でも多くの人が

かの十字路へ行けますように・・・


南無観世音菩薩

合掌


詩・byおとめ





真空妙有〜

すべてはつながっていて一つです。

それが「空」(くう)です。

そのひとつの命にあなたや私

亡くなった人などがいます。


誰も生まれていません。

誰も死んでいません。

亡くなった人はあなたと一つです。


本当に一つであるとわかったとき

そこにどんな悲しみもありません。


すべては実体がなく空でありながら

ひとつひとつがリアルに輝いています。

それが真空妙有です。


あなたという「個人」のいない所で

それがわかるでしょう。

ずっと以前からそこにいたのだと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもご訪問ありがとうございます。
posted by おとめ at 08:58 | Comment(0) | 詩歌の世界

2017年12月03日

気づきのレッスンその5 「瞑想1」朝の瞑想

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気づきのレッスンもいよいよ

佳境に入ってきました。


この年末のふところ寂しい折に

タダより安いものはない!だけが

とりえのこの気づきのレッスン。


寄ってらっしゃい見てらっしゃい

さてお立ち合い!

年末助け合いセール。。。じゃない、

本日はこれから簡単な瞑想をご紹介します。


瞑想と言ってもいろいろありますが

私が日頃やっているのはとてもシンプルです。


どんなことでもそうですが、思い立ったら

気軽に、リラックスしてやることです。


さあ瞑想しよう!なんて意気込んだり

身構えたりしては続きません。


まず体を軟体動物のようにぐにゃぐにゃにして

体のどこにも力が入らない状態がベストです。

まあ動物で言えばタコのような。。。


その点、今日ご紹介する瞑想は誰でも

そのタコになれます。何故ってこれは

朝目が覚めたその瞬間にやるからです。


(余談ですが胃カメラやる時もこれは

非常にいいです。ラクにできますよ)


目覚めの瞬間と言うのは「自分」というのを

忘れている状態です。はっと目をあけた瞬間

そのとき自分がどんな名前で、どんな職業で

なんて考える人はいません。


目覚めた瞬間のその「意識」があるだけです。

あなたはその時男でも女でもなく、お父さんでも

お母さんでも、子供でも、オネエでもありません。


ただ「私はある」という感じがあるだけです。

その「存在感」「ある」というだけがある感覚を

逆手にとって瞑想します。


これは私が三年ほど続けた瞑想を

自分なりに改良したものです。


これは自我に働きかける瞑想なので

あとでご紹介するほかの瞑想とは違います。


自我が一日のスタートを心地よく始めるため

そしてマイナスエネルギーから身を守り

ついでに体調もよくしちゃえ!という

一粒で二度おいしい、瞑想です。


ごく最近になってOSHO(ラジニーシ)が

これとそっくりな瞑想を教えていたことを

ネットで見ましたが、彼はプロテクトのみに

終始しているのでバリアーだけを作り

まわりと隔絶してしまいます。


したがって私のとは違います。

くれぐれも混同なさらないように

お願いいたします。


では前置きが長くなりましたが始めます。


毎朝あなたは目を覚まします。

(覚めなかったらコワイですね 笑)


そのとき意識がぼ〜っとしたままでいいので

仰向けになり手足を自分の心地よいやり方で

自然にのばし、力を抜きます。


呼吸は特にこだわらなくていいです。

自然にラクに呼吸してください。


要するに目覚めたらリラックスして

仰向けになれ!ということです。

(はじめからそう書くべきだった)


次に目を軽く閉じます。


すると天井から真っ白な光が降りそそいできます。

そうイメージしてください。


その光の成分は「愛」です。

果てしないどこからかの愛があなたの体を包み

頭からつま先まで体は真っ白に輝きはじめます。


その光に包まれたあなたは決して傷つきません。

どんな攻撃がきてもあなたは守られます。


心地よ〜い光に包まれた体はだんだん暖かくなり

そのまま真っ白なやわらかい物体となって

布団のシーツに少しづつ溶けていきます。


体が光り輝いてどんどんシーツに溶け込んでいき

ついには体はなくなってしまいます。


あなたは「光」だけになってしまいました。


その体の無い「光」の状態を、思う存分

横たわったまま、心ゆくまで味わって下さい。

実際あなたは「体」ではないのですから。


しばらくして目がだんだん覚めてくると同時に

あなたの体の感覚が戻ってきます。

けれどもその体は今は全身光に包まれています。

そのまま静かに目をあけて、光をまとった体で

起き上がり、一日を始めて下さい。


あなたの体から放射される光はあなたを守り

どんな攻撃の矢がきても光のシェル(殻)の前で

グニャリと折れてしまいます。


しかし同時に(ここが一番かんじんです)その光は

果てしない「愛」を外へ放っています。


あなたは完全に守られ「愛」を放射しながら

電車に乗り会社へ行ったりします。


あるいはまた「愛」を放射しながら料理したり

家族を送りだしたりゴミを捨てたりします。


ただし「愛」を放射しているからと言って

無理にニコニコしたり、急に人に優しくしたりは

する必要はありません。普段のままでいいのです。

朝機嫌が悪い人は仏頂面のままでいてください。


でも「自分が守られている」という意識が

あなたに自然な態度をとらせるでしょう。


会社で嫌な上司が何かを言ったとしてもあなたは

決して傷つきません。光が守ってくれます。


それと同時にあなたから放射される愛が

まわりの人間の心を照らします。

あなたは人間としての社会生活をスムーズに

始められるでしょう。


この瞑想は私は今はほとんどやっていません。

何故なら自分がもはや何物にも傷つかないことを

完全に納得できたからです。


体調が悪かったり、不安感が消えないときなどは

たまに思い出して今でもやっています。


またなにかマイナスエネルギーをまとってしまった

と感じた時もこの光で洗い流します。


これはスピリチュアリズムでも似たような瞑想をしますが

それだけでは他からガードするのみで分離感が増し

最終的には苦しくなってしまいます。


ですからガードするのも大事ですがそれ以上に

「愛」の放出が大事になります。

あなたが真実を見た時それがはっきりわかるでしょう。


これは朝の起き抜けの時が一番手軽にできますが、

時間がある方は一日いつでも思い出したら

やることができます。

勤め先の椅子に座ってもできます。


また夜お休み前にやってもいいのです。

光に包まれぐっすり眠れるかも知れません。

その場合は朝起きたら真っ先に光をそのまま

まとった状態で起きて下さいね。


どうでしょう?できそうですか?

ネットでこう言葉でかいているだけでは

わかりにくい所もあるでしょうが。。。


そのうちにどこかでお会いして、この瞑想や

他の色々なワークをご一緒にやる場をもうけて

直接シェアできたらいいな〜と思っています。


私が移住した長野県は大変素晴らしいところですが、

グリーフケアの会や心のケアのボランティアは

想像に反して極端に少ないです。


この瞑想は死別や挫折を体験して、日々の生活や

仕事などに差し障りがでてくるほど苦しいとき

私には非常に役にたちました。


あるいは人によってはなんの効果もないかもですが、

あまりに苦しい時なんかは、ダメ元でとにかく

やってみるだけやってみたらいいんじゃないかと思います。


ただし、あまり気持ちよくなりすぎて

会社に遅刻しないように気を付けてくださいね。(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもお読みいただきありがとうございます。







posted by おとめ at 10:10 | Comment(4) | 気づきのレッスン

2017年11月30日

魂について

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今日は禅やアドバイタや非二元の世界では

ある意味タブーとされることを書きます。


何故かと言うとここ数日ある思いが

私にとりついて離れず、大変苦しいからです。

それは愛する人を亡くした人達への思いです。

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・


一本の柿の木にたくさん実がなっています。

私たちはこの実であり

またこの木そのものでもあります。


柿の実を一個もいで食べてしまっても

柿の木は枯れません。


これが禅や非二元の考えです。

肉体は死にます。滅びます。

けれどもそれは単なる個々の現象に過ぎず

永遠の一つなる存在は不滅なのです。


すべては変化し流転しこの瞬間にも

生き生きとその生命は活動しています。


それは生や死という概念を超えた

永遠のエネルギーの大活動です。

したがって生死(しょうじ)はなく

亡くなった人達もその時間の無い空間に

形を変えて存在しているのです。


と、まあこういう風に禅的に言われても

実際に愛する人と死別した人間がどれほど

慰められるかは疑問です。


禅は苦しみなく「生きるため」の方法であり

死別で苦しんでいる自我を叩きのめします。

決して黄泉の国に人の目を向かわせません。

今、ここの生が大事だからです。


それは「生きようとするエネルギーのある人」

のための方便ともいえるでしょう。


たしかに自我がよれよれになるにつれて

苦しみは無くなっていきます。

けれども死別の苦しみの真っただ中にいる人は

そんな殊勝な方便なんか耳には入りません。

ますます黄泉の国を求めて苦しむだけです。


そこに私は計り知れない悲しみを感じます。

今この瞬間にもたくさんの人の悲しみが

全身に矢のように刺さってきます。


死別の苦しみは死別した者でないと

決して本当に理解はできないものです。


死別した人は愛する人に会いたくてたまらず

気も狂わんばかりになります。

それは自我の苦しみですが、それを

「執着だ。切りなさい」などと言われても

ますます辛くなるだけでしょう。


人は自分を温かく包んでくれた存在

いつも自分を楽しませてくれ、笑わせてくれ

いつもそばにいてくれたその肉体と人格が

今でもまだどこかにいて、存在していると

信じなければ生きて行くことはできません。


そこで「魂」の話になります。

「魂」はあるのかないのか。

「死後の世界」はあるのかないのか。


長いあいだ、私自身も苦しみましたが、

私は「魂」のようなものはあると思います。


それから「死後の世界」というより

肉体が別の物質に変化して一定期間それが

存在していくのではないか、とも思います。


ですからそれも禅や非二元で言われるところの

「現象」そのものでもあります。


これは禅や非二元を勉強するものとしては

非常にアブナイ考えではありますが

心情として、今死別で苦しんでいる方への

メッセージとして書いておきます。


ただし、亡くなった幼子が「霊界」の

幼稚園に通って成長して大学へ行って。。。

などという話は到底信じられません。

というより真実のほどはわかりません。


ただ、ある「意識」のようなものが、何らかの

時空を超えた空間で、何らかの活動をするかも

知れないとは推察されます。


そこで鬼才ロジャーペンローズの言ったことも

納得できる範囲に入ってきます。


今のところは私が言えるのはそれだけです。

それよりも、今苦しくて悲しくて仕方ない人に

ここで一番私が言いたいことは一つです。


あなたは人生で最大の悟りのチャンスにいる

ということ。一番神に近い場所にいるのだ、

ということを忘れないで下さい。


「自分の人生などいらない。」

「あの苦しい治療の時代わってあげたかった」

「あの子が帰ってくるなら何一ついらない」

「もっと幸せにしてあげればよかった」

などなどの尊い思いの数々は純粋な愛です。


これらの思いを今すぐ、この世で、この場所で

あなたの周りにいる人たちに実行してください。

大げさなことではなくあなたの友人や家族に

その思いをあてはめて見て下さい。


それがそのままあなたのグリーフケアになります。


それは親が坊さんだから仕方なく修行したり

生半可な面白半分でスピリチュアルにはまったり

毎日が退屈でたまらないから超能力に憧れたり

といったくだらない動機をはるかに超えた

本当の人生の修行なのです。


それはたとえばミディアムやヒーラーの勉強を

するにしても、大きな意味があると思います。


自己中心的な心が無いところ、あなたの中に

無私、無欲の空間ができたときにのみ、あの

はかりしれないハイヤーパワーがやってきます。


「やってくる」というのは二元的な言い方です。

真実はあなたがハイヤーパワーなのです。


そのパワーによってのみ、あなたはヒーリングや

そのほかの創造的なことができるようになり、

真実をかいま見ることもできるでしょう。


だからいつも書いているようにそこには

金銭的なやりとりがあってはならないし

どんな些細な自己中心性があっても

ハイヤーパワーはやってこないでしょう。


いつも思うんだけどスピ系のお値段て

どうしてあれほど高額なんですかね。


そりゃ誰だって生活しなきゃいけないんで

お金をとらざるを得ないでしょうが

もう少しリーズナブルなお値段にすれば?

って値段の問題じゃないかも(笑)


話がついそれますが、それはともかく

大事なことは愛するものはすぐそばにいる、

ということをいつも感じていてください。

そしてそのパワーと愛を素直にもらってください。

受け入れて下さい。受動的なことが大事です。


苦しい時はそのパワーと愛に身をゆだねて下さい。

自分から何かをしようとはせず、ただそのまま

すべての苦しみ、悲しみをおまかせしましょう。


あなたが無私の心でいれば必ずエネルギーと

はかりしれない愛を受け取ることができます。

そして、あなたはいつのまにか苦しみや悲しみが

変化しはじめたことに気づくでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもご訪問ありがとうございます。





posted by おとめ at 08:33 | Comment(4) | あの世があると思いたい

2017年11月24日

何故この人生なのかがわかるとき


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悟りを求めてもやってきてはくれませんが

もしあなたが「なにひとつ望まない」という

究極の状況になったとしたら、悟りのほうから

必ずやってきてくれるでしょう。


願いはかなえられます。それは恩寵です。

もしそれが「悟りたい!」という願いではなく

「真実を知りたい」という生きるか死ぬかの

ぎりぎりの所での欲求であるならば。


えっ?そんなアブナイ橋は渡れない?笑


悟ったらメシの種にしようとたくらんだり

悟れば一目おかれる人間になれるなどと思う

下心があるうちはきっとダメかもしれません。


さらに「願ってはいけない、でも願っちゃう」

という状態になって四苦八苦することになります。


その辺に腹立たしいジレンマがありますが

悟っても100%煩悩や苦しみがぜ〜んぶ

ただちに消えてなくなるわけではありません。


だから悟り後の修行があるのだと思います。

けれども少なくとも真実に目覚めると

あなたは確実に人生が変わるでしょう。

それはまさに生まれ変わりです。


今までとらわれていたほとんどの苦しみや

思い込み、世間体や出世欲、名誉欲、孤独感

嫉妬や憎しみや悲しみ、こういったものから

すっかり自由になっていくでしょう。


絶対に過去と同じように生きることは

二度とできなくなります。それは解放です。


苦悩は残るかも知れませんが、その苦悩を

どこか愛おしく見られる目ができます。


だから何としても一度は悟って、今までいかに

勘違いに生きていたかを実感してほしいです。


でも私はただの一般人で今まで厳しい修行をし

お寺に悟りの印可証明をもらったわけでもないし

その他専門的な勉強をしたわけでもありません。


だから私には人に教えるなんて到底できません。

ただ人に私と同じ体験をしてほしい、という

痛切な願いがあるだけです。


一度真実がわかると、今まで全く理解できなかった

過去に悟った人たち、たとえば聖者や覚者、禅師

こういう人たちの言葉がはっきりわかってきます。


それは今風にいえば「シェア」することです。

仏陀やマハラジと同じことをシェアできるのです。

それでやっと自分が狂ったのではないと知ります。笑


たとえばお寺のお坊さんでも悟った人と

まだ悟りを得てない人がわかってしまいます。

(悟りを得てないからダメというわけではなく

悟らなくても人格的にすぐれたお坊さんはいます)


またネットで悟りについて書いているのを読んでも

その人が悟ったのか悟ってないのか大体わかります。


どんなに博識で何でも知っているような人でも

悟りがなくて危うい方向へいってしまう人もいます。


むしろ博識な人ほどそんな感じがします。

残念賞ですね。


クリシュナムルティは哲学や宗教などの本は

一切読まなかったそうです。ミステリーが好きで

ユーモアもあったようです。なので知識ばかり

前面に押し出すと真実は隠れてしまいがちです。


それはまるで曇った窓ガラスがピカピカになり

今まで見えなかった綺麗な景色がはっきりと

視界に飛び込んでくるようなものです。


こう書くと偉そうに見えるでしょうが、真実とは

本当に単純なものなのです。それをやたらに

難しい仏語などで表現するからやっかいなのです。


本当は仏教もキリスト教もクリシュナムルティも

何も必要ないのです。子供でもわかることです。


私のようなものでもわかったのですから必ず

あなたにも真実がわかる時が来るはずです。


それにはやはり探求の心が不可欠です。


般若心経に書かれていることは真実のことですが

本当にわかる人がどれほどいるでしょうか。


あそこに書かれていることは悟って初めて

意味がわかることばかりです。

ですから無理にわかる必要もないですが。


もっとやさしい言葉で真実を人に伝えられないかと

毎日考えています。ですから無事禅のようには

なってしまいますが、ある程度頭で理解しても

いいのかな〜とも思います。


「照見五蘊皆空 度一切苦厄」な〜んてのより

「あなたの体のどこにあなたがありますか?

探してみてください、どこにもないでしょ?」

というほうがずっとわかりやすいでしょう。


さらに「色即是空 空即是色」というよりも

一切は空(幻想)でありこの体も空である、

しかし同時にすべてが変化し、形をとって

あらわれている、それが毎瞬に起こっている、

などという風になら理解できるでしょう。


そう言う風に書いていきたいと思っています。

なに?それでもわからない?


それならば一番わかりやすい方法を書きますね。


それは今のあなたの人生をとことん生きる事

ずるい事を考えない事、ひたすらあるがままに

笑ったり、悲しんだりしながら生きる事です。


宮沢賢治の「自分の事は一切勘定に入れず」です。


二元的にはなってしまうかも知れませんが

キリスト教の「すべて御心のままに」でも

いいと思います。要するに「おまかせ」です。


これだけでも自分がいなくなってきますので

我がとれてラクにはなってきます。


苦しみから回避しようとすると苦しみは増します。

逃げなければ苦しみは消えてしまいます。

あなたは苦しむ必要はありません。


長い苦しみの末に、可愛い赤子が授かるように

苦しみが極限に達した時、その時にこそ

あの見えなかった門が開きます。


そしてその門の先にあるものは「愛」です。


その時あなたは何故自分がここにいるのか

何故その人生なのかがわかるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもありがとうございます。



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posted by おとめ at 08:06 | Comment(0) | 悟りについて

2017年11月20日

慈悲心

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すべての人には慈悲心があります。

けれども自我(エゴ)という幻想によって

本当の自分が見えない間は

慈悲心はどこかへ隠れてしまいます。


本当の自分に気づいた時

慈悲心が自然に湧き起ってきます。


それは同情心ではありません。

憐みの心でもありませんし、

親切にしようとするのでもなく

単なる愛でもありません。


たぶん、それらすべてを包括し

さらにアップグレードしたような

深い深いところからの心です。


それが自然に起こってくるのを

自分でコントロールはできません。


それはすべての人や生き物が

自分自身だとわかっていることです。


すべてが自分なのだから人に起こる事は

自分に起こっているように感じます。

動物や植物などに起こる事も同じです。


そしてその時すべてが愛おしいと同時に

自分がなにものにも傷つかない事を

はっきりと自覚するようになります。


なぜならすべてが自分だとわかれば

自分はこの体や心や思考ではないという

究極の事実に目覚めるからです。


それはたとえば人があなたになにか

とんでもない悪口を言ったとします。

でももしあなたが個人のあなたではなく

真実無二のあなたに気づいていれば

個人のあなたはいないのですから

傷つけられるものはどこにもいないのです。


まさにカエルのつらになんとかで

痛くもかゆくもありません。

それどころか深い同情心が相手に対して

湧き起ってくるでしょう。


まさにあなたを傷つけようとする相手が

相手自身やあなたを個人だと思い、

その自我の泥沼にはまりこんでいて

その幻想にいるのがわかるからです。


自分がその幻想から抜け出して

限りない自由を味わうと、人にも

同じように味わってほしい!という

強烈な思いが出ます。


それが慈悲心です。

私がブログを書いているのもそれです。

そこに個人の私はいません。


いじめが後を絶ちませんが、それも

メカニズムは全く同じです。


自分と他人を分離するのは自我です。

あなたがいて、私がいる、という

幻想の境界線によって区別が生まれ

人は世界から自分を守ろうとします。


いじめによって一番同情されるべきは

いじめる側の人間なのです。

いじめる人は必ず何かに苦しんでいます。

それは自我による苦しみです。

いじめられた人はそこに気づいてください。


そして常にあなた自身の自我を見守って

目を離さないようにします。

でも自我を攻撃しようとせず、責めず

ただそれを飼いならして下さい。


そうすれば必ずいつかわかるでしょう。

本当のあなたを傷つけることは決して

誰にもできないのだということを。


あなたという存在はその身長と体重に表れる

ちっぽけな体の中にはいません。


対人関係の悩みが絶えない人もいます。

まさに自我が自分と他人をへだてていて

人を批判せずにはいられないし

自分を守る事に懸命になってしまいます。

そこには常に自我による「恐れ」があります。


あなたは自分を守る必要などないのです。

本当のあなたしかいないのですから。


あなたという「個人」はどこにもいません。

相手という「個体」もどこにもいません。

体が、心が、動かされているだけです。

本来の面目がそれを動かしているのです。


思い出して下さい。境界線はないのです。

あなたとその相手の人は一体なのです。

これがいわゆる二つに非ず(非二元)

ということです。


すべてが自分であり、たった一つのその自分が

存在するすべてだということに気づいてください。


そしてその自分は慈悲心というゆたかな海に

いつもゆったりとくつろいでいるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも読んでいただき感謝です。




posted by おとめ at 12:24 | Comment(0) | 自我(エゴ)について

2017年11月18日

気づきのレッスンその4「体」



はい、みなさんこんにちは。

今日もこのわけのわからないブログへようこそ(笑)


今日は体についてお話します。

そう、あなたが自分自身だと思っているその体、

太っていれば太っているなりに

痩せていればやせているなりに

悩みのつきないその体というシロモノ。


たとえば何故ダイエットしたいのかといえば

「人」にくらべて太っているみたいだし

もちろん自分=その体だと思い込んでいるから。


じゃもし自分がその体じゃないとしたら

あなたはダイエットしますかね〜?


だって自分じゃないんだから、カンケー

ないんだから、太ろうと痩せようと

そのままでいいんじゃありませんか?


するとたとえばあなたが太っていて

人から「デブ!」と言われても

一向に気にしなくなるでしょう。


さらに話をすすめて、たとえば

あなたが病気になったとしても

あなたは一向に動ぜず、ただ淡々と

その自分ではない体の病気を見つめ

なりゆきにまかせることでしょう。


それはとてつもない解放だと思いませんか?

「自分が絶対にこの体ではない」と

はっきりと実感するのが悟りです。


便宜上「悟り」が実感と書きましたが

それは「悟る」のはあくまでもまだ

「自我」であるからで、厳密にいえば

すべての人はすでに悟っているのです。


一瞥体験(見性)の場合には

強烈な至福感や神秘感覚があり

「あ〜ついにオレは悟ったぞ」と

早とちりしがちですが、おっとどっこい

一瞥体験は悟りではありません。


それはただ破れた障子のスキマから

真実の世界を垣間見たに過ぎません。


悟りは真実の自分に気づくことです。

体も心もその時完全に脱落します。


ある種の体感をともなう、自分=体ではない

という「確信」のようなものです。


「ホエ〜!またわけのわからないこと書いてる」

とうんざりしているそこのあなたも

いつなんどき真実に目覚めるかわかりませんよ。


目覚めには、つまり悟る過程には二通りあって

長年の修行の末にそうなる人もいるし

あるいは一切何もしていないのにある日突然

青天の霹靂で否応なく目覚める人もいます。


一言で言えば「自分が体」と思っているうちは

あなたは「我」(エゴ)と一体であり

自分のまわりに境界線をひいているのです。


自分は宇宙の中のたった一粒に過ぎないのだ

という壮大な勘違いに生きているのです。

そしてそれがすべての苦しみの大元です。


でもちょっと見てみて下さい。

あなたの体の境界線はどこにありますか?


「皮膚」という人もいるでしょう。

けれども皮膚からは毎瞬毎瞬空気が出て

呼吸しているし、空間というのは

まったく何も無いところではなく

あらゆる「物質」に満ちています。


ウソだと思うなら最先端の科学者が

あちこちで発表してますから一度

のぞいてみてください。


つまりあなたの体と空間はぴったりと

フィットしているのですよ。

風に吹かれている時のあの心地よさを

思い出してみてください。


細身のパンツを無理やりフィットさせようと

やっきになっているそこのあなた、

そのフイットではないのです。

今日限りムダな抵抗はやめましょう。

そして、ゆっくりと座ってお茶でも飲んで

ちょっとばかり考えて見て下さい。


どこにも境界線はないのです。

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これを毎日つきつめて見ていくと

すべては全く分離していないとわかります。

これは頭で理解してもよいと思いますが

やはり実感をしてほしいです。


この分離のなさを体感するには

日ごろから体を柔軟にしておき

体や頭の血のめぐりをよくしておくのを

おすすめ致します。


ヨガや太極拳、ウオーキングや水泳

あるいはただ家事をせっせとやったり

部屋をこまめに片づけたりしてとにかく

体を動かすことです。


私自身について言えば若い頃から運動は苦手

友人に誘われ太極拳や空手道場に行ったことも

ありましたが、最終的に自分にはダンスが

一番似合っているとわかりました。


だから好きなものでよいと思います。

とくに悲しみや苦しみのがんじがらめから

抜け出られないときは思い切り体を動かし

頭をからっぽにしてみましょう。


もともと私たちはからっぽなのですから。。。。


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いつもアクセス感謝です。














posted by おとめ at 08:48 | Comment(0) | 気づきのレッスン

2017年11月09日

メールかふぇ

CIMG8995.JPG

*おとめのメールかふぇ


こんにちは〜♪

おとめのメールかふぇがオープンしました。

コーヒーは出ませんが(笑)

ほっと一息つきたい方はどうぞご利用下さい。


なにかご質問や気になる事、はたまた悩み相談など

なんでも受け付けます。


まあ、この微力な私がなにができるかは疑問

ですが、少なくともあなたの思いを受け止める

ことはできると思います。


コメント欄では書ききれないことや、書きにくい事

私にだけ読んでほしい、などのご希望も多々あり

これまで時々非公開のコメント欄からメールにて

ご対応させていただいていました。


いっそのこと本格的にやってみようかと思い立ったのが

このメールかふぇです。


ご希望の方はこの記事の非公開コメント欄にて

お名前とメールアドレス、ご相談なさりたい内容を

簡単にお知らせ下さい。


折り返しお返事させていただきます。

秘密厳守・費用は無料です。

(ご希望多数の場合は少しお待ちいただくかも

しれませんのでご了承くださいね)


今までメールにてご対応させていただいていた方も

順番などございますので、大変お手数ですがあらためて

こちらからお申込み下さい。


先着順にてご対応させていただきます。


おとめより
posted by おとめ at 10:46 | Comment(0) | おとめのメールかふぇ

ポールアンカ「ダイアナ」

*いまだに好きな曲 2


いや〜おもしろいビデオ見つけちゃった。


このところお堅い話がつづいたので

この辺で一息つきましょうか。


あのポールアンカがね〜びっくり。

出て来た時、一瞬不安そうな表情を見せます。

突然幕があいてとまどった表情。


まだこの頃は16才くらいでしょうか。

初々しいですね。


でもすぐリズムにのって

楽しそうに歌ってます。

実に気持ちよさそうです。


昔のことだから音声と映像を

別々に収録したのかも知れませんが、

それにしても彼が天性の才能を持って

生まれてきたということがよくわかります。


年上の女性への恋を素直にぶつけたこの曲は

彼のデビュー曲でした。


彼はたしか中東系の移民の子でしたが

アメリカに移住してからスターダムにのり

70代の今でも歌っているみたいです。


けれども私は他の彼の曲はあまり好きでなく、

この「ダイアナ」一曲が好きなんです。

ビデオを見てからますます好きになりました。


彼を見ているとスーフィダンス思い出します。

この曲を歌っている彼は神そのものです。


彼がこの曲を作った時たぶんそこには

恋心を表現したい!という純粋な思い

それだけしかなかったはずです。


そこに余計な私利私欲はありませんでした。

それが世間の人の心を打ちあれほどの

ヒット曲になったのだと思います。


何かを表現したい!という深い底からの欲求

それがお金をかせぎたい!とか

注目されたい!とかの自己中心的なものが

何も無い時、人は神となります。


だから世間にはいわゆる一発屋が多いのでしょう。

最初の曲は心から作りたくて作った。

神さまになった自分が作った作品です。

けれどもそれがヒットすると欲が出てきてしまう。

神さまは逃げていきます。


これがワナです。

人生の真実です。


クリシュナムルティは人の心になにも無い時

「自分の為」という思いが消えている時

人はそのまま神(基底)になる、と言っています。


それはつまり我欲をおさえるのではなくて

むしろ純粋な欲なのです。

深い所から来る欲求、「そうせざるをえない」

ようなそんな思いが湧いてくるときです。


棟方志功が歌を口ずさみながら次々と

トイレの中にまで絵を描いたあの欲求です。


おいしいものを食べさせたい!という欲求で

お母さんが料理をする。それも同じです。

見返りを期待せず何かを作る、行動する。


そしてそれは必ず人の心を打ちます。

なぜならすべての人が神だからです。

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今日もお読みいただきありがとうございました。



posted by おとめ at 08:24 | Comment(0) | 音楽好き