2016年09月02日

死別の苦しみからの脱却 「苦しみは今終わる」


お知らせ:

今これを書くのは私の「良心」ですが、他に
何か計り知れないものが私を促しています。

母の没後、田舎で一人静かに暮らす中で大きな変化が
ありました。私はただあらゆる忙しい活動を
ストップしただけでした。

それが理由だったのかはわかりません。
けれどもついに「それ」に到達したようです。

それは素晴らしいものでしたが、考えていたような
神秘的なものでもなんでもなく、まるで故郷へ
帰ったような気分でした。

それはすぐここに、目の前にあるものでした。
全くなんでもないものでした。

それはあまりにも当たり前過ぎて、自分にとらわれて
いる限り見えないのです。

それを「悟り」とか「解脱」あるいは「空」などと
おこがましくよぶつもりはありませんが、
少なくとも私がこれまで書いてきたことに
間違いがなかった、ということにほっとしています。

更に幸いなことに私は尊敬できる禅の師を見つけました。

死別の悲しみ、苦しみにある人にこれだけは言えます。
どうかそのままあなたの悲しみにとどまってください。
踏ん張って下さい。

沢山涙を流して七転八倒して下さい。
それが近道なのです。

これが悲しみを消す何よりの方法だという事は
すでに書きました。

決してそこから逃れようとしたり、気をまぎらわせて
くれるものを探したりしないで下さい。

それはあなたを混乱させ、悲しみを深めるだけです。
何故ならそこにはより良くなりたいという
「自分」があるからです。

カウンセリングもワークショップもそのほかありとあらゆる
「手段」もあなたを癒すことはできません。

あなた自身でさえそれを癒すことはできません。
「自分」は決して自分を癒せません。

悲しみを癒すもの。。。それはあなたが今持っている
その「悲しみ」そのものなのです。

けれども何かにすがりたい、という気持ちは私も
そうでしたからよくわかります。

私も「何か」自分を癒してくれるものを求めて
あちこちさまよいました。

ミディアムシップも受けました。

お世話になった先生方には申し訳ありませんが
私の悲しみを癒したのは別の道でした。

そのため今まで書いた記事の一部を削除させていただき
アップ済の記事も書き直し、今の自分が真実と
確信している部分だけを残しました。

「死別の苦しみからの脱却」というタイトルですが
「脱却」してはいけなかったんです。

この世が現実であるならあの世も現実なのでしょう。
そこまで否定はしません。

けれども本当は両方ともすべてが幻なのです。

一なるものだけがあり、愛する人も自分もそこにいます。
誰も生まれないし、誰も死にません。

あなたと愛する人は今も1cmも離れていません。

すべてがつながっているんです。
このままでいいんです。

自分の苦しみから逃げず、じっと見つめそこに浸る時
あなたもきっと真実を見ることと思います。

あなたが悲しみにじっととどまり、苦しみが極限に達した時、
運が良ければ神が恩寵を下さるでしょう。

あなたにも「それ」が見えた時、どうか私に
連絡をして下さい。



(2/04記)
・・・・・・・・・・・・・・

皆さまから沢山のメールをいただきました。

心からお礼申し上げます。
今地方への引っ越し準備で大わらわ、あたふた、大パニック。。。
何でもいいですが、とにかくそんな状態でして。
落ち着きましたら必ずご返事させていただきますので
申し訳ありませんがもうしばらくお待ちください。
(9/14記)

*この記事をもちましてこのブログの更新を
終了させていただきます。
長い間ありがとうございました。

。。。。。。。。。。。。。


「私は眠り、私は座り、私は歩く
そして私は幸せだ」
(アシュターヴァクラ・ギーター/トマス・バイロン英訳より)

「日日是好日」
(碧巌録 第六則)

「起きるすべての事に意味がある。抵抗しないように。
ただ身をゆだねて楽しみなさい。」
(真我のことば)


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(写真は主人の故郷にて。猫のニーナ)


一瞥体験(見性)は私に次の真実を教えてくれました:

現実を拒否することで苦しみは生まれるという事。

この苦しみをなんとかしようともがくほど
泥沼にはまるということ。

これはあくまでも私の場合で他の人には全く
あてはまらないかも知れませんが、すべての苦しみは
「自分」が作ったことだったんです。

今ここにあるものを拒否し逃れようとすることは
かえって苦しみを大きくしてしまいます。

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よく私は夫の辛い闘病生活を思い出してはあれほど
苦しい目に遭った夫が可哀想で泣いていました。

けれども良く考えて見ると「今」夫の顔を思い浮かべて
見ればそれは全く苦しんでいません。

苦しんでいる顔が浮かんだのならそれは事実ではなく
私のマインドが作り上げた過去の思い出に過ぎません。

今、この瞬間に愛する人がどこかにいると仮定して
その顔を思い浮かべて見るんです。
これはとても強力な効果があります。

その人の顔は泣いているでしょうか。
いいえ、心の底から楽しそうで、幸せそうです。

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私は悲しみがこみあげてひとしきり泣いたあと
これをやっています。するとなんだかラクになれます。

亡き人の「現在」を真に見つめてみれば、悲しみは
ありません。もしあるとすれば、その人の不在を嘆く
「我」があるだけです。

夫は「今」苦しんでいません。毎朝の辛い吐き気も
腹水もありません。入院していません。
これでもかと抗がん剤を打たれることもありません。
どうして私が悲しまなければならないでしょう。

私達人間にははかりしれない「力」が
夫を病気の苦しみから救ってくれたのです。

夫を「自分はこれからどうなるんだろう?」という
恐ろしい不安から解放してくれたんです。

何故悲しいんでしょう。
それは「自分」が悲しんでいるだけです。
「私が、私が。。。」という「自分」です。
「私がかわいそう」「私が大事」という気持ちです。

つきつめると悲しむのは夫への愛ではないことになります。
愛しているなら夫が楽になったことを喜ぶ筈なんです。

魂を信じるなら、亡くなった人の新しい門出を
喜ぶべきなんです。

悲しいのは私で夫ではないんです。

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そうは言ってもそれは頭ではわかるけど、実際は。。。
と誰もが言うでしょう。それはよくわかります。

私も今でも泣けてしかたありません。悲しみは依然として
そこにあります。

けれども我が出てきて思い出してしまった自分も私は好きです。
思い出しては泣き、悲嘆にくれている自分を愛します。

今、この悲しみの現実が私の人生なのです。
その「今」を味わい、生きなければどうして生まれてきた
甲斐があるでしょうか。

とにかく夫はもうすべてのしがらみから自由の身なのです。
でも夫も私への愛と感謝で一杯なのを私は知っています。

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あの図書館からの帰り道、私には「今」しか
ありませんでした。過去も未来もなく自分もありませんでした。

悲しみからの解放は「今」「この瞬間」にしかありません。
過去や未来についての不安や悲しみはいつも私達を苦しめます。
楽しい思い出さえも。。。

源(神)は私達にさまざまな事を経験させているのです。
苦しい病さえも貴重な体験なのです。

すべて起こる事は源の目線で言うと善も悪もなく
良い事も悪いことも含まれます。

悪魔なんていません。天使なんていません。
ただ一つの存在だけがあります。

愛する人の死でさえもそこにはポジティブな
要素があるのがわかります。
たとえば病の苦しみからの解放や、残された
家族の魂の成長などです。

それはまた死別者でなくても言えることです。
自分と会わない伴侶との結婚、ウマの合わない友人、
辛い仕事、悪天候。。。

すべてすべて起こる事を事実として受け止め
そこに価値判断を下さなければずっと楽になれます。

たとえば霊能力や悟りを得ようと必死に努力するのは
「今」にいないで、未来(と思いこんでいるもの)に
いることを意味します。

未来は常に幻想です。過去もしかり。

ひたすら今の自分や状況に不満だから、
「何かになる」事でそれを変えようとすることは、
せっかくのそのままの状態の素晴らしさから視線を
そらす事にならないでしょうか。

だからヒマラヤの霊能者のように、霊能力を極めても
いつまでも幸せはつかめません。

一瞥体験の時、道端のゴミでさえ芸術作品でした。

すべてはそのままで素晴らしいのだ、と私は思います。
何かになる必要も無く、変わる必要もないのだと。

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苦しみを終わらせるのは「未来」では絶対ありません。

体外離脱をしてもミディアムシップを受けても、
夫のいない「今」という現実を受け入れなかった為に
苦しんでいたんです。

「時間薬」はあるでしょうが、それまで待てますか?

私は待てませんでした。
苦しみを終わらせるのは「今」でした。

今こそが苦しみを終わらせてくれます。

今この瞬間に苦しみなどどこにも無いことに私は気づきました。

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もし苦しみがあるとすればそれは私が作った幻想なのです。
それは過去と未来と「自分が大事」という材料でできています。

ここで誤解しないでいただきたいのは「悲しみ」と
「苦しみ」は違うという事です。

純粋な悲しみはむしろ人を進化させます。

多くの死別体験者が純粋な「悲しみ」では無くよけいな事で
悲しみを「変質」させ、「苦しみ」を倍増させているのを
目にしてきました。

絶望や不安感、他者へのねたみ、金銭問題、対人関係の悪化など、
これらはすべて「恐れ」から来ます。そしてその栄養となるのが
エゴイズムです。

これらすべてが「愛」によって昇華され、「今」を受け入れる時
何かが絶対的に変わります。

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死別したからこそ、他人と仲良くし、人をいたわり
人に親切にすることで死別者自身が癒されていくと思います。

私に言わせるとただそれだけが唯一の癒しなのです。

ただ無理してはいけないし、心からそうしたいと思った時
それがその時だと思います。

それは死別者同士だけが仲良くなることとは違います。
何故なら私達はすべて源とひとつだからです。
それがワンネスとか二つにあらず(非二元)という事だと
思います。

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今ある現実、そのままの自分、そのままの家族や友人を
あるがままに「完璧なもの」として受け入れる時、癒し度は
一気に高まります。

特別な事ではなく、それはまず自分の親や周りの友人など
身近な人への愛や感謝の気持ちから始まるでしょう。

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そして何よりまず自分を癒さなくてはなりません。
そこから変えていくときっと光の出口が見つかると私は
強く信じています。

自分の好きな事を思い切りやって楽しみます。
旅行、友人と会う事、勉強、ペット、美味しいもの。。。
いっぱいあると思います。

ただ何かの行動によって自分が変わろうとしないで下さい。
あなたはそのままでいいんです。

期待と変わろうとする衝動はいつも人間を不幸にします。

「このワークショップへ行けば変われるだろう」
「今の状態から抜け出なくては」
「浄化してエゴをとらなくては」などなど。。。

どこへあなたが行こうと、何をしようと、それはすべて
神の「恩寵」によるものであなたの意志ではないのです。

すべてが見えて来た時それが真実であることがわかります。

そしてまた、究極の手段として私は想念から一切の過去と未来を
たとえ一瞬でも手放し、そこに何があるか見てみました。

そこには自分の悲しみを見つめているある冷静な「意識」だけ
がありました。それは「自分」ではありません。

それはあの坂道で私に命の躍動を見せてくれた
あの「何か」と同じ物です。

それは永遠にあり、生まれることも死ぬこともありません。

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その「意識」は亡くなった人は天の絶妙なタイミングと
慈悲によって肉体を脱いだのだ、という事実を
段々にわからせてくれました。

私と亡き人が人生で過ごした幸せな時間も辛い時間も
すべて「源」からの贈り物でした。
それは一瞬一瞬違う色に光り輝く宝石でした。

一瞬先に何が起こるか正確にわかる人はいません。
それほど人生は驚きに満ちています。
特別な事を何もしなくても。。。

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これはあくまでも私のやり方で人にどうこう言うつもりは
全くありません。

ただ自分の苦しみがどうして減ったのかつくづく考えて見ますと
今この瞬間に与えられたことをとことん「受け入れ」、「集中」
することが一番の近道だったとつくづくわかりました。

目の前の自分に用意されたいつもの現在の仕事を淡々と
心をこめてすることでした。

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それを素晴らしいプレゼントとして楽しみ、日々味わい、
行う事でも苦しみから抜け出せることがわかったのです。

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それは生そのものを思い切り味わう事でもあります。
何故なら私達はすべてを味わうために生まれたからです。
悲しみさえも。。。

生の躍動は至る所にあります。すぐ近くにあるんです。
朝日の輝き、一杯のお茶、猫のひげ、工事の騒音、長雨、
夕方顔を流れる涙、いじわるな同僚など。。。すべてすべて
恩寵による生そのものです。

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あの坂道での一瞥以来、私はすべてのものを見る自分の目が
驚くほど変化していることに気づきました。

そして自分のこれまでとさほど変わらない日常の中で
一瞬一瞬を味わい、喜び、あるいは悲しみながら生きる。。。
それが嬉しくて幸せです。

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そのまま、ありのままを否定することでどれだけ多くの人達が
無駄な苦しみをしているかを私は見てきました。

そしてそれは多くの場合「批判」から始まります。
「これはまずい」「あの人はこうあるべきだ」などなど。。。
それはとりもなおさず現実を、今を否定することです。

自分も含めたすべての人やモノをジャッジせず、ありのままに
見る時、人はこの上なく自由になります。

そこに恐怖はなく、ただ受け入れることしか無くなります。

悲しみに対処するには一つの方法しかありません。
どこへ行っても、今と違う何かをしても消えません。

悲しみを消すには悲しみの中に入るしかないと思います。

もし悲しみが襲ってきたら自分の悲しみをじっくり
見つめます。悲しみが何でできているか良く分析するんです。

そこには必ず「自分」がいます。
すべてが「私は」「私が」で始まります。
それに次々と気づいていきます。

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「自分」と言えば、かつて私はエゴを消そうと必死に
なったことがありました。でもエゴは消えません。

またエゴを攻撃する必要は無いと思います。

というよりエゴを消そうとする努力そのものが
強いエゴを呼んでしまうこともあります。

「私は浄化されてるけどあなたは違う」という
恐ろしい考えになりかねないからです。

自分が「良い人」と思われたい、という願望や
「エゴの無い自分」という幻想を捨てることで
かえってエゴを超越できるのだと思います。

自分のエゴを知る事によって他人のエゴを知り
自分自身や人の「本当の姿」をエゴから切り離して
考えることができるようになりました。

もし悲しみの発作に襲われたらとことんそれに
集中します。泣きたければとことん泣きます。すると
悲しみを味わい尽くしていくうちに悲しみは消えます。

そして気が済んだら現在、この瞬間に戻ります。

それは尻尾を踏まれた猫が「ギャ〜」とわめき、
次の瞬間何事もなかったようにじゃれて遊ぶのと
全く同じです。

そしてすべてを大いなる力にゆだねます。
そこに「自分」はいません。
すべて「起こる事」を楽しむ「意識」だけがあります。

猫は常に今しかありません。
何故なら今はいつもそのままで完璧だと知っているからです。

すべてをあるがままにゆだねてのんびり生きています。

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「今、この瞬間」に苦しみや悲しみはどこにもありません。

それは私がかつて見つけたのに失くしてしまい、またやっと
見つけた事でした。そしてそれは前より更に輝いていました。

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そうは言っても人間は常にこの瞬間にいるわけでもなく、
悲しみの発作が起こることがあります。
意思とは関係なく突然起こります。

そんな時はただじっとその悲しみを見つめます。
するとその悲しみをみつめている「意識」に気づきます。

それが「真我」です。

これからも私は悲しみ、泣くこともあるでしょう。
けれどもそれは「解放された」涙です。

悲しみはあります。当分続くでしょう。あるいは一生かも
知れません。悲しみを消そうとは私は思いません。

けれども「苦しみ」は今終わります。

そこにはえぐられる痛みも、人への恨みも何もありません。

すべての行いが「自分」というものからなされない時
そこには純粋な悲しみだけがのこります。

すべてが一つであの世もこの世も無いのだとわかります。

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それがアドバイタでいえば「源」にゆだねる、という事ですし
禅で言う「柳は緑、花は紅」なのでしょう。
キリスト教で言われる「御心のままに生きる」という事でもあります。


それはあなたも限りなく進化させていくでしょう。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

長い間このブログをお読みいただきありがとうございました。
この記事をもちましてこのブログを終わらせていただきます。

本当は三回忌をめどに終わらせるつもりでしたが。。。
読んで下さる方のおかげでここまで続いて参りました。心から
感謝に耐えません。

調子にのって最後の記事は4まで書いてしまいました。

たくさん載せました写真はお墓を作る時に行った
主人の故郷のものです。「癒しの旅」という記事に
使うつもりでいましたが、ついに記事にはなりませんでした。

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「この世は愛と喜びに満ちている」ということを実感した旅
でした。どうか写真だけでもお楽しみ下さい。

私はただ自分が夫の死別と言う出来事によって経験した事を
書きました。すべて事実です。

江戸川べりで転げまわって遊んでいた少女のまま年を取った
自分が、ペットロスという状態になった時に始めた
お気楽ブログでした。

それが。。。自分の命より大切と思っていた夫というもの
を亡くしてブログもすっかり様変わりしてしまいました。

ブログの後半ではいかに死別後の自分が変化をし、苦しみ、
勉強し、癒しに至ったのかがすべて書かれています。

ブログの前半で知り合った方はさぞとまどわれたことと思います。
けれども尚私は自分の経験をウソ偽りなく書きたかったのです。

個人的なものですので、皆様には何の参考にもならないかも知れません。

ひっそりと書いていきたいと思ったのでブログ村の「死別ブログ」
も途中で抜けました。それでも沢山の方が毎日「ブックマーク」から
来て下さっているのを見て驚愕しました。

コメントを下さった勇気ある方々(笑)本当にありがとうございました。

私はただ「真実」とは何であるかをひたすら知りたいと思いました。

でも今ついに見つけたと思っています。でもまだ「確信」ではありません。
これからも恐らく私は変化していくと思います。

私の記事を楽しみにして下さった方々には大変申し訳ありませんが、
これ以上書いても繰り返しになるだけですのでここで一区切り
しようと思いました。

記事はそのままにしておきますが、もう更新はしないつもりです。
いずれ新しい境地に達した時にブログは削除させていただくかも
しれませんが、今はこのままそっとしておきます。

ただ、精神世界の勉強はこれからも続けていくつもりでおります。
そしてエネルギーがあれば新しいブログを作るかも知れません。
今はまだ未定ですが。。。

その時もきっとひっそりと書いていくと思います。ご縁がありましたら
またお目にかかるのを楽しみにしております。それでは。。。
さようなら。。。
そしてどうか、お元気でいてください。。。。。

今まで私を励まし、共に悲しみ歩んで下さった読者の皆さま、
素晴らしい友人達と家族に心から感謝を捧げます。

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おとめより

後記:この記事を書いてからだいぶたった後、8月に母親も天に
   召されました。
   そして紆余曲折の末、私は東京から地方へ引っ越すことに
   なりました。すべて、すべて導きによるものでした。
   皆さまありがとうございました。










posted by おとめ at 12:48 | Comment(17) | TrackBack(0) | あの世があると思いたい

死別の苦しみからの脱却「悟りなんていらない」

「本当の私は未来も過去もありません。一なるものは
永遠です。」(ダグラス・ハーディング)

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私がこの世に生まれて一番古い記憶は
朝目を覚まして横になったまま朝日に輝く「塵」をうっとり
眺めている自分です。

窓から差し込む光線の中に何億という塵がうごめいていました。

ただ不思議で驚きで見ていて、その時の驚きは
今でも鮮明に覚えています。

それは「塵」が「ゴミ」という「知識」をもたない私が
見ていたものでした。
それこそが「神」と繋がった「意識」であるとも
気づかずに。。。

幼い頃、私は亡くなった祖父や神様とずっと心の中で
話をするようになりました。

けれども思春期になってから、そんな事はすべて忘れて
しまいました。

他に楽しいことが沢山あったからです。

修行をしていたわけでもないし瞑想していたことも
ありませんでした。ただ成人式の前後に「禅」というものに
興味を持ち始めました。

けれども結婚して生活に追われると、そんな事よりまず
食べて行くことが先決でした

それがはるかな年月を経てまた同じように私にやってきました。
夫の死をきっかけに、さまざまな事を知りたいと思いました。
アドバイタ(非二元)やスピリチュアリズムに惹かれたのも
そのせいでした。

夫が亡くなって一年以上が経ったとき、ある早朝
親切で面倒見の良い友人のKさんが貸してくれた
アキアネ・カラマリックの画集をベッドで見ていました。

すると8歳の時彼女が描いたキリストの顔を見ていたら
いきなり涙があふれてきたんです。

自分でもどうしてかわかりませんでした。
それがアキアネの絵であろうと一厘の花であろうと
きっかけは多分どうでも良かったのだと思います。

ただ私は「真実」というものに久しぶりに触れたのでした。

そのまま立ち上がって隣の部屋へ行ったら
部屋のすべてが激変していました。

何もかもがが光り輝いていて、忙しくて片づける時間が
無いために散らかっていて、あれほど嫌でたまらなかった
部屋は、まるでこれ以上ないほど美しく見えました。
今まで知らなかったものを見ているようでした。

机は机では無く、パソコンはパソコンではなく
何か特別のものでした。
パソコンが神様になったようでした。

その時の私の見ているものは、あの幼い私が見ていた
「塵」と全く同じだったのです。

すべてがこのままで良かったんだ、という感覚。

何も変わらなくていい。すべてが「愛」そのものでした。
強い喜びが湧いてきてその気分はその後数日続きました。

私はその出来事が妙に気になりました。友達や家族にも
話しました。
そして当たり前のことですが、そのことを真剣に取り合って
くれる人はいませんでした。

でも出来事はこれで終わりではありませんでした。

ある日、読書をしていたら、突然「自分」が無くなりました。
本を支えている「誰か」は「私」ではありませんでした。
それは不思議な不思議な感覚でした。

自分が「見ているもの」そのものだけ、という感覚。

私は「自分」を探そうとしましたが、見つけたのは何も無い
「空間」だけでした。。。
それはなんだかとても恐ろしい体験でした。

孤独な探求がまた始まり、私は調べ抜きました。
そして私の経験した事があちこちに沢山書かれていることを
知って驚きました。

それは禅やアドバイタで言われる「一瞥体験」とか「小悟」
あるいは「見性」と言われるものでした。

「一瞥」というからには、ずっと続く体験ではなく
本当の悟りとは違うものだという事も知りました。

でも私は「悟り」なんてちっとも求めてはいませんでした。
霊界とつながることばかり考えていました。「一瞥!?」
そんなもの私には何の役にもたたないものでした。

世の中にはそれが欲しくてたまらない人がいるそうです。
私は何も欲しくありませんでした。

それなのに「それ」はふたたびやってきたのです。

三回忌が終わり、まだ絶望の淵にいた私はある日の夕方
重い足取りで芭蕉庵の横の急な「胸突き坂」を昇って
いました。行きつけの図書館に行くためです。

夫が闘病中だった頃、この坂を昇りながら
食事療法の本をひんぱんに借りに行きました。

階段を一段昇るたびに「治りますように、
治りますように。。。」と呪文のように繰り返した
坂道でした。

ずっと泣き暮らしていた私の心は疲れてがらんどうでした。
まるでからっぽだったのです。

久しく何の欲もありませんでした。あそこへ行きたいとか
将来こうしたいとか。。。何も何も私の心にはありませんでした。
物欲も無く、幸せを求める気持ちもとっくにありませんでした。

何の考えも起こりませんでした。いつもは夫の思い出を
反芻しながら目に涙をためて歩く道でした。
でもその時は過去も未来も心に浮かびませんでした。

楽になりたいと思うエネルギーさえ無く歩くのがやっと
だったのです。

夫の介護で背骨を骨折してから、背中が曲がってしまい
膝は傷み、おまけに難病もちのこの肉体を脱ぎ捨てたい、と
つくづく思いながら急な石段をいやいや昇っていました。

このあたりはうっそうと木が繁った都会の異次元です。

私は突然私の周りの木々が妙に自分に迫ってくるのを
感じていました。
実際は私が木々に近づいて歩いているのに向こうが私に向って
歩いていたのです。「あれ〜?」っと一瞬思いました。

帰り道、やはり重い本と重い体を引きずって一本道を
歩いていました。やがて思考が戻ってきました。
次々と起こる雑念を消そうと私は自分の足音にひたすら
耳をすませていました。

その時不思議な事が起こりました。

いつもは景色の中に自分がいるのに、それが無くなり
ただ「歩いていること」があり、それは他のものと同じ風景
でしかありませんでした。
自分と外界との距離が感じられませんでした。
周りを見るとすべてが光って生きていました。

うまく説明できませんが、木々が、花々が
いつもは見過ごしてしまうような汚い植木鉢の中の
枯れかけ植物さえもすべてが「何か」の特別な
エネルギーを吹き込まれたようでした。

というより汚いものほど輝いていました。

建物も道もすべてが違って見えました。
意識?に次々に色んな植物が入ってきました。

みんな喜びにそよいでいました。
「生きている」エネルギーそのものでした。
私はエネルギーそのものを見ていたのです。
もし肉眼でエネルギーが見えるとすればこれがそれでした。

これが「そのまま」という事がわかりました。

そこには悲しみは全くありませんでした。思考も無く何にも
ありませんでした。ただ喜びで「見ていること」だけが
ありました。何より「自分」がありませんでした。

それは霊媒さんから亡くなった人のメッセージを聞くより
もっと現実的で信頼できるものでした。

それ以来一滴の涙も出ない日が続きました。

さらに先にご紹介したラメッシの本の翻訳者である
高木悠鼓さん自身の著作の中でもっと詳しい道筋を
いただくことができました。

それについては長くなってしまうのですべてをご紹介
することができず残念です。

それは人間の魂の進化についてであり、「三段階」に
別れています。(「人をめぐる冒険」高木悠鼓著)

人がある段階にいて、それが苦痛になると
それは次の段階への導きであるそうです。その時に
「抵抗しないように」と高木さんは書いています。

私がいたのはその第二段階と第三段階のはざまだったのです。
それであれほど悩んでいたのでした。

高木さんの分類では第一段階は「動物意識」でこの意識で
生きている人間はたくさんいるそうです。

「動物意識」その特徴は:
☆死んだらすべてが終わりである。私は肉体である。
☆私は他者と競争する。
☆人にどう思われるかを気にする。
☆社会的地位を重視し、自分の味方をほしがる。
☆人と群れたり、団体に所属したがる
☆物質(お金)を重視する
などです。
(もっとたくさんありますが全部ここでは書けません)

第二段階は「人間意識」で、その特徴は:
☆私は肉体の中にいる
☆私は自分の意志を使える。責任がある。
☆私は他者と違うユニークな存在
☆輪廻転生があると信じる
☆現実は自分の思い通りになる。ポジティブ。
☆エネルギーを重視する
などなど。

そして第三段階は「神意識の段階」で:
☆私の中に肉体がある
☆神の意志だけがある。責任は無い。
☆すべての存在は一つの中にある
☆輪廻転生する存在はどこにもない
☆すべてあるがままで完璧である
☆覚醒を重視する
などなどです。

人はこの三つの段階を行ったり来たりして成長します。
ほとんどの人間は動物と人間と神の間をウロウロし、
それぞれの段階にいる人は、他の段階と反発
し合います。


第二段階にずっぽりはまっていた私が、突然
第三段階を覗き見て仰天し、苦しんだのも当然のこと
だったのです。。。。

つまり非二元が目指すものはスピリチュアリズムより
さらに上の領域だったのです。(上が優れているという
意味ではありません)

私はそうとは知らず非二元の世界と霊界を混同し
悩んでいたのでした。

けれどもスピリチュアリズムでいう「霊界」は
現実が幻であると同様に幻想でもあります。

それは人間の想念が作ったものです。

それでも尚人間がこの世を現実であると信じるように
あの世を信じる人間もいることでしょう。

私はアドバイタが好きですが、「悟り」には何の興味も
ありませんでした。

たとえ悟って至高の極みに入り、二度と
この世に生まれ変わる必要がなくなるとしても、
私には悟りより夫への愛が大事だったのです。

あと100回生まれ変わって人生を生き苦しむとしても
夫と共に苦しみたいのです。「悟り」なんかいりません。

死んだら喜んで夫のいる領域へ行き、そこで生きるでしょう。
夫が生まれ変わるなら私も一緒にそうするでしょう。

一枚のカーペットが「源」だとすれば、6億もの人間は
その模様のようなものであり、実体はなく、一つの源に
動かされているだけである、と非二元は言います。

それならば、人生やあの世がたとえ幻想であっても
私はカーペットの織地の二本の糸のように夫とよりそい
模様を作ってきたのだ、と夢見ていたかったのです。

たとえ人生や個人というものが非二元や禅にとってただの
「幻想」であっても。

私は嘆きの中でずっとそう思っていました。

私は「あの世」や「霊魂」や「霊界とのコンタクト」から
離れられないでいました。

それがさらに自分を苦しめる「執着」であるとも知らずに。
。。。。。

。。。。。

(つづく)
posted by おとめ at 12:02 | あの世があると思いたい

2015年06月17日

母と

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母親がこんな作品を作っていた。


折り紙のモチーフを空き箱に貼り付けただけだが


なんとなくインパクトがある。



伴侶と死別したものにとって


地獄の日々と言われる「ゴールデンウイーク」を


なんとか無事にやり過ごした私は


東京から遠く離れた九州に住む老母に会いに行った。



夫の葬式以来の再会だ。


しばらく見ないうちにまた年取った感じがした。



夫が片方の腎臓を摘出する手術を受けた時


運命のいたずらのように、ほぼ同じ時に


母は骨折して、命がけの手術をした。


私は見舞いにも行かれなかった。



そんな私を弟は非難した。


けれども私にとって夫から一日でも離れるのは


到底出来ない相談だった。



夫の看病をしながら、遠い母を思うのは


今思うとよくも耐えられた辛いことだった。


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母の背中は太い金属が入ってゴツゴツだった。


ほんの近所までしか外出できない。(;;



私は母のそばで一週間おしゃべりしたり


つとめて明るく料理したりしながら


母に習って自分も同じものを作ってみた。


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お線香の箱に折り紙のモザイクを貼って出来た宝石箱


白い部分は3束100円のメモ用紙



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こんなふうに組んでいく



なんだか母のそばで子供のように遊んでいると


とても癒された。


仕事も幸か不幸か(不幸に決まってるが)


否応無くもう半ばご隠居状態だから(笑)


久しぶりに何もかも放り出した。



母と私の夫はとても仲が良かった。


ちゃきちゃきの江戸っ子で美人だった母。


父を亡くしてさぞ辛かった事だろう。



母はミンボー人の先輩。


私よりずっと辛い経験をした人だ。



東京へ帰る日、母を思い切りハグした。


まるで枯れ木を抱いているようだった。


気丈な母が泣いていた。



秋には今度は妹と一緒に行くつもりだ。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m









posted by おとめ at 12:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | リフォーム&エコ暮らし

2015年06月09日

青空の舞

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シンコ・デ・マヨに行ってきた。

一周忌を終え、ゴールデンウイークを境に

このところやっと立ち直りの兆しが。。。

見えて来たかな〜。。。。と実感しています。

あくまでも「兆し」で、まだ毎日涙は出ますが。


そろそろ5月になるのか〜というある日

朝さえずる小鳥の声が変わったことに気づいた。

温かくなって違う種類がやってきたのだろう。

小鳥の声などずっと耳に入らなかったのに

これはすごい進歩だった。


それでも悲しみはなかなか癒えず

相変わらず家でぐずぐず、メソメソしていたら

シンコ・デ・マヨ(Cinco de Mayo)に行こうよ!

と元気印のPちゃんからのお誘い。


こんな時は引きこもりのミンボー人としては

「せっかくだけど。。。」と断るところですが、

大好きなPちゃんのお誘いだし

折りしもペルーへ旅立とうとしていた友人C子も誘って

3人で思い切って繰り出した。


シンコ・デ・マヨ(Cinco de Mayo)とは

スペイン語で5月5日のこと。あちらでも祭日だ。

要するにラテン文化のお祭り日かな〜?


去年も誘われたけど、代々木公園ではデング熱の騒ぎで

「おいしいペルー」のイベントへ行けなかったので

内心ほっとしていたのだが

(まだまだそんな状態ではなかった)

けれども今年は、それじゃ行ってみるかと。

なんとなくその気になれた。

またまたすごい進歩!


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屋台がずらりと並び久しぶりの人ごみに圧倒された。


メキシコ、ペルー、ブラジルなどラテン料理がいっぱい。

歩きながらお肉を頬張る人やアイスクリームをなめる人。

みんな元気だな〜と思いながらそぞろ歩き。


このイベントでの目玉の一つが民族舞踊のショーだった。

なかでも私の大好きなマリネーラが見たかった。

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ペルーのコンテストで一位をとったカップルも出場。

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ステージが終ってもペルーのブースの前では

マリネーラをふんだんに踊って魅せてくれた。

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子供のダンスも可愛い。

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みんなクラスで一生懸命練習したのだろう。


主人も大好きだったマリネーラ。

とても美しい踊りだ。

ハンカチをもってよく踊ってみせてくれた。


日本で習う人はまだまだ少ないが

男性はぴったりのスーツに帽子をかぶり

女性はコロニアル風の長いスカートで裸足

髪に花をつけ、実にかっこいい、美しい!


これからダンスを何か習いたい、という人には

超おすすめの穴場だ。

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じっと見ていたら青空の下 踊り子達から

とてつもない「愛」のエネルギーを感じて

涙が出てきた。


「舞」にはフシギな力があると思う。


人が舞うとき、そこに神様が降りる気がするのは

私だけだろうか。。。


一生懸命のマリネーラを見ながら

私は神様と、そして主人とつながっていた。


こんな美しい踊りを見せてくれる踊り子たちに

自然に愛を感じたから、踊り子たちも

私に愛を送ってくれたのだ。


人に愛を送れば愛を返される。。。

それに反して

人に妬み、うらみ、憎しみなどを送れば

それは強烈なエレメンタル(想念)となって

宇宙空間をかけめぐり、やがては自分に帰ってくる。


つまり人を妬めば妬まれる、憎めば憎まれる

愛すれば愛される。

とは尊敬するダスカロスの教え。


ここで言う「愛」とはあくまでも無私の愛で

普通の男女間や家族間の愛とは別のものだ。


そんなわけで。。。

いつのまにか癒されていた日だった。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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posted by おとめ at 12:26 | Comment(6) | TrackBack(0) | 今日の幸せ

2015年05月24日

ゴールデンウィークの涙


散った八重桜

地方に嫁いでいる妹が送ってくれた。


この散った花びらの数と

今まで私が毎日流した涙の数と

どっちが多いかな〜なんて考えた。


最近グリーフケアの会に入会して

同じように伴侶を失った人たちと交流している。


みんな口々に「ゴールデンウイークが辛い」

「どうやって乗り切ろうか」と言っていた。


電車の中でカップル、特に長生きの老夫婦を見ると

すごくむかつく、という人さえいた。


その気持ちはよ〜くわかる。


私も夫と共に水入らずでこんな桜を見られる妹が

羨ましくないといったらウソになる。

でも。。。嫉妬するのは間違いだ、

と私の理性が言う。


私だって夫と水入らずで桜を何度も見た。

何度も、何度も。

その時は命が、時が永遠に思えた。

まさか別れがこんなに早く来るとは思わなかった。


夫がガンになってさえ、相当あぶなくなってからも

夫は死なず、必ず治ると信じていた。

どこまでもノーテンキな私だった。


だから妹にはわかってほしい。

この美しい瞬間が この水入らずの時が

いつか八重桜のようにはかなく散るということを。


愛がある限り二人で過ごすその一瞬一瞬が

どれほどかけがえの無いものか

私より早く気づいてくれるといいな〜

と思った。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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今更ゴールデンウイークの出来事なんて間が抜けてますが。。。

文章をちゃんとまとめる気力がまだ十分無いため

アップするのが大幅に遅れています。申し訳ありません。



posted by おとめ at 21:14 | Comment(4) | TrackBack(0) | 心にもお薬を

2015年04月04日

ヒヤシンス

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今年はヒヤシンスでお花見


家中がヒヤシンスの香りで一杯になった。

ほんとうに市販の芳香剤が

いかに人工的かわかる(使ってるけど)


天国の花園にいるような香り。。。

目を閉じると 夫と手をつないで

秘密の花園を散歩しているようだ。


近所のSさんがお花見に行こうよと

誘ってくれたけどどうしても行かれなかった。


最後の入院の時 もう歩けなくなっていた夫を

ようやくタクシーにのせ

その時窓から見た散り始めの桜。。。


夫は苦しそうに息をしていた。

桜を見るどころではなかった。

あんなにお花見が好きだった夫が。


それなのに私は

「とうとう最後のお花見できなかったな〜」

なんて自分の事ばかり考えていた。


あの時の絶望的な気持ちと

自分を責める気持ちが

桜を見るとよみがえってきてしまう。


せっかくヒヤシンスの天国にいるのだから。


だから丁重にお断りした。

Sさんは快くわかってくれた。

「あら、じゃあこんど〇〇でカレーでも食べようね」


嬉しかった。


人恋しくて人に会いたくて仕方ないのに

どうしても行かれなかったお花見。


きっともう一生お花見はできないと思う。

。。。。。。。。。。。。。。。。
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posted by おとめ at 13:28 | Comment(8) | TrackBack(0) | 今日の幸せ

2015年03月27日

ミンボー人風トースト

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ほんの束の間幸せにしてくれるミンボー風トースト


「芸が無いからゲイノージン」

はその辺でアラ稼ぎしてますが。。。


金が無いからビンボー人

夫を亡くしてミボー人

両方ないからミンボー人!

てなわけで 

なんとか失われた食欲を回復するべく七転八倒の毎日

それに追い討ちをかける経済的困窮。。。


厚生年金だった方々は寡婦年金になり

生活のレベルを下げざるを得ず

うちのように夫に年金がなく

国民年金も満額ではない状況では

いくらノー天気な私でも腹をくくります。

死ぬまで働けミンボー人!


幸か不幸かミンボー人には食欲がありません。

したがって食費は大幅に減りますが(笑)

だがしかし 食べずに病気になってしまっては大変。


スズメの涙の年金からさえ介護保険がさっぴかれ

難病患者からも医療費をふんだくる

とんでもない世の中となっています。


そこで死なない程度にはなんとしてでも

なんとしてでも食べなければなりません。


一晩中泣いて腫れあがった目をこすりながらやっと起き

さて何か食べなくちゃ。。。と思う辛さ。


ミンボー人の朝食の最大の助っ人は

8枚100円もしないただの食パン。しかし!

これをトーストしてもミンボー人にはまず食べられません。

もさもさ、ボソボソは可哀想なミンボー人にはご法度。


そこで!

思い切り散財して 清水の舞台から飛び降りて

やっと買った198円の絞ればOKのホイップクリーム。

こいつがものをいいます。


トーストして安物のマーマレードを塗ったパンに

スライスしたバナナと共にトッピングすれば

どこぞのカフェにいるんじゃないかと思うような

素敵な朝ごはんの出来上がり。


イヤイヤ食べながら必死で考える。。。


傷心の私は今 真っ青な地中海の海を臨む

可愛らしいホテルのカフェにいるのだ、

そうだ!そうに違いない。。。


目の前の築34年のオンボロマンションは

白亜の石でできた建造物だ。

あああ。。。潮風がバルコンから吹きよせ

そばには優しい夫の魂がよりそって肩を抱いている。。。


幼い頃からの空想癖が変なところで役にたつ。

地中海なら食欲も少しは出るってもん。


バリエーションとしてはこんなのも:

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これは普段のソン〇ンの安マーマレードの代わりに

ちょっと小金が入った時に買う〇ヲハタのアプリコットジャムで。

ゴロゴロ丸ごとアプリコットが入っていてお気に入り。


そして何かの記念日とか 宝くじが300円当たったとか

自分に何かごほうびあげたいとか

そんな日には 大切に買い置きしておいたこれを使います↓

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ペルーのマンハール(キャラメルクリーム)

ペルー料理の食材屋に売ってますがけっこう高い。

だから一年に何回かしか買えないけど

ミルクの風味が濃くてなんともいえないおいしさ。

ペルーでは日本のあんこのように色んなお菓子に使います。

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こいつをこんがりとトーストしたパンにたっぷり塗って

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大胆にも苺とバナナをトッピング

激安の八百屋で250円で買った苺は

冷蔵庫に保管して2,3粒づつ

大切に大切に食べます。

(写真のは見栄はって5粒も使っちゃった。

どうしよう、今晩眠れないよ〜〜〜)

( ̄□||||!!
。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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posted by おとめ at 12:29 | Comment(4) | TrackBack(0) | ミンボー人の食卓

2015年03月25日

見えないもの

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何も見えなかったところからヒヤシンスの蕾が。。。春だね〜♪


星とたんぽぽ(金子みずず)


青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。


ちってすがれたたんぽぽの、

かわらのすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ


。。。。。。。。。。。。。。

人はどうして見えないものを怖がるのだろう

どうして見えなければ信じないのだろう


見えないものを語るとき

どうして世間を気にするのだろう


そこにあるかも知れないのに

特殊ガラスでできた鏡のように

あちらからは見えているかも知れないのに


巷にあふれる携帯電波やWIFI, TVのアンテナ。。。


見えない電波をこれだけ信用しているのに

どうして見えない世界を信じられないのか。。。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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posted by おとめ at 12:05 | Comment(7) | TrackBack(0) | あの世があると思いたい

2015年03月07日

久しぶりのおでん

このところ少々寒かったのでおでんを煮込んだ

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昔おばあちゃんと一緒におでん種を買いにいったのを思い出しながら。

あの頃おでんはたまのごちそうだった。

商店街の大きな練り物専門店へ二人で繰り出し

おばあちゃんはフンパツして色んな具を私に選ばせてくれた。


私が大好きだったのは金魚の形をした練り物で

紅生姜がたくさん入っていた。

おばあちゃんは自分はちくわぶとかつみれとか

安いものばかりを選んで採算をとっていた(笑)


買出しは必ず午前中に行く。

どんなに遅くても3時までに煮はじめないと

夕食には間に合わない。


そういえばどこかの偉い学者が昔

「ちくわぶは江戸っ子の食べ物で

あれはカラシを味わうためにある」

なんて書いてたっけ。


私もカラシをたっぷりつけるのが好きだ。

でもちくわぶだけは嫌い。


おでんは決して煮立たせてはいけない。

トロトロの火でゆっくりゆっくり煮込む。

お鍋一杯作らないとおいしくない。

残ったら次の日はもっともっとおいしくなる。

残り汁はひじきやおからを煮たりしてムダが無い。


いっぱいできた。。。

はんぺん、コンブ、こんにゃく、いか巻き、焼き豆腐に牛筋。。。

それに「ばくだん!」(玉子)

買うとけっこう高い、もち巾着も作ったよ。

関西ではおでんを「関東煮」って言うんだっけ。

案外楽しくお料理できた。


でも。。。。。

そういえば。。。。。

夫はおでんが嫌いだった。

だから私はおでんが食べたい!と思っても

いつもフランス風のポトフとかにしていた。


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夫のいない今私は好きなだけおでんが食べられる。

さあ、積年の恨みをはらす時(笑)


それなのにどうしてあまり食べられないんだろう。

もっともっと食べればいいのに。。。


無理に口に入れたらおつゆに涙がポトっと落ちた。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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posted by おとめ at 19:10 | Comment(4) | TrackBack(0) | ミンボー人の食卓

2014年11月01日

知りたい

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10月に読んだ本いろいろです。
シュタイナーがほとんどだけどそろそろ食傷気味(^^;
あとはクリシュナムルティはじめました。


主人が亡くなって200日以上がたった。

号泣の儀式は毎日欠かさず行っている(笑)

もう涙腺がどうにかなっているかも知れない。


明け方の3時に目が覚めて、眠れなくなると本を読む。

なるべく退屈で難しいシュタイナーをww


そうすればそのうちに眠れるから。

へんな睡眠薬や安定剤などよりよほど良い。

三日間つづけて同じページで寝てしまったことも(笑)


悲しみを乗り越えようとは思わない。

自分が楽になろうとも思わない。


主人がした苦しみを思ったら

自分が癒されようなんてこれっぽちも思わないし

自分の幸せなんてちっとも望まない。


「ヒーリング」「癒し」「今ここ」

全部私には何の意味も無い。


ましてポジティヴシンキングなんて。

無理にポジテイヴになることの弊害は計り知れない。


なすがまま。

あるがまま。。。


亡くなった〇〇の分まで長生きしたい

なんていう人も信じられない。


悲しいものは悲しい。。。

この気持ちを誰かにわかってもらおうとも思わない。

本当のところはわかってもらえる筈が無いし

家族にもわからないだろう。


けれども優しい言葉をかけてくれる人達には

感謝で一杯だ。


慰める事がどんなに難しいことなのかは

私もずっと以前に経験済みだから。。。


私の為に時間をくれてありがとう。

わかってくれなくてもいいんだよ。

みんな優しい言葉をたくさんありがとう!


ただ私は知りたい。

知りたくてたまらない。


あなたがどこに居るのか

今どうしているのか。


どうやったらまた会えるのか。

亡くなったあなたの魂の幸せの為に

私は今どうするべきなのか。


知ろうとすることだけで生きている。

そして今日も本を読むことしかできないでいる。

そういえば。。。


あなたが亡くなった桜の季節から

今はもう読書の秋になったんだね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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posted by おとめ at 20:20 | Comment(22) | TrackBack(0) | 読んだ本の感想

2014年10月31日

諸刃の剣

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10月に図書館で借りた本


読んでも読んでも興味は尽きる事が無く

この世にある書物は無限だ。


その中からこれだ!と思うのを見つけるのは

本当にむずかしい。


特に欧米発の啓発本やスピ本などはかなりアブナイと思う。

チャネリングとかチベットに行ったとか天使とか。。。

とにかくお手軽で、すぐに癒してくれようとする。


金髪で青い目で羽のはえた天使のイメージで

スピ・ビジネスをしている人も多い。

(何故金髪なのか?ギモンで仕方がない)


人気のあるドリーン・バーチューもそうだ。

この人、かなり商売人だと思う。

ミディアムとしては本物かも知れないけれど

セッション受けた事は無いので。。。(笑)


この人のコースで勉強するといわゆるミディアムとしての

「資格」が認定されるらしい。

だけどミディアムってそんなに手軽なものなの?

ウッソ〜〜〜って感じ。


同じ商売人でもアリソンデュボアやヴァン・プラグなどは

もっと好感がもてるけれど。

最初は全くお金をとらなかったというゴードン・スミスは

もっとずっと好きだけれど。


でも、なんで、よりによってみんながみんなの守護例が

古代インディアンとかうさんくさい中国人のおっさんなの?

理由を知っている方がいたら教えてほしいのですが。


アメリカ発のものでいわゆる「引き寄せ」というのがある。

あれは唯物主義のなにものでもないんじゃない?


それを霊魂とかスピリットと一緒にするからにくらしい。


宇宙さんにお願いしてなんでも好きなものがもらえる

なんていう本が図書館で予約一杯なので

読んでみたらトンデモ本だった。


もうちょっとではまりそうになった「奇跡のコース」

これもかなりウサンクサイと感じるようになった。

目が覚めた。

くわばら、くわばら。


その意味でシュタイナーもかなり読み込んできて

どうやら諸刃の剣らしいことがわかってきた。


たとえばシュタイナーは「批判すること」を禁じているが

批判精神なしに本を濫読するのはとても危険だ。

人間関係を潤滑にするには特効薬だけれど。


またけっこう人種差別的なところもあるのよね。

シュタイナーさんて。


というわけであっちこっちつまずき歩く私でした〜

。。。。。。。。。。。。。。。。

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posted by おとめ at 14:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本の感想

2014年10月17日

やっと八百屋で買い物できた。

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真っ赤なトマト250円!今年の食べ収めだね。



夫と結婚して以来30年以上住み続けたこの町に

たった一軒、今も変わらず営業している

激安の八百屋がある。


夫婦二人で働いていたので、

夕方は忙しく、とりあえず私が先に買い物へ。


スーパーを回って、荷物が一杯になった頃

この激安八百屋で私が品定めしていると

一仕事終えた夫が必ず来てくれた。


特にこの十年ほどは難病もちの私を気遣って

荷物を持とうと八百屋の店先でじっと待っていた主人。


その姿が忘れられずずっとこの八百屋へは行かれなかった。

同様にしてSスーパーへも。


葬儀のあと妹がしばらくいてくれた時は

普通に行かれたはずだったが。。。

妹が帰ってしまった後はまるでダメだったのだ。


店の前でじっと待っていたのは

主人はまるで料理のことはわからず

一緒に買い物するとかえって私が混乱するだろう、と

そこまで考えてくれていたためだった。


その点では私はとてもめぐまれていたと思う。

なまじっか料理ができたり、味にうるさい夫だと

一緒に買い物するのはさぞかし大変だろう。


この八百屋には鬼瓦のような顔をした

面白いおじさんがいて、夫はその人のことを

「フランキー」とあだ名をつけていた。


フランケンシュタインのことだ(笑)

もちろん親しみがこもっていた。


閉店まぎわに行くと

「おねえさん、ニラ5束100円でいいよ」とか


「お母さん、もう持っててよ。200円!」

と大きなスイカを指差したり。。。


その時々でおねえさんとかお母さんとか呼ばれて

ちょっと複雑な気分なのだが。。。(笑)


夫亡き後、半年にしてやっと思い切って

この八百屋へ行った。


フランキーは相変わらずだった。
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青ねぎ三束100円!


久しぶりに青物食べた〜。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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posted by おとめ at 19:59 | Comment(6) | TrackBack(0) | 今日の幸せ

2014年10月15日

赤い糸

台風がきて爽やかになったのも束の間

今日はわびしい秋雨の日


ただぼんやりとしているのも惨めなので

ご無沙汰している作品作りにとりかかった。

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ずっとやる気が起きなかったが

(てか、必死に働かなきゃいけない状態なのに。)



お金にならない小物はずっとやらなかったが

やはり本当に作りたいものはこうしたものだ。


不思議なもので無心に針を動かしていると

とても心が安らぐ。


時折かつてを思い出して涙が流れるが

できあがる楽しみに引かれて作るうちに

可愛い巾着ができた。


モノを作ったり、何か好きなことに没頭していると

アルファ波が出て一種の瞑想状態になるそうだ。


TVを見ながらとか、ではなく

真に没頭する。


周りの音が聞こえなくなる状態。。。というのか。


この状態を経験するとやみつきになる。


物づくりをする人はみんなわかっていると思う。


編み物や絵を描いたり、瞑想はもちろん

ガーデニングや工作など、とにかく没頭できるもの。


ジグソーパズルなんかもいいかもね。

サッカーや野球などのスポーツ観戦


あるいはひょっとしたらパチンコもそうじゃないかな。


私も夫もやったことないけど。


あれも周りの音とか聞こえなくなりそう。

じゃなかったらあんなやかましいところに

何時間もいられないと思う。


何かに集中する事。。。


悲しみを束の間遠ざけてくれる。


それにしても


赤い糸。。。いまどこにあるのだろう。

私たちの赤い糸は。。。


この世にあって伴侶が見つからない人は

あの世で片方が見守っている場合があるそうだ。


前世では夫婦であったが

「あなたはもう十分勉強したからね。

私はまだまだだから今度は私だけ生まれて

いっちょ修行してくるよ。

あなたはゆっくり休んでて」

てな具合らしい。


あの世に電話でもできたらいいのに。


そしたら「私たちの赤い糸はどうなったの?」

て聞けるのに。


そんなとりとめの無い事を考えた一日だった。

夫がほほえんでる気がした。


作品のできあがりをご覧になりたい方はこちらへどうぞ。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m



posted by おとめ at 17:10 | Comment(2) | TrackBack(0) | 今日の幸せ

2014年10月13日

死なんてない、一つがすべて

雲黒斎「もっとあの世に聞いた、この世の仕組み」

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60年代に大ヒットした医師ものドラマがあった。

「ベン・ケーシー!」というかっこいい英語の声と共に

病院の廊下をストレッチャーが全速で走っていく。

ベンケーシーの濃い顔が覗き込む。。。場面が変わって

鉄腕アトムに出てくる御茶ノ水博士が

三日くらい断食したみたいな風貌の

ゾーバー先生の手で黒板に記号が描かれる。。。


♂ 男



♀ 女



* オネエ。。。じゃない、誕生



+ 死



∞ 永遠




あの印象的なシーンを覚えている方は

多分そろそろコーレイシャと呼ばれる年頃だろう。

「交霊者」じゃないよ(笑)


主人公ベンケーシーの美形にうちの母親はうっとりしていた。

顔にポンズのコールドクリームを塗りながら。


中学生だった私は最後の ∞ (永遠)がとても気になった。

そして半世紀後の今も気になっている。


最近そんな私に大いなるヒントをくれる本に出会った。

「もっとあの世に聞いた、この世の仕組み」

始めに刊行された「あの世に聞いた、この世の仕組み」の

続編本だが、私にはこちらの方がダントツに面白かった。


雲黒斎(ウンコクサイ)というかぐわしいペンネームの作者は

多分私の半分くらいのお年だと思うが、かつてはうつ病で

かなり苦労されたらしい。


その後守護霊の雲さんが著者である黒斎さんに乗り移って

真実を語りだしたのだという。


眉にツバをつけながら「どれどれ。。。」と読んでみると。。。


もう、あーた!

これがぐいぐい引き込まれてあっという間に終わり。

独特のユーモアセンスがあって読みやすいのだが

書いてあることは深遠きわまりなく、何度も読み返した。


何回読んでもスルメを噛んでるみたいに味わい深い。

「死は存在しない」「僕たちは死なない」というか「死ねない」

「一人一人の命が存在するというのは幻想で、命とは

ただ一つのものであり、人はみなその一つの命を共有している。」

というのが本全体の大きなテーマだ。


生命とは「生まれる」のではなく「元からあるもの」

「生まれるのではないから死ぬ事もない」というワケ。

これを図に描いたものが載っている↓

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図1
一つの全体的な「命」(または「意識」「神」と言ってもいい)を

大きな風船になぞらえてわかりやすく説明している。


この風船は非常に丈夫で割れる事がない

それをつまんで中から空気をいれると

小さなふくらみができる、これがいわゆる「誕生」だ。


つまみたての赤ちゃんはまだ大きな風船の記憶を持っている。

だから新しい意識が誕生したわけではなく意識は元の

大きな風船の意識が入っている。(図1)


このふくらみがたくさんできると人口の増加となる。

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図2


しかしこのつまみを捻ると元の意識や記憶からは閉ざされる。

そして自分だけの意識をもつようになる。(図2)

生後の学習や経験で捻れがどんどん強くなる。

それが「自我」だ。捻れの状態は「カルマ」と呼ばれる。


「カルマ」については今は難しすぎるので詳しく書けないが

大風船の中に入っていた神の記憶のデータから

分離されて、個々人としての意識を持ってしまうことらしい。


この捻れを元に戻す事が「カルマの解消」つまり

俗に言う「さとり」で、自我が無くなり

大風船(神)の意識と一つになることだ。


そして死とはこのふくらみがしぼんで再び大風船に吸収され

元の風船内の空気と合体することらしい。(図3)


そしてこのとき個人のもっていた記憶やデータは

そのまま大風船に吸収され、蓄積される。

それをシュタイナー風に言うと「アカシックレコード」と呼ぶ。


ただふくらみが無くなっただけで

元の風船自体は存在し続けるから

「死」はありえない。とこうなる。

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図3

それが「般若心経」でいうところの「不生不滅」だという。


ここまで読んで「まてよ?」とひらめいた。

この理論何かにそっくりだったのだ。


そうだ!今必死に取り組んでいる

「奇跡のコース」そのものじゃないか。


あのブロック塀のブロックを引っぺがしたような

恐ろしく分厚い教則本。アマゾンでも売っている。

おまけに三冊組ものとなっている。

読者をして百科事典のセールスマンになった気にさせる本。


シュタイナーの全著作の読破というそら恐ろしい計画と共に

私は今何とかこれをモノにしようとあがいているのだ。


別にカテゴリを組んでブログでも書いていこうと思っている。


「この世のすべては幻想」(あーたも私も机も椅子も

大好きなイクラのお寿司も、きのこの山もすっぱムーチョも。。。)

「自我を捨て精霊(神)と一体になる」

「エゴ(つまり自我)を捨てる」などなど。。。


のっけからちんぷんかんぷんだった「奇跡のコース」

その意味がなんとなく雲黒斎さんのおかげで

うっすらとだがわかってきた。


だがあれは「仏教」では無く「キリストの言葉」だった筈だ。

宗教なんかでは決して無いけれども。。。


そうか!真実はつながっていたのだ。


いいぞ、いいぞ幸先いいぞ!

すべてはつながっているのだ。


風船捻っただけだから、そのうち私もしぼんで

風船の中で待ってる夫に会えるのだ。


あなたも私も、彼も彼女も

元は一つの大風船の中にいたのだ。


この捻れを解消する事、つまり

自我をなんとかして取り除く事で

この世の人の心の壁(わかりあえないという状態)

が取り除かれ、生き易くなる、と黒斎さんは言う。


それはつまり奇跡のコースでいうところの「分離の消失」

または「ワンネス」とも言うそうだ。

風船の中の意識とつながることだ。


そしてそれが広がっていく事で社会システムも変わり

より愛に満ちたものになるという。

それがLTE。。。Love(愛)、Thanks(感謝)、Enjoy(楽しむ)

の時代で、これについてはあとで書こうと思っているけれど

素晴らしいことには間違いない。


自我を取り除くには恐れ、不満、不安、不信感、怒り

傲慢、罪悪感、劣等感、差別、軽蔑を手放せばいいそうだ。


これはシュタイナーが霊能力を開発するための著書

「いかにして高次の世界を認識するか」の中で

同じような事を述べている。


シュタイナー風に言うと怒りや不機嫌のほかに、臆病な心、迷信

偏見、虚栄心、名誉欲、好奇心、無駄なおしゃべり、性差別など

これらを取り除く事によって、すべての人が本来もっている

霊的能力を目覚めさせる事ができるという。


と言っても一筋縄にはいかないよね、こんなこと。


でも何だかウンコクサイさんの追っかけになっちゃった。

ブログにいりびたっている。

フンコロガシになりそうな自分が怖い〜

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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posted by おとめ at 11:12 | Comment(2) | TrackBack(0) | 読んだ本の感想

2014年10月11日

悲しみを少しでも軽く。。。

乃木坂駅前のペルー料理屋「NAZCA]にて
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夫が亡くなって早くも半年がたった。

恥ずかしながらまだ毎日涙が出る。とてもじゃないが

ウキウキと外出する気分にはなれない。

もともと極端な出不精の私。


そんな私を孤独な毎日からさんさんと日の輝く外へと

引っ張り出してくれる友人は貴重だ。

引きずり出された私はオロオロとして

陽に急に当たったモグラのように緊張する。

けれども一旦外へ出てみるとけっこう気分は良くなる。


先日はCさん、Sさん、Dさんと一緒に

上の写真のようなものをいただいた。

代々木公園の時の恨みを見事にはらしたってワケ。

炭火焼の鶏丸焼きは今回はなかったけど。


下町育ちには「乃木坂」なんて恐れ多い場所は

めったに、というか足を踏み入れたのは始めて。

でも乃木坂散歩なんてするヒマがないくらい

この店は駅のすぐ近くにある。


ペルー風の炊き込みご飯(アロス・コン・ポーリョ)や

レモン味の利いた魚介のマリネ(セビーチェ)

牛肉とじゃがいものトマト炒め(ロモ・サルタード)

どれもこれもおいしかった。


ここのお店は日系人の方がやっているせいか

お箸を出してくれる。それがとてもいい。


あたりさわりの無い話で楽しくランチした。

みんなの思いやりが感じられた。


Cさんはニューヨークにマンションを所有するほどの

真のキャリアウーマン、独身。夫の翻訳仲間でもあった。

Sさんは娘さん、お孫さんがいる可愛いおばあちゃん。

Dさんは大病を克服して長い事OLをしている。

立場はそれぞれ全く違う。


私は皆の話に耳を傾け

Sさんの娘さんの結婚式の写真を見たり

Dさんの脳腫瘍が見事に全快した話や

Cさんが今没頭しているという沖縄の研究

などなどの話題に集中した。

久しぶりに笑いもした。


なんだかだんだん悲しみが遠のいて

この座に私を置いてくれた皆への

感謝の気持ちで一杯になった。


みんなそれぞれが人生の修羅場を乗り越えて

ここに集っている事の素晴らしさ。

どんなに幸せそうに見えても 人は誰でも

心に不安や悲しみ、辛さをかかえているのは同じ。

それを上手に処理しながら生きている人を見るのは心地よい。


心の苦しみや悲しみをうまく発散しないままでいれば

心の病気になるが、それを治す妙薬の一つが

「感謝」の気持ちだ。

ともすれば忘れがちな「感謝」の思い。


感謝の気持ちが満ちてくると

不思議に不安や苦しみや悲しみは遠ざかる。

感謝は愛を生むからだ。

愛のあるところには不安も孤独も無い。

ただ平安があるだけだ。


夫は亡くなったが、夫への愛や感謝の念は

日々大きくなっている。

「普通のことができればいいんだ」とよく言ってた夫。

歩く事も、食べる事も、声さえ出なくなった時

夫はそのことを身をもって悟った。そして人生を卒業した。


パパ、本当の事を教えてくれてありがとう。

幸せとは、新しい服や靴を買ったり、旅行に行く事や、

家や車やお金じゃない。

一時的な慰めはあるかもしれないが、本当の幸せじゃない。


普通に歩けて、食べられて、人と話すことができること。

それこそが幸せ。

家族がいることや、人を愛する事ができること、なんだね。


デザートのピカローネス(かぼちゃのドーナツ)
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ペルーの露店で食べる味にはかなわないけれど

miel(糖蜜)のかかった味はなかなかだった。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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posted by おとめ at 10:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 今日の幸せ

2014年09月17日

美味しい、嬉しい、寂しい

友人のCさんが誘ってくれた代々木公園の美味しいペルー

Pちゃんと3人で行く筈がデング熱の騒ぎであえなく中止。

楽しみにしていた炭火焼の鶏丸焼きが夢の彼方へ。。。トホ。


その後Pちゃんは単身NYへと旅立ち

連休をどう過ごそうかと一人悶々としていた私。

すると甥っ子がひょい、と遊びに来てくれた。

地方で一人暮らしだが、東京で会社の研修があり

残りの貴重な休日を私と過ごす事にしてくれたのだ。


久しぶりに会ったら、なんだかまた痩せたようだ。

身長が180cmはラクラク超えるので

余分な肉のついていない体がなんだか痛々しく

栄養をつけてあげたくなった。

まだどこか幼い頃の面影が残る顔に

イチローのようなヒゲを生意気にたくわえている。


泊まった次の日の朝は味噌汁と炊きたてご飯の朝食。

きっとこういうのにあぶれているだろうと思ったら図星だった。


お昼には先日一人で行って美味しかったラーメン屋へ
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ここは阿波のラーメンと玉子かけごはんが売り物だ。

店内を入るとすぐ目につくのがこれ↓
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私くらいの年令には懐かしい少年少女雑誌の色々

前の壁にはこんなものが
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時刻表と駅名


出てきたラーメンは
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とろみのあるスープがとっても濃くて美味しい。

ほど良い量のモヤシと煮込んだ豚肉、たっぷりのメンマ。

阿波ではこれをおかずにご飯を食べるらしい。

店内にずっと流れている阿波踊りのメロデイ(笑)


食べながら後ろを見てまたびっくり
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ここにも昭和30年代が。

「ヘビ少女」!夢中で読んだっけ。15才の自分がよみがえる。

帰りにスーパーへ寄った。

歩けなくなった主人の介護ですっかり腰を痛めて以来

重いものを持つのが苦痛だった私。

たくましい助っ人がいる今、これ幸いとばかり、

いつもは2kgの米を5kg買った。


夜は飯田橋のタパス(つまみ)が食べられるスペインバルへ。

ここはガリシア料理が専門だ。

目指すはガリシア風の蛸料理
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これは義弟のホルヘが一押しの料理。

ホルヘはガリシア出身なのだ。

食べてみると期待していた味とはちょっと違った。

美味しいけれどニンニクを使っていないのが私にはいまいち。

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空太の顔が洗えそうなワイングラス。

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マッシュルームの詰め物。

これは美味しかった〜。

ソースもバゲットにつけて平らげた。

その他ガンバス(海老)、オリーブ、チョリソー。。。

どれもこれも久しぶりに「味わった」気がした。

甥っ子は元々少食だが、飲むとますます食べない。

典型的な「のん兵衛」だ。酒に強いこと。


タパスをつまみながら色々語り合った。

日本では甥っ子はこの子と兄の二人がおり、

主人はこの子たちをとても可愛がっていた。

ワイン好きだった亡き夫。。。絶対そばにいた筈だ。


仕事、政治、経済、思い出、ミディアムさんのことまで

何を話しても同い年のように通じる。

主人が見抜いていた通り、20代の若者にしては

思慮深く、世の中を知っているのかも知れない。


普段はノリの良い兄と違って寡黙な子だが、

私や主人とは良く話してくれて嬉しかったものだ。

父母には話せない事でも、伯父や伯母、祖父や祖母などには

フランクに何でも話せるという子はけっこういるものだ

と夫は生前よく言っていた。


休みがとれると、あてもなく全国一人旅をするのが

唯一の楽しみらしい。阿波ラーメンも経験済だった。

うまく神経の調整をしているようだ。


厳しい日本の産業や経済情況から

なかなか将来に希望のもてない若いサラリーマンたち。

昭和30年代とは大違いの平成26年のある初秋の日。

疲れた体と心とささやかな希望をひきずりながら

私を訪ねてくれた甥っ子。。。


二晩泊まって帰っていった。

寂しさと悲しさがふたたび襲ってきた。。。

けれども。。。。


何かがエネルギーとなって私の中ではじけた。

ありがとう。

おばちゃんはきっと大丈夫だよ。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(_)m






posted by おとめ at 08:41 | Comment(8) | TrackBack(0) | 今日の幸せ

2014年07月23日

一人ぽっちの誕生日。。。の筈が

先日は私の誕生日だった。
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いつもは夫がバラの花束とスプマンティと

ケーキをもってきてくれる筈だった。

今年は何も無い。

どうやって過ごそうかな〜と思っていたら

思いがけずPちゃんからのお誘い。

築地の友達が経営する日本料理屋に

アポしてくれたとの事。

お言葉に甘えてごちそうになった。


席について地ビールの小瓶をたのんだ。

なにげなく前菜が出てきた。あ〜和食はいいな〜

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和食の特徴。。。少しづつ盛られているから
食欲無くてもす〜〜っとノドを通ってくれる。


Pちゃんは私にとってかけがえの無い存在。

年は私の娘ぐらい。

でもその知性、優しさ、物事に対するこだわりの無さ

差別意識の無さ、友達の多さ、インターナショナルで

英語ペラペラ おまけに美人。

すべて天下一品だ。

人の心を診る天才。


〜〜〜この間にあなごの天ぷらでました〜〜〜

美味しくて撮影不能(笑)

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お刺身はなんと東京湾でとれた

正真正銘の江戸前

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しめは鯖の押し寿司と味噌汁

もう未亡人とは思えない飲みっぷりと食べっぷり。

Pちゃんには感謝してもし切れない。


それからそれから。。。。書いていいのかどうか。。。

誕生日前後に現れた色々なサインや

夫からのプレゼントが続々だったんだけど

もうあの世があるとしか思えない出来事が続々。。。

それについてはブログで書いていいものかどうか

今のところはわからない。


一つだけわかったこと。

それは30年以上も私に誕生日の薔薇をくれたあの夫が

この特別な日に私を一人ぼっちにする筈がない!

という事が今更ながらわかった事。


皆様のおかげで救われております。

心からの感謝の念を送ります。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございました。
m(__)m
posted by おとめ at 21:09 | Comment(8) | TrackBack(0) | 今日の幸せ

2014年07月08日

読んだ本のリストについて

<読んだ本のリストについて>

以前から読書は好きですが、夫亡き後

それこそ飛ぶ鳥を落とす勢いで

本を読んでいます(笑)


それというのも何と言っても

読書は癒しであり慰めですし

自分自身の固い殻にばかり閉じこもり

外界が見えなくなるのを防いでくれます。

そして誰にも相談できない事でも

いつの間にか答えをくれたりします。


もう年ですし、残された時間はあまり無く、

また生活に追われるミンボー人には

感想など書く時間はあまりありません。

それで読んだ本の整理も兼ねて

以下のような形でリストへ加え

記録することにしました。


これは時間があるときに行い、

感想が書ければカテゴリの

「読んだ本の感想」へ加えます。

この作業をすることは今の私には

癒しにもなるし、何と言っても

自分を見つめる事にもなるでしょう。


自宅はこれ以上本を置くような

小じゃれたスペースが無いため、

図書館で借りる事も多いです。

(ホントはお金が無いだけなんだけどね)

なので年と共に「ほら、あれ、あの本。。。

なんだけっけええええ〜と。

もう一回借りたいな。チョー面白かったじゃん。

著者はえ〜とおおおお」なんてな事に

ならないようにする為もあります(笑)


多分すべての読んだ本をリストに載せるのは

超カメペースになるのは間違いない

と思いますが、そこはのんびりと。。。

また私と同様に死別や、あるいは

何かのきっかけで

今後の人生の真の幸せのために、

また何かを見つけるために

勉強をされる方にとって

ほんのちょっぴりでも私の読んだ本が

参考になれば嬉しいです。


*評価について

評価は独断と偏見に満ちていて

あくまでも個人的なものですので

決してうのみにしないで下さい。

参考にならない参考ていどに(笑)


また評価は読み返すことによって

変わる場合があります。

以下のような評価のマークを作りました。

◎素晴らしい本・座右の書
***とても面白かった
**面白かった
*まあ面白かった・時間つぶしにいいかも
△かなり退屈でくだらない
X読んで損した。時間返せ(笑)

*リストのジャンルについて

読書リスト1(精神世界・心理学)
読書リスト2(哲学・歴史)
読書リスト3(小説・詩・童話)
読書リスト4(絵画美術)
読書リスト5(推理小説)
読書リスト6(その他)

自分が好きなジャンルにとどめました。

それから精神世界は夫亡き後に

興味が湧いてきたジャンルで

「スピリチュアル」「ニューエイジ」

「引き寄せの法則」なども入ります。

2014年07月06日

くじけそうな時は。。。

夫の好物だったエンパナーダ(ミートパイ)
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身内の子が遊びに来たので作った。

普通のミートパイと違って、ひき肉と一緒に

ゆで卵や黒いオリーブを入れるのがペルー式。

香辛料にクミンやオレガノを効かせる。

こちらはスティック野菜のバーニャカウダ
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使用しているお皿はスペインの手作りガラス

もう10年以上も前に夫と行ったダイソーで見つけた。

100円とは思えないくらい素敵で気に入っている。


夫が亡くなってあと10日ほどで

三ヶ月になる。

まるで一年以上も経った気分。

時間がこれほど伸び縮みするとは知らなかった。

お料理もやっとできるようになって

仕事もぼちぼち始めて

(というより早く仕事復帰しないと

かなりやばい経済状況なのに。。。)

それでも時々発作のように涙が出ることがある。

(時々というより毎日なんだけれど)

励ましてくれる皆さんには本当に

すまない気持ちで一杯になる。

そんな時はこれを見る↓



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございました。m(__)m
posted by おとめ at 09:02 | Comment(6) | TrackBack(0) | 心にもお薬を

2014年06月19日

ドライヤーからの声

恐ろしく古い我が家のドライヤー
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おそらく’80年代製(笑)


だいぶ昔のことだけれど

父親が亡くなったとき

その魂が私の所へ来た。。。ようだ。

その日は夫が友人と出かけていて

私は一人で家で夜中過ぎまで起きていた。

ふと玄関のほうを見るとそばに飾ってあった

タペストリーに人の影のようなものが映った。

目の錯覚か何かだと思い気にも留めなかった。

夫がなかなか帰ってこないので

痺れを切らして先に寝ることにし寝室へ行くと

突然理由もなく無性に悲しさがこみ上げてきた。

もう時計は2時をまわっていたと思う。

なんだろう、この気分は。。。

とふさぎこんだまま壁に向かってぼ〜っとしていると

目の前に霧のような湯気のようなものが

す〜っと立ち昇るのを見た。

その時も私は多分眠くて疲れているんだろう

としか思わなかった。

伯母から電話が入ったのは次の日の朝

父親が亡くなった、との知らせ。

ずっとあとでわかった事だが

亡くなったのは午前3時頃だったそうだ。

ちょうど私が悲しい気分でもやのようなものを見た頃。


話は変わってその何年かのち

可愛がっていた手乗り文鳥が死んだ。

一度外へ逃げてしまったことがあるが

探しに行くとチチ〜っと鳴いて私の肩に戻った。

それほどなついていた。

その子が死んでからしばらくの間

鳥かごのあった場所から鳴声がしていた。


私の母方の血には「見てしまう」ところがあって

実家では時々ごく普通に「あの世系」の

人から見たらひいてしまいそうな会話を

けっこう普通にしていた。

母は戦前ヒトダマを見た。

大きな丸い輝く物体が飛んできて

玄関に落ちてくだけたそうだ。

父が亡くなってしばらく一人暮らしだったが

その頃おばあさんの幽霊も見ている。

それが自分の母親だったかどうかは

はっきりしなかったらしい。

伯母は幼い頃虫のしらせを経験した。

可愛がってくれた隣のおじさんの霊だった。

「あっ おじさんが来た」と伯母がいうので

皆で玄関に出てみたら誰もいない。

まもなく亡くなった知らせがきたらしい。


主人の葬儀が終わってまもない頃

しばらく我が家に泊まってくれていた妹が

ある日ドライヤーで髪を乾かしていると

「あっ??」と言ったので

「どうしたの?」というと

「人の話し声が聞こえた」という。

なんだか居酒屋のような場所で

にぎやかに話している感じだったそうだ。

「夫だ」私はすぐにそう思った。

夫は居酒屋が大好きだったのだ。

天国にも居酒屋があるのだろうか。

カツオのたたき、冷やしトマト、フライドポテトなど

大好きだったおつまみでビールを飲んでいるのだろうか。

そうでありますように。。。

そのあとで

私がドライヤーを使っても何も聞こえなかった。

なんだか寂しい気がした。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。m(__)m


posted by おとめ at 08:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | あの世があると思いたい