2017年11月18日

気づきのレッスンその4「体」



はい、みなさんこんにちは。

今日もこのわけのわからないブログへようこそ(笑)


今日は体についてお話します。

そう、あなたが自分自身だと思っているその体、

太っていれば太っているなりに

痩せていればやせているなりに

悩みのつきないその体というシロモノ。


たとえば何故ダイエットしたいのかといえば

「人」にくらべて太っているみたいだし

もちろん自分=その体だと思い込んでいるから。


じゃもし自分がその体じゃないとしたら

あなたはダイエットしますかね〜?


だって自分じゃないんだから、カンケー

ないんだから、太ろうと痩せようと

そのままでいいんじゃありませんか?


するとたとえばあなたが太っていて

人から「デブ!」と言われても

一向に気にしなくなるでしょう。


さらに話をすすめて、たとえば

あなたが病気になったとしても

あなたは一向に動ぜず、ただ淡々と

その自分ではない体の病気を見つめ

なりゆきにまかせることでしょう。


それはとてつもない解放だと思いませんか?

「自分が絶対にこの体ではない」と

はっきりと実感するのが悟りです。


便宜上「悟り」が実感と書きましたが

それは「悟る」のはあくまでもまだ

「自我」であるからで、厳密にいえば

すべての人はすでに悟っているのです。


一瞥体験(見性)の場合には

強烈な至福感や神秘感覚があり

「あ〜ついにオレは悟ったぞ」と

早とちりしがちですが、おっとどっこい

一瞥体験は悟りではありません。


それはただ破れた障子のスキマから

真実の世界を垣間見たに過ぎません。


悟りは真実の自分に気づくことです。

体も心もその時完全に脱落します。


ある種の体感をともなう、自分=体ではない

という「確信」のようなものです。


「ホエ〜!またわけのわからないこと書いてる」

とうんざりしているそこのあなたも

いつなんどき真実に目覚めるかわかりませんよ。


目覚めには、つまり悟る過程には二通りあって

長年の修行の末にそうなる人もいるし

あるいは一切何もしていないのにある日突然

青天の霹靂で否応なく目覚める人もいます。


私は後者でしたが、修行していても

悟りたい、と願って修行している限りは

永久に悟る事はできないでしょう。


さらに「願ってはいけない、でも願っちゃう」

という状態になって四苦八苦することになります。


その辺に腹立たしいジレンマがありますが

悟っても100%煩悩や苦しみがぜ〜んぶ

ただちに消えてなくなるわけではありません。


だから悟り後の修行があるのです。

けれども少なくとも真実に目覚めると

あなたは確実に人生が変わるでしょう。


今までとらわれていたほとんどの苦しみや

思い込み、世間体や出世欲、名誉欲、孤独感

嫉妬や憎しみや悲しみ、こういったものから

すっかり自由になっていくでしょう。


絶対に過去と同じように生きることは

二度とできなくなります。それは解放です。


一言で言えば「自分が体」と思っているうちは

あなたは「我」(エゴ)と一体であり

自分のまわりに境界線をひいているのです。


自分は宇宙の中のたった一粒に過ぎないのだ

という壮大な勘違いに生きているのです。

そしてそれがすべての苦しみの大元です。


でもちょっと見てみて下さい。

あなたの体の境界線はどこにありますか?


「皮膚」という人もいるでしょう。

けれども皮膚からは毎瞬毎瞬空気が出て

呼吸しているし、空間というのは

まったく何も無いところではなく

あらゆる「物質」に満ちています。


ウソだと思うなら最先端の科学者が

あちこちで発表してますから一度

のぞいてみてください。


つまりあなたの体と空間はぴったりと

フィットしているのですよ。

風に吹かれている時のあの心地よさを

思い出してみてください。


細身のパンツを無理やりフィットさせようと

やっきになっているそこのあなた、

そのフイットではないのです。

今日限りムダな抵抗はやめましょう。

そして、ゆっくりと座ってお茶でも飲んで

ちょっとばかり考えて見て下さい。


どこにも境界線はないのです。

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これを毎日つきつめて見ていくと

すべては全く分離していないとわかります。

これは頭で理解してもよいと思いますが

やはり実感をしてほしいです。


この分離のなさを体感するには

日ごろから体を柔軟にしておき

体や頭の血のめぐりをよくしておくのを

おすすめ致します。


ヨガや太極拳、ウオーキングや水泳

あるいはただ家事をせっせとやったり

部屋をこまめに片づけたりしてとにかく

体を動かすことです。


私自身について言えば若い頃から運動は苦手

友人に誘われ太極拳や空手道場に行ったことも

ありましたが、最終的に自分にはダンスが

一番似合っているとわかりました。


だから好きなものでよいと思います。

とくに悲しみや苦しみのがんじがらめから

抜け出られないときは思い切り体を動かし

頭をからっぽにしてみましょう。


もともと私たちはからっぽなのですから。。。。


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いつもアクセス感謝です。














posted by おとめ at 08:48 | Comment(0) | 気づきのレッスン

2017年11月09日

ポールアンカ「ダイアナ」

*いまだに好きな曲 2


いや〜おもしろいビデオ見つけちゃった。


このところお堅い話がつづいたので

この辺で一息つきましょうか。


あのポールアンカがね〜びっくり。

出て来た時、一瞬不安そうな表情を見せます。

突然幕があいてとまどった表情。


まだこの頃は16才くらいでしょうか。

初々しいですね。


でもすぐリズムにのって

楽しそうに歌ってます。

実に気持ちよさそうです。


昔のことだから音声と映像を

別々に収録したのかも知れませんが、

それにしても彼が天性の才能を持って

生まれてきたということがよくわかります。


年上の女性への恋を素直にぶつけたこの曲は

彼のデビュー曲でした。


彼はたしか中東系の移民の子でしたが

アメリカに移住してからスターダムにのり

70代の今でも歌っているみたいです。


けれども私は他の彼の曲はあまり好きでなく、

この「ダイアナ」一曲が好きなんです。

ビデオを見てからますます好きになりました。


彼を見ているとスーフィダンス思い出します。

この曲を歌っている彼は神そのものです。


彼がこの曲を作った時たぶんそこには

恋心を表現したい!という純粋な思い

それだけしかなかったはずです。


そこに余計な私利私欲はありませんでした。

それが世間の人の心を打ちあれほどの

ヒット曲になったのだと思います。


何かを表現したい!という深い底からの欲求

それがお金をかせぎたい!とか

注目されたい!とかの自己中心的なものが

何も無い時、人は神となります。


だから世間にはいわゆる一発屋が多いのでしょう。

最初の曲は心から作りたくて作った。

神さまになった自分が作った作品です。

けれどもそれがヒットすると欲が出てきてしまう。

神さまは逃げていきます。


これがワナです。

人生の真実です。


クリシュナムルティは人の心になにも無い時

「自分の為」という思いが消えている時

人はそのまま神(基底)になる、と言っています。


それはつまり我欲をおさえるのではなくて

むしろ純粋な欲なのです。

深い所から来る欲求、「そうせざるをえない」

ようなそんな思いが湧いてくるときです。


棟方志功が歌を口ずさみながら次々と

トイレの中にまで絵を描いたあの欲求です。


おいしいものを食べさせたい!という欲求で

お母さんが料理をする。それも同じです。

見返りを期待せず何かを作る、行動する。


そしてそれは必ず人の心を打ちます。

なぜならすべての人が神だからです。

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今日もお読みいただきありがとうございました。



posted by おとめ at 08:24 | Comment(0) | 音楽好き

2017年11月07日

仏とスープ

寒い朝の温かいスープはいいですね。
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スープをひとさじすくいます。

わずかにポタポタと落ちました。


ここに真理があります。

わたしたちはこのスープそのものです。


荒れた冬の海を想像してください。

大波、小波が次々生まれます。

波同士がからみ合い、ぶつかり合い

時には会話をしているようです。


一瞬海から離れようとするのもあり

でもそれも一時に過ぎず

ふたたび大海へとのまれます。


真理は驚くほど単純です。

でも常識や怖れに生きていると

それが全く見えません。


自分は体と心だ、という「錯覚」

それがどこまでも邪魔をします。


だから死を怖がったり、人を殺したり

憎んだり、苦しんだりします。


自分は体じゃない、とさえわかれば

それですべて解決します。


確かに体という物質はあります。

でもそれが「自分」という「主体」

だと思うのが錯覚なのです。


生も死もありません。

そんなものどこにもありません。

逆に言えば生も死も今ここで

この瞬間に起こっています。

あなたの中で。。。。。


体じゃないなら「魂」じゃないかって?

「魂」はあるかも知れません。

ない、とは言いません。

でももしあるとすれば体と同じ

なんらかの物質的なものであり、

解明されていないだけなのでしょう。


そしてそれも一つの自己から見れば

机や椅子と同じことです。


一つの自己とは仏のあなたです。

無字とか如来、神、宇宙とも言います。

クリシュナムルティはground

(ベースのようなもの、基底)

と言いました。


温かいスープやラーメンを食べる時

その時あなたが腹ペコで、おまけに

めちゃくちゃうまいものが出されたら

口に入れた瞬間、その瞬間ですが、

一瞬思考がとまるとき、「うまい!」

という感覚だけがあるでしょう。


本当にうまかったその瞬間にあなたは

財布に500円しかないとか、

あの人にメールの返事をどうやって書こうとか

そんなこと考えてません。


ただ「うまい味」のその感覚があるだけです。

あなたはその感覚そのものなんです。

その時あなたは仏そのものなのです。

仏が体を通じて味わっているのです。


それなのにひとしきり食べた後

思考がじわじわとやってきて、

「あ〜お金が足りない。どうしよう」

とか考え始めるのです。


むかしむかしの偉い白隠というお坊さん

はそれを「衆生本来仏なり」といいました。


衆生(しゅじょう)とは一般人のことです。

人はみな本当は仏なのに、かわいそうに

それを知らないのじゃ、と言っているのです。


「水と氷のごとくにて

水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし

衆生近きを不和(しらず)して 遠く求むるはかなさよ」


氷が水からできるのだから氷=水であるように

人も仏そのものなのだ。それなのに人は

それを知らず、とんちんかんな方向を見ている。

それはたとえば水の中にいて喉がカラカラだ

というようなものだとも言っています。

嘆く和尚の心は衆生への大きな愛そのものです。


行列のできるラーメンを食べているのは

あなたではなくあなたの体でもなく

仏が、宇宙が食べているのです。


今朝暖かいスープを飲んだのも仏です。

どこかでお母さんの味噌汁を飲んでいる

子供やお父さんも仏なのです。


自分が体ではない、というこの事実を

一人でも多くの人が見極めてください。


それを見極めて一緒に勉強したい、

という人の為にこれを書いています。

あなたのあるがままそのものが極楽なのだ、

とわかっていただくために。。。


座禅をしたり、瞑想もいいでしょう。

でも方法を間違えるとやばい事になります。


そんなことも私なりにやってきた事を

これからも書いていきます。

私もまだまだこれからが修行です。


もしこれをお読みの方で「そこはちょっと

違うんじゃないか?」とか思う方は

いつでもコメント下さい。

色々教えていただきたいです。


真実のわかるその時、生死からはなれ、

しかも起こることがあるがままに起こる

あなたの中のそのすべてを慈しみ、見守り、

味わうご自分自身を見出されることでしょう。


「此時何をか求むべき 寂滅現前するゆゑに

当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」(白隠)

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今日もお越しいただきありがとうございました。




posted by おとめ at 09:31 | Comment(0) |

2017年11月06日

あなたの中にすべてある

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あなたは私です。

そして私はあなたを含むすべてです。


クリシュナムルティはこの立場から

いつも世界中の聴衆に向かって

真実のみを言い続けました。


つまり彼は覚醒者の目で語っているため

その目がないと非常にわかりにくいのです。


その言葉は英語でも日本語でも決して難解ではなく

ごく普通の平易な言葉を使っているのですが、

いつわりの自己にとらわれているとそれは

あなたの頭を素通りしてしまうかもしれません。


けれども、もしあなたが彼を心から信頼し

彼の書いていること、言っていることを

全身で注意深く理解しようとするなら

あなたの人生は、苦しみから自由になり

これまでとは全く違うものになるでしょう。


そこに「時間」はありません。

彼を理解した時、変容は一瞬に起きます。


彼はただ人が自分で自分自身を救えるよう

まがいものの神や霊魂やそのほかの

うそいつわりの世界に騙されることなく

自分の力だけで怖れや苦しみから

本当に解放されるよう導いたのでした。

そのためだけに一生をささげたのです。


私は彼を奉ったり神のようにあがめたり

そんな気は毛頭ありませんし、彼自身も

神のような完璧な生き方をした人でもなく

まさにあるがままに生きた人でした。


霊魂の世界に迷ったり、怪しげな団体の

トップにむりやり据えられたり

不倫をしたりもしました。

けれどもずば抜けて正直な人でした。


彼はあらゆる宗教から離れているけれど

言っていることは禅とほぼ同じです。


彼は悟りの立場から書いていますが、

人を悟りへ導こうとはしませんでした。


知らず知らずのうちにあなたが彼と共に

悟りの世界を歩めるようにしたのです。


すべてのものはあなたです。

これを理解すると何が起こるでしょうか。


人を嫌うのは自分を嫌うという事です。

人を愛するのは自分を愛すること。


遠い国で子供が飢え死にすれば

あなたの一部も死ぬのです。


何故なら私たちは一つだからです。

これは概念ではなく「事実」なのです。

真実の自己を見つければそれがわかります。


すべてが自分だとわかればそこには

ただ大きな愛しかありません。


それを悟るために人は修行をしたりしますが、

それがなかなかわからないから世界中で今も

悲惨な争いが起こります。


その原因となる自己中心性に気づくとき

すべての人の心は変化します。


人を何が苦しみから救うのでしょうか?

何が自己中心性を消してくれるのでしょうか。


それは修行でもなく、滝行でも瞑想でもなく

宇宙エネルギーでも守護霊でもありません。


それはあなた自身です。

それは体のあなたではありません。


本当のあなたです。

本当のあなたがあなたを、世界を救います。

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今日もお読みいただきありがとうございます。





posted by おとめ at 12:14 | Comment(0) | クリシュナムルティ

2017年11月02日

十三夜

*加筆しました。
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ふと夕空を見上げるととてつもなく美しい月が。

山は真っ赤に焼けていました。


じっと眺めていたら、まったく突然

写真をとりたい!という衝動にかられて

あわてて家にカメラをとりにもどりました。


いざ写真をとろうとしたら、山はもう真っ暗。

まさに秋の夕日はつるべ落とし。残念。


晩御飯を食べていたらTVのニュースで

「今夜は十三夜です」と言っていました。


「そうか!」だからあんなに美しかったのか。

と思考がしゃしゃり出てきました。


十三夜と知らずに見上げて感動した月。

それが禅の意味するところです。


なんの知識もよけいな思考も無いところ

ただ見るところ。。。


始めに月を見上げた時そこに自分はいませんでした。

ただ「今」の月だけがありました。


次に思考が「写真をとらなきゃ」と言いました。

これをみんなとシェアしたい!という思いです。


その時はもう月を見ていませんでした。

シャラクサイ思考があるだけです。


これはどういうことかというと、たとえば

このブログに「読んだ本」などというカテゴリ

があってあれこれ書き込んできたけど、

ただのゴミためなんです。

単なる個人的なメモに過ぎませんので。

くれぐれも本気になさらないようお願いします(笑)


知識なんてなんの足しにもなりません。

だから宇宙規模の知識があっても

何万冊の本を読もうと何しようと

真実を知らなければ、「本来の面目」が

わからなければ人は救われません。

(本来の面目=本当の自分)


それは知識による理解ではいけない。

実感しなければただの無事禅だ。


ずっとそう思ってきました。

それはある意味正しいのですが、

けれど今はこうも思います。


わからなくてもいいから理解しようと

努める人はいるでしょうか、と。

そして頭の隅にでも置いてほしい。

すべてはこのままで完璧なのだということを。


逆らわないこと、なにも望まないこと

何かになろうとしないこと

悲しみをいじらないこと

苦しくてもとどまること


感情は見つめていくと一時的に

非常に強くなります。それに耐えきれない

と思うこともあるでしょう。


けれどもとにかくその感情を

なんとかせず、それに浸っていれば

必ず消えていきます。


それを繰り返すだけです。

救いはそこにしかありません。


そう思っていてもなかなか実行できないのが

現実なのでしょうが。。。


あるがままで完璧だと理屈でわかっても

そこに踏みとどまることができません。

踏みとどまろうと奮闘すれば

逆にあるがままではなくなってしまう。


そこにあるがままへのパラドックスがあります。

けれどもそれを打破する方法があります。


それが自分を見ていくということです。

葛藤や苦しみ、悲しみをただそのまま

見つめていくことをつづけます。


これは道元やクリシュナムルティが

さんざん言ってきた事と同じです。


道元さんはまたより簡単な方法として

「仏の家に投げ入れろ」と言っています。


「ただ我が身をも心をもはなちわすれて

仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて

これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず

こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」

(正法眼蔵より)


「仏のいへ(家)」というのは宇宙のことです。

神と呼んでもいいです。そこから来るパワーに

身をゆだねていればいつか生死(しょうじ)の

あらゆる悩みから解放されると言っています。


これはぐちゃぐちゃした悩みや悲しみを

あれこれいじらず、考え込まず

すべて仏(宇宙、根源、神)に

おまかせしちゃえ、ってことです。


なんでいつまでも悲しいのだろう、とか

あれをやれば悲しみは消えるだろう、とか

あ〜だ、こ〜だ考えないってことです。


悲しければ「あ〜悲しい!」でいいのです。

そして身も心も悲しみにゆだねます。

その時こそあなたは仏なのです。


感情がもともと湧いてきた根源へ

お返ししちゃえってことです。


するとそこにはかりしれない

あるパワーがやってきます。


そうすればいつかわかるでしょう。

目があけばわかります。


魂胆があって月を見るのも

カメラをとりに家に走るのも

山が真っ暗になりがっかりするのも

悲しみと孤独感に押しつぶされ

ボロ雑巾のようになっているのも


すべてすべて宇宙の大活動なのだと。

そこには非難すべき事もなにもなく

ただあるがままがあるだけです。


あっけらかんとして、からっぽで。。。

そしてそこにのみ大いなる安らぎがあるのです。


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いつもアクセスありがとうございます。






posted by おとめ at 12:02 | Comment(0) |

2017年10月24日

フランスギャル「夢見るシャンソン人形」

*いまだに好きな曲 1


こんな丁寧な字幕を作ってくれるなんて
いい時代になったな〜


常に何らかの音楽が頭の中で鳴っている。

2,3日前は亡き夫の誕生日だったからか

モーツアルトのレクイエムの中の

「キリエ」が鳴り響いてやまず閉口した。


それで仕方なくキリエを歌いながら

仕事をしたりアイロンをかけたり

料理をしたりしていた。


実は昔オラトリオの合唱団に所属していて

レクイエムばかり歌っていたのだ。

まさか夫のために歌うハメになるとは(笑)


こんなわけで音楽漬けの生活は今でも

自然に毎日に溶け込んでおり、時々

発作的に若い頃のように踊ったりもする。


60年代、私がまだ中学か高校の頃

ラジオで実にさまざまな音楽を聴いた。

クラシック、ポップス、ブラックミュージック

映画音楽、ラテン、フォーク、歌謡曲。。。


特にブリティッシュロックや黒人系の

リズムのはっきりした音楽が好きだったから

その中でフレンチポップスというのは

どこかダサいと思っていた。


でも今フランスギャルのこの歌を聞いてみると

4,50年たったからこその味わいがあった。


今はユーチューブでこうして姿を見られるが

当時はそんなこと思いもしなかったことだった。


歌ってる姿を見てあらためてびっくりした。

彼女の挑戦的な目、いやいやながらする動作

そのぎこちなさは全くのお人形。


大げさなオーケストラのサウンドをバックに

決して美声とはいえない彼女の歌声が

妙にミスマッチしている。


いかにもフランス人好みのどこかはずした

粋な雰囲気もただよっている。


彼女は自分が人形だとわかって歌っている。

歌う自動人形なのだ。


いやでも動かなくてはならない

媚を売らなくてはならない

可愛く、ほほえんで、みんなに愛されて。。。


そういったアイドル性への反抗を

わざとらしくなく見せることで

逆に人気を呼んだのだろう。


考えて見ると私たちも同じことをしている。

ほほえんで、胸のうちは見せず

嫌われないように、置いていかれないように。。。。


彼女は年はほとんど私と同世代

幸せな結婚をし、スターダムをのぼりつめたが

夫はわりあい早く亡くし、ついで娘を亡くした。


かなり太ったおばさんになるまで

歌っていたようだが娘を亡くしてからは

姿を消したようで私にはそれ以上はわからない。


じっと見ていると彼女は私であり

当時の夢を現実だと思っていた人形、

レプリカント、あるいはトニーパーソンズが

いうように聖なるロボット。。。なんでもいいが

その真実をまさに彼女は体現していたのだった。

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今日もたくさんのアクセスをメルシーでございます!












posted by おとめ at 21:32 | Comment(2) | 音楽好き

2017年10月20日

あなただけが世界

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あなたが思う半分もこの世界はリアルではないと知ったとしても
あなたは死ぬまでこの世界を愛することでしょう。

人々があなたの思うような人ではないと知ったとしても
あなたは何百倍も人を愛せずにはいられないでしょう。

(アジャシャンティ「空を生きる」より)


私は何故このブログを書いているのかと

ふと思いました。


言葉はいつも深い所からごく自然に

泉のように湧いてきます。

それはこの自分の能力ではありません。


数年前に自分の書いたことを読むと

まあ、なんて幻想にとらわれていたことか!

と今の自分との違いに驚き、また、それを

どこか遠くから眺めていて面白くもあります。


ブログと言うのは一種の自我の表現であり

自分の作ったものや、している事、

考えていることなどを人に伝えたい、

という願いがそこにあると思います。


そして更に言うなら、できるだけ

沢山の人に見てもらいたい!

自分を好きになってもらいたい!

この楽しみをみんなとシェアしたい!

などの気持ちもある筈です。


わたしもかつてはそうでした。

でも今は全く違います。


私は誰に向かって書いているのでしょうか?

何のためなのでしょうか。

自分も人も幸せになるため?


世間には自分は幸せ、という人はいます。

満ち足りていて、この世界がリアルで

起こる事が楽しくて充実している。

そういう人たちに何も言う事はありません。


その幸せを味わってほしいだけです。

存分に味わって、生きてほしいです。


それにしても何故この私はこのブログを

性懲りもなく書いているのでしょう。


それは書く衝動が起こっているから、としか言えず

自分でもよくわからないのです。


今あるこの真実、それを必要な人に知ってほしいから

かな〜と思いましたが、それも別に以前ほどには

願ってません。何にも希望はありません。

だいいち私の自我は書くのはめんどくさい、

とたまにグチをこぼすのです。


ただ、必要な人だけが読んでくれてるな、

という風にはなんとなく思っています。


あるいはまた、理解ができている人なら

読んでいて自分をそこに感じることでしょう。


そうでない人には理解せよ、という方が

ムリなのです。何故なら自我が常に

理解の足を引っ張るからです。


私が書きたい、という衝動を持つように

読みたい、という衝動を持ってくれる人は

苦しみの中にいるか、またはかつてそんな

状態にあった人でもあるでしょう。


悲しい、辛い、苦しい。。。

自分には何の価値も無い気がする。。。

などなどの苦悩を経験したか、している人たちへ

書いていこうという衝動が起こっている

。。。よくわかりませんがそんな感じかな。


なぜなら、苦悩の中にいる時、まれに人には

「探求心」というものが生まれるからです。

けれども大半の人はそうなりません。

癒しや慰めへと逃げ込む人が多いからです。

それはなんの解決にもなりませんが。。。


何故自分が生まれてきたのか、どうして

この辛い世界で生きて行かなくてはいけないか

どこかに真実があるに違いない、それを

絶対に探して見つけたい!


というエネルギーのようなものが起こる人がいます。

そしてそれは稀です。

それは決して自我からくる願いではなく

何か深い底知れないところからくるものです。


そこになにかの自己中心的な希望があっては

その探求心は本物ではありません。


たとえばスピの勉強をして超能力を身につけよう、

とか、真実を知れば自分は癒されるだろう、とか

この本を読めば自分は賢く、今よりマシになるとか

宇宙エネルギーをもらえばサイキックになるだろう

などなど、それはすべて自我の幻想なのであり

自分にとっての「利益」を含む場合はダメです。

また、悟りを得る目的で座禅や瞑想をしても無駄です。


そんなものすべてかなぐり捨てて、ただただ

「真実」だけが知りたい、それを知らないでは

死ねないし、生きてもいけない、と心から願い

そのほかのすべてが重要でなくなった時

その人に真実を見る準備ができるでしょう。


その最大のチャンスが人生における苦しみや

あらゆる挫折、たとえば死別などがその

きっかけとなることは以前も書きました。


その時本当に苦しんだ人は、なにもかも

欲しがらなくなります。自分の幸せや

癒し、楽しみ、夢や希望、好きだった仕事

価値観を置いていたすべての物事。。。


こういうものに何の興味も無くなります。

かといって仕事をやめるわけではないのですが。

ただそれがすべて幻想だったと気づくのです。


そうすればなにもかも自動的に事が運びます。

あなたが何もしなくても目の前に真実が

ある日、在る時、思いもしないときに

それは訪れるでしょう。


それはあなたの自我にとっては最悪です。

なぜならそれは自分の「死」だからです。


ブログを何故書いているのか、と書きましたが

私は苦しみの中にある人を救おうなんて

そんな大それたことは考えていません。


書いていることを認めてもらおうとも

これっぽっちも思っていません。

ただ書いているだけなんです。


たくさんの人が目覚め、苦しみから自由で

真実の自己を知ってほしい、とは思いますが。

でもそれを私がしてあげることはできません。


すべての人は自分で自分を救わなければ

なんの意味もないのです。

自分で真実を実感しなければ、それは

壁に描かれたごちそうと同じです。


そしてそれを私は時々とても歯がゆく思い

悲しくなるのです。。。


けれど一方で目覚める人も増えています。

自我の幻想に気づいてあなたの人生は終わります。


けれども同時にあなたは世界にあなたしかいない、

という事を悟り、その新しい生を生きるのです。

そこにはあるがままの喜びの光が溢れています。


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今日もアクセスありがとうございます。










posted by おとめ at 08:15 | Comment(4) | 悟りについて

2017年10月06日

庭の千草



信州では虫の音もかぼそくなり

秋の蝶がはかなげに舞っています。


庭の千草という歌を思い出します。


これはアイルランド民謡ですが

アイルランド人気質というのは

大変詩的でウエットな感じがします。


沢山のすぐれた詩人を生み出しました。

身近なところではかのビートルズが

アイルランド系ですね。

大好きな詩を訳してみました。

The last rose of summer
夏の終わりの薔薇

'Tis the last rose of Summer, 
Left blooming alone; 
All her lovely companions 
Are faded and gone; 
No flower of her kindred, 
No rosebud is nigh, 
To reflect back her blushes, 
Or give sigh for sigh!

それは夏の終わりの薔薇
ひとりぼっちで咲いている
楽しき仲間はみんな色あせ
散っていってしまった
同じ血筋の花もおらず
つぼみさえももはや見当たらず
紅色のかがやきを思い出し
ため息をつき合う相手もない


I'll not leave thee, thou lone one, 
To pine on the stem; 
Since the lovely are sleeping, 
Go sleep thou with them. 
Thus kindly I scatter 
Thy leaves o'er the bed 
Where thy mates of the garden 
Lie scentless and dead.

おまえを一人にはしないよ、寂しきものよ
その茎の上で嘆き枯らせはしない
愛しいものたちは眠っているのだから
おまえも行って一緒に眠るがいい
さあこのように優しくおまえの葉を
庭の永遠のしとねにまき散らそう
おまえの仲間たちが香りも無く枯れて
横たわり眠るその上に


So soon may I follow, 
When friendships decay, 
And from Love's shining circle 
The gems drop away! 
When true hearts lie withered, 
And fond ones are flown, 
Oh! who would inhabit 
This bleak world alone?

すぐに私も後を追うだろう
友情も萎び枯れはてて
喜びに輝く交わりの輪から
宝石がひとつぶづつこぼれ落ちるときに!
真実の心が色あせ
愛しい人もどこかへ飛び去るときに
ああ、誰がこの荒涼とした世界で
一人生きていけるだろう

おとめ訳


・・・・とまあ、なんだかしんみりと

死別した身にはちとこたえる歌詞ですね。


これが日本語に翻訳されたのが

あの有名な「庭の千草」です。

こっちは:

庭の千草も 虫の音も
耐えて寂しくなりにけり

ああ白菊 ああ白菊
一人遅れて咲きにけり

露もたわむや 菊の花
霜におごるや 菊の花

ああ あわれあわれ ああ 白菊
人のみさおも かくてこそ


となり、感じがだいぶ違いますね。

こちらは別れの悲哀というより

一人一輪咲く白菊のけなげさが

際立っているように思います。


年取るにつれて友達が病気になったり

伴侶が亡くなったりしていくのは

人間である以上仕方のないことですが

まさに薔薇が衰えて枯れて行くように

全く自然なことではないでしょうか。


でもやがては自分も老いて誰にも相手にされず

寂しく死んでいく運命ということに

面と向かって向き合う人は少ないです。


若作りをしてみたり、サプリを飲んだり

少しでも体に良いと思われるものを食べたり。


まあそうやってごまかしているうちが

ハナかもしれませんが。。。

やがてはごまかしきれないときは来ます。


その時になってワハハと豪快に笑って

「楽しかった、苦しかった、じゃこれで」と

棺桶にすすんで足をつっこむ

そんな人間になりたいと思っています。


その為にクリシュナムルティを読んだり

禅を勉強したりあれこれやってきました。


勉強していくなかでわかったことは

生と死にはまったく区別がないということです。

肉体は死にますが私たちの本質、

真の自分に死というものはありません。

従ってむやみに死を恐れることはないのです。


母の亡くなる直前の言葉は

「あ〜これで死ねれば本望だ」でした。

いかにも江戸っ子らしい最後でした。


母を超えられるかどうか、これからも

精進していきたいと思っています。



日本語のほうはやはりこの人の歌がいいかな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもお読みいただきありがとうございます。



posted by おとめ at 17:26 | Comment(0) | 詩歌の世界

2017年10月01日

悟りの先にあるもの

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もうすぐ十五夜だねえ・・・



ネットを見ていると私と同じ経験をし

覚醒している人がとてもたくさんいて、

その中で自己中心的な目的は何もなく

誠実に本当の事を書いているひとたちも

数は少ないが確実にいる。


そのひとたちの書いていることは全く

自分のことのようにわかる。


今まではとうていわからなかったこと

理解しようともせず、だいいち

自分にもそんなことが訪れるなんて

考えてもいなかったのに。


「霊魂の世界」という自我の延長の世界に

どっぷりつかっていただけだったのに。


恩寵は眠っていた私をたたき起こした。

起こされてみれば今までわからなかったことが

手にとるようにわかり嬉しくなった。


ニサルガダッタ・マハラジの言葉が

自分の言葉に思え、道元の言葉も

びんびん響いてきて、ただ「わかる」


禅の考案集「無門関」の難問と言われる

兜率の三関(とそつのさんかん)なんて

赤子の手をひねるようにやさしい。


こう書くとたくさんの禅者の方々に

おまえごときに何がわかる、と

大ひんしゅくを買ってしまうだろうけれど。


なんだ、こんな簡単なことだったんだ。

とわかってしまえばわかってしまう。

これは決しておごりでも何でもなく事実。

それほど単純なこと。

だってそのまま今見ているものだから。


ただみんなが難しいと言っているから

そう思ってしまうだけの事。

この世はそんな思い込みに満ちている。


苦しい修行をしなければ悟れない。

悟るとすべての煩悩は消える。

一般人に悟りは無縁だ。。。。

などなど、すべて迷信だ。



エゴが悟ってる。

そんな人もいる。


悟ったからといって聖人になるわけじゃない。

性格はそうは変わらない。

ただ生き方はがらりと変わるだろう。


悟りとはただ普通の人が気づかない「真実」に

否応なく目覚めてしまうこと。

気づいてしまえば「な〜んだ」という

それだけのこと。


ただ問題はお金を払っても修行しても

求めてもそれは得られないということ。

それは青天霹靂、ある日突然むこうから

やってくるもの。


だからそのために無駄な歳月を過ごすなら

私はむしろ悟らなくても

人として善良である事の方が

ずっとマシなのではないかとさえ

ときどき思う。


もちろん区別のない世界を実感してほしい

みんながそうあってほしい、とは思う。

でも!


悟りを後生大事にかかえてそれを自慢するほど

手の付けられないものはない。


それに悟ってもそれで終わりじゃない。

それがすべてじゃない。

それが単に始まりであることに気づくのは

悟りで有頂天になっている時期を

やっと卒業しかけた時。


更にもっともっとわかってしまう時がこうして

やってきて悟り後の苦悩が訪れる。


すべての苦悩が幻想であるとわかっても

自我は次々と新しい苦悩を持ってくる。


それは河原の小石。

捨てても捨ててもそこにある。


それに自我が無い世界では呼吸さえできない。

つまり生きてはいけない。仕事もしないと。

だから両方の世界を行ったり来たりするしかない。


けれど真実の世界も一度見たら

決してそこが故郷だということを

忘れることはできない。絶対に。


まずすべてが幻想とわかる色即是空

これが第一ステージ。

次に色即是空、空即是色。。。

始めの色は後の色とは全く違う。

それがわかるのが第二ステージ


次に来るのが虚であり有であるところ

つまり空でありながら色がある。

それが真空妙有。。。


私はこれがほぼいっぺんに来てしまった。

その日のことは忘れないが、いつだったかが

正確には全く思い出せない。


ただその瞬間は誰がなんと言おうとこれが

「真実」だ、という事ははっきりと実感する。


アドバイタではこのくらいの悟りで十分とする。

けれど、禅ではまだその先がある。

私はまだまだだ。


私はまだ「一つ」の世界にしがみついている。

我の世界からやおら靴を履き替えて

一つの世界に戻ったりしている。


靴があるのも忘れ、悟りも忘れる所

そこがゴールなのだとわかっている。

そこが花はくれない、柳はみどりだ。


いまわの際に「死にとうない」と言った

仙高竏鼡x。。。


虚だとわかっての「死にとうない」では

まだ悟りくさい。

わからないでの「死にとうない」は只の人。

さてどうするか。。。これが私の一生の問。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも沢山のアクセスありがとうございます。

けれどもどれくらいの方にわかってもらえるのか・・・

書いていても仕方ないかな、とふと思うこの頃です(笑)








posted by おとめ at 10:24 | Comment(0) | 悟りについて

2017年09月26日

フレディの悟り


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葉っぱのフレディという童話があります。

けっこう有名なお話なのでご存知の方は

多いかと思いますが。。。


ただの児童書と思いきや、これが本当に

深いお話なのですね。


でもネットでこの童話についての感想を読むと、

輪廻の話だとか、死を受け入れる話だとか

さまざまなレビューがありますが、私には

「悟り」の話そのものでは無いかという気がします。


作者のレオ・バスカーリアについてはあまり

知られてませんが、イタリア系のアメリカ人で

学習障害児の教育をしていたということです。

私は彼が悟っていたのだと思っています。


葉っぱのフレディは梢の近くに育った葉っぱです。

彼にはダニエルと言う葉っぱの親友がいます。

ダニエルはいわば悟った覚者なのです。

つまりダニエルはバスカーリアの分身だと思います。


何故なら彼は自分が葉っぱではなく一本の木である、

という真実に目覚めているからです。

これはまさに覚者が、自分は体では無く

一つの大きな命だという真実に目覚めることと

全く同じだと私は思います。


フレディはまだ目覚めていない一般人で普通に

死を怖がり、何故死ぬのか、何故生まれたのか、と

疑問で一杯になります。


それに対してダニエルは死は怖いものではないと言い

さらに真実をフレディに伝えようとしますが、自分が

一枚の独立した葉である、という幻想から抜けられない

フレディにはわかりません。


やがて秋になりまわりの葉っぱたちがどんどん落ちて

死んでいくのを目のあたりにすることになります。

木はほとんど裸になりました。

そしてフレディはダニエルに言います。

「僕は死ぬのが怖い。」


つまり人間で言えば自分はこの体であって

いつかは死んでしまい、それっきり、と考える

ごく普通の人達と同じなのです。


「みんな死ぬの?」
フレディーが聞いた。

「うん。」
ダニエルが答えた。
「何もかも死ぬ。
 どんなに大きくても小さくても。
 どんなに弱くても強くても。
 僕たちはまずするべきことをする。
 太陽や月や雨や風を経験する。
 踊ったり笑ったりできるようにする。
 そしたら死ぬだけさ。」


そのためフレディはとことん苦しみます。

そして死ぬもんか!とつっぱります。

つまりあるがままへの抵抗です。

「木も死ぬの?」
フレディーが聞いた。

それに対して悟ったダニエルは優しく言います。

「いつかはね。
 だけど木よりもっと強いものがある。
 それは“生命(いのち)”。
 永遠にながらえる物。
 僕たちも“生命”の一部なんだよ。」

「死んだらどこへ行くのだろう?」

「誰もたしかなことは知らない。
 大きな謎だ。」

「僕たちは春になったら戻ってくるのかな?」

「僕たちは戻ってこないかもしれないけれど、“生命”は戻ってくる。」

「じゃあ、今までのことは一体何だったのさ?」
フレディーは質問を続けた。
「そもそも落っこちて死ぬだけなら何で僕たちは生まれてきたのさ?」


しかし秋が深まり、ついに親友のダニエルも

枯れ葉となって落ちていきます。

その死にざまは実に平安でした。


とうとうフレディは木に残ったたった一枚の

葉っぱになってしまいました。

そしてある雪の積もった翌日一陣の風が吹き

フレディを枝から離します。


その時フレディは落ちていきながら

一本の大きな木を見ます。そして自分が

その木の一部であったことを知ります。


そして自分という葉の一枚が無くなっても

木そのものは生き続けるのだ、という真実を

ついに悟るのでした。。。


ここでこのお話は終わりますが、フレディの

苦しみの原因は自分が「木」であることの

自覚が全く無かった点にあります。


自分はあくまでも木にいる一枚の葉であり、

他の葉も自分からは独立したそれぞれの葉だ

という分離の感覚から抜けられなかったのです。


この分離感こそが人を苦しめる最大の原因です。

最後にフレディがついに木から離れ地面に落ちる

その瞬間を、生きながらにして体験すること

それが悟りなのです。


人は人の死を目の当たりにすると、フレディのように

死と相対することになります。

つまり逃げようが無くなります。


そうなった時ごまかしで生きる人もいるでしょうが

真の生き方を選択するようになる人もいます。

その時人は自分にまつわるすべての欲や執着や知識の

虚しさを知り、死んだような状態になります。

そしてその結果、あるがままの自然に目覚めます。


けれども求めても悟りは得られません。

座禅や瞑想や修行も我をとるには良いでしょうが

それだけで悟るのではありません。


ダニエルのようにあるがままにすべてを受け入れ

そのままのあなたを愛し、人を愛し、すべてに

感謝の気持ちしか無くなる時、そして人の苦しみは

自分の苦しみとわかる時に、ついに悟りの方から

あなたの元へやってくることでしょう。。。


その時あなたもフレディが最後に見たものを見ます。

そしてそれが全く新しい生のスタートです。

悟りはゴールではなく、単なる始まりなのです。


ダニエルは彼特有の淡々とした口調で答えた。
「いつも太陽と月がめぐっていたこと。
 ともに楽しい日々を過ごしてきたこと。
 かげとお年寄りと子供たちのこと。
 秋の色のこと。
 季節のこと。
 これでも分からないかい?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

一人でも多くの方が目覚めますように。








posted by おとめ at 08:28 | Comment(0) | 悟りについて

2017年09月16日

気づきのレッスンその3「ある初秋のホラー」


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自分というカタマリをからだ中探しても見つからない。
しかし、わたしはこのようにパソコンを、いま、たたいている。
だから、いま、なにかがわたしを動かしている。
その動かしているなにかを、真我と呼ぶ。
・・・以上わが師の言葉

(私が勝手に師と呼んでるその人は師と呼ばれるのを
とても嫌う。ここで書いてるのがバレませんように。 笑)


さ〜て、お立ち合い。長らくお待たせいたしました。

大好評「気づきのレッスン」の再開です〜。


御用とお急ぎでない方も、お急ぎな方も、

今口をあんぐり開けておやつを食べようとしている人も

ゼツボーして橋から飛び降りようとしている人も

まあ、そういうのはいつでもできるから(笑)

ちょっと後回しにして、お集まりくださいマセ。


気分を切り替えて、前代未聞、空前絶後のこのレッスン

タダより安いものはない、このネット教室で

ちょいと高級なヒマつぶしでもしてみませんか?


TVのクイズ以外にモノを考えたことの無い人も

ちったあ考えるハメになるかもしれません。


知らないうちに心にゆとりが生まれ、いますぐに

この人生を、そう、もうちょっと生きてみようかな

ど思わせるような、そんな気にさせるかも知れない

(あくまでもカモですので。人によりますが。)

そんなひとときを私とシェアしませんか?



今回はちょっと近所の小学生をつかまえましてね。

実験してみようかと・・・

このあたりの子供はとても素直なんですよ〜。

道で会えば「こんちは!」って言ってくれるし

かわいいもんでして・・・


アッ、ちょうどあそこに鈴虫を探してる子がいます。

すぐ近所のT君です。彼にしましょう。

彼と「本当の自分探し」をしてみますよ〜。


前回の自分が消える実験でちょっと理解がいまいち

どころか、ちんぷんかんぷんだった人も

自分が小学生に戻った気分になって

素直な心で一緒に考えて見て下さい。


さてさて、それではプチシアターの開幕でっす!


登場人物1.おとめ

登場人物2.少年T(近所の小学生)



おとめ(以下省略)

「Tく〜ん!」

(と懸命に草むらをあさってる少年を呼び止める)

少年T(以下省略)

「は〜い?」

(私に気づき走り寄ってくる。この前あげたクッキーを
またくれると思ってるらしい)

「T君、突然だけど、君は自分がどこにいると思う?」

「自分?ここにいるよ」

(私がヘンな人というのはわかっているので急な質問にも
別にヘンとも思わず答えてくれる)

「それはわかってるよ。そうじゃなくて自分て
どこにあると思う?」

「ここだよ、この体じゃん」

「体のどこ?」

「胸かな?いやちがう・・・頭かな。」

(かなり悩みながら)

「頭のどこ?」

「う〜んと、脳だよ。人間は脳で考えるって先生が
言ったもん」

「脳が考えるから自分なの?」

「そうだよ」

(胸をはって答える)

「それじゃ聞くけど・・・脳が自分だってわかってる
その人は誰?」

「・・・・・・・」

(目が点になる少年)

「そのわかっている人、それは脳じゃないはずでしょ?

それが本当の自分だよ。違うかな?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「脳が自分って言ってるその人はどこにいる?」

「・・・ええと・・・ええと・・・・わからないや!」

(完全に混乱)

「でも脳は自分じゃないってわかったね。」

「うん」

(早く昆虫採集にもどりたそう)

「だってさ、君は脳でもないし体でもないんだ。」

「え〜〜〜!?」

「だって考えてごらん。今やったように体中

どこ探しても"自分"って言うカタマリはないでしょ?」

「まあね・・・」

(少年若干考え込む)

「でも君は考えたり体を動かしてる。その

君を動かしてる人は誰かな?どこにいるかな?」

「・・・・・・・・・・・・」

「誰かが君を動かしているんだ。そうでしょ?」

「・・・そうかもしれない・・・」

「あのね、面白いこと教えてあげようか?」

「うん」

「君と私はべつべつに見えるよね?でも本当は

つながっているんだよ。」

「え〜?!おばちゃんとボクが?」

(かなり嫌そう)

「うそじゃないよ。あの鳥も、あの山も、雲も、空も、

星も、あそこのおじさんも、家も猫のトラスケも鉄塔も

みんなつながっていて、ひとつなんだよ。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

(少年じっと考えている)

「星も月も火星もだよ」

「・・・オリオン座も!?ボクのスズムシも?」

(若干嬉しそう。オリオン座が好きらしい)

「もちろんだよ。み〜んなつながっていて

一つの命なんだよ。」

「ふ〜ん・・・・・」

「その一つの命は絶対死なない。永遠なんだ。だから

その中にいる誰も死なない。ただ現れては消えている

ように見えるだけでずっとそこにいるんだよ」

「ほんと?」

「そのたった一つの命が、君の脳の働きを知っている

さっきのあの人なんだ」

「へえ〜〜〜〜」

(かなり興味が出たようだ)

「それを大人たちは意識とか神さまとか真我って呼んでるの」

「神さま?シンガ?」

「そう・・・で、それが本当の君なんだよ。」

「えっ?じゃボクが神さまなの?」

「そうなんだよ。でもみんなが言ってる神様じゃないよ」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「その人が君を動かしている正体だよ」

「へえ〜〜〜」

(まだまだどこか疑いのまなこ)

「そして・・・君の中にぜんぶあって愛でつながってるんだ」

「愛?」

「うん・・・私にはそうとしか思えない・・・」

(おとめ遠くを見る)

「ふ〜ん、愛なんてボクにはわからないや」

「だろうね、今にわかるさ・・・・・・」

「隣のMちゃんにはさぁ〜ええとォ〜このまえ

愛してるって言われたけど・・・うひょひょ」

「君はもてるんだね」

「まあね・・・さほどでもないけど、うひょひょ・・・」

(身をよじってる。かなり嬉しそう)

「・・・まだまだつづきがあるんだよ。知りたい?」

「うん、教えて」

「あのね、トラスケもオリオン座もスズムシも

みんな君が写してる映画に過ぎないんだ。

映画だから本当にいるんじゃないんだ」

「え〜〜〜、どういうこと?ウソでしょ」

「これをシキソクゼークーって言うんだ」

「??・・・・・・」

「本当は誰もいないの・・・ただ・・・・・・・・」

(おとめ言うか言うまいか迷っている)

「ただ・・・・・なに?」

「今ここには一人だけいるんだ。それは誰だと思う?」

「誰なの?」

「実はね・・・・・君だけしかいないんだよ・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「??・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

(おとめニンマリと笑って見せる)

「☆=>=>=>(+_+。)Σ(T▽T;) アィーン 」

(少年完全にぶっ飛ぶ。虫かごが手から落ちる。)

「・・・・・・・・・・・・・ふふふ・・・・」

(おとめじっと少年の目を見つめる)

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

(約30秒の沈黙)

「ママ〜〜〜〜〜〜!!」

(少年走って逃げる)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


ワハハ・・・ちょっといじめ過ぎたかな。

また近所で評判が落ちそうです(笑)

でも真我とか悟りについてかなりきわどい所まで

書いてみました〜。

なに?よけいわかんなくなっちゃった?

それでいいんです。考えて下さいね。

とりあえず、鈴虫の鳴き声でもどうぞ・・・

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。
posted by おとめ at 09:24 | Comment(2) | 気づきのレッスン

2017年09月15日

観察

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ポプリでハート作りました。



朝ベッドを片づけていた時

湧き起ってくる強い感情がありました。

それは強いエネルギーのようでした。

どこか遠い源からやってきたものでした。


なんだろう、これは。。。?

。。。。。

。。。。。

次の瞬間

「愛だ!」と聞こえました。


そうだ、愛だ、愛だったんだ!

それは残っている悲しみを押し流し

私を強い力で奮い立たせました。


夫を喪い、子供を亡くし、妻を亡くし

あなたは悲嘆にくれます。


死別の悲しみにいる人に仏陀は言いました。

「亡くなった人のいない家を探しなさい」


ラマナマハリシという賢者は言いました。

「あなた自身が死になさい」


そしてクリシュナムルティは言います。

「悲しみと一つになりなさい」

さらに彼は言います。

「観察こそが自我から自由にさせてくれる」


そうです。私が心からあなたにおすすめするのは

「観察」です。あらゆる思考や感情の観察、

それこそが自我からあなたが自由になる近道です。


死別の悲しみの中心には固い固い自我があるのです。

その時こそ「観察」しなければなりません。

思い切り泣くだけ泣いて、もう涙が出ず

苦しみにもがいている時こそ、この言葉を

どうか思い出して下さい。


「観察」

そうです。

あなたはあなたの悲しみを観察して下さい。

そこに何があるのか、どれだけの「自分」がいるかを。

それは本当に「愛」だったでしょうか。

あなたは次第に気づいていきます。

どんどん悲しみから「自分」を取り除いて下さい。


「あの子は私の未来だった」

「夫のいない今誰が私のめんどうを見るの?」

「妻の料理が恋しい」エトセトラ、エトセトラ。


どれほどあなたは自分が可哀相で嘆いているかに

遅かれ早かれ気づいてください。

これこそが真のグリーフケアなのです。

始めは辛いかもしれません。

でも自分を責める必要はありません。

ただただ気づいてください。


心理学の本を何百冊読んでも無駄です。

カウンセラーへ行ってもあなたの悲しみを

誰も根本的には取り除いてはくれません。


「自分」に気づき、気づき、捨て去った時

なおも捨てきれないものが残ります。


それが「愛」です。それこそが源からの

贈り物なのです。それこそがあなたを救います。


そしてその愛はどんどん広がっていき

あなたのハートを真から温め、慰めます。


そして「自分」の観察が習慣になり、やがて

自然に「自分」に気づくようになったあなたは

知らず知らずのうちに菩薩になるのです。。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もご訪問ありがとうございます。


posted by おとめ at 07:27 | Comment(0) | 悲しみについて

2017年09月14日

「悟った人」を信じちゃダメ

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いわゆる世間で言われる「悟り」について

人はだいぶ誤解しているようです。


「悟った人」という時、あなたは多分

どっしりと落ち着いていて、物事に動じず

なにもかもわかっていて、すべての苦からも

煩悩からも解放された聖人のような人。。。

というのをイメージすることでしょう。


なんとか老師とかなにがし禅師とか。。。

ど偉い坊さんをイメージしたり。。。


それは必ずしも間違いではありませんが、

それだけを信じるのは間違いです。


何故なら本来、あなたも私も悟っているからです。

ただ自我によって気づけないだけなのです。


「悟り」とは一体何でしょうか。

人はそれを求め続けて、死に物狂いで修行し

自分を浄化し、時には家族と泣いて別れ

洞窟に閉じこもり、廃屋に暮らし、苦行し

あげくの果てに悟れず絶望する人も一杯いました。


何故それほどまでに人間は悟りを求めてきたのでしょう。

なぜなら人生は苦であふれていたからです。

悟ればその苦がすべて解消すると教えられたからです。

そして修行すればいつか必ず悟れると、宗教に

騙され続けてきたからです。


悟りとは。。。あるがままの状態です。

しかも本当の自分が何であるかをわかっている状態

自分が体ではなく、心でもなく、感情でもなく

しかも一つの永遠のもので、すべての根源であると

恩寵によって真から実感することなのです。


これを知識によって理屈でわかってもダメです。

修行で求めても得られません。

求める心こそ悟りから一番離れているからです。


求める心。。。それをクリシュナムルティは

「なりゆくこと」と言いました。

つまり今の自分の状態を否定し、より良い自分

より違う自分になろうと努力することです。

世間では努力を称賛します。根性だ!とか言います。

それこそが苦しみの大元なのです。


悟りとは一体なんでしょうか。。。


それは個人の「私」が死ぬことです。

これが欲しい、私はああなりたい、

幸せになりたい、彼を愛している、金が欲しい、

浄化されたい、サイキック能力を身につけたい、

人よりすぐれた自分でいたい。。。などなどの

「自分」が消えることです。


自分という個人が消えるので「私は悟った」というのは

本来はとてもおかしな事なのです。

この頃は悟りを商品化して商売したりしていますが

とんだお笑い草なのです。愚の骨頂です。


たしかに至福体験や、一瞥体験はインパクトがあり

それが探求へのきっかけになることもあります。

現に私がそうでした。

でもそれ以上でもそれ以下でもないのです。


一瞥体験した人を特別な目で見ない事です。

そうした「体験」は悟りとは何の関係もありません。

それはあくまでも「自我」が体験した事に過ぎません。


けれどもそうした至福体験は自分を夢中にさせます。

めくらにしてしまいます。自分を特別だと思わせます。


悟り。。。そこには一つのモノしかありません。

従って何かになる自分も無いのです。

本来の、ほんとうの自分を知る事、それが悟りです。

「悟った人」というのも当然いません。

悟った自分を捨てること。。。それが本当の悟りです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございます。

こちらは朝晩めっきり肌寒くなりました。

虫の大合唱がうるさいです(笑)














posted by おとめ at 08:28 | Comment(0) | 悟りについて

2017年09月11日

苔むす寺

久しぶりの遠出で駒ヶ根市へ。

紅葉にはちょっと早いし、おまけに

あいにくの雨模様だった。


今回の道ずれは縁あって知り合った

大切な友人たち。。。


みな死別体験者で、みな霊的感性があり

ほどよく我がとれているので一緒にいても

疲れないし、心地が良い。


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信州駒ヶ根市にある光前寺へ行った。


その昔、早太郎という犬が魔物に苦しめられる民衆を救い

自分は戦いによって命を落とした、という伝説ゆかりの寺。

その早太郎の御霊を祀っており、近くには早太郎温泉がある。



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敷地内は美しい苔におおわれている

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ものすごい巨木が当たり前のようにあちこちにあって圧倒される

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歩いているうちに心の底から洗われてくる不思議さ。。。

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冗談を言いながら、おしゃべりしながらもその神聖さに惹きつけられた。

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水の流れる音が妙にきわだつ。。。


京都などの観光地ではこんな静けさは体験不可能。

とても贅沢なひとときだった。

一歩一歩歩くたびに、緑の匂いや澄んだ空気に

はかりしれないところからの恩寵を感じた。


今回もまた求めないのに素晴らしいものがやってきた。

聖地と言うのは何もわざわざ遠くへ行かなくても

うんと身近にあるものなのかも知れない。


森林浴満喫しました〜

・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もお読みいただきありがとうございました。
posted by おとめ at 07:41 | Comment(0) | 愛する人達と

2017年09月03日

エゴは幼児とおなじ

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スピリチュアルで精神的な道を志そうとするとき、

人は必ず自我(エゴ)というものにぶつかります。


人がこの世に生まれたてのときはそこには

自我はありませんでした。

けれども名前をつけられ、家族の仲間入りをし

学校へ行くようになるにつれて、自分は他とは

独立した存在だ、というウソの認識が生まれます。


そこには時間、記憶、思考がからんでいて

こうしたものが「自分は体である」という

まちがった考えを強化させ「自我」という

実際は存在していないものになります。


その分離した、自分はこの体で他の体とは離れた

個別の存在だ、という幻想がエゴです。


その分離感からいろんな葛藤や争いが生まれます。

つまり、エゴはこの世で生きて行くために必要な

ものでもありますが、また不幸の大元でもあります。


なので、すぐにエゴは目の敵にされ、

「エゴを消さなきゃ」とか

「自分をもっと浄化しなきゃ」などと

血迷った事を口走るようになります(笑)


エゴはどんなことをしても消えません。

消そうと努力することで、もっとエゴい人間に

なってしまう可能性すらあります。


何故ならエゴを消す、と考えること自体が

エゴからくる思考だからです。

エゴが自殺することはありえません。


エゴを消そうと努力することは、

「エゴの無い素晴らしい人間になりたい」

という強いエゴの願望なのです。


けれどもエゴを弱らせることはできます。

そしてそうすることだけがベストなのです。


その方法は簡単です。

常にエゴに気づいている事、これだけです。

そしてその時決して批判をしてはいけません。

ただエゴを見守ってあげましょう。


「あんなこと言うべきではなかった」だの

「彼の為にもっと他に方法があったのに」とか

あ〜だこ〜だ反省するだけ無駄です。


ただそういう事実があって、自分はその時

エゴによって行動したのだ、とわかるだけ、

これだけでエゴは次第に大人しくなります。


エゴは親の仇みたいに攻撃してはいけません。

かといって幼児を甘やかすように、放任して

野放しでもいけないのです。


過激な非二元論者の中にはエゴは幻想にすぎない

だから放っておけばいいのだ、という人もいますが

私はそれはキケンだと思っています。


確かにエゴと言うのは上に書いたように

真の自己から分離した「自分はこの体である」

という考えに付着した幻想に過ぎません。


ただ常にエゴの性質に気づいている事です。

エゴちゃん、またあんなことやっちゃったのね、

よしよし、と優しく言ってあげることです。


するとエゴは手なずけられたオオカミのように

大人しく従順になります。

するとあなたの中でとてつもない変化が

いつの間にか起こっていることに気づくでしょう。

対人関係もよくなっていきます。


またエゴが自然に無くなる状態というのもあります。

それはたとえば青い空にぽっかり浮かんだ雲の美しさや

リゾートビーチで素晴らしい夕日に見入っている時、

自分の赤ちゃんや愛しいペットの顔をしみじみと

愛をもって眺めている時など、そこにエゴは全く

ありません。これは誰にでもある経験でしょう。


俗にいう「我を忘れる」という状態です。


もう一つはたとえば死別や破産などで

もはや自分にはどうしようもない現実など

辛い出来事にぶつかり、無力さを痛感し

エゴがずたずたになった時です。


これは私も経験しましたが、その時

自分=自我というものはお留守になり

内面がからっぽになります。


そしてその時に真の自己である究極のパワー

それを人によって神と読んだり、宇宙の源、

あるいは真我と呼んだりしますが、それが

からっぽになったところを埋めにやってきます。


その時あなたはもはや自分が世界から分離して

皮膚一枚で分けられている存在であるとは

全く思わなくなります。


世界はまさにあなた自身であり、あなたという自己は

唯一無二の存在、つまり大いなる源そのものであり

そこに個別の個人はまったくなかったという真実に

目覚めることができるのです。


何故なら、その時あなたは神と共にあるのであり、

神としてあるのだからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日もお読みいただきありがとうございます。

誰にでもわかるようなるべく易しい言葉で

書いていますが、ご質問ありましたらいつでも

お気軽にお寄せください。





posted by おとめ at 16:34 | Comment(0) | 自我(エゴ)について

2017年08月07日

自分とは何なのか

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百日草が咲いた。一つの花の中に花がいっぱい。まさにワンネスフラワー。



先に言ってしまえば「自分」というものなど無いのだ。

それなのに「ある」と思い込んでいるのが私たち。

自分が無く幻想ならば、エゴなどというものも

本当はどこにも無いのだ。


自分はこの「体」であると頭から信じ込んでいて

その体の自分を外界と区別しているからだ。

そこに気づかない限り人は不幸であり続けるだろう。

本当の解放は無いだろう。


だからと言って魂とかいうモノがあるというのではない。

そういうものはただ自我の延長なのだ。

本当の自分を知った時すべてが明るみに出る。


自分を外界から孤立したものとして見る限りそこには

限りない不安や恐怖、孤独がある。身を守ろうとする。

それがエゴ=自我でありあなたが「自分」と呼ぶもの。


すべてのものは流転し、変化し、真実は一瞬一瞬の

その中にある。この一瞬はこう書いているうちにも

すでに「過去」となっていく。


真実があるのはその一瞬だけだ。そこには苦しみも

自我もない。何故ならこの一瞬はすべて新しく

そこには「経験」や「記憶」つまり「時間」がなく

「自分」に関するものが何もないからだ。


「自分」が無い時、人は「すべてのもの」になる。

すべてが自分なのだ。何故ならすべてとは

「ただ一つの命」であり、それが私やあなただからだ。

そこにはただただ無条件の愛しかない。


それは永遠の初めも終わりも無い計り知れないもの、

死ぬことも生まれることも無い、生きているものだ。

私はそれを「存在」と呼ぶ。他に言葉がみつからない。


ラメッシ・バルセカールは人間には自由意思はなく

すべては「意識」であると言っている。

それは一種の「エネルギー」と言えるものかもしれない。

意識=神様ととらえることもできる。


この見方を維持できるようになると、世界は

一変するだろう。見ることすべて、起こる事すべてが

自分の意志ではなく「存在」の意志で為されている

ということがわかるようになる。


苦労の多い人生であった人ほど、それが実感できるだろう。

一度だって自分の意志がうまく行った試しがあるだろうか。

じっと胸に手をあてて考えてみてほしい。


しかしラメッシはそこまでしか言わない。

その先があるのだ。

つまり私たちが行動したり考えたりする、その

エネルギー、その意志の本当の源だ。


その点がだんだんわかってきた時、自我は行き場

を失い、それはまたそのまま「自分」というものが

無くなるということを意味する。すべてを「存在」に

ゆだねて生きることになるからだ。


すると逆にどんどんすべてがうまく行くようになる。

悲しみも苦しみも軽減され、あるいは無くなり

大きな力に「ゆだねる」ことからくる開放感は

途方もない幸せとなる。すべてを、自然を人を

動物を、見る物すべてを愛するようになる。


人は往々にして自分が、自分の意志や自分の希望

自分の、自分の。。。が消えることを恐れる。

この体が死ぬことを恐れる。


あなたは死にはしない。死ねない。

あなたは生まれさえしなかったのだ。


自分など本当はいない。その事を直視できないものだ。

そして「永遠なるもの」を信じ幻想を信じる。

永遠なるものはあなたそのものなのに。。。

そしてそれがついにわかり、真から実感したとき

世界はひっくり返り、人はそれを「悟り」と呼ぶ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長い間お休みしていて申し訳ありませんでした。

体調がやっと戻りましたので、これからは

少しペースをゆるめて書いていきたいと思います。

宜しくお願いします。


posted by おとめ at 13:18 | Comment(2) | TrackBack(0) | 悟りについて

2017年06月05日

気づきのレッスンその2「自分が消える」

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さて新カテゴリ「気づきのレッスン」

今日は2回目です。日ごろ私が心の安定や

気づきのために実行しているあるレッスンをご紹介。


今日のテーマは。。。「自分」

あなたは「自分」が好きですか?それとも嫌い?

綺麗な自分、可愛い自分、怒りっぽい自分

三度のメシよりパチンコが大好きな自分、

それとも三度のメシだけが生き甲斐の自分、

嫉妬深い自分、恋してる自分、エトセトラ。。。

みんな「自分」がいると思っていますね。

。。。。。


「もちろん〜」「なに馬鹿なこと言ってるの?」

「またヘンテコリンな事書いて私達を煙に

巻くつもりなんでしょ。そんなの信じないから」

エトセトラ、エトセトラの声が聞こえます(笑)


しかし何を言われてもカエルのツラに何とかの

この私だけど、またどうしてこのレッスンを

世に発信する気になったんでしょうか。


何故ならそれは私が苦労の末に発見したある

大事な宝物を人とシェアすることになるからです。


気前がいいのが下町っ子の性分なんで〜

もうタダでいいよ、もってけドロボーてな感じで

バナナの叩き売り状態。


私が心の平安をゲットしたのであなたにも

それをゲットしてほしいのです。それだけです。

まあ一種のボランティアですね。


別にやりたくない人はやらなくていいんですから。

でも〜今どきの世の中で入会金も授業料もすべて

無料のワークショップですよ。ちょっとダメ元で

やってみてもいいんじゃない?ってノリの方は

お気軽に参加して見て下さいね。

ゲーム感覚でいいんですよ〜


さて、今回は「自分」についてということで。。。

自分=「あなた」はワンルームあるいは2DK、

3LDKのマンションやアパート、それとも広い

一戸建てのお家、なんでもいいですが、そういう所に

住んでいますよね?

(それとも洞窟とか刑務所の中って人でもOKです)

家の中には何があるでしょう。


どんなに質素でもきっと何かしらの家具があって、

子供がいて、犬や猫がいて、あるいは一人住まいで

庭には草花が植えてあるかも知れません。

それとも荒れ放題の庭というのもいいですね。

モノが一杯で足の踏み場が無いって人はかえって

面白いことになるかも知れませんよ〜


そういう自分の周りのモノをよく見渡して下さい。

その時一つづつゆっくりと見ていきます。

もし盲目の方がいらしたら見るのではなく

「触って」もレッスンはできます。


たとえば、まず身近なものから、タンスなんかを

じっと見て見ます。そして問いかけます。

「それは自分だろうか」と。。。。。

。。。。。

。。。。。

まあ、バカバカしいと思うでしょうが(笑)

ともかく一応問いかけて見て下さいね。


。。。。。


問いかけましたか?そして答えは何でしたか?

「いいえ」ですよね、。。多分(笑)


次に今度は何にしようかな。。。もしもそばに

猫がいたらその猫をまたじっと見ます。

そして同じようにまた問いかけます。


「ミケや、お前は私なの?」

猫の柔らかな背中を撫で撫でしながらでも、

その可愛らしさをじっくり味わいながら。。。


問いかけましたか?

答えは。。。「いいえ」だったことでしょうね。

あるいはミケが「ウンニャ」と鳴くかもね。


大丈夫・・・あなたの精神は正常です( ´艸`)

少なくともここまでは(笑)

さらに問いかけをどこまでも続けます。


次はたとえば。。。時計でやってみましょう。

壁掛け時計でも柱時計でも、腕時計でも。。。

「カチコチかっちんお時計さん、いつも動いてる

あなたは私なのかい?」。。。。。

時計が答える筈もなく、答えは「いいえ」ですね。


じゃ今度は鏡はどうでしょう?

「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのは?

うひひ。。。この私だよね〜もちろん!

絶対ノーとは言わせないよ」じゃないですよ〜

問いかけは「お前は私なの?」ですからね〜。


「いいえ〜奥様、私はあなたではありません」

という声が聞こえた、なんて人はいますか?

そういう方はすぐに病院へ行って下さいね。

相当お疲れのようです(笑)


同じように花、冷蔵庫、テーブル、椅子、などに

「これは私だろうか」と問いかけて下さい。


そして答えはどうでしたか?

全部「ノー」だったら、おめでとうございます!

あなたの頭は正真正銘、正しく機能しています。

めでたし、めでたし、ということで。。。。。

このゲームが。。。終わるわけじゃないんです。。。。。

。。。。。

。。。。。


最後に大事なものが残ってます。。。。。

それに問いかけなければこのレッスンは全く

何の意味もなくなるでしょう。


次に問いかける対象、それは「あなた」です。

わかりやすく言うとあなたの「体」です。

あなたは日頃、自分というものをその「体」

だと思っていますよね。それとも「脳」だと

思っている人もいるかも知れませんね。では

それが「事実」なのかどうかやってみましょう。


時計や花を見たのと同じように自分の「体」を

見て下さい。見やすい腕や足から始まって胸や

手やつま先や、髪の長い人は髪の毛とか、もちろん

顔は自分で見ることができませんから、鏡に写して

顔も見たかったら見て下さい。頭には「脳」が

詰まっている筈ですよね。それは直接見ることは

できませんが、手術の時は医者が見る物です。

したがってそれも「モノ」と同じですね。


さて、そういった見る対象は「自分」でしょうか?

。。。。。

「もちろん!」って言うでしょうね、

ほとんど、ていうか全員が。。。。


そこで!さあ私のイジワルが始まります。

。。。。。。。

それじゃ聞きますが、その体や顔を「自分だ」

とわかっている人、それは誰なんですか?


時計や花と同じように「見える」もの、それを

見ているものは誰なんでしょう?

というのがこのレッスンの核心です。


「脳」というのはこの場合なしです。

何故なら脳を含む頭も鏡で見ましたよね。

風呂敷で包んだスイカと同じです。

中身は見えないけど、そこにありますから。

だからそれも見られるものに当たります。


これは犬、これはテーブル、これは「体」

ということはその「体」は本当は「自分」

なんかじゃない筈なんですよ。


これを主体と客体と言いますが、見る者を「自分」

とするならば、見られるもの、対象、それは絶対に

「自分」じゃない筈なんです。論理的な思考では

そういう事になりますね。


テーブル、椅子、体は見られるもの、つまり

「客体」なので「主体」ではありえないでしょう。

そうではないでしょうか?


ほらほら〜わからなくなったでしょう?

面白いと思いませんか?

始めてこの問いかけをした時、私は

人生で一番夢中にしてくれるものを

ついに発見した!と思いましたよ〜。


それじゃ、自分の体を見ているもの、主体とは

一体誰なんでしょうね〜?


「いたぞ〜」と思ってもそのいたものを見ている

もう一つの存在がまた出てきますから、

二枚の鏡を合わせたように、果てしなく、永久に

この主体=私探しは続いちゃうんですよ。


不思議じゃありませんか?今の今まで「自分」

だと思っていたものは自分なんかじゃないんです。

自分が消えてしまいました!さあどうしましょう。


それはただの「体」であり、時計や家や犬と同じ

物質であり、客体ということになります。

科学的に言えば素粒子でできた「モノ」なんです。

素粒子と言うのはご存知のようにそれ以上は

細かく分けることのできない(今のところ)

すべての物質の最小単位です。


別の言い方をすれば、そういうモノや体を見ている

「あるもの」それが本当の「自分」ですよね。

ね〜?そうじゃありませんか?つまり「自分」とは

この体ではあり得ない、という事なんです。


自分は体では無い、というとすぐに「霊」だとか

「魂」だとかよくわからない事を言いたくなります。

でもそういった事はこの際は全く忘れて下さい。


そういうものに恋い焦がれる気持ちはわかります。

特に死別したりすると人はそういう風になります。


でもそれはあるか無いかまだ科学的な「証明」は

ありません。色々な「現象」があるだけです。

だから確かにあることはあるのでしょう。。。。。

でも。。。色々起きた不思議な体験。。。

それは各自が自分の中で大切にすればいいのです。


そういう事にアレルギーの人もいるでしょうし

そういう神秘的なことはそのままにしておきましょう。


今私はちゃんと論理的で科学的な目で「真実」を

探したいのです。あなたも本当はそうでしょう?


何故ならいつも言いますが、そういう未知のもので

人を利用するうさん臭い世界があるからです。

誰だって私利私欲の為に利用されたくないでしょう?

少なくともこの「私」はそうです。


それにしても。。。自分とはこの体じゃないとは

実にびっくりです。。。。。

じゃ、「本当の」自分とは何なんでしょう?

それはどこにいるんでしょう?

知りたいと思いませんか?


その「本当の自分」というものを発見した

有名な人がいます。それが仏陀です。

12月の明けの明星を見た時に彼には「それ」

つまり自分が誰なのかがわかったのです。


アドバイタの世界で言えばその「客体」が

「ブラフマン」「主体」が「アートマン」と言われ

アートマンとブラフマンが合体して「梵我一如」

という事になります。ちょっとむずかしいので

今はスルーしてしまってかまいません。


ただ「体」はあなた=自分ではあり得ない

自分はどこ探しても見当たらない。。。

ということがわかるのがこのレッスンの目的です。

あなたにはわかったでしょうか?

まだわからない、という人の為にもレッスンを

これからも続けますので楽しみにして下さいね。


さて、そこでこの体ではない「主体」とは何か。。。。。

それは躍動し、エネルギーに溢れ、生きています。

。。。。。今はそんな風に言っておきますね。


梵我一如=主体と客体が一つであること、それを

頭では無く「体感」し「実感」するのが「悟り」です。

。。。。。。。

。。。。。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

きょうもレッスンお疲れ様でした〜

調子に乗って二回連続でしたが、

楽しんでいただけましたか?

また私のワークショップへ来て下さいね。

次がいつになるかは未定だけど(笑)





posted by おとめ at 09:49 | Comment(4) | TrackBack(0) | 気づきのレッスン

2017年06月04日

気づきのレッスンその1「もう一つの目」

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新しいカテゴリ「気づきのレッスン」

というのを追加しました。ここでは

私がいつも心の安定と気づきのために

やっているあるレッスンをご紹介します。


御用とお急ぎでない方や、ヒマでヒマで

毎日がつまらない人、変わったことが

好きな人(笑)などお気軽にどうぞ。


まあ、ネットでワークショップみたいな。。。

入会金、授業料は無料です(笑)

では始めましょうかねえ。。。


私達には目があって物を見ています。

普通の目は「自分」の目ですね。(当然)

でも!実はもう一つの目があります。


そのもう一つの目ですべてを見る

その方法があります。


たとえばここに一枚のバラの葉があるとします。

あなたはそれを「あ〜バラの葉だ」と

すぐにわかります。さらにそこにシミや

変色があると「病気にかかったバラのもの?」

とか「虫に食われたんだな」とか思います。

さらに「あまり綺麗じゃないな」とか

「育てた人はちゃんと手入れしてるのかな?」

とか思う事もあるかも知れません。


以上のような見方が「自分」の目つまり

通常のモノの見方です。


そこには何があるでしょう?

そこにあるのは「経験」「知識」「時間」です。

「バラの葉」だとわかるのは「知識」です。

その知識は学生の時に勉強したものだとしたら

そこには「時間」や「経験」があります。


さらにそれに対して批判や意見が浮かびました。

この通常の目で、色々なものを見ることとは

常に「時間」「経験」「知識」と一緒なのです。


その通常の目で物を見ることは生活をする上では

絶対に必要なものです。医学を研究したり

会社を経営したりといった時にも必要です。


けれどもその目は利益だけではなく、何か

よけいなもの、たとえば「苦痛」とかを

もたらしてしまうこともあるのです。


何かを見て、そこに苦痛や葛藤がある時

その時あなたは何を見ているのでしょうか。

たとえば、葉を見て「あ〜虫にやられちゃった」

とか「これはうどんこ病にやられたな、あちゃ〜」

と嘆くとき、あなたは何を見ているでしょう。


その時あなたはその葉を見ていないのです。

あなたが見ているのは「過去」という「時間」

からの「知識」や「経験」を見ているのです。


「うどんこ病」という知識が「苦痛」の感情

を湧き上がらせています。

つまりその「葉」は真実の「葉」ではなく

何かに汚染された葉です。


ここまではわかりましたか?


それでは次に一切の経験、知識、時間を忘れて

はじめてそのもの(葉という知識さえなく)を

見たような目で見ます。ただ見ます。

そこにあるのは「ある形」「ある色」です。

あなたはそれについて一切知りません。


葉が茶色くなっていたり、白っぽくなっても

それをそのまま、ありのままに見ます。


その時何を感じましたか?

あなたはそれをあるがまま見られますか?


あるがままに見ている時、そこに

知識や経験はありません。

ただ「見ること」だけがある筈です。


すると見る対象についての一切の批判や意見

というものが消えていることにきづきますか?


赤ちゃんになったような気持ちで

それを見る時、あなたの胸のどこかが

暖かくなりませんか?


そしてそのものとあなたの間の距離も

次第に無くなる瞬間を感じること、それが

できた時、ただ愛おしく見ていることに

気づきましたか?


それが「もう一つの目」です。

そしてそれは「存在=神=宇宙=」など

どう呼んでもいいですが、そういうものと

つながっています。


そしてその目で見ているのが

「本当のあなた」です。


同じことを花や鳥や月や本や子供の顔

などでやってみましょう。

慣れてきたらそういう目で人を見て下さい。

ちゃんとできるようになった時

あなたに奇跡が起こります。


ただし、初めから「奇跡が起こる!」

などと期待したらすべてが水の泡です。

何一つ期待しない事、それがコツです。


知識の豊富な人や学者タイプの人は

できるようになるまで時間がだいぶ

かかるかもしれません。


赤ちゃんに帰ったつもりになって下さい。

何一つ期待しなくても、この目で見ること

そのものが、あなたを限りなくリラックスさせ

柔らかな気分にしてくれるでしょう。


何故ならそこに「何か」が無くなっているからです。

その「何か」で人間はストレスを感じたり、人と

争ったり、不幸になったりするからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いかがでしたか?いきなり難しかったかな。

何言ってんだかわからない?ふふ、そうかもね。

この実験は慣れるまではお休みの日など

仕事中でないときにやって下さいね。

じゃないと差し障りがあるかも知れませんから。





posted by おとめ at 21:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | 気づきのレッスン

2017年06月03日

二つのエネルギー

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今日は午前中はある会合に出席した。

それは日本で最近見られるようになった

あるシステム。今詳しくは書けないが

精神的な悩みや苦しみを持つ人達が集まり

思いのたけを話すことができる。


一人づつ順番に話すのだが、それに対して

誰も批判したり、意見を述べたりしては

いけない。ただじっと傾聴する。


話したくなければパスして人の話を聞く。

本名も名乗らなくて大丈夫の匿名性の高さ。

個人的秘密は厳守される。他言無用。


いずれ時が来たら詳しく書くつもりだが

これは大変良いシステムだと思った。

もちろんお金はかからない。

気持ちで寄付金箱に入れるだけだ。

すでに日本のあちこちにも支部が

たくさんできつつある。


普通のグリーフケアと違って、問題は

「悲しみ」だけではなくあらゆる精神的な

悩みが対象になる。そして何と言っても

特徴的なのは、このシステムでは悩みを

分かち合いながらも、根底においては

「神」に解決をゆだねることだ。


その「神」というのは自分の好きな神で

構わない。クリスチャンの神でも神道の神

でも、どんな宗教の神でもいいし、または

自分の信じているハイヤーパワーでもいい。

そういうものは一切信じないという人でも

それはそれでOKで参加できる。


とにかく「神」という絶対の存在に任せる

ことで「自分で問題を解決できる」、という

一種の自我の「驕り」を捨てるのだ。

人は一人では決して問題は解決できない事を知る。


アメリカで生まれたシステムなのだが全く

宗教的でもスピリチュアル的でもなく

フレンドリーで大変自由な雰囲気。


もちろんいかがわしい新興宗教なんかでは

絶対にない。あくまでもアマチュアの

集まった人助けサークルなのだ。


今の日本社会ではどんだけ苦しくても

悩んでいても誰にも話せない事が多い。

それで急に自殺してしまったりする。


気軽にぐちをこぼす場所がないということや

人の目を非常に気にする国民性というのも

関係しているのかも知れない。


ただ、いざ自分が話す段になると案外話が

あらぬ方向へ行ってしまったりもして

思うように話せなかったりもする。


だが、人の苦しみと一つになって、ひたすら

聞くことは非常に自分の向上にもつながる。


いかに私達はふだん人の話をじっくりと聞いた

ためしがないことか。いつも何かしらで

急いでいて、集中力も欠けているのではないか

とつくづく会合に出席して思った。


大事なのは話がうまかったり、饒舌だったり

冗談を言うのが上手いことではなくて、

いかに人の話を聞けるかにその人の

人間性が出るのかも知れない。


とはいえ、あまりに集中して聞いたので

いささか神経が疲れた。


自分も経験して解決済の悩みが多かったので

なんとかしてあげたいな、という気持ちが

強く湧き起るのをどうしようもなかった。


あれこれ聞いた話を反芻しながら一人で

お昼を食べて、無料サービスのコーヒーを

飲みながら気持ちの切り替えをした。


午後は隣の駅までサルサのレッスンへ。

ラテンのリズムであふれる室内へ入ると

空気が違う、雰囲気が違う、みんなが

オーラで輝いている。びっくりした。


まるで空気に色がついているようだった。

会合の時の室内はダークグレーの世界。

でも柔らかな思いやりに満ちていた。

サルサ教室はまるで明るい薔薇色だった。

二つの全く違うエネルギー。。。


体を動かすという事は体内の浄化にも

つながるけれど、改めてその効果を

目の当たりにしてびっくり。


でも生徒はやはり若い人が多いので

ステップについて行くのが一苦労。

すぐ腰や膝が痛くなる。

そのクセアップテンポの曲が好きだから

どうしようもない。


ドタドタ間違えながらもなんとか基本ステップ

だけはできるようになった(かな?)


体はクタクタになったけど、精神面でも

身体的にも充実の一日だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつもアクセスありがとうございます。

今日もすべての出来事に感謝。








posted by おとめ at 20:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | そのまんまの日々

2017年06月01日

悲しいあなたへ

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ベランダの花をお供えしてみた。


人間をずっとやってきてつくづく思う

これまでよくも生き延びてきたな〜と。

七転八倒しながら、命からがら。。。

気がついたら人生もあと何年か知らないが

オマケのようなものになった。


恥ずかしながら盗みや犯罪以外は

ほとんどの事を経験してしまった。


そしてわかったことはただ一つ。

苦しみも悲しみも味わうためにある

ってこと。それが生きるってこと。


死別したから死別の悲しみがわかる。

世界で悲惨なことが起こり、子供も死ぬ。

その苦しみも手に取るようにわかる。


愛する人の死によって、次第にいろんな

葛藤や人間のドロドロや小賢しさや

思い込みやちっぽけな我を守る気持ち、

自分の愛情の中にさえもあったさまざまな

ゴミ。。。そんなものが悲しみや涙と共に

消えていく。


お骨をかかえて泣き叫び、琵琶湖一杯ほど

とも思えるような涙を出し切ったあと、

最後に何かあたたかいもの、「愛」としか

表現できないような、そんなものが残る。


それは自分が「愛」だと思っていたものから

色々な不純物を取り除くことで可能なのだ。

その不純物にはすべて「私」がついている。


「私」の悲しみ、彼がいなくて「私」は悲しい

妻は「私」を幸せにしてくれた。あの子は

「私」の希望だった。。。。こうしたものを

すべて取り去ってただひたすら亡き人への

思いがクリアになって行った時、そのあとに

残ったものが本当の「愛」だ。


この過程に要する時間は人によってさまざまで

一瞬のひともいるだろうし10年かかる人も

いるかも知れない。


エリザベス・キューブラーロスという精神科医が

この過程について同じことを書いていた。彼女は

死への恐怖がとても大きかった人で、色々研究した

ようだ。彼女の書いた本にこの過程を経験した

スラム街の黒人女性の話が出てくる。


彼女は表向きは病院の掃除婦だが、神様が与えた

本当の仕事は、ガンや難病で死にゆく人に寄り添い

その苦しみを無くすことだった。


彼女が患者の手をとり、何かつぶやくと、みんな

不思議な事にそれは安らかに死んでいった。


彼女は最愛の子供が貧困ゆえに医療が受けられず

自分の腕の中で息絶えたのだった。


彼女はそれ以来「死」というものを乗り越えた。

「果てしない力」が彼女を動かしたのだ。


私は今何の宗教も教義も信じていない。

仏教もキリスト教もモスリムも。。。

ただすべてが神の「恩寵」としか思えて

仕方がない。「死」さえも。。。


「神」というとまた誤解されるけれど

それはなにか果てしない存在。。。

人間には到底理解しえない存在。。。


それはたった一つの命であり、それが

すべてに形を変えてあなたや私となって

現れているのだろう。だからこそ

あなたの悲しみは私の悲しみでもある。


悲しみは間違いなく人間を昇華させる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつもお読みいただきありがとうございます。

やっとお花を色々お供えできるようになりました〜

亡くなったみんな喜んでいるだろうな〜

posted by おとめ at 16:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 悲しみについて